般遊 改め 自遊 を吾がモットーとす

自然に遊ぶ

著名な博山さんに般遊の書を書いてもらったが、

その言葉も書も博山氏のものであり、自分の言葉でも書でもない

自信を持って生きることが、若者への命のバトンであるから、

下手な尺八でも、下手くそな書でも、自分の好きなことが出来ることで満足することが、一番の自信であり、楽しみであるという意味を込めて、書いた。

般とは一般のように全ての意があるが、全ては一部に対しての言葉で、ハッキリとした姿を捉えづらいので、人に対しての自然の方がスッキリと掴みやすい。

遊ぶというのは、ああしてはいけない こうしてはダメというものはなく、何してもいいという自由と楽しさがあるものだ。

 

自由という言葉は、自分の思い通りになる様なニュアンスがあるので、自遊という言葉にすれば、自分と自然が一体となった境地における真の自由という意味合いが強くなる。

自然に自由に遊んで楽しく生きる

人は自然に合わせないと自由になれない。

肥満のように食べ過ぎたり、飢えのように食べなさすぎたり、するのが、不自然であり、人為的、欲望的であるのだ。

体温のように、丁度いい温度を保とうとするのが健康的、自然的であり、自由は自然をベースとしなくては成立出来ない。自由だからといって、誰を殺していい、自殺していい、というのは。真の自由ではなく、人為的に造られた偽の自由である。

人は殺し合わなくても、自然の生死は人が何も為さずとも繰り返し、存続する。人の生死も、自然に合わせるのが一番安らかで、楽しい生き方死に方ではないだろうか。

窓から見る富士山を実がならないイチジクの木が邪魔なので切り倒し、朝焼けの風景を楽しめるようにした。

日の出とともに起きると、今日一日が自遊に生きられるような勇気が湧いてくる。

 

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