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「1:1」 と 「1:多数」 |
ありがとう通貨と現通貨の関係を、「ありがとう通貨は1:1」、そして、「現通貨は1:多数」という形で表しましたが、この多数というのが、どのようにして生まれるのかを考えてみます。 私たちは、何気なく 「他の人」 「みんな」 「庶民」 「すべての人」 「ほとんどの人」 「多数の人」 「まわりの人」 ・・・・ というように、あいまいな表現で、1:多数を表現しています。 さらに、その多数が代表・象徴的なものになってくると 総理 大統領 王様 神様 仏様 祖先 民族 民衆 世界 人類 というように、多数をとりまとめる言葉や代表者や象徴的言葉や象徴的称号などになってきます。 それらは、みな「1:多数」が基本となった発想なので、 「自分と他人」 「自分と神様」 「私と世界」 「私と総理」 「1」が 「自分」・「私」 という意味で使われ、多数が、私以外の者の代表者・象徴的存在である、「他人」・「神様」・「世界」「総理」という使われ方をしてきます。 これは、 人は基本的に多数というものを一つにして把握するためだと思えるのです。それは「1:多数」の関係をを「1:1」の関係にしてから、判断していこうとするとも言えます。 また、それはなぜそのような作業を心の中で行うかというと、「私」「自我」というのが、中心的存在であり、その自我なくして、何事も判断できないためでしょう。 |
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1:1の関係が基本になれば、これはお互いの自由ということになります。ありがとう通貨がお互いの自由である時間の交換であるとするなら、そこには、承諾か拒否かで、判断するだけになります。 この承諾か拒否かというだけで、世の中がうまくまとまることはありません。 例えば、 「この石は私のものだ、いや私のものだ」 という争いが起きることが年がら年中あるでしょう。大きくいえば、国と国との争いもまた、「この土地は俺のものだ、いや私のものよ」 という争いは、子供でも大人でも、国でも、常に起こっているのです。 自由と自由がぶつかり合えば、必ずそこに争いが起きるといっていいでしょう。「自由と平等」をたとえ尊重しても、この「そのモノはどちらのモノか」という争いを平和的に解決することは難しいでしょう。その場合、平等とは何かという論議だけで、延々と話し合いがされるだけになってしまうでしょう。 自由な二人の要求をどのように平和的解決に導くにはどうしたらいいでしょうか? それが第三者の存在です。 先の 「この石は私のものだ、いや私のものだ」 という争いを子供の兄弟がしていたとしたら、そこに仲介役である親が出てきて、親が二人を理由をつけて、納得させるでしょう。 それが大人の金銭問題になったら、国の裁判官が仲裁に入ることになります。 国と国だったら、国連や第三国が仲介しようとするでしょう。 その場合、その第三者は「親」・「国」・「国連」というような者がなります。それは、1:1の両者が第三者を信用していることが必要になります。また、お互いに決着がつかない場合、その第三者を指名するでしょう。 もし、その三者が片方よりの人であったら、一方は納得することはできません。でも、もしも、世界がその三人しかいなかったら、多数決2:1で強制的に決着つくか、拒否が続行することになります。 この関係をまとめてみます。 1:1の自由が争われた場合、 第三者が必要になる 1.その第三者が両者が信用・委任したならば平和的解決ができる 2.その第三者が両者が信用・委託しなければ、 @やはり自由な争いは続行する A片方だけが信用・委託するならば、多数によるよる論理で強制的解決がされる。 B1:多数の争いが続行する 私たちの多くが依存しているのは、民主主義による多数決論理における強制的解決です。その多数は権力や武力や経済力からなる強大さによる強制的解決ともいえます。 最終的に、この強制的解決策をとるのが、現通貨制度です。 でも、理想は、なるべく、1の平和的解決ができることです。ありがとう通貨では、第三者が、もめ事が起きる前から、両者が信用・委託できる第三者を国として設定し、さらに、その国の法が基本的人権・命の平等にのっとったものであることにすることで、予防することをねらっています。 そのため、ありがとう通貨における、「1:1:1」の第三者は、基本的人権を保障している国ということになります。 そうした意味でも、また、世界の共通理解する尺度として、ありがとう通貨を発行するのは基本的人権を保障している国や国連が一番適任だと思えるのです。 |