今の世も昔もまた超人にあこがれ、変身する |
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![]() スーパーマン |
ガンダム![]() |
![]() セーラームーン |
![]() 聖者 |
![]() 予言者 |
![]() 仏陀 |
だが、フランツ・カフカだけは違っていた |
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彼はカブト虫に変身したのだ ![]() |
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しかも、誰にも好かれるカブト虫ではなく、 毛嫌いされるような、灰色ではなく薄茶けた、光沢のない、 とてもあの黒褐色に輝く個性あるカブト虫とは思われないような、 薄汚く、甲羅も薄く、今にも破れそうな ほこりまみれの、存在感のないカブト虫に変身したのである その命も1年も、もたないような虫に |
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なお、この物語は下記ののURLを開き、 そこから流れる音楽を聞きながら、お読みください。 出典の写真もここからです。 フランツ・カフカ フォト メモリアム |
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変身 フランツ・カフカは1883年7月3日ハンガリーの首都プラハで生まれる。(なお、ここからは事実ではなく、想像小説として、書くことにする) |
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ユダヤ系商人ヘルマン・カフカとその妻ユーリエの間の長子として生まれる。 そして、13年後に妹となるオットラが生まれる。 | |
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1. |
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フランツ・カフカが突然得体の知れないカブト虫のような虫に変身したのは、40歳になったときである。 彼は、明日の出張のために、朝の6時に目覚まし時計をセットしていた。夢の中でも、なんとか売り上げをあげようと、画策していた。夜明け前の、どしゃぶりの雨音に起こされた。時計を見るとまだ5時である。もう一眠りできるかと思いきや、何か変である。いかにも布団がずり落ちそうだが、それよりも布団の先に自分の足でにような二本の足、両横に手が二本ずつ出ていた。これも自分の手ではないが、何で手が4本もあるのだと思いつつ、いやこれは夢だ。現実ではない、昨夜はかなり暑くて寝付かれなかったせいだ。 それにしても・・・もしや自分の足かもしれないから、右足をまっすぐ伸ばしてみた。なんと動くではないか、まるで昆虫の足だ。まさか、この左手もか? 腕を曲げ伸ばししてみた。やはり動くではないか。でも変だな、左手がどっちの左手だと言わんばかりに迷っているぞ。フランツは、今度は目で意識しながら、交互に二つの左手を動かした。可能だった。 よもや、これは現実か! とフランツは飛び起きようとした。でも、体が思うように動かない、一体どうしたことだ。鏡はどこだ? あの壁だが、とてもそこまで動けない。これでは自分の姿が確認できないではないか。でも、自分の眼で見える範囲では、どうみても、ひっくり返ったカブトムシだった。 えい、早く、夢から覚めないと、今日の出張に間に合わないぞ。でも、あと1時間あるから、それまでに、この馬鹿げた夢は消えていくだろうと思い、彼は今までの半生を振り返っていた。 |
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2 |
