日御子(卑弥呼)を追いかけて

混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)は1402年に李氏朝鮮で作られた地図で、その時の日本は室町幕府の時代であり、その首都は京都であった。その地図から見ると奈良にも京都にも見える。そのため邪馬台国が奈良にあったとするのは間違いだった。

九州説の動画が最も分かりやすく、それを元に追いかけてみた。

実際に朝倉市の平塚川添い遺跡公園に行ってみたが、その弥生式集落の規模が少なく、もっと大きい吉野ケ里遺跡でも、小さく、それ以上にもっと大きな連合村落であったように思えた。

 

魏志倭人伝の世界というwebでは

卑弥呼が天照大御神であったとすると、神話や伝説がスッキリとまとまってくる。

卑弥呼の遺骨はたぶん八女市の古墳に納められたのだろう

その後継者が阿蘇山の南の高千穂の天岩戸に卑弥呼を天照大御神として神化し、その岩に魂が宿るかのように、神話化し、そこに神社を建造して、祀り、そこに遷都して、天孫降臨の伝説が作られたと思われる。

弥生時代の埋葬は甕棺(かめかん)であり、その甕棺を自然の岩として埋葬したとしてもおかしくない。

高千穂の前の都はたぶん山の要塞があるような太宰府天満宮であり、高千穂に遷都したのは南を征服するためと、自然の要塞として山に都を作ったのであろう。

八女市を邪馬台国があったとすると、そこは高千穂から新宮から東征へと神武天皇のルートに重なる。

天皇は死後神として古墳に祀られてきた。弥生の甕棺から古墳になったのは朝鮮の古墳を取り入れたものであろう。百済の王が日本に亡命して亡くなった時にはやはり神として古墳が作られ、神門神社も作られた。

邪馬台国がどこにあったかは重要ではなく、その時の最高の権力者が神として祀られてきたということが重要である。日本全体を治めた卑弥呼や天皇はその遺骨は古墳に、その霊魂は神社や神宮に、庶民の神棚に祀られ、日本人の心を一つに治め、平和な国として安定させようとしたと思われる。

日本を治めるためには、最初は武力であったが、その武力をさらに治めるのは心である。武力を心で治めるためには、洗脳が必要であり、その一役をになったのが神格化であり、それは武士道にも発展している。勝負事のスポーツが平和の祭典ともいわれるのは「平和の心」を最高の神のような精神にしたためであろう。

二つ目に重要だったことは、日本全体を治めるためには、男王ではなく、女王でなくてはならなかったことである。日本の神を奉る最高神が女の天照大御神であったことは、弥生以前は縄文時代が15000年も続いたことに関係がある。

弥生、古墳、現代歴史を合わせても2000年であり、その弥生文化はみな中国朝鮮から伝わり、現代文化はインドヨーロッパから伝わり、発展したものである。

15000年も続いた縄文文明は日本独自のもので、そこに日本全体を統一しようとする武力闘争もなかったし、最も強い権力者を神とする精神もなかった。

縄文の日本人が最も大切にした精神は縄文土器や土偶にみられ、その中心は妊婦姿である。南アルプスのふるさと伝承館には妊婦の土偶が中心におかれ、その妊婦は鈴のように一部穴が開けられ、鳴るようにできている。

その館長さんに話を聞いたら、縄文のキーワードは「再生」であると言う。「再生」は「出産」であり、破壊や闘争ではなく、「平和」と「創造」でもある。

それが女性であり、しかも妊婦であり、新たに生まれる赤子の鳴き声(鈴)である。

そうした15000年も続いた女性と妊婦を最も大事にした、日本独自の縄文文明があったからこそ、日本の武力闘争を治めたのは女王の卑弥呼=日御子であったし、男王ではできなかったといえるだろう。

今世界は3000年くらい戦争の歴史を繰り返している。神様同志が戦争するようになってしまった感がある。そうした武力闘争を治めて平和な世界を築くのは縄文の妊婦を最も崇める心をもって、平和な世界を再生する心は日本独自の縄文の心にあるように思える。

 

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