次元移動の旅




0次元の世界

点の世界

無の世界


 
直線
一次元の世界

線の世界

絶対の世界


曲線

四方平面
二次元の世界

面の世界

上下のない平等の世界

円形平面

立体
三次元の世界

立体空間の世界

相対の世界

円錐立体

立体時間移動
四次元の世界

時間の世界

千変万化の世界

円錐時間移動

さて、五次元の世界とは?

六次元の世界とは?

無次元の世界とは?


何だろうか???

その前に、そんな世界は在るのだろうか?

次元の旅はここから始まった

♪♪♪♪♪♪♪♪


 アトムは熱帯夜で眠りについた。しかし、夜が深まり、肌寒くなったので、いつもの自分の掛け布団を身体にかけようとした。だが、ない、夢の中で考えた。一体、僕の掛け布団はどこに行ったのだろうか?
 ごろごろと寝返りをうったり、手足をバタバタしたが見つからない。
 ええい、眠いので、我慢してこのまま寝てしまえ。
 鶏が日の出を告げる。かなり寒い、畜生! 僕の掛け布団はどこに行ったんだ。そこで、目が覚める。そして、あたりを見渡すと、それがあった。何と、アトムは掛け布団を下にして、その上で寝ていたのだった。

 なあんだ、見つかるはずはなかったんだ! 僕ってバカだなあ!

 自分で自分を笑い飛ばした。


哲学堂


 朝起きてから、アトムは哲学堂に行った。そして、一番高い山にある『時空堂』がある芝生に寝っ転がり、空を眺めた。空はどこまでも高く、どこまでも広がり、空間を、そして、流れる雲が時間を観じさせていた。

 この世は時間空間を元にした四次元の世界である。

 ならば、この世を感じる心は何次元であろうか?

 心は時間空間を超越して飛翔することができる。過去現在未来を自由に想像できるし、一瞬で、世界のどこでも思いを廻らすことができる。宇宙のはてだって、その宇宙の始めから終わりまで、自由に空想できるのである。だから、4次元を超えた5次元の世界と言えるのではなかろうか?

 アトムが、心の世界が5次元だと気付いて、楽しくなってきた。心は自分がどんなものにも変身できることの知った。自分が好きなものに何だってなれるのが心なんだ。これほどの自由はあるまい。そして、人目を気にせずに、愉快に踊り出した。

 でも、この心だって、本当に自由なのかな? 誰かに褒められて、喜んだり、誰かにけなされて、悲しんだりするじゃあないか! けして自由じゃあないよ。いくら想像が自由にできたって、その想像通りに、現実がならなければ、自由っていえるだろうか? 一体心を左右する力は何なのだろう?

 アトムはとぼとぼと、山を下っていった。そして、唯心庭に着いた。


唯心庭

 心はこの池の水のように潤す、この石のように支える、あの橋のように人と人を結ぶ、そして、この気のようにすべてを包む。

 だが、池も、水も、石も、橋も、人も、気も・・・、みな言葉で表されて始めて、機能するではないか。だから、言葉が心を決めているといえるのではないか?

 言葉によって、人の心など、どうにでも変えることができる。人を元気づけたり、憎ませたり、笑わせたり、怒らせたり・・・自由自在に心を動かせるではないか。つまり、言葉は心の5次元の上の世界である6次元ってわけだ。そうだ、そうだ、言葉は六次元なんだ。また、愉快になったアトムは、散策を楽しむ人々に、「こんにちは、いい天気ですね」と声をかえる。「そうねえ、それに、そんなに暑くなくて、風が気持ちいいですね」と答えが返ってくる。

 言葉だ! 言葉と言葉のやりとりだ。それが六次元なんだ。この言葉でどんなものだって創造できる。宇宙だって、神様だって、人間だって、お化けだって、どんな生き物だって、どんな世界だって、創造できるんだ。これはすごいことだよ。心だけだったら、自分の世界だけの想像する自由しかないけれど、言葉を持つことによって、他人とその心を共有できるんだ。すごいことだよ、これは!心はあいまいで、形を持たないが、言葉はきちんと形を持つことができて、それを伝えることができるんだ。それによって、人々は・・いや、今生きている人達だけでなく、昔の人たちも、未来の人たちも、その心を共有できるんだ。
 それはみな言葉があるからだ。言葉は心の世界を越えるんだ。そうか!そうか!