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今から5年前のことだった。父ヘルマンは長いこと繁昌していた雑貨店が倒産させてしまった。厳格なドイツ人気質をもった男だったが、性格が短気で、すぐに喧嘩してしまうため、何事もねばり強く事にあたるタイプではなかったのだ。その性格が災いして、事業を潰してしまった。 母は典型的なナイーブなハンガリー人であった。だが、喘息持ちで、何かと病気しやすい体質であった。妹のオットラは器量が良く、何かと気が付くかわいい女性に成長していた。今はもう16歳になって、バイオリンの奏者になりたくて音楽学校に通っていた。 フランツ・カフカは、それまで労働者災害保険局に勤めていたが、父の事業が倒産してから、家計を支えるべく、転勤して、繊維問屋の営業マンになった。その会社はドイツの商社との取引があり、給料も固定給プラス歩合制だった。そのため、売り上げがあがれば、あがるほど、給料はいくらでも上がっていったのである。 彼は、自分で驚くほどの商才を発揮した。おもしろいように、営業成績を伸ばしていった。他の営業マンから比べて、10倍にもなっていたからである。そのため、繊維問屋の社長よりも、多く給料を得ていたのである。 そして、フランツは家族のために、大きな屋敷を借りてあげた。家族の家計のすべてを支えていくようになっていた。そして、彼は何よりも、歳の離れた妹がバイオリン奏者としての成功を楽しみにしていたのである。 時計は6時になろうとしていた。眠ってはいなかったが、追想から目を覚ましても、あいかわらず、自分がカブトムシだった。まずい、このままでは、夢の中で、仕事をしてしまう。目を早く覚まさねばと、体を起こそうとした。なんとも妙な格好だ。六つの足がバタバタしている。そして、布団がひっかかったのか、ベットからずり落ちた。そして、自分の腹が見えた。まさに、昆虫の腹だった。やはり正夢なのか! とにかく、起きあがろう。 彼はうまいアイデアを思いついた。そうだ、体を左右に揺らせばいいのだ。そして、ベットの下に、うまく転げ落ちれば、這って歩けるようになるではないか。 子供のころ、鉄棒で反動蹴あがりというのがあったことを思い出した。左右の反動をうまく使えば、ばっちり起きられるはずだ。 バターン! 大きな物音が屋敷中に響き渡った。そして、けたたましく目覚まし時計が鳴り出した。フランツは転がる途中、ベットの脇にひっかかって、横向きにはなり、止まりはしたものの、なんとか這って歩ける格好になった。そして、うるさい目覚まし時計の音を消そうとしたが、どうにもうまく頭のスイッチボタンが押せない。どの手を使えばいいのか迷ってバタバタしていたからだ。そこで、彼は口の顎で押すことで、何とか音を制したのであった。 |
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3 |
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だが、何とも妙な格好だ。両開きのドアを明けて、朝食を食べに行きたくても、それがかなわない。第一、本当に、自分が虫になったのかどうかもあやしいものだ。早く目を覚まさねば・・・、目をつぶっては、あきを繰り返しても、やはり、自分は虫のままであった。 こんな抵抗をしたところで、どうにもなるものかと、あきらめ、また眠ればなんとかなるかもしれないと、努めてみるが、それもできなかった。時間はどんどん過ぎていく。 「フランツ、起きたのかい」 「フランツ、今日出張ではないのかい、遅れてしまうぞ」 「はい、ただいま起きます」 と、始めて、フランツは声を出した。でも、その声が変だ、語尾の方が妙に低音になり、聞き取りにくい声に変わってしまっていた。 「兄さん、何かあったの、気分は大丈夫」 「ああ、大丈夫だよ、今そっちに行くからさ」 居間にいる家族たちは、どんどん過ぎていく時間を気にしていた。フランツはドアの前で、うずくまったままで、今の自分をなんとか把握しようとやっきになっていた。 妹のオットラが、妙な胸騒ぎをして、フランツの部屋のドアを開けた。そのとたん、目の前に、大きな鉄サビのような色をしたカブト虫と出会ったしまった。 あまりに驚いたので、声が出なかった。その場に硬直してしまった。 「どうしたんだい」 娘の様子がおかしいので、母のユーリエがそこにやってきた。そして、その場面を見てしまい、頭の中が真っ白になり、その場で気絶して倒れてしまった。そして、また父のヘルマンがやってきた。男だけのことはある。妻と娘をかぼうようにして、フランツのドアを足で蹴って閉めた。 「おい、おまえはだれだ? フランツはどうした?」 ここで、フランツは始めて、自分が本当に虫になってしまったことを確認した。家族全員が、自分が虫であることを確認できたからである。 「はい、おとうさん、私フランツですよ。どうやら私は大きな虫になってしまったようです」 その声を最後に、フランツは聞き取れるような人間の声を出せなくなってしまった。