2004年7月の徒然草


 虎を飼い馴らす

                       7月31(土)


 
人間世論3



 教育するには

 ガンコウは問題児である衛国の太子カイカイの教育係に任命され、キョハクギョクに相談した。
「私は、さる太子の教育を担当することになりました。でも、その太子の徳は天殺(凶暴な殺戮者)のようで、手のつけようがありません。この太子をそのまま放っておくと、国を滅ぼすでしょう。もし教育して有徳の太子にしようものなら、この自分の身の上を危険にさらすことになるでしょう。
 この太子の知性は、他人の過ちや欠点をすぐに見つけ出すけれど、その過ちの原因を知ろうとはしないのです。まして、自分の過ちにはとても気づける人でないのです。」

 キョハクギャクは答えた。
「それはいい質問だ。まず自分自身を戒め慎み、自分を正すことから始めよ。見かけは従順に、心は常に和の心で満たすがよい。しかし、ここで問題は二つある。相手に従順になれば、その悪行に引き込まれてしまうし、相手と和しようとすると、自我(自分の意図)で出てしまう。もし、相手の言うままになってしまえば、そのまま地獄に堕ち、自分は破滅して崩れ落ちてしまう。 もし、相手と和しようとすれば、自分の声だけなり、自分の名だけになり、自分自身の実を失ってしまう。そうして、自分があたかも、妖怪のようになり、しまいには自分のすべて失うことになる。

 そこでだ、相手が幼児のようであったら自分もまた幼児のように振る舞い、相手が勝手気ままだったら、自分もまた勝手気ままに、相手が無謀だったら、自分もまた無謀に、振る舞えばよい。そして、相手と同じ心に立って、相手が自分を受け入れてくれるようにすることだ。

 君はカマキリを知っているか。カマキリは何かが近づくと、たとえ相手が戦車であっても、立ち向かっていく。かなわない相手なのに。それは自分の才能に溺れているからだ。君が自分の才に溺れて、太子に意見しようものなら、カマキリと同じ危険な運命をたどることになろう。

 君はまた虎をどう飼い馴らすか知っているか。まず、餌は生きている物は与えない。それはその生物を殺そうとして、怒るようになるからだ。また、餌は大きなまま、まるごと与えない。その餌を食い破って食べようとして、怒るようになるからだ。虎飼いは、虎の食欲に合わせて、怒る心を調整していくのだ。虎と人は違う生き物だけれど、違う相手に合わせて、自分自身を養おうとするのが従順ってことであるが、相手に合わせて、自分を殺そうとするのは従順ということじゃない。

 馬好きな者がいるが、馬かわいさに、自分の食器を馬の糞尿受けに使うほどだ。これほど大事に大事に育てても、たまたま、馬の顔に虻(あぶ)が止まって、その虻を殺そうとして顔をたたけば、くつわを引きちぎり、いきなり胸を足で突かれて、大けがしてしまうだろう。

 自らの意志を貫こうとすると、愛を失うものだ。だから、慎ましくすることだ。」

 
註:
 この問題児である衛国の太子カイカイは、のちに、義母にあたり、また君の夫人であるナンシを殺そうとして失敗し逃走した。君が亡くなって、自分の子が即位すると、その子を追放して、自分が衛国の君主荘公になった人物である。


 無心に誠意を尽くすのみ

                       7月29(木)


 
荘子・人間世論2




 
忠臣、君主の命に悩む

 楚国に大臣であるショウコウシコウは、斉国に使者として派遣されることが決まった。そこで、孔子に教えを請うた。
「今の任は私には重すぎます。楚国に重鎮でも、説得が難しいという君主ですから、他国の私がどう君主を説得できましょうか。
 先生はかってこう申されました。
『大事であれ、小事であれ、成功すれば歓ばない人ほとんどいない。成功しなければ、失敗したことで悩み、成功したら、それを必死に守ろうとして悩むものだ。事の成就如何がどうであれ、悩みは尽きない。その悩みを持たないものは有徳者だけである』と。

 私は日頃から質素な生活をしているのに、使命を受けてからというもの、毎日のように熱でうなされています。まだ斉国に出発していないのに、こんなありさまです。使命をはたさなければ刑罰を受けることは間違いありません。臣下として、この任に耐えられません。先生、何かアドバイスをしてください。

 孔子はこう答えた。
「天下に大戒(逃れられない定め)二つある。その一つが命であり、もう一つが義である。子が親を愛するのは命であり、その心からは逃れられない。臣下が君主に仕えるのは義であり、君に忠義を示すしかない。子が親につくせば、どの地も孝行あって安泰である。臣下が君に尽くせば、どんな事があっても、忠義(誠意)が栄えて安泰である。

 この二つの大きな心である社会の宿命と親子愛を受け入れれば、どんな悲しみや楽しみにも左右されない。また、それがどうにもならないものだということを悟り、素直にその心に従えば、安らかになり、徳ある者となれる。

 臣下であるという義をそのまま受け入れてしまいなさい。事の成否で、自分の生死がどうのこうのと思いわずらっている暇なんかない。ただ、義に従い、任につくだけでいい。
 
 少し付け加えれば、親交あれば信を持って、心で通じ合うことができるが、疎遠な関係であれば忠(誠意)を持って、言葉で伝え合う必要がある。
 その場合、双方の喜びと怒りを伝えあうのは非常に難しい。共に喜ぶ場合は必ず美しい言葉が益々多くなり、共に怒り合う場合は、醜い言葉が益々多くなるものである。
 大体、言葉が益々多くなれば、嘘偽りだと思ってよい。嘘偽りがあれば、信頼などされやしない。信頼されなければ、その伝言者に禍(わざわい)があるのは必定だ。

 格言にもこうある。
『使者は真実を運ぶもの、使者の誇張は禍のもと』

 ゲームなどで、技を競いあう者は始めは陽気にやるが、それがいつしかむきになって陰気で終わるのは、ルールを超えた妙な技を使うからだ。礼(つきあい)をもって、酒を飲み交わすとき、最初はなごやかだが、最後はしっちゃかめっちゃかになるのは、はめをはずして楽しもうとするからだ。一事が万事、始めはよいが、終わりはよくなくなる。また、始めは簡単だが、最後は難しくなるものだ。

