命の交換
 世界人権宣言と日本国憲法

1948年12月10日,第3回国際連合総会において,「世界人権宣言」が採択された。

世 界 人 権 宣 言

第 1条
すべて人間は、生まれながらにして自由であり、尊厳と権利とにおいて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、同胞の精神をもって互いに行動し合わなければならない。
第 2条
人はすべて、人種、皮膚の色、性別、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地又は他の身分というようないかなる種類の差別もなしに、この宣言に掲げられているすべての権利と自由とを享有する権利を有する。
第 3条
人はすべて、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。
第 5条
何人も、拷問又は残虐、非人道的若しくは屈辱的な待遇や刑罰を受けることはない。
第 7条
すべて人は、法の前において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべて人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別のいかなる教唆扇動に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。
第 9条
何人も、専断的な逮捕、拘禁又は追放を受けることはない。
第12条
何人も、その私生活、家族、家庭、通信に対する専断的な干渉を受けたり、その名誉と信用とに対する攻撃を受けたりすることはない。人はすべて、このような干渉や攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。
第16条
男女は婚姻するに当たっても、婚姻の継続中にあっても、また婚姻の解消に際しても、平等の権利を有する。婚姻は、夫婦となろうとする者の自由で且つ完全な同意のみによって成立する。

第18条
人はすべて、思想、良心及び宗教の自由について権利を有する。
第19条
人はすべて、意見及び発表の自由について権利を有する。この権利は、自己の意見について干渉を受けない自由及びあらゆる手段により且つ国境を越えて情報及び思想を探求したり伝達する自由を含む。
第21条
国民の意思は、政治権力の基礎でなければならない。国民の意思は、定期の且つ真正な選挙によって表明されることを必要とする。そしてこの選挙は、平等な普通選挙により且つ秘密投票又はこれと同様の自由な投票手続きによって行なわれなければならない。
第22条
人はすべて、社会の一員として、社会保障を受ける権利を有する。
第23条
人はすべて、自己の利益を保護するために労働組合を組織し、またこれに加入する権利を有する。
第25条
人はすべて、自己及び家族の健康と福祉とのために、衣食住、医療及び必要な社会厚生施設を含むところの充分な生活水準を保持する権利を有し、さらに失業、疾病、不具、配偶者の喪失、高齢、又は不可抗力による生活不能の場合に保障を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同一の社会的保護を受ける。
第26条
人はすべて、教育を受ける権利を有する。教育は、人格の完全な発達を人格及び基本的自由の尊重の強化とを目標としなければならない。

                                               

 
日本国憲法発布
 
 1947年5月3日、日本帝国憲法が改められ、日本国憲法が発布された。
日 本 国 憲 法

前文
 日本国民は、政府の行為によって再び戦争が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民にあるあることを宣言し、この憲法を確定する。国民主権、そして民主主義は、人類普遍の原理であり、この憲法は、この原理に基づくものである。

 われわれは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我々の安全と生存を維持しようと決意した。


 われわれは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。

  日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

憲法 9条 (戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認)

  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

憲法11条(基本的人権の享有、その永久不可侵性)

 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。
憲法13条(個人の尊重)

 すべて国民は、個人として尊重される。

第14条(法の下の平等)

 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。


第19条(思想及び良心の自由)

 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第20条(信教の自由、国の宗教活動の禁止)

  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


第21条(結社、表現の自由、通信の秘密)

 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

第23条 (学問の自由)

 学問の自由は、これを保障する。

第25条 (国民の生存権、国の社会保障的義務)

 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

第26条(教育を受ける権利、教育を受けさせる義務)

 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。


第28条(勤労者の団結権、団体交渉権、団体行動権)

 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。

第31条(法廷手続の保障)

 何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命もしくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない。

第32条(裁判を受ける権利)

 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない。

第33条(逮捕に関する保障)

 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、かつ理由となっている犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。

第97(基本的人権の本質)

 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第98条(憲法の最高法規性)

 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

第99条(憲法尊重擁護の義務)

 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。


 すべての人間の自由と平等

 世界人権宣言における

 「すべて人間は、生まれながらにして自由であり、尊厳と権利とにおいて平等である」

 日本国憲法における

 「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない
 
 に保証されている、すべての人間の自由と平等は与えられているのだろうか?

 これは理想であって、現実は逆ではなかろうか? あのもし世界が100人の村だったらのような姿が現実ではないでしょうか? 生まれたときから、貧乏と金持ちの差も、心身の強弱の差もあるのが現実ではないでしょうか。

 そして、生まれた後、育っていく環境も能力も差があるというのも現実でしょう。

 でも、どうして、国連でも、日本でも、法において、すべての人間の自由と平等を確保しようとしているのでしょうか? 