父には、その声がどこまで理解できたのかは不明であった。 我にかえった妹のオットラは気絶した母のほっぺをたたくようにして、意識をかえさせた。三人はお互いに抱きかかえるようにして、ソファーに崩れ落ちた。 静寂が大きな屋敷を支配していた。コーヒーポットの湯が沸き、蓋がパタパタと鳴っていたが、誰も、それに気にとめる人はいなかった。 家族三人も、今ここで何か起きているのかを把握する時間が必要であった。時間がまたたく間に過ぎていく。7時を回って、ドアのチャイムが鳴る。オットラが玄関のドアを開けると、フランツが勤める会社の部長だった。 「やあ、お早うごさいます。 今日は大事な出張があるのに、フランツ君がまだ出社していないもので、心配して、こうして来てしまいました。フランツ君はいますか?」 「はい・・・・・」 そして、オットラがフランツの部屋のドアの方に指さした。 「そうですか、おられますか、入ってもよろしいですか」 「はい・・・・・・」 「お早うごさいます」と、年老いた両親に声をかけながら、フランツの部屋の方にいった。そして、ドアを開けた。 「フランツ君、どうしたんだい?」 部長は、目の前の大きなカブト虫に出会った。何やら、カブト虫の方も、頭を揺らしながら、話しているようであった。 彼は、自分の身を守るかのように、後ずさりしていった。振り返って、家族三人の目を見て、まぎれもなく、この大きな虫がフランツであることを了承していた。 フランツは部長に会ったので、何とか、この事情を説明しようとしていた。そして、逃げ出そうとする部長を逃してはなるまいと、腕をつかまえようと、近寄っていった。それにびっくりした部長は、もういちもくさんに、玄関の方へ走っていった。 「部長さん、お願いです、このことは内緒にしてください」 と、父のヘルマンが懇願した。 「わかってます、わかってます、言っても誰も信じませんから」 「本当にお願いしますよ。これからの家族の将来がかかっているのですからね」 「はい、誓って口外いたしません。約束します」 と、玄関を飛び出て、緩い階段を下りていった。三人はその光景を部長が見えなくなるまで見送っていた。それはカフカの家族と社会とのつながりが今か今かと消え去るかのように。 |
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4 |
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虫になってしまったフランツは、疲れ切ったためか、ものすごくお腹が空いた。いつの間にか、雨も止み、黄昏時になった。そして、ドアが開き、妹のオットラが食事を運んできた。古新聞を床に敷き、その上に、いくつもの種類の皿に、さぞ、考えたかのように、いろいろな種類の食物が並べられた。 フランツはベッドに下から這いだしてきた。というのは、ベッドの下が一番彼にとって、居心地がよかったからである。しかも、自分の醜い姿を家族に見せられなくするためにも、よかったからである。布団と一緒にあった薄い毛布で、身を隠すこともできた。それが、家族への思いやりでもあった。 オットラは何かを怖がるように、ドアを少し開け、そして、兄が見えないことを確認して、足音をたてないように、食事の支度をしたのである。兄がベッドの下に隠れているのは、その気配でわかった。そして、食事の支度が終わるとすぐに部屋を閉め、出て行った。 虫になったフランツはその臭いと腹が空いたため、よろこびいさんで、あれやこれやと食物を食いあさった。でも、妙なことに気が付いた。ミルクとパンがないと、満腹しないいつもなのに、そのミルクとパンがどうにもうまく感じなかった。一番うまく感じたのは、果物のりんごだった。そして、サラダだったが、ドレッシングオイルが入っているのは、うまくなかった。ただの野菜がうまかった。好きな肉や魚が、どうにもおいしくなく、それを噛むと、そのまずさで、吐き出した。 妹のオットラは、毎日三食を用意していたが、食べたものと、食べ残したものとの比較によって、兄が好きな好物を判断できた。そして、1ヶ月もすると、兄が、新鮮な果物や野菜ではなく、腐りかけた果物と野菜を好んで食べることがわかった。そして、その量も、一日一食で充分であった。 虫のフランツもまた、腐った果物と野菜の臭いとその甘味がなんともいえないくらい好きになっていた。まるで、発酵して作った酒のように、酔いしれ、りんごを顎にのせ、眠ってしまうことも度々あったのである。 