 それは言葉は風波であり、行いは実喪(水流?)である。風波は動じやすく、実喪(水流?)は危うくなりやすい。巧言偏辞(こうげんへんじ・・言葉を巧みにし、誇張偏見)が多くなると、怒りが起こるのは必定である。

 獣が死の危険に合うと、奇声を発する。人も同じで、窮すれば乱すだ。一度乱れたら、それは止(や)むことを知らない。

 先人はこう言う。
 『令を遷(うつ)すなかれ、成るを勧むるなかれ(迷わず誠意を尽くして、その成功を望むな)』
 世の人々は度を超え、成功を望んで努力すれば、益があるように思っている。しかし、一時の成功が美しいのではなく、久しく続くことが美しいのである。一時の成功を望むと、反省することを忘れ、慎ましさを失った悪がはびこるものだ。

 だから、物事の流れに身を乗じても、その心は自由に遊ばすことだ。自分を掴まず、無心になって、中(虚)を養えば、物事は自然になるようになるものだ。
 どんな作為もせず、その報いを求めないことだ。令を致す(誠意を尽くす)だけである。それはとても難しいことだけれども。」


註: 
 この論も、荘子が孔子のことを書いている。孔子の八徳(仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌)を否定した荘子だから、忠義を推奨するとは思われない。だが、それを書いたのは何の意図があるのだろうか?

 荘子は孔子の論を説明するにあたって、無為自然の理で説明している。実際の孔子の言葉ではないだろう。それは私には、「孔子の教えはみな老子の道が基本になっているだけだ」と荘子が言っているように聞こえる。

 その中国古代の春秋戦国時代を離れ、現代にもどって考えると、臣下が君主に逆らうことは、時には、美徳になる。君主に従うよりも、人々の命に従うことの方が美徳な時代なのである。

 現代であったら、臣下は君主の命に逆らう道もあったであろう。だが、そのころは難しかったのだろう。ならば、野心に心を奪われて、そんな臣下に最初からならないように勧めるのが、老荘である。でも、成り行きで、臣下になったらなったで、その道で、生きる道を示している。それが誠意をもって生きるのみという指針である。だが、その道も難しく、命を落とすことが多いと暗に示しているように思うのである。

 だから、荘子は孔子を二重に批判しているように思える。孔子の八徳(仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌)そのものを批判し、かつ、八徳に従うこともまた小さな自然の理ではあるが、大きな自然の理を忘れて、命を落とす危険があると批判しているように思える。そして、常に、時代を超えて、大きな自然の道が在ると暗に示していると思えるのである。


 暴君を正すには

                       7月27(火)


 
荘子・人間世(じんかんせい)論1


打ち上げ花火

 註:人間世(人間社会の世の中で、どう生きればいいのかの意)

 弟子の顔回は師の孔子にお暇を願い出た。
「どこに行くのか」
「衛の国に行きます」
「そこで何をするのか」
「衛の君主は壮年にして、ますます独善的になり、国は乱れ、民衆の多くが死に瀕していると聞きます。
 先生は日頃から、〈平和の国を去り、乱れた国に行きなさい。医術は病人のためにあるようなものだから〉と、おっしゃっているではありませんか。だから、私は、乱れた衛の国へ行き、立て直しに行きたいと思います」

孔子は言った。
「ああ、君はたぶん衛で処刑に合うことだろう。
 道というのは、世間の雑事に染まらないことだ。雑事に追われれば、自分の心は乱れ、憂える。憂えれば救われない。
 昔の至人は、まず、自分自分が道を体得してから、他人にその道を示した。君はまだその道を体得していないのに、どうして暴君の行いを正すことができようか。

 私たちが徳を失い、知に頼ることになったのはどうしてか。徳を失ったのは、名誉心からであり、知に頼ることになったのは、争いを始めてからである。名誉心は互いに謗(そし)りあいをさせ、知識は争うを激化させる器である。この名誉と知識の二つのものは凶器である。そんな凶器をふりかざしてどうなるものでもない。

 仮に君が徳が厚く、信愛に堅く、名誉心などないとしても、それだけでは不充分だ。もし、相手の心の奥にあるものを無視して、ただ仁義道徳を強いて、述べたら、どうなるだろうか。相手にとっては、君はただの美辞麗句を述べているだけと思われ、うさんくさそうに思われ、ただ憎まれるだけになってしまうだろう。これではただの禍をもたらす者にすぎない。禍をもたらす者は、必ずその禍は自分に跳ね返ってくるものだから、君が無事でいられようはずがない。

 また、仮に衛の暴君が、賢者を優遇し、君のような意見を聞くような人物ならば、何も君がそこに行く必要なんかない。衛の国にだって、たくさんの賢者がいるからだ。だが、そんな賢者を優遇しないから暴君なんだ。君のような賢者をまず押しつぶそうとする。そのため、君はひたすら弁解しようと努め、しだいに、初心を忘れ、暴君の言いなりになってしまう。
 こうなったら、火に油をそそぐようなものだ。それでも、なお、暴君に進言しようものなら、君は殺されることは火を見るより明らかなことだ。

 昔、世に名高い賢者カンリュウホウは主君に首を切られ、ヒカンはその主に、心臓をえぐられた。彼らは、臣下でありながら、君主の非を責め、人民を憐れみ、民衆から、君主をしのぐ名声をえた者たちである。君主が彼ら賢者を無惨に殺したのは、その優れた人格をねたみ、憎んだからだ。いわば、彼らは名誉心にとらわれたからこそ、その危害にあってしまったといえるだろう。

 堯(ぎょう)国は、ソウ、シ、ショゴウの三国を滅ぼし、兎(う)国はユウコ国を滅ぼした。それた滅ばされた四国の君主はみな、名誉と利益を追ったが故に、戦争を繰り返し、自らを死に追いやってしまったのだ。たとえ、聖人の力をもってしても、そんな君主を説得できるものでもないのだが、まして、君の力などどうなるものでもないだろう。

 だが、立志をもって、暴君がいる衛にわざわざ行こうとするのは、よほどのわけがあるのだろうから、それを聞かしてもらおう。」

 顔回は言った。

「虚心坦懐にして、ひたすら努めるならば、可能でしょうか」

「ああ、無理だろうな。衛に暴君は気分屋で、臣下はその意向をくみ取るのに四苦八苦しているという。その臣下に気持ちを知ってか、ますます暴君は臣下をいたぶって、遊んでいる。
 そんな相手に君が調子を合わせて振る舞ったとしても、大徳はおろか、一日だけの小徳だって成すこともできないだろう。どんなに虚心坦懐に努めたところで、暴君の外面だけは何とかなるが、心の内側からに反省などできやしないだらう。まあ、とても無理だろうな。」

