時空を超えて今僕はここに居る・その7

自経理灯明 法目的灯明

 

ようやく いつもの自分一人の生活が始まった。

携帯電話も一日一本もないが それが今日3月26日の午後9時に起きた一時停止違反の件で

警察の担当者とは別の交通課から電話があった。

「どうしてサインしなかったのですか?」

「安全性を考えて、口頭による注意勧告が妥当であると判断し、サインして文書に残す必要がないと判断した」

「なるほど(納得したようす)」

そして、不思議な質問がきた。

「一時停止しましたか?」

「それが記憶にない。左右確認して車が来ないことを確認したことは確かだが・・

警察官が二人とも一時亭しなかったというので、たぶんそうなのだろうが・・

そんなこと、パトカーのビデオカメラの撮影チェックすればわかることじゃあないの?」

「はい、それは確認しました」

で、終わったのだが、何が確認できたのか? ひょっとして、自分が一時停止したかもしれない・・ビデオ判定ではかなり微妙な判断をせめられたのかもしれない。だから、それを確かめに私に聞いたのかも???

妙な疑問が残ったが、

「わかりました。(納得了解しました)」と電話は終わった。

「女性土俵下りて」不適切だった 突然で動揺

命優先せず、しきたりの「女人禁制」を優先した不祥事があったが、

この警察官も「道路交通法違反のしきたり」を「市民の交通安全」よりも優先したためにおきた不祥事でもある。

そのシキタリや法律や教義そして慣習道徳は

「なんのために成立したか?」

これは この世を 生き抜くためには どうしても その目的を考えて 今の状況を的確に判断する必要があるということである。

「そういう法律があるから」では問題解決にはならなく、より問題を複雑化させてしまう。

「その法律はなんのためにあるのか」から問題解決がケイスバイケイスで即断できるのである。

 

自灯明・法灯明 <涅槃経>

自らを灯とし 法を灯とせよ

釈迦が入滅する最後の教えであるが、ここでいう法灯明とは釈迦の説く法律・しきたり・教義である。

だが、こう訂正する方が安全に生きられる

「法の目的とするところを灯とせよ」

自らを灯というのも こう訂正する必要がある

「自らの経験と理性を灯とし」である。偉い人がああいったとか、いうのではなく、自分できちんと物事を考えて、判断していくことだ。

まとめると

 

「自らの経験と理性を灯とし、

法の目的とする灯と照らし合わせて

 判断し 安全に確かに生きよ」

 

 

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