彼は、この部屋の空間が自分の世界のすべてであった。妹のオットラが入ってくる時間は決まっていたので、その以外の時間は彼のすべての時間であった。そして、彼は、自分がどのような力を持っているのか、試してみたくなっていた。 「ひょっとして、俺は飛べるのではないか? もし、俺がカブト虫だったら、必ず飛べるではないか」 そして、気付いたことに、手は2本で、足が6本だってことだった。本当の手は背中にある羽の二枚・・いや二本だった。意識を羽の手に集中する。そして、羽が動き出した。俺は飛べるかもしれない、そう思うといてもたってもいられなくなるくらいうれしかった。 「俺は飛べる、飛べるぞ、人間だったら、こうはできまい、あっはは」 彼は虫になってから始めて笑った。勝ち誇った自由を得たみたいだった。そして、本当に飛び立った。 「やったあ、飛べたあ」 天上につるしてあるシャンデリアみたいな電灯のまわりをぐるぐる回った。そして、飛びながら、もう一つ自分の可能性に気付いた。 「俺の足を見ろ、鈎型だ、これだと、壁にも、天上にも、落ちないで留まれるのではないか・・・やったあ、できたぞ、すごいな、こんな芸当人間にはできまい、あーはっは」 実に気分爽快だった。でも、なにぶん飛び回るには、部屋が狭すぎた。体が人間並に大きかったからだ。 そして、妹が入ってくる夕方の時刻になったので、急いで、ベッドの下に毛布とともに隠れた。 妹のオットラは、壁が異様に汚れていることに気付いた。それは虫になった兄から出た白っぽい粘液が、あちらこちらに乾いて残っていたからだ。そして、糞や尿が部屋いっぱいに散乱していたからだ。 そして、兄の一番のお気に入りが、窓際であることを突き止めた。フランツは、窓から外に飛び出し、もっと自由に地上を飛んでみたり、樹木のたくさんある山の方に行きたかった。それができないにしても、この屋敷の庭だけでも飛び回り、甘い樹木の密を吸ってみたかったのである。 だが、窓は頑丈に鍵がかけられてしまっていた。そんな家族の思いをフランツは充分に理解していた。世間にこんなでっかい虫がいることを知られたら、どんな騒ぎになり、自分の運命が見せ物になってしまうことを知っていたからだ。 天性、気の利くオットラは、そんな兄の気持ちを察して、花瓶を置くような木の台を窓際に配した。そこで、外の風景を充分に楽しめるようにしたのである。 そんな妹のやさしさを返すかのように、兄フランツは、何とか妹がすばらしいバイオリニストになれるように世話することをまだ夢見ていた。 |
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フランツの部屋に入るのは、もっぱら妹だけであった。しかも、夕刻の数分だけであった。腐った果物と野菜と水を新聞紙に置き、あとはほうきで、散らかった糞と食べ残したカスを履き集め、ちりとりに入れて、もっていくだけであった。 居間に集まって、三人は、打ちのめされたような暗い顔を合わせていた。 「せめて、フランツと話ができたらなあ。何とか、これからどうしていいものかわかりそうなもんだが」 と、父のヘルマンが嘆いた。 息子のフランツの働きがなくなったために、みななんとか家計をきりつめるだけでなく、仕事をそれぞれ探し当てていた。 父は銀行の用務員件警備員、母は、家で縫い物の仕立て、娘は、近くのパン屋の小間使いの仕事を得ていた。そして、何とか生計をたてていたが、この広い屋敷の家賃と大きさには手が余った。掃除が追い付かなくて、老婆を一日一時間ばかり雇っていた。 そして、空いている部屋を三人の下宿人に貸すことにしたのである。それはフランツが虫になった夏の始めから半年も過ぎた晩秋の頃であった。 でも、うだるような真夏の時期に大きな事件が、カフカの4人家族の中で起きた。 いつも妹のオットラが兄の世話をしていたが、けして、母も父もその部屋に入ろうとはしなかった。何かものすごい恐怖のようなものが、近寄るだけで、襲われたからである。 昼は母だけで、妹も父も仕事に行っていた。そんなときである。 母があまりにもフランツの部屋から異臭が漂うことに我慢がならなかった。そして、部屋をなんとか掃除をしようとしたが、それが怖くてできないため、バケツに水をため、思いっきりドアを開けたかと思いきや、ベッドの下にいたフランツめがけて、その水を投げつけた。 それにびっくりした虫フランツは、毛布からはいずりだして、母の方に向かっていったのだった。 