「では、自分の内なる本来の意志は変えず、外面だけを、暴君に合わしたら、どうでしょうか。そして、君主に対して直接自分の意見を言わないで、昔に古人の言ですべて言ったとしてらどうでしょうか。
 
 自分の内なる本来の意志とは、天の意志に従うということです。それはいわば、天の子になるという意味です。天に子になれば、君主も私も同じ立場に立つことができます。そして、自分の意見が君主に歓ばれよと、嫌われようと少しも意に介さなくなります。その境地は童子ともいわれています。また天の徒ともいいます。

 表向きは暴君に従うというのは、臣下の礼儀を実践することです。人はみなそうしていることを私もするのですから、誰も非難しないでしょう。この世俗に従う道は人の子、人の徒ともいえます。

 また、古人に言に託して自分の意見を述べることは古人に従うこと、つまり古人の徒です。たとえ、君主を教化して、反省を促すことばも、古人の言葉に託せば、自分の意見とはなりません。そうすれば、古人に従うだけで、どんな咎(とが)めも受けないでしょう。このような方法でしたら、可能でしょうか?」

孔子は言った。
「ああ、それでもどうにもならんだろう。はなはだ作為が多すぎて、かえってうまくいかないだろう。まあ、その方法を堅く守れば、罪はなんとか逃れることはできるかもしれぬ。しかし、相手を教化することはできまい。それは、自分の心を師とするからだ。」

 顔回はそこで言った。
「もう、その先には進めません。どうしていいかさっぱりわかりません。」

 孔子は続けて言った
「斎戒(さいかい)しなさい。

 註:斎戒・・・神仏に関する物事や神聖な仕事などをする時に、飲食、動作を慎み、時に一定の規律を守って、心身のけがれを去ること。

 いいか、何かを為そうとして為したら、その成就は難しいのだ。できると信じて行えば簡単に物事が成就すると思うのは天に道に背くことだ。」

顔回は言った。
「私の家は貧乏です。もう数ヶ月もお酒は飲まず、肉も口にしていません。すでに斎戒はしていると思うのですが?」

孔子は言った。
「それは、祭祀の斎戒だ、心の斎戒ではない。」
「心の斎戒ですか?」
「君は志を一つにしなさい。聴くときは耳で聴かず、心で聴きなさい。さらに、心で聴かずに、気で聴きなさい。聴くは耳で止まってしまい、心は符に止まるものだ。

 註:符・・証、印、記号、命令文書、神仏の守り札、運、運命のこと

 気というのは、虚にして物を待つものだ。道はこの虚に集まってくる。この虚こそ、心の斎戒なのである。」

 顔回は言った。
「私は始めからして、自分の意志や作為が多すぎました。始めから、自己などは無いのですね。虚しかないのですね。」
 孔子は言った
「その虚を最初から最後まで尽くしてごらん。世俗に遊び、その名誉を感じることのないようにしなさい。相手が求めれば話し、相手が求めなければ話さない。言葉の角なく、毒なく、一心に虚に託して、自分を出さなければ道に近くなるだろう。
 歩かないで足跡を残さないことは簡単だが、歩いても足跡を残さないことは難しい。人の従うことは偽りやすく、天に従うことは偽りがたいものだ。
 翼をもって飛ぶ者はいるが、翼なしに飛ぶ者はそういない。そのごとく、知をもって知る者はいるが、知なくして知る者はそういない。
 虚室は明るく広いように、虚心には幸運を招く吉祥天が住みやすくなる。吉祥天が心に住まないと、いつも心休まることはない。これを座馳(ざち・・座ったり走ったりする意)という。
 もし、耳目の感覚に従いても、心知を外にすれば、鬼神だって、そこに来て、憩おうとするものだ。まして、人なんかはいうまでもない。
 なぜなら、虚から万物が生み出されたものだからだ。昔のウ、シュン、フッキ、キキョという聖人でさえ、この虚の境地に達しようと終始努めたものだった。まして、聖人でない凡人も、この虚の境地をめざすのは当然のことであろう。」



 註:この話はここで終わるが、顔回ははたして、衛の国にそれから行ったのだろうか? それは不明である。でも、顔回が若くして早死にしたので、たぶん、衛に出かけていき、命を失ったと思われる。しかも、この話は、孔子を強烈に批判する荘子の書に書いてあるので、師の孔子が一番弟子顔回を無謀さを止められなかったことを批判したように思えるのである。・・・中国史をほとんど知らない大庭の想像だが。

 参考URL:仲尼弟子列伝



 薪尽きれども、火は尽きることなし

                       7月24(土)


 
荘子・養生主(ようせいしゅ)論4


山に気合いがこだまする

 老先生が亡くなった。親友であるのシンヤが弔問に訪れた。彼は三度線香をあげただけで帰ろうとした。
 老先生の弟子たちが言った。
「あなたは先生と深い旧知の仲ではなかったんですか?」
 シンヤが答えた。
「そうだが」
「だったら、そんな素っ気ない態度でよろしいのでしょうか」
「いいと思うが。昔、私は老先生をすばらしい人だと思っていたが、今は違う。さっき、奥に通されたが、老人はみな自分の子を亡くしたかのように泣き、若き人はみな自分の母を亡くしたかのように号泣していた。この様は、故人が生前、言葉には出さなかったが、自分のことを讃美してくれ、愛してくれ、もし、死んだら、泣いてくれということを求めていたということだ。

 これは、天の道を逃れ、天の愛を拒否し、天の恩恵を受けることを忘れたためではないのか。昔は、これを遁天(とんてん・・天からのがれる)の刑と言ったのだ。

 老先生がこの世に生まれ、たまたまあなたたちに巡り逢い、あの世にもどるため、たまたま別れるだけではないか。この時の流れに逆らわず、その時に安んじていれば、哀楽に翻弄されることはない。昔はこの時の流れに従い安住することを、「帝の県解(帝の命に従わなくてよい、自由を保証すること)」と言ったのだ。

 薪一つ一つは燃え尽きてしまう運命だが、その薪の火は他の薪を次々と燃やして、火となり、その薪の火の心は永遠に伝わっていくのだよ。


 天なり、人にあらざるなり

                       7月23(金)


