13.ありがとう通貨は弱者にあり


「記憶は弱者にあり」

 この記憶は残虐な記憶のようなマイナスのイメージが浮かびます。中国や韓国が過去日本から受けた心の痛みを、二代三代にわたってもけして忘れないという意味で使われます。
 日本の広島の原爆もまた「NO MORE HIROSIMA」として、その悲惨な記憶をけして忘れないように、教育でもって、何代にも引き継がせることもしています。

 こうした悲惨な記憶だけでなく、一生忘れたくない感謝の心もあります。

 もし、自分が苦境の際、ちょっとしたやさしい言葉や、親切にされて、命を救われた経験があったならば、その人の恩を一生忘れないでしょうし、忘れたくもないでしょう。その感謝の記憶もまた、親子何代にもわたって、引き継がれます。

 ありがとう通貨は、このけして忘れたくない命を助けられた恩のような記憶をそのまま表すものだともいえます。

 例えば、何かの事情があって、一銭もなくなり、路上に放り出され、飢えていたとき、誰かが、ふと差し出された「おにぎり」をもらったら、「ありがとう」の言葉さえも出ないほどうれしいかもしれません。そして、その人の顔をけして忘れないようにするでしょう。

 そして、何とか食べられるようになってきても、その人に何か恩返したくなり、その人を捜したくなります。また、もしその命の恩人が困っていたら、率先して助けたくなるでしょう。

 この命の恩人に助けられたときに、返せる言葉「ありがとう」が、そのまま「ありがとう通貨」になることができます。そして、その「ありがとう」の言葉を発したときが、「ありがとう通貨の発行」のときなのです。

 そのため、「ありがとう通貨の発行人」はこの世の弱者であることが、一番重要であり、それを後押しするのが、国連や国家でしょう。

 命を救う力があるのは、飢えた場合は食料です。また、心が渇いた場合の救いはやさしい言葉です。そのように、ありがとう通貨は「何かのモノ」に対してだけでなく、「何かの言葉」に対しても総合的言行に対して使われるものにした方がいいと思われます。

 命を救った「おにぎり」は何も「高価なビフテキ」でなくてもいいからです。命を救った言葉が、「どうしたの、大丈夫」という言葉でもいいのです。「南無阿弥陀仏」でなくてもいいのです。

 そこで、ありがとう通貨は「命の恩人」に発行するありがとうの言葉のように、何もないような弱者が最後に発する命の言葉、命の通貨であることが必要だと思われます。

 この世でもっとも小さきもの、この世の弱者が自ら、手書きでもいいのです。「ありがとう おにぎり 自分の名」、「ありがとう やさしい言葉 自分の名」という手書きのありがとうを書きためた紙を手渡すことから、始めたらどうかと思うのです。

 その弱者の手書きのありがとう通貨が、世界に流通されたら、どれほど、感謝の心が広がるか想像さえもできません。

 国や国連の保証はあとでいいでしょう。法とか制度とかいうのは、後から作られるものでしょう。実際にそれが稼働するかどうか方が優先されることでしょう。


「弱者の記憶」・「弱者の感謝」」「弱者のありがとう通貨」をまず自分から発行していきたいものです。


 記憶は弱者にあり

 感謝は弱者にあり

 ありがとう通貨は弱者にあり