◆ はじめに
私は高校時代に「なぜ生きるのか」という問いの答えを探すために、あれやこれやと本をむさぼり読みました。その答えが出ないと学校の勉学など一歩も進ませることができませんでした。
答えを出してくれる本はみな宗教的な本でしかありませんでした。それ以外には答えがなかったのです。そして、宗教的なけんかをしないようなヨガにはまりこんでいきました。
でも、それは瞑想による修行が中心でしたので、学校や家庭生活はおろそかになってしまい、とうとう、精神の病に犯され、入院するはめになりました。そして、再び社会生活にもどるためには、地獄からの脱出するようなパワーが必要だったのです。幻聴幻覚妄想にとらわれた人間がこの現実にもどってくるためには、薬の力だけではだめで、それまでの一切の信条も思想も捨てきり、ただ肉体が生きながらえるだけの社会活動ができるだけにする必要があったのです。
そして、「なぜ生きるのか?」というひっかかる問題を封印せざるをえなかったのです。そして、これを「カッコでくくる」もしくは「Xで代入する」して、その答えがわからなくても生きられる道をとるしかありませんでした。
それから、30年余りの月日がたち、友人がもっていた「理性ののゆらぎ」をかいまみて、長く封印してきた疑問の扉を開けてみたくなりました。それがサイババの言葉である「神より親を大事にしなさい」という一つの文句だったのです。それは高校時代に神にはまり、親に迷惑をかけたことへの反省があったからです。
でも、サイババがそう言っていることと、していることとがまったく逆であることを知るにはそれから数年の歳月が必要だったのです。
【1】信仰生活
1.信仰するきっかけ
◆ 神さまよりも両親を大事にしなさい
私がサイババを信仰するきっかけになったのは、1994年に、青山圭秀著「理性のゆらぎ」という本を読んだことがきっかけでした。その本の中でサイババが言った、「神さまよりも、両親を大事にしなさい。なぜなら、真実の愛をもっているからである」というような言葉でした。
というのは私は十代の頃、ヨガや仏教とかに夢中になり、両親にかなり迷惑をかけていたからでした。そのときに大きな精神的な病気にかかってからというもの「神さまごと」から一切、手を引いていたのでした。
でも、いつか、解決しなければならない問題として、年老いてから、もう一度挑戦せねばならないと心の奥底でうすうす感じていたのです。でも、サイババの言葉に出会ってからというもの、もう一度十代から残っていた疑問に早くから挑もうとしたのです。
今、考えれば、先の「神さまよりも、両親を大事に」という言葉は、どうやら、インドの諺にあり、サイババの言葉ではないことを知りました。というのは、「神さまへの愛」は「真実の愛」ですが、「両親への愛」は「執着の愛」であることは、サイババの思想からすぐに理解できることです。
そして、なぜ「神様よりも両親を大切に」という諺が生まれたかというと、インドの民衆の生活が外の神様に重きをおいて、内なる現実の生活をおろそかにした反省がきっとこめられているように思うのです。
2.信仰生活
(1)「禁煙」「禁パチンコ」が実現
ババへの信仰は毎年のように、アシュラムを家族で訪問することから培われていきました。そして、何よりもうれしかったのは、長年の夢であった「禁煙」「禁パチンコ」が実現したことでした。それまでは、ヘビースモーカーで、一日3箱のセブンスターを吸わねばならなかったし、パチンコは月に10万円くらい赤字を出していたのです。10年間何度も挑戦しても、、この二つを止めることはできなかったからです。信仰が自分の意志に大いなる力を与えてくれたのです。
(2)ベジタリアン生活
私は、ババの一言である、「どうしてあなたたちは動物たちを苦しめるのですか?」という言葉にすっかりまいってしまいました。そして、4つ足を食べるのをやめ、2つ足をやめ、そして魚類をやめ、貝類をやめていきました。
一番疑問だったのが、魚貝類をどうして食べてはいけないのだろうかでした。海に囲まれて育った日本人としては魚貝類を食べてはいけないというのは、どうにも理解しづらいことであったのです。魚貝類は殺されると苦しむのだろうか? とにかく、そうした苦しみの境界線をどこに見いだすかは解りませんでした。しかしその疑問に答えてくれたのが、生き方研究会の会長である衣川さんでした。それは「脳があるかないかである」と答えてくれたのです。それですっかりベジタリアン生活をエンジョイできるようになり、胃酸過多だった体調も治っていったのです。
でも、家族とか、社会におけるベジタリアンの生き方は実に不便きわまりないものであったのです。日本では、ベジタリアンは特殊であり、どんなつきあいにも支障をきたすことが多くなります。どこかに出かけるときは必ず弁当持参になっていきました。また、人の家におじゃまするときは、まず食べれないものばかりでした。そこで、人づきあいもまた減らしていったのです。
サイババは酒もまた禁止しています。たまに、コーヒーや紅茶さえも、良くないことを講話で話します。さらに食物における三つの属性において話されることがあり、タマス(鈍性)である食物は、例えばニンニクやタマネギは食べない方がよいとされます。食物の規制は多く、白砂糖もその漂白するさいに動物性のものを使うというので、良くない材料とされ、調理法にしても、なるべく火を使わないものが推奨されています。
こうしたことを実際にやっていくと、私はただ果物とナッツ類だけの食事になっていったのでした。そして、私は一気に15キロもやせ、成長盛りの子供たちは背は伸びても、体重は減っていきました。
そして、ある事件が起きたのです。子供たちが陰で白砂糖の入ったお菓子をもらっては食べていたのです。そして子供達は私には解らないようにして、いろいろな嘘を言うようになっていたことです。
食べ物を規制することよりも、もっと大事なことは嘘をつかないことです。親と子供の絆がなくなるよりも、食物の規制を無くす方がはるかに良いとそこで判断したのです。