 
荘子・養生主(ようせいしゅ)論3


結婚式ではない、田舎の祭りだ

 コウブンケンは旧友のウシを見て驚き、聞いた。

「その足はどうしたんだい。何かの災害や事故で、片足を失ったのかい、でも、まさか・・・足切りの刑にあったのかい?」
「俺にしてみてば、足切りの刑でも、天の采配だ。天がこの俺を片足に生まれかえさせたんだ。人間がいくら片足で生まれようとしても、けして片足で、生まれ出ることはできないだろう。君の二つ足だって、天がそのように与えたものだ。
 だからさ、君の足も、俺の足も、人間の力ではどうにもならないものなんだ。天がみな与えたものなんだよ。

 山中の雉(きじ)を見てごらん、餌や水を探して、あちらこちら、野山を駆け回る。でも、人間の籠の中ではけっして飼われようとはしない。どんなに何不自由なく飲み食いできても、満足できるものではない。たとえ、神様がこの地を司る王であったとしても、臣民はけしてその人生を楽しむことができない。天が与えたそのままの自然の中で生きるのが自由と楽しみを得ることなんだ」



 庖丁、道を示す

                       7月22(木)


 
荘子・養生主(ようせいしゅ)論2


獅子の中はこんな顔

 庖丁(ほうちょう・・・明料理人の丁さん)が、恵王の前で、牛一頭さばいてみせた。
 庖丁が牛の体に手をかけたかと思うとみるみるうちに、肉が骨から離れていく。あざやかな刀さばきは、まるで天に舞う踊りと調べを彷彿させる。

「おみごと、まさに神技じゃ」
 恵王は感嘆な声をはなった。そして、庖丁は答えた。
「恐れながら、ご覧にいただいたものは、『技』ではありません。技を推し進めた先にある『道』でございます。
 この仕事を始めたころは、目に付くものは牛の外形だけでした。三年修行しましてから、牛外形は消え失せ、骨や筋が見えるようになりました。そして、今ではこの肉眼に頼ることはしません。肉眼だけでなく、五感のすべての働きが止まると、自分と牛とが一体になった心が働き出すのです。すると、天の理が刀に働き、牛の体のすきますきまに向かって切り裂いていくのです。そのため、大きな骨だけでなく、筋と肉と骨が複雑にからみあっているところでも、そのすきまに刀が入り込んでいくので、けして刃こぼれしないのです。

 普通の料理人は月に一度刃を替えます。腕利きでも、年に一度は刃を替えるのです。それは骨にあたって刃こぼれをしてしまうからです。
 でも、この庖丁の刀は19年間も使い込んでいます。もう数千頭の牛をさばきましたが、いまだに新品同様です。それは、骨と肉の間にはすきまがあり、刀の刃は厚さがないからです。厚さのないものをすきまに入れるだけですから、悠々たるものであり、充分余裕があるのです。そのため、いくら使っても刃こぼれひとつしないのです。

 しかし、骨と肉と筋が深く絡み合っている最後の難所があるのです。その場合は、目は一点に止まり、動作は遅くなり、刀が動いているかどうかもわからなくなります。でも、動いているのです。そして、バッサリと肉全体が骨からはがれ落ちていくのです。そして、緊張がゆっくりと解け、刀をひき、そこに立ち上がり、四方を見渡して、半ば呆然としてしまいます。そして、やり遂げたという充実感に満ちあふれ、静かに、刀をさやにおさめます。」

 恵王はそれを聞いて
「それはまことにすばらしいことじゃ、そちの言葉から、私は養生が何たるかを得たぞ」



 知に従わず命を尽くすべし

                       7月21(水)


 
荘子・養生主(ようせいしゅ)論1


ささらの中はこんな顔

 私たちの命には限りがあるが、私たちの知への欲求には限りがない。限りある命をもって、限りなき知の欲求に従ったとしたなら、これほど危険な行為はあるまい。しかも、自分だけの限りある命をもって、全(まった)き知を顕(あらわ)そうとする神人きどりほど危険人物はあるまい。
 
 善をなしても、名声を求めることなく、悪をなしても、刑罰に合うこともないように。
 権力を持っても、人の道をはずすことなく、自分の身を安全に保つように。
 自然の道にあって、この与えられた生命を全うしよう。そして、充分に親(愛と感謝)を養い、歳(その時の命)を尽くそうではないか。


 胡蝶の夢

                       7月20(火)


 
荘子・斉物論


夢か現実か考える獅子

 昔のことだったか、この荘子は夢で胡蝶(蝶の異名)となったことがある。草花のまわりを優雅に飛んでいた。それを心ゆくまで楽しんでいて、自分が荘子であることも忘れていた。はっと目覚めてみれば、いつもと変わらない荘子であった。

 ところで、荘子が夢で胡蝶となったのか、それとも、胡蝶が夢で荘子となったのだろうか?

 物事は胡蝶と荘子ははっきりと、違ったものとして、認識される。だが、これは同じものが分化して、胡蝶と荘子になっただけではないだろうか。


 主人も影かも

                       7月19(月)


 
荘子・斉物論


暴れる獅子

 主人と影との間に立つ罔両(もうりょう・・陰影のふちに生じる薄い影)が、影にこういった。

「影よ、どうしていつもおまえは主人が立つと、すぐに立ち、止まるとすぐに止まる。主人が座るとまた座る。なんともはや、特徴も、自主性もない姿だなあ」

 そして影が答えた。

「確かに、俺は主人のとおりに動くが、その主人だって、特徴あり、自主性があるとは限らないぞ。いわば、へびの抜け殻か、蝶の羽みたいなものかもしれないのだ。だからさ、自分がどうして動くのか、どうして生きているのかなんてことは、わからないってことさ。」
 


 天に判断をまかす

                       7月18(日)


 
荘子・斉物論


天に判断をゆだねる獅子

 議論というのはまことにあてにならないものだ。議論して、君が私に勝てば君が正しいということになるのだろうか。逆に、私が君に勝てば私が正しくて、君が間違っているということになるのだろうか。
 どちらが正しいのか、どちらが間違いなのか、また、どちらも正しいのか、どちらも間違いなのか・・・それは当事者同士には判定できないだろう。