「キャアー」 その声に、フランツはびっくりして、母をなだめようとしたが、それが裏目に出てしまった。部屋を出て居間の方まで、這いだしてしまったのである。それを怖がった母は、奇声をあげながら、逃げ回ったのである。 そして、夫婦の寝室に逃げ、しっかりと鍵をしめた。そして、喘息がひどくなり、その場に倒れ込んでしまった。 せきこむ母に対して何もできない息子フランツは後悔した。自分がすっかり虫であることを理解せずに、まだ人間であり、また息子であると思い込んでいたからである。 彼は、どうして身体が虫なのに、人間の心がまだ残っているのか不思議でならなかった。家族が何を話しているのかも、しっかりと理解できたのに、どうして、家族は虫である私のことを理解できないのであろうか。 彼は自分が虫であることを理解するためには、家族の自分に対する態度から納得そして、判断せざるをえなかったのである。 まず家に帰ってきたのは、妹のオットラであった。家の異変に真っ先に気付いたオットラは、居間にいるフランツを尻目に、母を捜した。寝室のドアをたたく音で、母は意識をとりもどした。そして、ドアの鍵を開けた。 「大丈夫なの、おかあさん」 「息子がね・・・あたしを襲おうとしたのよ」 「どうして、そうなったのよ」 「だって、あまりに部屋が臭かったから、つい水をかけてしまったんだよ」 事の内容を得たオットラは、 「どうして、そんなことをするのよ、兄の部屋はみんな私がやるっていったじゃないの」 「だってえ」 そこに、父が玄関から入ってきた。 「どうした?」 彼は泣き叫ぶ母の声と、怒鳴る娘の声と、居間にうづくまっている虫の姿を見て、 「とうとう、この日が来てしまったか、こいつめ」 と、居間にいるフランツめがけて、手にするものをなんでも投げつけた。フランツの好物であるリンゴが、山積みして、テーブルの上のかごにあった。それを思い切り、フランツに投げつけたのである。 「早く、部屋へもどれ、この馬鹿虫」 虫であるフランツは後戻りはできなかった。大きく首を動かし、回れ右をしなくてなならなかった。その動きも、父にとっては、裏目にでて、刃向かってくる化け物のように見えたのである。 (カブト虫は角がある方が雄で、ない方が雌である。フランツは雄だったので、角があった。そのために、他を威嚇するのは充分な姿だったのである) 家族をいたわり、ただ、フランツは静かに部屋にもどろうとしただけだったのだが。 父の、執拗な、りんご攻撃が続き、彼の大事な羽にそれが強く二つぶつかってしまい、とうとう穴があいてしまった。そして、足の方も、りんごが当たり、二本ばかり折れてしまったのである。それでも、彼は何とか部屋にもどろうとした。これほど長い道のりはついぞ感じたことはなかった。 そして、入るやいなや、父は、足でドアと息子を一緒にけっ飛ばした。 バターン! そして、しっかりと鍵をかけてしまった。 それは、父も母も、自分の息子に対する態度ではなかった。世話をする妹だけが、兄を人間としていくらか持ち得ていたのである。父母は、ただ恐怖だけがあった。それは、自分への得体も知れない恐怖かもしれなかった。 三人はただただ泣きはらしていた。なんでこんなことになってしまったんだと、この世をうらむようにして、泣いて、その夜を過ごした。 |
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フランツはもはや、それからというもの、動き回ることが不自由になってしまった。もちろん、一番の楽しみの飛ぶことさえもできなくなった。ただびっこをひいた老人のように、のろのろと這うしかできなくなってしまった。 彼は、そのことで、父をうらむことはなかった。怨みを感じない自分が不思議でさえあったのだ。もし、自分が人間であり、父と息子の愛が結ばれていたならば、当然怨み、憎むだろうと想像した。それに、もし人間の心があったならば、自分が障害者になったことで、悲嘆にくれるだろう。でも、虫になったフランツは、不自由な境遇がまことにいごこちがいいようにさえ、感じることができた。 何よりも、フランツにとって、うれしかったことは、それからというもの、家族の者が動けないフランツを警戒しなくなり、ドアを閉め忘れて、開けっ放しにすることがあったからだ。そして、家族が何をしているか、何を話しているかがよくわかったからである。障害を持って始めて、家族の仲間入りさせてもらった安堵感に浸ることができたのである。 夏の終わりになる頃には、フランツの目は人間のように見えなくなってしまった。