命の交換 |
世界人権宣言と日本国憲法 |
1948年12月10日,第3回国際連合総会において,「世界人権宣言」が採択された。 |
世 界 人 権 宣 言
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日本国憲法発布 1947年5月3日、日本帝国憲法が改められ、日本国憲法が発布された。 |
日 本 国 憲 法
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すべての人間の自由と平等 |
世界人権宣言における 「すべて人間は、生まれながらにして自由であり、尊厳と権利とにおいて平等である」 日本国憲法における 「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」 に保証されている、すべての人間の自由と平等は与えられているのだろうか? これは理想であって、現実は逆ではなかろうか? あのもし世界が100人の村だったらのような姿が現実ではないでしょうか? 生まれたときから、貧乏と金持ちの差も、心身の強弱の差もあるのが現実ではないでしょうか。 そして、生まれた後、育っていく環境も能力も差があるというのも現実でしょう。 でも、どうして、国連でも、日本でも、法において、すべての人間の自由と平等を確保しようとしているのでしょうか? そうでないと、人類は平和的共存を得ることができなくなってしまうからでしょう。その自由と平等の目的に向かって進むことで、なんとか今の現実の平和と繁栄を維持していっているといっているでしょう。 でも、その目的を達成するためには、まだまだ有効な手段が見つからないのが現状です。国連や日本国の権威や権力においても、すべての人間の自由と平等を確保できないでいるのです。 それはいったいなぜでしょうか? それは単純に、人々は最初から、能力の差があり、かつ、それぞれの能力の差をさらに努力して、つけようとして行動しているからではないでしょうか? 現通貨の制度をみれば、生まれながらにして、能力のある者、運がある者は莫大な財産を得られ、その逆の者は基本的人権なんか与えられないくらいになってしまうというものだからではないでしょうか。 |
能力の差 |
今の学校では成績の順番をつけます。会社でも給与の差をつけます。スポーツも金銀銅メダルをもって、その能力の順位をつけます。 これ自体の行為は厳密にいったら、人権無視であり、国民の皆平等の権利を迫害しているといえるはずです。でも、それは誰も疑わないで、 ガンバレ 努力しなさい よい成績を りっぱな人間になって 社会に役にたつような人間になって その道のトップを目指しなさい ・・・・・・ こうした激励も、社会の方針もみな人権無視、憲法違反です。すべての人間の自由と平等を保証し、それを目指して活動しているのが国連と日本国だからです。 そして、 もっとも傷ついた「この世のもっとも小さき者たち」には「そのままでいいよ」「ありのままで」「ナンバーワンでなくてもいい、オンリーワンだから」といってなぐさめられます。 その一方、ナンバーワンになった勝利者を世間は「おしみない讃美と褒美を与えます」 一体、この矛盾する人間の心理はどうなっているのでしょうか? この矛盾する心理を持つのが人間なんだと認めることがまず必要でしょう。 そして、この最も人間の能力の優劣の差を決めているのが、現通貨制度です。その現通貨に対して、矛盾する人間の能力の差を認めない制度が、ありがとう通貨制度なのです。 国連や国の法や権力だけでは、すべての人間の自由と平等にはとても追い付きません。このありがとう通貨制度が自然に流れる感情として、その理想に早く到達することができると思われます。 人は矛盾する心を持ち、 能力の差を楽しみ かつ 能力の差を打ち消す喜びを 持つのです 飢えに苦しむアフリカの子供の1時間の仕事も、日本の医者の1時間の労賃も、アメリカの大富豪の1時間の給与も、同じありがとう通貨1時間なのです。その能力の差はありません。 命には能力の差はありません。命は生きているか、死んでいるかの二者しかありません。そこに肉体的差も、社会的差も、まったく別次元の問題だからです。 |
「してほしい」ことと「できること」 |
すべての人間の自由と平等を基本にしたシステムを造る場合、そこに能力の上下の差を規準にした需要と供給の流れの姿に注意して観察する必要がでてきます。 例えば、健常者であるAさんが、身体障害者であるBさんを看護したとします。 すると、当然、身体障害者であるBさんは「・・してほしい人」であり、健常者であるAさんは「・・・できる人」になります。 そのために、身体障害者であるBさんは、ありがとう通貨や現通貨を健常者であるAさんに差し上げることになります。 この流れは 健常者であるAさんは能力が上であり、身体障害者であるBさんは能力が下であるから、能力ある者からない者へと、通貨が流れたことになります。 そうなると、それは自然に能力の差は広がってきます。これではありがとう通貨の意味はありません。 現通貨制度では、生まれながらにして病気・障害者である人は一生誰かの世話を受けて生きなくてはなりません。誰かを世話をして、また仕事をして、お金を得る力はありません。