ここに書かれたものは想像小説であって事実ではありません。
 いろいろな事実を合わせて、想像し、それを物語にしたにすぎません。
登場人物や地名は、実際にある名前を使っていますが、それはよりイメージしやすいようにしたためで、事実ではなく、フィクションですので、くれぐれもお間違いのないようにしてください。
 もし、読者が、事実として把握書いたなら、その土地や人物に多大なご迷惑をかけてしまいますので、どうぞ気楽に空想物語としてお楽しみくださるよう切にお願い申し上げます。


地球最後の大道芸人

サハリン ホルムスク港

 北海道の北にサハリンがある。そこは元日本であった。そこに住む少数民族であるギリヤーク民はアイヌ民族とともに、長く、日本本土にも住んでいた。彼らは日本に大地を追われ、北の大地に逃げざるをえなかったが、それでもなお、優しさを失わず、日本人のことを隣人と呼んでいた。
 そして、ギリヤーク民はサハリンに住んだが、さらに、北のロシアの多数民族からも、追われた。そして、現在、北サハリンに、同民族同士、ひっそりと寄り添って生きている。
 サハリンに住む三つの少数民族である、ギリヤーク(ニブヒ)、オロック、エベンクの民を合わせても約3,000人程度である
 

フィクション・ギリヤーク尼崎の生家

 ギリヤーク尼崎はこの北カラフトの現ルポロボ(ナニヲー)で、1930年生まれた。ギリヤーク民族として、小さいときから、音楽に親しんで育ってきた。特に、民族楽器の三味線を好んで弾いていた。

 その生活は厳しく、父を亡くしたあと、18歳の彼は母とともに、青森の津軽の伯父のところに、身を寄せた。母は、恐山のいたことして、生計をたてるようになった。21歳になった彼は映画俳優になりたくて、上京したが、言葉の訛(なま)りのために、次々と審査に落ちた。そのため、俳優をあきらめ、創作舞踊の道に転向した。27歳の時に、舞踏家として独立デビューしたが、アルバイトをしながらで、やっと生計が維持できた。でも、彼は舞踏家として食べていきたいという意欲が根強く、その道を探していた。

 そして、彼が38歳になったとき、彼の中から大きな変革が起こったのである。

 

出典:アジアの風上々颱風 ・ 猪飼陽子

 どうしてほとんどの人間は好きなことをして生きていけないのだろうか? 好きなことをして生きていける人はほんのわずかだ。数万人に一人くらいしかいないのでないだろうか。才能やこね、環境、努力、運が重なって始めて、成功し、その道で食べていける。
 一体、成功不成功の差は何だろうか? 

 ギリヤーク尼崎は多摩川のほとりで、思案にくれていた。10年この舞踏の道にいるが、誰にも認められない俺はこのままではたしていいのだろうか? このギリヤーク民族の血が、どうしてこんなに渦巻くように騒ぐのだろうか。まるで民族絶滅寸前の叫びをあげているかのようだ。どんな生き物も、強くなければ生きていけないような仕組みになっている。この俺の民はあまりにも弱かったのかもしれない。

 だが、待てよ、空を飛ぶカモだって、何も考えずに、好きなように自由に生きているではないか。病気さえしなければ、自分で好きな食べものを獲り、好きな場所で寝て、生きていけるではないか。同じ生き物である人間だけができないはずはなからろう。

 今までは、社会に認められたいという気持ちだけだったが、それが、生きぬく力を邪魔していたのではないか。こねとか運とか、才能とか、そんなものはどうでもいいことなのではないだろうか。舞踏を発表するために、その会場費、そしてチケット売りに紛争し、結局赤字で、その金をアルバイトで埋める生活は何の意味もないことではないだろうか。

 一体、芸とは何であろうか。自分の内からこみ上げる血の噴流を命の鼓動を他に伝えたいだけなんだ。そして、この大地と空と太陽とともに、つながっている自分を表現したいだけなんだ。

 昔から、芸人は旅をしていた。そして、舞台はこの大地であった。見知らぬ土地で、見知らぬ人と、踊りでつながることが一番の喜びではないか。そこによけいなもの、才能、運、コネなんかは一切必要ない。純粋に踊りそのものだけで、人と人がつながりあえるのは、この大地ではないか。この大地はどこまでも拡がっている。空はどこまでも高く突き抜けている。この大自然の舞台こそ、本当の踊りができるのではなかろうか。

 よし、大地を舞台にして、やっていこう、と彼は決意した。


出典:take five の酔族館 

 そのころ、日曜になると、社会に反逆者・タケノコ族として、10代の若者たちが、車を通行止めした原宿の大通りで、仮装し踊っていた。まだ、その他のパフォーマーたちが、出ていなかった時である。そこを彼の最初の舞台にした。