 では、第三者がいたらどうだろうか? もし、第三者が君と同意見だったら、君と同じ立場だから、公正な判断とはいえない。逆に、第三者が私と同意見だったら、私と同じ立場だから、やはり公正な判断とはいえない。

 では、君と私のどちらとも意見が違う者に判定させるとすれば、どちらも否定されることになる。また、どちらも肯定すれば、その判定ができない。

 こう考えると、君も、私も、他の人も、議論の判定はできないことになる。その判定は聖人だってできないだろう。

 つまり、何が正しいか、間違っているかを議論したところで、決着がつくものではない。そこで、一切を天にまかすしか方法がないことになる。対立さえも、そのままにして、自然のままにまかしておくしかない。そういう姿勢こそ、なにものにもとらわれない自由な姿ではないだろうか。

 何が正しい、正しくないというものはそれでよし、これがよくて、これがよくないというのもそれでよし。物事の是非にこだわらないことだ。歳も忘れ、正義も忘れ、無窮の世界を生きることが、無窮の世界に住むってことだ。

 


 長い夢から覚めるとき

                       7月17(土)


 
荘子・斉物論


ささらに囃され踊る獅子

 孔子の弟子であるクジャクシがチョウゴシに聞いた。

「孔子先生がこんなことをおっしゃいました。『聖人とは、世の中に役にたとうとはせず、利を追わず、害も避けず、人の信頼も得ようとせず、行いの道徳も持たない。無言で語り、語っても無心であり、世俗にあっても、世俗を超越している』と。

 そして、先生は、こういう聖人像は人間のあこがれの表現であって、この現実には存在しえないと否定しました。でも、私にはどうもそう思えません。この聖人の姿こそ、本当の道を生きることだと思うのですが、あなたはどう思われますか?」

「聖人の境地はあの偉大な黄帝でさえも、わからなかったというが、あの孔子がどうしてわかるというのだ。君も早合点するなよ。孔子の道の説明だけで、もう道を理解できたような気になっている。
 鶏の卵を見て、夜明が来たと思い、弓矢を見て、もう焼き鳥を注文するようなものだ。

 まあ、言葉でどこまで聖人の境地を説明できるかわからないが、こんな感じだ。
 聖人の徳は月日と並び、宇宙を抱く。宇宙の根本である道と一体化し、混沌とした現実をそのまま認め、貴賤の価値の差を持たない。人は知を競って心労を多くするが、聖人は才知を捨て、無心に過ごす。時間とともに見かけは変化するが、その実は不変である。万物をすべてよしとし、すべてそのまま受け入れる。

 また、こんなこともいえるかもしれない。

 人は生に執着することで迷う、死を厭(いと)うことで自分の故郷を忘れる。あの美人リキだって、一兵士の娘だったが、外国勢に捕らえられ、泣き明かした。やがて後宮に迎えられ、王と床を共にし、贅沢三昧できるようになった。そこで、美人リキは昔泣きはらしたことを後悔したというのだ。してみると、あの世の死者だって、かってこの世の生に執着したことを後悔するってこともあるかもしれないではないか。

 夢と現実もそうとらえることができるだろう。

 夢ですっかり歓楽を味わった者が、覚めて辛い現実に泣くことだってある。その反対に悪夢にうなされた者が、夢から覚めると、けろりとして、猟を楽しむことだってある。夢を見ているときは、それが夢だとは気付かない。夢の中で、夢占いをすることだってあるのだ。人は目覚めないと、自分が夢をみていたと気付かないものなんだ。

 この長い人生もまた夢を見ているようなものかもしれない。真に悟りに達して、目覚めた聖人だけが、それが夢だってことに気付くことができるのかもしれない。でも、おろかにも、自分が目覚めたと勘違いして、小知をふりかざし、物事の貴賤を論じ立てるやつがいるが、実にくだらないとは思わないか。

 孔子も君も、ただ夢を見ているだけではないのか。こういう私だって、同じように夢を見ているに過ぎないだろう。思えば、この人類の長い夢から覚めるような聖人が出るのは何万年に一度かもしれないよ。」



 「知の不知」と「不知の知」

                       7月16(金)


 
荘子・斉物論


観る子も踊り出す

 ゲッケツは師であるオウゲイに聞いた。
「先生は、『万物斉同(すべて同じである)』であることを認めますか?」
「わしはどうやってそれを知るというのだね」
「では、先生はご自分が『知らない』ということを『認める・知っている』のですね」
「それだって、それをどう認めればまた知ればいいというのだね」
「それでは、先生は一切合切が、『不可知』であると判断するのですね」
「それも解らない。それがどういうことか、君に話してみよう。
 知るということは、二つの側面から観察できる。
 まず、知っていると思い込んでいるが、その実は知らないことがある。一方、知らないと思っていることが、その実知っていることがある。「知の不知」と「不知の知」の両方の側面があるのだ。これを譬えていうと、こうだ。

 人間はいつも水に浸かっていれば、変死してしまうが、ドジョウだったらどうだろう?
 人間はずっと枝にぶら下がっていると、震えるが、猿だったらどうだろう?
 人間もドジョウも猿も、その三者の最も優れた住処を知ることができるのだろうか。
 また、
 人間は牛や豚が好んで食べる。鹿は野草を好む。ムカデは蛇を。フクロウやカラスはネズミを好んで食べる。この人間と鹿とムカデとフクロウの4者において、最も正しい味覚を知ることができるだろうか。
 またまた、
 猿は猿を妻とし、鹿は鹿をめとり、ドジョウは他の魚と戯れる。モウショウやリキは人間の目では絶世の美人だが、魚が見れば、恐れ水中深く逃げ、鳥が見れば驚きおののき、空高く飛び去ってしまう。鹿も見れば、一目散で逃げていく。この人間と魚と鳥と鹿の4者で一体誰が最も美の感覚が優れているといえるだろうか。

 こう考えれば、仁義だって、真理の是非だって、判断しようがないではないか。また、認めようがないではないか。」

「先生は、真理の是非も、判断もつけかねると言いますが、それでは至人(至高の人)はどうなんでしょうか。やはり、判断も真理の是非も言えないのでしょうか?」

「至人は神だ。火事にあっても熱さを感じないし、河が凍っても、凍えることもないし、どんな雷も、どんな竜巻にもびくともしない。いつも雲に乗り、月日をかけめぐり、万物の外で遊んでいる。死生にその身を変じることもない。まして、この世の利害、優劣、知不知など何も問題にしていない。」



