真実は一つだが真理は一つではない

真実はいつも一つ!

「真理はただひとつと考えるのか複数あると考えるのか?」ダライ・ラマ十四世法王

ダライラマは「真理は複数であり、また一つでもある」という自己矛盾に陥っている。

真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない」『スッタニパータ』『ブッダのことば』(岩波文庫)194頁

ブッダは「真理が一つであれば、他はみんな真理ではなくなるので、どれが真理か争うしか道がなくなる」ので、その悟りは空論にすぎない。

こうした矛盾や空論は言葉の定義を明確にすると理解しやすい。

上記で語られる5つの言葉が

真実=真理=神=仏=宗教 だとして、

それぞれの言葉の定義がされず、みな同じだとして説明するので自己矛盾と空論に陥ってしまうのである。

これを山登りに譬えてみると

真実は山登りする人々の全体を示すが、真実以外の真理・宗教・神・仏・生き方などは、それぞれの山頂(目的)を目指して上る山道であり、その山道は尾根ルート、沢ルートなどたくさんある。独りで山登りするだけなら問題は起きないが、二人以上で同じ山道を登ろうとするとイザコザが起きる。

どの山道を選ぶかだけでなく、どの山を登るかで、問題が起きるのである。また、登るスピードや、登り方でももめることになる。

今回の旅のテーマは

「みんな違って みんな良い」

という楽しみをどう実現していくか? そのバトル実験を試みている。

この山登りをみて、

それが個々人がみなバラバラに自由に自分の山道を選び、マイペースで登っていけば問題がまったく起こらないが、もし、二人で同じ山や山道を選択しようとしたり、同じペースで登ろうとしたら、問題が起きてしまうことが解る。

そうした場合の解決策は

地球上の72億人の一人一人の自由なな生き方を認めるように、72億人の真理と神と仏があることを認めることである。真理はけして一つではなく、また宗教も神も仏もけして一つではない、それは独り一人の生き方であって、それを誰しも強制することも、強制されることもない。

それを認め合うことで、時に、同じ山道であり、時に同じ山であり、そうした一人一人の生き方の違いを、自分にはできない生き方を知ることで、大いに楽しむことで、調和していくのであろう。

 

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