そのために、社会保障制度ができています。 でも、世話ばかりして生きていく病気・障害者である人たちは一生涯、身の狭い思いがするでしょう。 でも、このありがとう通貨システムは能力の差を個性の差として扱います。そのために、この「・・・してほしい」こと「・・・できること」が逆転することが自然になります。 先の健常者であるAさんが、身体障害者であるBさんを看護する例ですが、 健常者であるAさんは身体障害者であるBさんを看護したいと望みます、そして、身体障害者であるBさんは「看護させることができる」という立場になります。 これはボランティアや親子の間ではよくある需要と供給の関係です。そのため、健常者であるAさんは身体障害者であるBさんに、ありがとう通貨と現通貨を与えるのです。 こうした人間の自由と平等はインドでは古来から意識の逆転として、応用されていました。インドでは乞食がたくさんいますが、お金をもらっても感謝はしません。それは相手に善の功徳をさせる機会を与えたから、お金を差し出した方こそ感謝すべきだという意識があるからです。 それは国が身体障害者の生活を保障するのは当然のことなので、感謝なんかはいらないというのと同じことです。 これは能力の差がそれぞれの個性の差となり、さらに、そのとき、その人、その場で、需要と供給が逆になることの現実があるのです。 そのため、 健常者であるAさんが、身体障害者であるBさんを看護するからといって、必ず、そのありがとう通貨も現通貨も、BさんからAさんに渡されるということはありません。もし、能力の差をあまり意識しなければ、AさんからBさんに、渡される通貨の場合はたくさんでてくるようになってくるでしょう。 |
意思とその合意の重要性 |
では、能力の差ではなく、それが命の交換という人と人のコミュニケーションであったならば、そのありがとう通貨は、どちらから、どちらに渡されることになるでしょうか? そのありがとう通貨のいくつかの流れが出てきます。
この4種類のコミュニケーションが考えられます。その4つを分けるのは、お互いの意思とその合意なのです。 この意思とその合意こそ、ありがとう通貨ではもっとも重要な取引になってきます。 いわば、命の交換はそれぞれの意思とその合意がその本質になっているともいえるでしょう。 |
命の交換の意味するもの |
現通貨では、Bの相互にありがとう通貨を交換しあうことなど、ありえません。でもありがとう通貨では、もっとも使われる行為になる可能性があります。 それは名刺交換のようなものです。人と人が始めて出会ったときの、メモリアルになるからです。それが、生きている証にもなりえる行為にもなります。 ちょうど一期一会という心を形に表したのが、「ありがとう通貨の交換」といえるでしょう。 Bの通貨を交換しあうことは現通貨でも可能です。でも、まったく同じ貨幣であったらほとんど意味がありません。だからしません。もし、ありがとう通貨もまた同じ貨幣であったらやはり意味がありません。 でも、このありがとう通貨は命の交換という意味があるため、その貨幣に自分の名前でサインすることができるとします。そうすることで、自我と自我の交流の表現ができます。 現通貨では偽札が出回りますが、このありがとう通貨も偽札が出回ることがあるでしょう。でも、ありがとう通貨は、必ずサインして使うため、どの一枚も同じ貨幣ではありません。そのため、偽札はできにくいのです。 私たちの命の象徴は何でしょうか? それは古今東西、永久の歴史の中にあって、たった数十年の自己をもった命をもった貴重な存在です。これほどの軌跡の存在はこの世では他に存在しません。それほど貴重な自己の存在を示すのは、その名前であり、本人のサインです。 この本人のサインは日本では実印としても使われ、それがニセモノでないという証明に使われます。そのくらい大事な自分のサインが、自分で使ったありがとう通貨に記入されます。 そして、ありがとう通貨にサインされた自分の名は、そこで、1時間自分の命の時間が使われたという軌跡をしめしてくれるのです。 また、それが、たくさんの名前のサインが増えれば増えるほど、そのありがとう通貨の価値は高まるでしょう。それは、たくさんの自己の命の交換がされたという歴史が刻まれるからです。 そして、そのたくさんの名前が刻まれた貨幣を使うときに、私たちは、自分が一人で生きているのではないということ、互いに助け合って生きているということを感じ合えると思うのです。 このように、ありがとう通貨はどの一枚も、同じものはない 自我をもった、いわば、法人があるように、感謝人という自我をもった一枚一枚だということがいえるでしょう。 こうして、自我と自我がマンツウマンで、ありがとう通貨をとおして、人間の心の交流を促進させることができるようになります。それは、一方で、現通貨が人間社会のモノの交流を促進させていることに対して、調和させて働くようなものです。 物質文明が頂点にたってきた現代世界で、遅れているのは心の交流です。その心の交流をもっともっと促進するために、早くありがとう通貨を世界の舞台で使えるようにしたいものです。 きっと、知らず知らずに、大きな力となって、すべての人間の自由と平等へと近づいていくでしょう。 |