 徳という太陽の光

                       7月15(木)


 
荘子・斉物論


獅子を征伐せんと

 昔、ギョウはシュンに相談した。

「わしは、ソウとカイとショゴウの三国を征伐したいのだが。この国の南に面しているのでなぜか、うさんくさいのだ」

 シュンはこう答えた。

「確かに、あの三国の王は雑草のように、気にはなりますが、だからといって、どうしてうさんくさそうに感じるのですか。
 大昔には、太陽が10個もあったそうです。そして、その10個の太陽の光は万物をあまねく照らしていたのです。でも、そんな10個の太陽でさえ、徳という大きな太陽の光にとっては、暗くて、無いも同様なんです」


 不知の知

                       7月14(水)


 
荘子・斉物論


踊りながら村を行く

 大道は称賛することも、言い表すこともできない。大なる弁は何も言わないこと、大なる愛は愛ではない、大なる純潔は純潔ではない。大なる勇気は逆らわないことである。

 もし、道を悟ったならば、それは道ではない。真実の言葉が話されたときから、真実から離れてしまう。愛は選ばれたときには、もう愛ではなくなる。純潔は清ければ清いほど信用されない。勇気は、逆らった時点で、もう勇気ではなくなる。

 これらの五つのものは円く完璧なものだけれど、それに近づくと方(片輪・不完全)なものになってしまう。いわば、道・真実・愛・純潔・勇気を求めれば求めるほど、近寄れば近寄るほど、それらは遠ざかっていくものである。

 だから、大切なことは、知の限界を知ることなのである。「知らないことを知る」こと、「不知の知」を体得することなのである。この「不言の弁」、「不道の道」を知ることは、なかなか難しいことだけれど、ひとたび「不知の知」を知れば、天賦(天の宝の倉)を得ることができる。注げども満たない、汲(く)めども尽きず、しかも、それが来るところ(すべての原因)を不知とする。これを葆光(ほうこう・・ぼんやりと包み込む光で、光を隠す意味もあるようだ。また、焼き物における葆光(ほこう)とはうす絹を透かして見るような感じの事)というのである。

 


 言葉に依存せず、道に座す

                       7月13(火)


 
荘子・斉物論


ささらの音に従う獅子の談合

 道はその始めを定めない。言葉はその始めを定めるが、常にその定めが一定していない。言葉は、是と断定して、すべてを判断する。では、その判断するところを問うてみるがいい。それが不確定であることに気付くはずだ。

 左あり右あり、倫あり議あり、分あり弁あり、競あり争あり、こういう議論が、八徳(仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八種の徳目の称)なのである。

 聖人は六合(りくごう・・天地と四方とを合わせていう。上下四方。全宇宙。)の外に座して、論じない。六合の内に座しては、論じるが、その議(テーマ)にはこだわることはない。

 古代の先王の志や教えについても、聖人はその事実をあげ、議題として提出はするが、あえて、その教えや志を弁護、守護しようと努めることもしない。

 いわば、分かつ者は分けない者であり、弁じる者は弁じない者である。その両者に差異を認めないのが聖人である。

 衆人は、弁じることによって、その意の正しさを示そうとする。これは、弁じるが、その証拠を出さないようなものである。

 もって、聖人は、言葉の是非や相対に左右されないで、道に存して、平静に座す。



 人類の初心に帰ろう


            投稿者:大庭 呵八朗    7月12(月)



 荘子・斉物論


出番を待つささら(踊る獅子を四方で囲むで囃す)

 道の世界においては、世界のエベレストといえども、赤ちゃんの産毛よりも小さく、亀万年の命も、生まれてする亡くなった赤子よりも短命である。天地と自己は一緒に生じて、万物も自己と一体である。

 すでに、天地万物と一体であった自己は、それを「一」という概念で認識するやいなや、すでに、そこに「二」という概念が生まれる。その「二」の概念が生まれると同時に、「二」の概念と「一」の概念が合わさり、「三」という概念が生まれ出る。こうして、数の概念は無限に拡がっているのである。そこに終わりはない。

 主観と客観の認識が未分化されていた世界から、それが主観と客観の世界の概念に分化された世界が生じ、そこから、言葉による概念の独走が始まってしまった。それは複雑多岐に分化していっている。そして、その複雑さ故に、その迷路にはまり込んでしまっている。

 そこで、今一度、人類の初心に帰って、主観と客観の未分化の道の世界にもどってみようではないか。そして、この道を歩いていこう。

 



 認識判断は否定の否定のように無限に続く


            投稿者:大庭 呵八朗    7月11(日)



 荘子・斉物論


ものすごい雷雨の中でも踊るささら獅子

 私荘子の説には是非の判断が成り立つ。その判断は常に是非が限りなく続くものである。
 今、物事を認識する場合は、時間と空間の二つの世界から判断される。

 時間については、必ず「始め」が意識され、それが判断される。この「始め」がなければ、時間は成立するとは認識されない。だが、その「始め」の判断がされると、次は「その始めはない」と判断が下される。さらに、「その始めはないことはない」という二重否定が行われる。

 空間についても、同じことで、まず、「存在する」ことが意識される。「存在」がなければ、空間は成立できない。その存在が意識されると、それに対して、「存在しない」という否定判断がくだされる。さらに、「それは存在しないことはない」という二重否定の判断がされるのである。それらはまた、「存在しないことはないことはない」と三重否定判断が生まれる。

 このように、すべての事物がいったん言葉をもって、認識され、そして判断されていくと、その否定が生まれ、さらに否定に否定、さらに否定の否定の否定が生まれてくる。

 この否定は無限の連鎖反応のごとく、終わることはない。この私自身の認識判断にしても、そうなのである。


 



 人に成功不成功なし


            投稿者:大庭 呵八朗    7月10(土)



 荘子・斉物論


温泉から見る夕暮れ時

 太古の人の知恵は、最上の知恵だったのではなかろうか。自分と他人と自然の意識が未分化していた時代だったからである。時を経て、自分とそれをとりまく世界を意識し、事物を区別するようになっていった。そして、それぞれの価値観が生まれたのである。そして、本来の道(自他自然との一体感)が失われた。そして、それぞれの価値観に固執するようになってしまったのである。