 そうでないと、人類は平和的共存を得ることができなくなってしまうからでしょう。その自由と平等の目的に向かって進むことで、なんとか今の現実の平和と繁栄を維持していっているといっているでしょう。

 でも、その目的を達成するためには、まだまだ有効な手段が見つからないのが現状です。国連や日本国の権威や権力においても、すべての人間の自由と平等を確保できないでいるのです。

 それはいったいなぜでしょうか?

 それは単純に、人々は最初から、能力の差があり、かつ、それぞれの能力の差をさらに努力して、つけようとして行動しているからではないでしょうか? 

 現通貨の制度をみれば、生まれながらにして、能力のある者、運がある者は莫大な財産を得られ、その逆の者は基本的人権なんか与えられないくらいになってしまうというものだからではないでしょうか。

 
 能力の差

 今の学校では成績の順番をつけます。会社でも給与の差をつけます。スポーツも金銀銅メダルをもって、その能力の順位をつけます。

 これ自体の行為は厳密にいったら、人権無視であり、国民の皆平等の権利を迫害しているといえるはずです。でも、それは誰も疑わないで、

 ガンバレ
 努力しなさい
 よい成績を
 りっぱな人間になって
 社会に役にたつような人間になって
 その道のトップを目指しなさい
 ・・・・・・

 こうした激励も、社会の方針もみな人権無視、憲法違反です。すべての人間の自由と平等を保証し、それを目指して活動しているのが国連と日本国だからです。

 そして、

 もっとも傷ついた「この世のもっとも小さき者たち」には「そのままでいいよ」「ありのままで」「ナンバーワンでなくてもいい、オンリーワンだから」といってなぐさめられます。

 その一方、ナンバーワンになった勝利者を世間は「おしみない讃美と褒美を与えます」

 一体、この矛盾する人間の心理はどうなっているのでしょうか?

 この矛盾する心理を持つのが人間なんだと認めることがまず必要でしょう。

 そして、この最も人間の能力の優劣の差を決めているのが、現通貨制度です。その現通貨に対して、矛盾する人間の能力の差を認めない制度が、ありがとう通貨制度なのです。

 国連や国の法や権力だけでは、すべての人間の自由と平等にはとても追い付きません。このありがとう通貨制度が自然に流れる感情として、その理想に早く到達することができると思われます。

 人は矛盾する心を持ち、

 能力の差を楽しみ
 かつ
 能力の差を打ち消す喜びを
 持つのです



 飢えに苦しむアフリカの子供の1時間の仕事も、日本の医者の1時間の労賃も、アメリカの大富豪の1時間の給与も、同じありがとう通貨1時間なのです。その能力の差はありません。

 命には能力の差はありません。命は生きているか、死んでいるかの二者しかありません。そこに肉体的差も、社会的差も、まったく別次元の問題だからです。


 
 「してほしい」ことと「できること」

 すべての人間の自由と平等を基本にしたシステムを造る場合、そこに能力の上下の差を規準にした需要と供給の流れの姿に注意して観察する必要がでてきます。


 例えば、健常者であるAさんが、身体障害者であるBさんを看護したとします。

 すると、当然、身体障害者であるBさんは「・・してほしい人」であり、健常者であるAさんは「・・・できる人」になります。

 そのために、身体障害者であるBさんは、ありがとう通貨や現通貨を健常者であるAさんに差し上げることになります。

 この流れは

 健常者であるAさんは能力が上であり、身体障害者であるBさんは能力が下であるから、能力ある者からない者へと、通貨が流れたことになります。

 そうなると、それは自然に能力の差は広がってきます。これではありがとう通貨の意味はありません。

 現通貨制度では、生まれながらにして病気・障害者である人は一生誰かの世話を受けて生きなくてはなりません。誰かを世話をして、また仕事をして、お金を得る力はありません。そのために、社会保障制度ができています。
 でも、世話ばかりして生きていく病気・障害者である人たちは一生涯、身の狭い思いがするでしょう。