 アトムは歌を歌い出した。言葉と音を組み合わせればもっと心が伝わるなあ。楽しい歌を歌えば、楽しくなるし、悲しい歌を歌えば悲しくなるのは言葉があるからだ。言葉は音と意味で成り立っているからだ。だから、言葉の構成要素を拡げた音と意味で伝えれば、心などどうにでもなるものなんだ。

 でも待てよ、言葉でどうにもならない人がいるし、言葉でどうにもならない現実がある。言葉で、人は戦争し、殺し合うことだってする。そうなった場合、どんな言葉をかけても、どうにもならない場合がある。言葉で、死んだ者を生き返らすことはできないし、言葉で山だって動かすことなんかできやしない。

 大体、言葉は相対的なものが多い。そのために、ああいえば、こういうように、イエスといえば、ノウという。物事の是非はみな言葉が決めているではないか。言葉があるために悩みが多くなる。ああじゃないか、こうじゃあないかって苦しむのだ。言葉はいくらでも嘘をいうことができる。そのために、うっかり信じた人が地獄を見るってことだってあるのだ。嘘言った人の意志に反してでも、そうなる。言葉はそれ自体で、暴走して、妄想や幻想を生み出すことだってあるのだ。そうなったら、心も言葉もどうにもままならぬようになるではないか。
 そうなったら、一体人はどうするんだろう。言葉を制する力があるはずだ。それは何だろうか?

 アトムはとぼとぼと歩き出した。そして、唯物園に着いた。


唯物園

 言葉を制するものは何だ? あの、東屋を見ろ、東屋は言葉だ。誰が見てもそれは東屋だが、俺がもし手前の岩を東屋だって言ったら、誰も信用しないで、笑うだろうし、気が触れたかと思うだろう。

 つまりだ、言葉は現実の物と一致していなければ・・・つまり真実でなければ信用されないってことだ。第一、言葉がどのように成立したかを見ろよ、言葉を表す文字だって、元はこの現実の物体を指して、それを表現しただけではないか。物体がなければ言葉は成立できないではないか。

 それにだ、どんなにたくさんの人が嘘を言っても、そこに証拠となる物を見せれば、誰も文句が言えなくなるではないか。だから、言葉を制するものは物体なんだ。物体が動きを伴うと、事実の姿になる。

 よく言うではないか、「100の言葉よりも、1つの行い」だ。行いは事実であるからだ、

 アトムはここで、物体と生き物の事実の世界を言葉を制する力として、7次元の世界であると思った。心が5次元で、言葉が6次元で、事実が7次元だと思ったが、何か引っかかる。おかしい。物体や事実というのは、時間空間の4次元を指しているはずではないのか?

 だから、7次元と4次元が同じ次元のものとなってしまうじゃあないか??何か変だ???

 ひょっとして、僕は次元を超えようとして、次元が下がっているのではないだろうか?

 それはつまり、4次元から3次元2次元1次元0次元と、考えれば考えるほど。超えよう超えようとすればするほど、逆行しているのではなかろうか!

 つまり、前に自分が進むと、他が後ろに下がるようなものだ。言葉の相対的な作用に翻弄されていたに過ぎないのだ。自分が次元を超えたと思ったら、他人にとっては次元が下がるように思えるだけである。

 だから、地球が円いように、また回っているように、言葉による思考も堂々巡りをするってことだ。

 アトムは絶対城の門の下に立った。


絶対城

 門の向こうで、お坊さんが、般若心経を唱えていた。

 アトムはその般若心経の内容を思い出していた。あれは、この世に物質や現象をまず無いと否定し、次に、そこから来る感覚や心も無いと否定し、さらに、感覚や心を規制する知識も無いと否定して、無の世界がどんな苦しみもない安住の世界だと言っている。

 それはまさに、4次元から、3次元、2次元、1次元に進む段階ではないのか?