 道には成虧(せいき・・成功と不成功、完全と不完全の意)の違いはあるのだろうか。
 例えば、琴の名演奏家だったらどうだろう。彼が奏で妙なるメロディは成功の証だ。でも、その反面、彼が奏でなかった無数のメロディは不成功の証である。こう考えると、人間の作為というものが、成虧(成功と挫折)を生んだことになる。

 歴史に残るどんなにすばらしい音楽であれ、哲学宗教であれ、人間能力の最高の段階に達したからこそ、その名が残っている。彼らは誰がみても偉大である。だが、彼らの意志を引き継ぎ、その後に続くものは、みな彼ら以上になることはほとんどない。

 みなが偉大だと認めた歴史上人物の為したことを成功者とするならば、人間のなすことすべてを成功とするのが正しいはずである。彼ら以外がみな不成功者だというならば、人間の営為のすべてがみな不完全だと言わなくてはならないだろう。

 だから、聖人は、人の成虧(せいき)をもって判断しない。いわば、この人は偉い、偉くないという選択をしないのである。この選択をしないで、万物自然全体をありのままに受け入れることが、真の明知なのである。




 朝三暮四


            投稿者:大庭 呵八朗    7月 9(金)



 荘子・斉物論


川辺に横たえる合歓の木

 しかしながら、どうして私たちは、諸々の違いに心労し、またその選択に固執して、かけがいのない人生をそんなつまらぬことに使ってしまうのだろうか。それらが同じであるという真理にどうして気が付かないのだろうか?

 朝三暮四という諺がある。猿回しの親方が、あるとき、猿にどんぐりを与えながらこう言った。
 「これからは、朝三杯、夕方には四杯あげよう」
 猿たちはいっせいに怒った。そこで、猿回しの親方は
 「ごめん、ごめん。それでは、朝に四杯、夕方には三杯にしよう」
 それで、猿たちはたちまち機嫌をなおしたという話である。

 実質は、なんの差違もないのに、一方には喜び、他方では怒るのはどうしてだろうか? それは自分の是非にこだわっているからではないのか。
 それゆえに、聖人は是非の区別をせず、一切を「天鈞(てんきん・・天に等しい)」に安らぐのである。そして、自然の流れのままにまかすのである。また、これを「両行」と言って、矛盾も対立もそのまま認めることなのである。矛盾があってはならぬと怒る必要もないし、対立を無くして平和にしようと奮闘努力する必要もないのである。矛盾も対立も、その両者を両方とも認めて、天にまかすことなのである。

 



 「庸」「用」「通」「得」の道


            投稿者:大庭 呵八朗    7月 8(木)



 荘子・斉物論


客を待つ温泉

 まず言葉の働きをみてみよう。言葉においては、「可(できる)」「不可(できない)」は明確である。イエスはイエスであり、ノウはノウでなければ、言葉は意味なしえない。
 だが、その言葉の対象たるものは、個別存在でもあるが、同時に普遍な存在でもあるのだ。その普遍な存在が道に通じている。
 わらくずと柱、らい病患者と美女といった組み合わせなどは、大小、美醜の対照的な差違を示すけれど、普遍的存在、道においては、同一の存在なのである。
 破壊と完成のような動きにおいても、同様であり、普遍的存在・道においては、一切の存在は、形式でも、動向でも、なんら区別は存在しない。

 これが、万物斉同(万物はすべて同じ)の理である。それを会得した者は、あれやこれやと選択する立場をとらないで、事物を
 「庸(よう)」・・凡庸(平凡)の意、転じて自然の意・・としてとらえる。
 「庸」は「用」・・用いる・役に立つ・良いものとして認める・尊重する・・・の意味もある。
 この「用」は「通」・・往来、伝わる・・に通じる。

 この働きには、無理がない。

 また、「通」は「得」・・獲得・理解・得意・活用・・に通じる。

 この「庸」「用」「通」「得」の普遍的存在・道の存在を肯定する境地に立ったとき、万物の実相に近づいたことになる。
 そして、この道にまかせようとする意識さえもない境地が「道」との一体を具現できる姿なのである。

 



 天地は一馬であり、万物は一指(名)である


            投稿者:大庭 呵八朗    7月 7(水)



 荘子・斉物論


温泉の夕べ

 公孫竜(こうそんりゅう)は、「白馬論」(馬をもって馬の馬にあらざることを諭す)において、万物の同異は見る者の視点によって違うといい、「指物論」(指をもって指の指にあらざることを諭す)においては、名(指し示す)と実(存在)とは必ずしも適合するものではないといっている。

 しかしながら、そんな議論よりも大事なのは、
 「馬にあらざるをもって馬の馬にあらざることを諭す」こと、また、「指にあらざることをもって指の指にあらざることを諭す」ことが重要である。

 万物の同異を見る人の個々の視点から眺めるのではなく、万物全体の視点から、その万物の同異をみることが大事である。

 また、人から人を見て、その人の名と実(中味)が違うことを言うのが大事ではなく、万物自然全体から見て、それぞれの人の名と実が違うことを言うことが大事である。

 「天地は一馬であり、万物は一指である」

 つまり、どんな馬も、どんな名(指)も天地の一つであると同時に、天地自然が一つの馬に、一つの名(指)に凝縮された表れであるからである。

 



 開け閉めする扉の枢軸を見よ


            投稿者:大庭 呵八朗    7月 6(火)



 荘子・斉物論


花に埋もれる温泉

「かれはこれに出で、これはまたかれによる」
これが、彼是(かれこれ)相対の論である。

 「生ずれば死し、まさに死すればまさに生ず」ように、生と死、可と不可、是と非などもまた相対の様子をもたらす。相対する両者の関係はまた、依存しあい、排斥しあう。

 そこで、聖人は、人の立場によらず、天の立場に立って、物事を観る。

 この見方は、先の、「あれは同時にこれであり、これはまた同時にあれである」ことを知り、「あれ」「これ」の区別・選択をしないで、それを分ける要に立つ。開け閉めする扉の枢軸に立つのである。その境地を「道枢(どうすう)・・道の要の意」と言う。それは自他の区別にこだわらない、あれこれの議論に超然とする、善悪の感情の風にもあおられない平安の心を持つ。この道枢の境地を明(真の知)と言うのである。



言葉はひよこのさえずりと変わりなし
 投稿者:荘子・斉物論  投稿日: 7月 5日(月)
 言葉とは道(万物の真理)から鳴り出す響きではない。言葉には意味がある。その意味がみな確定的でない。それ故に、ひよこのサエズリとなんら変るところがない。