 彼は38歳、タケノコ族のラジカセの音が聞こえないくらい離れた原宿よりで、彼は踊る準備をした。彼もまたタケノコ族と同じく、ラジカセの音と、自分でこしらえた衣装で、踊ろうとしていたのである。だが、明らかに違ったのは、その音楽と、衣装である。タケノコ族が、アメリカのロック調で、衣装は足に裾まで、流れる鉢巻きに、アラジンのランプに出てきそうなスタイルに対して、彼は、津軽三味線がじょんがら節を奏でる音に合わせて、顔を白く塗り、杖をつき、、腰の曲がった老人の「お遍路さん」を演じ踊ったのである。

 そして、踊り終わると、大道芸人よろしく、観客に投げ銭が入れられる大きめのガラス瓶の前に座った。彼は頭を下げなかった。祈ったのである。自分の踊りが一体どこまで、道行く人々に伝わったかを知りたかった。そして、それが、これからの唯一の生きる糧になるからである。

 彼は眼をつぶって待った。そして、チャリンという音がした。100円玉だった。なんと、それを始めて入れたのは、あのタケノコ族の一人の青年だった。

「おじさん、よかったよ。すげかった。また来なよ。」

 ギリヤーク尼崎は、内心タケノコ族に絡まれ、いちゃもんをつけられるかとドキドキしていたが、それが、彼らに応援されたから、涙が出るほどうれしかった。そして、黙って彼らに頭(こうべ)を垂れて感謝した。

 あとは、親子連れの9歳の男の子が、さっさと通り過ぎようとする親を制するかのように、10円玉をそのガラス瓶に入れただけだった。


出典:take fiveギリヤーク尼崎

 彼の生活の糧は、それだけだった。たくさん稼がねば、生きていけなかった。そこで、毎日稼げる場を探した。しかも、観客が多ければ多いほど、かせぎが多くなる。そこで、渋谷駅のハチ公前で、踊ることにした。そこは、人通りが多く、とてもそのままでは踊れる場所が確保できない。そこで、彼は白いチョークで、舞台となる円を描いた。すると、不思議なものでその白い円の中を避けて、人々は通ったのである。

 そして、彼は津軽じょんがら節をラジカセでならし、踊った。その効果は圧倒的だった。彼をとりまく見物客はその踊りに魅惑された。その騒ぎに、かけつけたのは警官だったが、自分が何をしなくてはならないかは解っているものの、ギリヤーク尼崎の踊りからくる迫力に何もできなかったのである。そして、その踊りが止むまで、待ってから、彼にきちんと路上使用許可をとってからやるように注意したのである。

 だが、ギリヤーク尼崎はその後、一度も警察の許可をとろうとはしなかった。そのため、何度も注意しても、やってしまうので、監獄に入ったが、罪が重くないので、すぐに出られたのである。その牢獄は百回を超えたが、あいかわらず、全国の駅前で、大道芸を毎日やっていったのである。

 彼は踊りのレパートリーを増やした。ピエロの格好をして、白鳥の湖を踊った。そして、禁じられた遊びの音楽で、赤フンドシで、赤の浴衣で夢を演じた。彼は裸になることで、その本来の人間の心を表現しようとしたのである。

 彼の踊りが終わると、観客の多くは涙を浮かべていた。そこに人間の内なる魂の底から、揺り動かされた感動がこみあがってきて、とめどめもなくただ涙が出てくるのである。拍手することも忘れ、ただそこに立ちすくんだ。ある人にはそれが鬼の踊りと見え、ある人には、人間の苦悩から起こる情念にも祈りにも見えた。そして、その踊りの一コマ一コマを静止させると、ムンクの叫びにも、ゴッポの自画像のような絵画を見ていく美術館のようにも見えたのである。

 その大道芸は、1年もすると、投げ銭ではなく、札束をぐるぐると巻き、ゴムで止めて投げられた。踊りが終わると、あの大きなガラス瓶にお金を入れようと、長い列ができたのである。一回に公演で、10万円にもなることも多かったのである。そして、次の公演を待つお客に、次回の予定を教えるようになった。

 そこで、彼に場所を提供するようなオーナーも現れてきた。新宿の高層ビルの前の広場で、ギリヤーク尼崎が来る旗も立てられるようになったのである。そして、彼は生活する自信ができて、母を東京に呼んだ。そして、世田谷の木造のアパートで一緒に暮らし始めたのである。

 

出典:take fiveギリヤーク尼崎10点の一つ

 母は、息子の将来を案じた。

「おまえ、もういい歳なんだから、お嫁さんをもらっておくれよ」
「でもさ、同じギリヤーク人はどこにもいないよ」
「かまやしないよ、日本人でいいから、結婚して孫を見せておくれ」
「わかっているよ、母さん」

 彼は、鬼のような踊りをするとは対照的に、女性のようなやさしい声で話した。見かけは背の高い男でも、心はどうみても可憐な女性のように感じるのである。そのため、男でもなく女でもなく、中性的な人間に見えた。だから、まったく女性には心が行かないのではなく、若くて美しい女性には真っ赤になるくらいに照れるのである。だが、それは男として女に惚れるのではなく、美しい女性の讃美とあこがれだったのである。