昆虫の眼と同じように、複眼・・・編み目のような点で見えるようになった。ゴッッホは線で写体を表現したが、モネは点で写体を点で表現した。線で表現すると、描き手の感情が表に浮き出、点で表現すると、対象の自然の心が浮き出てくる。フランツはモネのような点で物事を観るようになったのである。 だが、秋が深まるにつれ、その眼もかすんできた。それに、食欲がわかなくなってしまった。何日も、食べない日が続いたのである。無理してでも食べようとすると、みなもどしてしまった。彼にとっては食べないことの方が快適だったのである。それと同時に、身体の殻の厚さも薄くなり、見るからに生気が失せてきた。パット見た感じは、大きな虫のくせに、どこにいるかも見分けつかないほどだった。 不思議なことに、その場にいる色や柄や質感に合わさってしまうカメレオンのようになっていった。 そんなフランツの姿に呼応するかのように、家族もまた、特に、妹のオットラさえも、虫のフランツが兄であることも忘れていったのである。人は急激な変化においては、今の現実を把握できずに、過去の思い出だけで捕らえようとする。だが、時間がたつと、現実の姿を受け入れ、思い出の姿は消えていくのである。いわば、人の心はいつも思い出なのかもしれない。 妹のオットラは昼働き、夜は学ぶ生活だった。そのため、フランツの部屋の掃除はほとんどしなくなっていた。部屋はほこりまみれになり、しかも、下宿人が来てからは、広い部屋はかっこうな物置場に変わってしまった。 フランツが羽を広げ、飛ぶことを覚え、壁や天上を這えるようになったとき、妹のオットラは、兄をもっと自由に動けるようにと、部屋にあった家具のほとんどを外に出したことがある。残したのは、兄が好きなベットと窓際に木台だけであった。 その家具を運ぶときには、か細い女手が二人、母と妹だけでやったのだが、そのときは、母はおっかなびっくりで手伝ったことがある。家族を気遣ったフランツはその間中、ベッドの下で、毛布にくるまって、家族から見えないようにしてじーっとしていたのだが、重い家具を運ぶ途中、母の足がフランツの毛布をひっかけて、その姿をさらしたことがあった。 そして、母はフランツの姿を見てしまい、気絶したことがあったからだ。 だが、時間は過去を消し去り、現実をそのまま次々と受け入れていく。それは人の心もまた消え去っていくことなのである。 数ヶ月もたつと、家族にとって、息子フランツではなく、虫フランツとして、そのまま受け入れるうようになっていった。 |
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フランツの部屋の掃除は今では雇った老婆の役目になった。妹はただ食事を運ぶだけの役目をしていた。 この老婆は、その大きな虫が、雇い主の息子であることを知るよしもない。ただの大きな虫としてしかの感覚でしかなかった。もちろん、家族の誰も、その虫がもと人間だったということを話す必要も感じなかったのである。 三人の下宿人は晩秋にやってきたが、その屋敷で、大きな虫を飼っていることなど知るよしもない。この三人の下宿人は、みなひげ面で、似たようなハットをかぶり、ステッキを持って歩いていた。口調も、みな紳士きどりなのである。 そして、運命の日は訪れたのである。 月の明かりがきれいな晩であった。娘オットラは自分の部屋で久しぶりにバイオリンを奏でた。その音色は虫フランツに、人間の心をとりもどさせていた。彼は、妹のバイオリンを聴くことが何よりも好きだった。そのため、バイオリンに合うような楽器、ピアノでも習おうかとも真剣に考えたこともあったくらいである。 家族の誰もが、フランツが虫に変身してからというもの、オットラのバイオリンのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。そして、昔のよき日を思い出させるには充分であった。 息子フランツがたくさん稼ぎ、家族は大きな屋敷で、たくさんの贅沢ができていた。そんな幸せの日々を思い出していた。フランツは妹のバイオリニストの夢を何とかかなえたいという気持ちさえも帰ってきた。 その音色は、下宿人の三人の心も動かした。そして、父のヘルマンに言った。 「娘さんに、ぜひ私たちの部屋に来て、演奏していただきたい」 父は、まるで自分のことのように、 「そうですか、そうさせていただきます」 娘のオットラも快く引き受けてくれた。母も久しぶりの室内演奏会でも行けるかのような気分でうれしかった。 