15.モノの価値と値段

 親子の間では、そこで一緒に暮らしているという意識があったら、親のものも、子のものも、同じという意識が働きます。
 これは私のものとかという意識が発達するのは、子が大きくなってきてからです。

 このありがとう通貨が使用される場合は、単に、サービス、労力だけということはほとんどありません。もし、その場が飢餓状態の場合は、サービスよりも、食べ物の方が大事になります。

 でも、その場がモノが裕福の場合は、食べ物よりも、そのサービスの方が大事になります。

 また、モノの価値は、流通する場合もそうですが、需要と供給の割合で、決まります。その需要と供給をもたらすものは、人の欲求なのです。そのため、モノの価値は人の欲求によって、決まってくるため、モノの値段は、人の欲求によって、決められることになります。

 高価なダイヤモンドも、飢餓状態に人にとっては、食べ物の方が価値があります。だから、その場であったら、食べ物の方が値段が高くなります。でも、実際には、そうなりません。それは、ダイヤモンドをたくさんの食べ物に交換できるからです。これが、現貨幣による値段の不思議でしょう。

 でも、飢餓状態の人にとっては、どんなにダイヤモンドが食べ物と交換できるからといって、そのときの命を維持するためには、やはり、食べ物の方が価値があり、その値段は関係ありません。

 こうしたモノの価値と値段は、ありがとう通貨を使う場合には、命の交換という意味があるためには、その場、その人の需要によって、モノの価値は変わってきます。そのため、値段を一定的に決めることは難しくなります。

 例えば、姫ちゃんが風呂掃除をするときに使用しようとするお風呂の洗剤というモノに値段をつけるでしょうか? 姫ちゃんが親の肩たたきする際、肩たたきが終わって、お茶を親に入れてあげたら、そのお茶に値段をつけるでしょうか?

 その場合、必要なモノがそこにあれば、無料であるし、なければ、買いにいくので、有料になります。

 ありがとう通貨を使う場合は、こうした関係が生じるために、モノの価値や値段は一定なものではなくなります。それは、ありがとう通貨が現通貨とはまったく無関係に働くためでもあります。

 そのため、ありがとう通貨は現通貨に交換できないだけでなく、交換しても意味がありません。もし、一定的価値で交換したら、そのときから、ありがとう通貨の流通も意味も失ってしまいます。ありがとう通貨が使われる場合、現通貨の意味をまったくなくしてしまうからです。

 もし、ありがとう通貨が金持ちの家と人で、掃除というサービスに使われた場合、そのサービスをする場合に必要な洗剤の値段がどんなに高価であっても、無料になります。

 もし、貧乏の家で、掃除というサービスをするなら、洗剤がなくてもそれができるし、洗剤があっても、無料になるでしょう。

 それは、洗剤という価値と値段ががありがとう通貨を使用される場合は、現通貨の価値と値段が消え去ることを意味しています。

 もし、裕福な家でもありがとう通貨を使用して、掃除という仕事が終わったら、仕事をした人は現通貨をたくさんもらっても、もらわなくても、相手がそれでよろこんでくれればそれでいいだけです。

 それは貧乏な家庭でも同じになります。そのため、現通貨を得る得ない、現通貨の値段がいくらであるという問題は消えてしまうのです。

 ありがとう通貨が心の交流を促進するということは、心に値段は付けられないという意味にもなります。その心が現通貨の価値も値段もいくらでも、その人のよって、違ってくるからです。


 よって、ありがとう通貨が使用される場合、現通貨の価値と値段は関係なくなるという意識が芽生えてくるでしょう。

 そのため、そのときに必要な現通貨を誰がだそうが、いくらかかろうが、どうでもいい問題になってしまうのです。

 それはまた、こう言えるでしょう。

 「ありがとう通貨を使用する場合は、それに必要なモノは共有しているという意識が働く」