 でも、このありがとう通貨システムは能力の差を個性の差として扱います。そのために、この「・・・してほしい」こと「・・・できること」が逆転することが自然になります。

 先の健常者であるAさんが、身体障害者であるBさんを看護する例ですが、

 健常者であるAさんは身体障害者であるBさんを看護したいと望みます、そして、身体障害者であるBさんは「看護させることができる」という立場になります。

 これはボランティアや親子の間ではよくある需要と供給の関係です。そのため、健常者であるAさんは身体障害者であるBさんに、ありがとう通貨と現通貨を与えるのです。

 こうした人間の自由と平等はインドでは古来から意識の逆転として、応用されていました。インドでは乞食がたくさんいますが、お金をもらっても感謝はしません。それは相手に善の功徳をさせる機会を与えたから、お金を差し出した方こそ感謝すべきだという意識があるからです。

 それは国が身体障害者の生活を保障するのは当然のことなので、感謝なんかはいらないというのと同じことです。

 これは能力の差がそれぞれの個性の差となり、さらに、そのとき、その人、その場で、需要と供給が逆になることの現実があるのです。

 そのため、

 健常者であるAさんが、身体障害者であるBさんを看護するからといって、必ず、そのありがとう通貨も現通貨も、BさんからAさんに渡されるということはありません。もし、能力の差をあまり意識しなければ、AさんからBさんに、渡される通貨の場合はたくさんでてくるようになってくるでしょう。


 意思とその合意の重要性

 では、能力の差ではなく、それが命の交換という人と人のコミュニケーションであったならば、そのありがとう通貨は、どちらから、どちらに渡されることになるでしょうか?

 そのありがとう通貨のいくつかの流れが出てきます。

  1. AさんからBさんへ
  2. BさんからAさんへ
  3. 相互にありがとう通貨を交換しあう
  4. 相互に何も出さない

 この4種類のコミュニケーションが考えられます。その4つを分けるのは、お互いの意思とその合意なのです。

 この意思とその合意こそ、ありがとう通貨ではもっとも重要な取引になってきます。


 いわば、命の交換はそれぞれの意思とその合意がその本質になっているともいえるでしょう。

 

 命の交換の意味するもの


 現通貨では、Bの相互にありがとう通貨を交換しあうことなど、ありえません。でもありがとう通貨では、もっとも使われる行為になる可能性があります。

 それは名刺交換のようなものです。人と人が始めて出会ったときの、メモリアルになるからです。それが、生きている証にもなりえる行為にもなります。

 ちょうど一期一会という心を形に表したのが、「ありがとう通貨の交換」といえるでしょう。

 Bの通貨を交換しあうことは現通貨でも可能です。でも、まったく同じ貨幣であったらほとんど意味がありません。だからしません。もし、ありがとう通貨もまた同じ貨幣であったらやはり意味がありません。

 でも、このありがとう通貨は命の交換という意味があるため、その貨幣に自分の名前でサインすることができるとします。そうすることで、自我と自我の交流の表現ができます。

 現通貨では偽札が出回りますが、このありがとう通貨も偽札が出回ることがあるでしょう。でも、ありがとう通貨は、必ずサインして使うため、どの一枚も同じ貨幣ではありません。そのため、偽札はできにくいのです。

 私たちの命の象徴は何でしょうか?

 それは古今東西、永久の歴史の中にあって、たった数十年の自己をもった命をもった貴重な存在です。これほどの軌跡の存在はこの世では他に存在しません。それほど貴重な自己の存在を示すのは、その名前であり、本人のサインです。

 この本人のサインは日本では実印としても使われ、それがニセモノでないという証明に使われます。そのくらい大事な自分のサインが、自分で使ったありがとう通貨に記入されます。

 そして、ありがとう通貨にサインされた自分の名は、そこで、1時間自分の命の時間が使われたという軌跡をしめしてくれるのです。

 また、それが、たくさんの名前のサインが増えれば増えるほど、そのありがとう通貨の価値は高まるでしょう。それは、たくさんの自己の命の交換がされたという歴史が刻まれるからです。

 そして、そのたくさんの名前が刻まれた貨幣を使うときに、私たちは、自分が一人で生きているのではないということ、互いに助け合って生きているということを感じ合えると思うのです。

 このように、ありがとう通貨はどの一枚も、同じものはない 自我をもった、いわば、法人があるように、感謝人という自我をもった一枚一枚だということがいえるでしょう。


 こうして、自我と自我がマンツウマンで、ありがとう通貨をとおして、人間の心の交流を促進させることができるようになります。それは、一方で、現通貨が人間社会のモノの交流を促進させていることに対して、調和させて働くようなものです。

 物質文明が頂点にたってきた現代世界で、遅れているのは心の交流です。その心の交流をもっともっと促進するために、早くありがとう通貨を世界の舞台で使えるようにしたいものです。
 
 きっと、知らず知らずに、大きな力となって、すべての人間の自由と平等へと近づいていくでしょう。