何を信じて生きればいいのか

12月20日の12:50ー14:20 グローバル生産環境論は・・

昨年の同じ12月に 大橋教授の「何を信じたらいいのか?」

という授業の続きで、私が、「遺伝子組み換え」の話をし、

それは予定になかった授業であり、その場の学生と教授の空気を読んで急遽変更したものだ。

 

昨年も今年も、生物資源産業学部2年生対象 受講生20名であり、昨年の受講生は3年になり、今年の受講生は2年なので、まったく別な学生である。

昨年の授業の教室は異様だった。

広い教室に、一番後ろの二列に全受講生が固まり、前の十数列はがら空きで、

まるで授業を拒否しているようであり、質問して、気付いたのはほとんどの学生が授業内容を聞いていないことだ。

何か、大橋教授の遺伝子組み換えが危険である思想への防御姿勢を感じた。

特に、女学生の抵抗が大きく、私が用意した古代麦のおにぎりを食べずに教室を出て行った。

唯一食べたのは男子学生の一人だけであった。

 

10月例会の知足庵に、生物資源産業学部 男子学生が5人来ていたが、女子学生は1人も来ていなかった。徳大の同じコースは男女半々在籍なのに妙だった。

その学生が、私の古代麦の話に興味をもって質問が多くでた。中には古代麦を食べたかったという者もいたのにはびっくりした。

その流れがあったせいか、大橋教授は今年も授業に呼んでくれた。

大橋教授が来年退職するので、私の徳大最後の授業であろう。

それ故に、学生への命のバトンの機会も最後となるので、さらに集約した俳句のような90分にしたくなっている。

この一年の流れからすると、

「何を信じて学び生きていけばいいのか?」

それを古代麦を通じて、学生に観じさせるような命のバトンであろう。

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古代麦の話を深めていくと、

一つ一つの穀物、野菜がみな特別な個性を持つため、どんな穀物も野菜も、同じような農法で育てることができなく、ちょうど植物辞典を作成するような、一つ一つの穀物、野菜、樹木またそれぞれの品種についても、その特性を吟味して行く必要があると思われてきた。

これは

「何を信じて学び生きていけばいいのか?」

の答えが・・・・

「自分自身を信じて学び生きていけばいい」

ことにつながってくる。

いわば、自分の個性を信じることは、古代麦の特性を信じて栽培するということである。

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この自分自身を信じて行動することについて、気になる言葉があった。

「法灯明、自灯明」である。

それは仏陀が、法灯明として、仏法を頼りとせよと言ったが、それが私には思い込み、先入観であるので、その法灯明を廃し、自灯明だけでいいと思っていた。

だが、

仏陀の教えの神髄を書いた般若心経には、「仏の悟りもまた当てにならない」とあるから、

 

ソクラテスの無知の地、老子の不知の知と 同じ境地であると思える。

つまり、

法灯明は 不悟の悟 と解釈できるから、不悟灯明と自灯明を頼りに信じ、学び、生き続けなさいという方が確かな導きに思える。

明日はどうなるか解らないからこそ、

今日を信じ、学び、生きることができる。

といえるだろう。

仏陀の教えは今から2500年前であり、古代麦の品種は今から8500年前である。

一体、いろいろな教え、いろいろな品種で、2500年から8500年も生きながらえるものはそうはない。

文化文明でも、縄文時代は15000年続き、弥生から現代までは2100年続いていることを考えれば、

ここ200年の科学技術文化の思想や経済変化で、右往左往するのは人類大人げないであろう。

2006年にアイスランド沖で発見された「ホンビノスガイ」食味が良く、欧米ではアサリやハマグリ同様、よく食用にされる。最近では東京湾にも定着してしまったようだ

 

 

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