みな、心が開放的になるときには、ドアを閉め忘れるのだろうか。フランツの部屋のドアも、下宿人のドアも、みな開いたままだった。そこで、演奏会は始まった。 二人の下宿人は長椅子にゆったりと腰掛け、一人は立って、演奏する楽譜を眺めている。オットラは開いたドアを背にして演奏していた。 ドアの脇には父親が壁に寄りかかりながら聞き惚れていた。母は、楽譜の奥の壁際にある、簡易椅子に姿勢を正して耳をそばだてていた。 フランツはオットラの音色に引きつられるように、部屋を出て、薄暗い居間に入った。そして、向こうの明かりがある下宿人の部屋から、オットラのバイオリンの音がきこえてきた。彼は、もはや自分が虫であることも、人間であることもみな忘れていた。ただ、バイオリンの音の世界の生き物だった。 虫や蛾は夜明るい電灯に引き込まれる。そのために、人の手によって殺される場合も多いというのに、そういった学習能力は哺乳類だけなのかもしれない。でも、虫は好きなことをするためには、自分の死を恐れないためなのか、そういった学習能力は必要ないのかもしれない。 人間だって、神や仏を求め、その甘美な、至福の世界へと没入すると、肉体の死に関しては、何の執着ももたなくなる。そんな姿をインドの洞窟なんかで死後何百年たってから発見されることもある。 現代の若者だって、ものすごいスピードで入り回るレースでの競り合いで、命を落とすこともいとわないであろう。そのスリルと興奮はまさに、甘美な至福な世界と同じであろう。 フランツはその甘美の世界に入っていった。居間から、下宿人の部屋へと、そして、なんとか、妹オットラがバイオリンをひくときの眼を見たくてならなかった。 遠くから見える下宿人たちが居眠りしているかのように感じた。そして、その失礼な態度に腹が立った。世界で、妹オットラの才能を理解できるのは、自分独りだけだといわんばかりに、のっそりと部屋に入った。 びっくりしたのは、真向かいからドアの方をよく見えた下宿人である。眼を大きくあけ、指をフランツの方に向けた。 その下宿人の態度に気付いた父ヘルマンは、大きく腕を拡げ、虫フランツを見えないようにしたのである。そして、お尻で、虫フランツをドアの外に押し戻そうとした。 めんくらったのはフランツであった。その眼はドアの近くにあった下宿人の三本のステッキだった。僕は殺される!と恐怖を感じた。虫になって始めて感じた恐怖だった。それはまた、自分が虫であることを自覚させられた瞬間でもあったのだ。角のある頭を大きく自分の部屋の方に向けた。そして、ゆっくりと、方向転換して、帰っていった。 父はおかげで、ドアをきちんと閉めて、何事もなかったかのように、振る舞った。娘のオットラもまた、何が起きたかわかっても、けして演奏をやめなかった。母の顔は自分のひざにうまるほどだった。 バイオリンの音色は事務的なリズムを刻んでいた。だが、下宿人にとって、バイオリンよりも、大きな虫の存在の方がはるかに興味津々だったのである。 「カフカ殿、きちんと説明していただきませんか」と、一人の下宿人が言うと、 「さよう、そのようにお願いしたい」 その声で、オットラはバイオリンをひくことをやめた。そして、涙をうかべながら、自分の部屋に急ぎもどっていった。その音に気付いた母は、娘を追うようにして出て行き、娘と抱き合った。 「きちんと、説明していただけない以上、この賃貸契約はなかったものにしていただきたい。今までの部屋賃も支払う義務はないものと存じますが」 三人に下宿人はいちように説明を求めたが、父オットラは何も答えずに、心配になった娘の部屋に行った。 「もう嫌だわ、こんな生活。あんな虫をもう兄さんなんて思いたくないわ。どうして、あんな虫を名前で呼ぶのよ」 父と母はただ黙って、娘を抱いてなぐさめていた。 「あんな虫なんか、死んでしまえばいいのよ。あれは兄さんじゃあないのよ、やさしい兄さんはもうとっくに死んでしまったのよ。もう嫌、嫌よ。あんな虫と一緒に暮らすのだったら、私は死んだ方がましよ」 そんな妹の声を幸いながら、フランツには聞こえなかった。眼も耳も意識もみなもうろうとしてきていた。ただ、自分の部屋の、あのベッドの下にもどることしかなかった。 父親はフランツが部屋に入った気配を感じて、すぐにそのドアを確認するかのように閉めた。 庭の外はまるで昼間のような月明かりがさしていた。大きな満月が庭の木立すれすれに昇っていた。こおろぎとカエルの鳴き声がさわざわしていた。 父も母も娘もその夜は寝付けなかった。ただ、その夜が終わりをつげる時を待っていたのである。 フランツは長いことの絶食で体力もなかった。そして、残された最後の体力をこの夜に使い果たしてしまった。身も心も枯れていくように死出の旅へと去っていった。 |