 彼の恋と愛はみな踊りの中で全部燃焼つくされてしまっていた。彼の大道芸は多くて一日一回だけしかできなかった。それ以外の時間は、体の体調を整えるために準備運動に費やさなければならなかったのである。それは相撲取りのように、一分一秒の取り組みに自分の日頃の稽古のすべてをかけるようなものだった。30分の踊りの公演のために、数日の練習が必要だったのである。また、演目も三つの絞った。いろいろなことを踊りで表現するのではなく、同じ踊りを何度でも踊ることで、その微妙な表現を深めたのである。いわば麺でいえば、そばもうどんもラーメンも出すのではなく、そば屋だけをやるしかもメニューも三つにするような専門店にした。

 そして、彼は、ニューヨークから、パリ、モスクワ、中国、イギリス、韓国、インドなどと世界の街で大道芸をしていった。彼の踊りは他の多くの大道芸とは異質であった。多くは観客を笑わせたり、得意な技術で、びっくりさせて、楽しませることを目的にしたが、彼は誰も笑わせようとはせず、見る者の魂を揺り動かすのが目的のように思われた。

 世田谷の家に彼がもどると、母は黙って食事の志度をした。母にとっては息子の世話をするのが、一番の喜びであった。そして、息子の夢が母の夢であり、息子の成功が自分の成功であった。息子が50歳になっても、つき合うような女性も現れることはなかった。そして、母はすっかり息子の結婚をあきらめ、息子が望む幸せだけを望んだのである。そして、息子の妻として、母として、娘として、の三役をこなしたのである。

 だが、その母も彼が61歳になったとき、一人自宅で静かに82歳で亡くなった。彼はあの阪神大震災を起こるであろう神戸の路上で、公演しているときだった。そのショックは激しく、そして、失って始めて気付いたときのは、母が自分のすべてであったことだった。彼は、母が死んだことを容認しなかった。母の死を認めれば、自分も死ななければならなかったからである。彼はそれ以来、すべてを魂の眼で見るようにしたのである。魂には死はない、永遠に生きる個々の生命と、愛に包まれた宇宙しか存在しなかった。母が自分の心の中で生きていることを実感できたのである。

 彼はすぐに踊り出した。そして、母の遺影の写真を抱き、「お母さん」と言って倒れるシーンを「念仏じょんがら」の踊りの最後に入れたのである。

 それは、若き特攻隊が戦死するときに、けして天皇陛下万歳とはいわずに、「お母さん!」と言って死んでいった者が多かったことを思い起こさせた。そして、どんなに70歳80歳になって、老齢で死ぬときも、「お母さん!」と叫んでいく者も多いことも思い起こさせた。

 そして、さらに、観客の魂を母とともに、揺り動かし、涙でその魂を洗わせた。

 

出典:take fiveの尼崎10点の一つ

 しかしながら、年老いていく流れの中で、彼にはどうしても残された課題があった。それは自分が消えゆくようなギリヤーク民族の一人であったからだ。長いこと、自分が日本人として生きてきた。そして、日本人の魂を世界に伝えてきた。だが、彼は本当はギリヤーク人だったのである。そのハートを残された人生で、世界に伝えようとしたのである。

 彼は70歳になったとき、それを決意した。そして、新しい踊りを創った。「ギリヤーク朱鷺(トキ)の舞」である。

 頭に民族の細長い円柱形の冠を朱鷺のくちばしに見立て、牡丹色に染めたフンドシで、朱鷺の羽の内側の色を出し、淡い透き通るような絹の着物で、袖の裾を長くして、両腕を拡げると飛ぶ羽毛のように見える衣装を創った。そして、朱鷺のように、顔を朱塗りをしたのである。

 彼は絶滅した朱鷺と消えゆく少数民族のギリヤーク人とそして、妻も子も持ち得ず、子孫を残さない孤独の自分を演じたのである。音は朱鷺の泣き声と羽の音だけで編集して、自然の音だけにしたのである。

 その舞は、観客の群れの中に、羽を広げ、舞うように突入していった。そして、その群れから離れると、つまづき、なんどもでんぐり返った。そしてびっこを引きながらも、舞台の中央に片足で立ち、大きく羽を拡げ、眼はするどく天を睨(にら)んだ。そして、静止して、終わるのである。

 その朱鷺の最後の姿は、「天上天下唯我独尊」と叫んでいるようでもあり、常に天に向かって挑む姿であり、また、観る者へ「常に魂を自由にせよ」と呼びかけるようであった。

 その後、ギリヤーク尼崎は現在74歳になっても、世界の路上の舞台で踊り続けている。彼に死はなく、魂の輝きしかない。そして、そこに、大地があり、その真上にどこまでも拡がる青空があった。そして、夜になると、それは星のまたたきのように、やさしく人々の心を癒している。


 参考URL: ペヨトル工房 原薗綾カッパ便り OCSニュース


 2004.7.16

 

北方民族博物館・ギリヤークのかぶりもの
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