 そもそも、道に真偽が生じ、言葉に是非が生じるのはどうしてであろうか? 元来、道はすべてに偏在し、言葉も、道と「現れては消える」光陰の関係にある。だが、道はどこに行ったかわからなくなるし、言葉はどこかにあるのだろうが、使われなくなる。道は小さな成功に隠れ、言葉は栄華に隠れてしまう。

 儒墨両学派の論争はまさに、この姿を表わしている。その非とするところを是とし、その是とするところを非とする。また、その非とするところを是とし、その是とするところを非と欲するのである。

 だから、この論争をおさめるには、明(真の知)をもってするしかないのである。




体と心の行く末
 投稿者:大庭 呵八朗  投稿日: 7月 4日(日)
 この世に肉体(成形)を持って生まれ、あの世に行くまで、他のものを受け入れたり、排斥したりしていく。これは、他との葛藤を繰り返しながら、死に向かって、ばく進しているってことだ。これが、人の生きる姿なのである。

 「闘いこそ、生きる証だ」と説く人がいるが、なんとも薄っぺらい説明だ。生涯、あくせく働き、心身をすりへらせて、なお、安らぎが得られない。そして、死んでいくなんて、何のために生きるのかと問うたとしてら、大きな矛盾をそこに感じることだろう。

 人は肉体(成形)だけでなく、心(成心)も持っている。心は、本来、知恵における識別は関係がない。しかし、心は生きていく上で、他との対立などによって、知恵へと、変化していく。そして、しまいには、「今日越を出発して、昨日越に到着した」などというあり得ぬ命題を生み出すようになってしまう。

 こうした、「あり得ぬもの」を「あり得る」と論証できる人間の知恵は、神様さえも、びっくりして、知ることはできなくなってしまった。

 いつも、この私は、そうした肉体(成形)と心(成心)の成り立つ姿を大観している。



神の愛を得ようが得まいが、その真に損益なし
 投稿者:大庭 呵八朗  投稿日: 7月 3日(土)
 喜怒あり、安楽あり、偏執(うらやみねたむ)など心はさまざまである。その心は、虚から楽や学が生じ、湿気からカビが生じるように、日夜変化している。その心を変化せしめる存在を知る由もない。 
 他が存在しなければ、自分も存在しない。それ故に、自他の関係に基づいて、自分の内から生じるものが、心であるとも言う。でも、自分の内にある根源については説明しきれない。だから、その根源である神の存在を前提としないと、どうしても説明できない。
 
 この肉体にしても、100の骨筋、9つの穴、6つの臓器が備わっている。それを支配している存在は何であろうか。自分の意志で、なんとかしようとはできないものばかりだ。だから、この肉体はけして自分の下僕ではない。でも、肉体の主人はいるはずである。そうでないとまとまりがつかないからである。
 だからといって、それらが、相互に、支配し、支配される関係を結んでいるわけではない。それ故に、人間の「知覚」を超えた「何者か」「神のようなもの」を存在がすべてを統括していると考えなければ、筋が通らなくなる。

 とはいえ、そんな神の存在を知り得ようが、知り得まいが、まとまりがあるこの事実には何の影響もしない。それ故に、人の心を支配するような「何者かの存在」を得ようと得まいと、我々の生活する上で、どんな損得もないのである。




人は知と言葉にとらわれし者である
 投稿者:大庭 呵八朗  投稿日: 7月 2日(金)
 人間の知と言葉は多様に変化する。概略だけの知識、分析的探求知、簡潔明瞭な知、煩雑な饒舌など、人それぞれの知の形をとる。
 
 そして、人は知と言葉に依存し、夢の中を追い求め、覚めると、精魂こめて、闘争に明け暮れる。時に、荒々しく、深刻に、細心に、不安げに、絶望に苛まれ、そして、せめぎあう。

 この是非を問い争う姿は、まさに獲物を狙う猟師のようであり、自説に固執し、縛られた姿は、各国の条約や盟約を主張するさまを思い出される。

 秋冬に、枯れていく草木さながらに、肉体の健康も損なわれ行き、衰弱した老人のように、知と言葉に囚われて、その精神の自由は日々失われていくのである。



天籟(てんらい・・天笛)を聴く
 投稿者:大庭 呵八朗  投稿日: 7月 1日(木)
地籟、人籟、天籟 

 註:籟(らい)の意味は、1 穴から発する音。2 風が物に触れ当たって発する音。3 ふえ。簫(しょう)の笛

 現代的かつ自由に訳すことにします。

天の笛を聴く

 シキ先生が、静かに呼吸を整えたと思ったら、魂が抜け出たような状態になった。そして、弟子のエンが叫んだ。

「先生はどうしてしまわれたのでしょうか、生木が枯れ木のようになってしまわれた」
その声で、意識を取り戻したシキは
「今、私は自分が自分ではなくなっていた。君は人の笛の音を聴いたことがあるが、地の笛の音を聴いたことがなかろう。まして、天の笛の音を聴く境地には達してはないからな」
「と、おっしゃいますと?」
「大地の笛の音は、大地の息であり、人は風と呼ぶ。大地が息づくとき、地上のあらゆる虚(うろ)がいっせいに音を発する。風が森に吹くと、樹木はざわめく。巨木の幹にはさまざまな虚(うろ)があり、鼻にも、口、耳にもなり、その形と深さは、升、臼、井戸、池のようにさまざまだ。その音の質感も、滝、鏑矢(かぶらや)、舌打ち、呼吸、泣き声、くぐもり声(こもった声)、かなきり声、・・・ヒューと鳴れば、ゴーと返す、風の力に応じて、強くも弱くも、変化する・・・まさに自然のシンフォニーなのだ。

 やがて、この激しい風もピタリと鳴りやむ。だが、揺れ動いた樹木の枝葉に、その風の名残りをいくらか発見することができるだろう」

「大地の笛とは、地上のすべての虚(うろ)が風を受けて鳴る響きなのですね。人の笛は楽器のことですね。それでは、天の笛の音とは何なのでしょうか」

「地の笛も、人の笛も、鳴るものは千差万別であるが、それぞれ自ずから音を生じ、自分の音色を奏でるのは、それが虚(うつろ)であるが故である。その虚(うつろ)にさせているのは一体だれであろうか。その虚心の境地を天の笛を聴くというのだ」