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翌朝、今年一番の雪が降った。朝一番にお手伝いの老婆が、傘の雪を落としながら、やってきた。 そして、屋敷を掃除しだした。フランツの部屋に入るときは、いつも、ちょっとドアを開けて、身の安全を確保してから、掃除を始めた。だが、いつものフランツでないことに気付いた。毛布がかかっていないからである。むき出しのままで、ベッドの下にうずくまっていたからだ。 老婆は、おっかなびっくりだが、あまりにも虫が動きがないので、箒(ほうき)で、少しつっついてみた。何にも動く気配がない。もっと強く押してみたが、やはり動かなかった。そこで、始めて、その大虫が死んだことがわかった。 それを知って、歓び、一目散に、旦那さまに知らせようとした。 家族は食堂で朝食を一緒にとっていた。そこに老婆の報告を聞いた。 「皆様、あの虫、くたばっちゃいましたよ」 老婆だけがその歓びに輝いていた。だが、家族の誰も無表情であった。返事もせず、その場で、そのまま食事を続けていた。フランツの部屋に行って、その死を確認しようともしなかった。 老婆は、そんな家族の姿をみて、すごすごと、自分の掃除の仕事にもどっていった。 しばらくすると、下宿人の三人が、食堂に朝飯を食べにやってきた。でも、そこには、彼らの食事は用意されてなかった。 父ヘルマンは彼らに言った。 「今から出ていってくれないかね」 と、あごで、玄関の方をしめした。 「何をおっしゃいます。きちんと契約・・・・」 と言おうとしたが、昨夜の件を思い出し、何も言えなかった。三人は、やむを得ず出て行く準備を始めた。 家族は、みな今日は欠勤届を書こうということにした。父は銀行に、母は仕立屋に、娘はパン屋のそれぞれの主人に欠勤の旨を手紙に書くことにしたのである。 そのうちに、三人の下宿人は、まるで三人おそろいの大きなカバンを抱えて、何か言いたげそうだが、言えないで、雪が舞う外へ出て行った。 それから、家族のもとに、あの老婆が仕事が終わったので、帰ろうとして挨拶をしにきた。 「仕事が終わりましたので、帰らせていただきます」 「そうかい、ご苦労様」 でも、すぐに老婆は帰りそうにない。何か話したげである。 「なんだい」 「あのう、あれ、あれですがね、もうすっかりかたづけてしまいましたよ。大変でしたけどね、何も心配なさらなくてもよござんすよ」 家族三人はぐっと自分の胸を押さえた。 「だから、なんだい」 老婆は特別報酬でも、いや、家族みんなに感謝の一言でも、欲しかったのだろう。 様子が変な家族に、老婆はあたふたと出て行った。 「あの、ばあさん、今日限りで、やめてもらおう」 と、父ノーマンは叫んだ。 欠勤届を買い終えた家族は、一緒にそれを職場に届けに家を出た。傘をさし、先を娘のオットラが歩いた。 「この屋敷は大きすぎるわね。もっと小さいところに引っ越ししましょうよ」 と母は提案した。 「そうだな、もう息子に頼ることはなくなった。みんな自分で稼げるようになったからな」 「そうしましょう」 とオットラも振り返って、承諾した。 残された家族三人にとって、引っ越すことは、新しい人生の出発でもあった。そして、はっきりと、自分たちの幸せな未来を想像することができたのであった。 顔に当たる雪つぶが、夢見るほてった頬でやさしく溶けていった。 両親は先を歩く、娘オットラのしなやかな歩きと、かもしだす色気を感じた。 「そろそろ、お婿さんでも探してあげるかな」 と、ノーマンは妻ユーリエの耳元にそっとささやいた。 娘オットラはそんな声は聞こえなかったかのように、軽やかに、ときたま舞う雪とふざけるかのように歩いていった。 その後 フランツ・カフカが亡くなった1924年から、15年後の1939年に、ナチス党のヒットラーがポーランドを侵攻して、世界大戦が始まった。彼はその戦いで、全ユダヤ人の三分の一のおよそ600万人を虫けらのように大虐殺し、最後は連合軍に追われ自殺を遂げた。 |
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2004.6.27 |
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