 まずだ、この世の時空間である4次元を否定すると、3次元になる。3次元は時間が無いから、すべて空間として把握される。それは過去現在未来が現在の一瞬に集約される。時間がないから、生死がないのは当然であろう。時間がいわば止まったままで、空間だけが把握できる。だから、変化はありえない世界である。永遠に存在する世界だけがあるのだ。

 ところが、3次元から4次元に移る場合は、空間が無くなり、時間だけが存在している。するとどうだ。諸行無常の世界が生まれることになる。変化だけの世界で、どんなものも、不確定の世界が生まれる。止まることはありえない世界である。今、私が生まれたと思ったら、すぐ死んでしまい、また、生まれ、また死んでしまうという繰り返しが行われている。空間が無いのだから、私とあなたと彼、彼女の区別がないからである。それは単なる点滅する信号のように写るのである。


 アトムはゆっくりと宇宙館への階段を登っていった。いくつもの次元階段を登るかのように。


宇宙館

 この方式で、前後左右上下の立体である3次元から上下のない前後左右だけの平面の2次元を見ていく。すると、上下がないから、みな平等の姿を映し出される。上なる神と下なる人の差はなくなる。社長と社員の上下関係も無くなる。親子の上下もない。貴賤もありえない世界、差別もない平等の世界がある。これが2次元である。しかも、2次元には、時間もないので、生死の悩みもないし、高低が無いから、修行して仏になる必要もない、みな仏の世界、、常住安定している天国か、極楽浄土の世界が2次元になる。

 そこにあるのは、私とあなた、彼、彼女という個性があるだけである。その差や区別はは確実にあるが、平面である2次元から線である1次元になると、私、あなた、彼、彼女、あれ、それ、の区別が無くなり、在るのはただ私だけの世界である。これが、神と我の一体の世界である。いわば、時間も空間もないが、自分の意識だけが存在している世界である。すべての現象や心象がみな自分だけの世界になる。そのため、その世界は相手が無い世界なので、絶対世界といえる。それを神だけが存在していると言ってもいいし、自分だけが存在しているといってもいい。また、一つに意識だけが存在していると言ってもいい線の世界である。その線が直線でも、曲線でも関係ない世界である。面がなければ、直線と曲線のの区別が無い世界だからである。


 そして、最後は線である1次元から0次元である点である0次元に入ると、すべてが無の世界が生まれる。神の無い、自分も無い、時間も空間もない、一点に集中した世界があるだけである。その場合、有無の区別もない。始まりも終わりもない世界である。これが般若心経の無の世界であり、絶対安住の世界である。これを彼岸である真実であるという。つまり、どんな線も、面も、立体も、時間も、点から生じるからである。点なくして、何者も生じない。すべてのもとは、この点であり、そこから、有無も、天地も、神も人も、すべてが生じたと言っていい。


 アトムの心は透き通っていた。ただ静かさだけがあった。そして、六賢臺(ろくけんだい)の前に立った。
 そこはあたかも六つの次元が一つに合わさった0次元の無の世界を象徴しているように見えた。


六賢臺(ろくけんだい)

 アトムは空にまっすぐ向かっている屋根を眺めた。そして、ため息をついた。
 「なあんだ、人の意識はこの世の4次元の世界をただ点で、移動しながら、眺めていただけなんだ。あの世があるわけでもない、神がこの世を創造したものでもない、悟りのいう世界があるわけでもない。ただこの世のすべてが点で、あたかも天に浮かぶ星のように輝いて、構成されているだけなんだ。

 その一つ一つの点が、透き通るように輝いていた。なんと、この世は美しいことか、これは幻じゃない、真実の一つ一つの輝きなんだ。

 そこに自分が立っていた。そして、昨夜の夢の騒動を思い出していた。温かい私を安かに包む布団は、この足元の地にあったのだ。私も時間の流れとともにいつかこの土の一粒になるだろう。でも、そこからまたどんな生物も生まれ、また私も生まれるのだ。

 あの大きな太陽でさえ、宇宙の星くずの一つではないか。この地球だって、一皮むけば、太陽のように燃えているではないか。やはり、私はそんな星くずなんだ。そして、それを鏡のように写す心もまた点でできている。

 すーと風が通り過ぎっていった。


 点から天かあ! 点から転ともなるか! 

 世の中、なんてうまくできていることか!

 ああ、腹減ったなあ

 どこからか、チ〜ンと鐘の音がした。
 あの坊さんが鳴らしたのだろうか?


 さて、帰るとするかあ!


    2004.7.30

菖蒲池
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