それ以来、白砂糖はOKにしました。そして、学校における給食にしても、ベジタリアン規制をとりやめたのです。
私にはババの推奨する食事の内容を実践することは非常に難しく、それは実行はできるかもしれないが、まともな社会生活はできないような人間を作り出すように思われたのです。そこで適当にそのラインを自分につけたのです。
例えば、タマネギとニンニクはOKというようにしたのです。しかも3食もOKにしました。(ババは一日一食が信仰生活には適していると言っています)
そうしたラインは他のババの信仰者も同じように行っているのです。タイで有名なJ博士のところに尋ねた友人はびっくりしました。その家庭は肉食だったのです。とてもババの言うことを実践しているとは言えなかったからです。また、日本でも名の知れたババの信者であるR氏もまた、自分では肉を食べないが、自分の事業では、肉も酒も出して商売しているのです。もし、本当にババの教えを実践したとしたら、それは肉を食べさせない事業をすべきだし、また、酒を飲ませて事業するわけには行かないと思われます。このように、現実面では非常に実践しづらいババの教えであることは確かなのです。
(3)サイセンターに対する違和感
そして、毎週の日曜にバジャンに出かけていきました。それはババがそういう参加を帰依で勧めているからです。だが、数年も続けてバジャンにでかけて行きましたが、友人の一人もできませんでした。(私はそれまでいつでもどこでも友人ができていました)たくさんの友人ができたのは、インドのアシュラムでのグループ活動からです。
毎週のバジャンは好きでしたが、バジャンが終わると、「静かにお帰りください」という言葉がどうにも好きになれなかったのです。いわば、誰とも会話できる場ではなく、むしろ、バジャンだけ参加したら、さっさと帰るように言われているような感じだったからです。私は仕事があったので、バジャンに参加する以外には何もお手伝い(セバ)が出来ませんでした。セバしている人たちは、実に仲がいいような感じで楽しくしていました。そして、センターではセバしないと、会話できる場がないような雰囲気をもっていたのです。だから、妙な違和感が支配していたのですが、あまり気にしないでいました。
【2】来日問題
1.ババ来日運動に巻き込まれる
1999年、家族で、インドのアシュラムで、のんびりとババのダルシャンとバジャンを楽しんでいたときです。私にとってとてもびっくりさせられた出会いがありました。サイビルを建てられたTさんの話です。Tさんはご夫婦でサイセンターのいろいろなセバをしているのを知っていましたが、彼と話をしたことはありませんでした。忙しそうに歩きながら、Tさんはババ来日の話をするのです。それだけではありません。ババ来日をサイセンターが阻止しているというのです。
私はまったくサイセンターの内情のことは知りませんでした。しかも、ババ来日を進めているのは「インド文化協会」であることもそこで始めて知ったのです。そこで密かに、もしババが来日するのなら、できるだけそのお手伝いをしたいと願ったのです。そして、運命は大きくそこから変化していくのです。
なんと、帰りの飛行機で、インド文化協会の会長である内田大円さんと一緒であったからです。これは来日の話を聞くチャンスだと思って、堰を切ったような勢いで、Tさんに案内されながら、二階のファーストクラスにおられる大円さんのところへ押しかけたのです。その話はまるで禅問答のようでした。大円さんが、まるでババの信徒らしからぬ様子だったのです。煙草をパカパカふかすし、その仲間は酒で酔いしれているからです。でも、話をすると、「自分はサイババ様の信徒ではない」とはっきりおっしゃったからです。「じゃあ、どうしてババを日本に呼ぶのですか?」という問いには、「今の日本には必要なお方だからじゃ」という答えには納得させられました。そこで、「ぜひ私にババ来日の手助けをさせてください」とお願いしたら、「いいや、君たち(ババの信徒)の力は必要とせん」「???」「どうしてもというのなら、ここにいるTさんの手助けをしなさい」「はい、わかりました」とそこを退いたのでした。
2.サイ・フォーラムのホームページ立ち上げ
日本に帰り、どうしたら「ババ来日」のお手伝いができるのだろうか? とそればかり考えていました。自分にできることはババ来日運動だと思い、まったくインターネットのことを知らないのに、そのホームページまであれよあれよと立ち上げてしまいました。
それが「サイババ来日フォーラム」という名のホームページでした。そこで、来日を実現するにはどんな問題があるのか、その問題点をあげる内容でした。そして、来日に関する細かい情報を掲載したのです。それは主に、来日を進めるインド文化協会の取材からスタートしていくのです。一方サイセンターの実質的力のあるHさんの取材もお願いしましたが、それは未だに実現できていません。
そして、ババ来日を実現するには、どうしてもサイセンターがその気にならなければ無理であることにようやく気付いたのです。それ以上にもっと大事なのはババの来日の意志の問題です。このババの意志を探るには直接聞くことができれば簡単ですが、そうはいかないのです。手紙を書けば返事がババから返ってくるわけではありません。ババの返事を聞くためには多くの難題があるのです。まずアシュラムでインタビューを受けられるようにしなくてはならないというのが基本なのです。このインタビューはもう宝くじのように難しい現状です。とても、一介の信徒である私ができるはずがありません。そこで、私はババの話す講話やインタビューを受けた人の話に目を付けたのです。
サイセンターに出すサイラムニューズにはババは来日の意志がないというような内容を掲載していました。それはインタビューに答えた記事の抜粋でした。その原文を探し出し、それを全文翻訳してもらうように英語のできる友人に頼みました。
インタビューで直接ババの来日の意志を聞いた人は多いのです。しかし、どうして同じ時期にババは外国に行く気がないと他のインタビューで平気で言えるのだろうか? どうしてもおかしい。どうなっているのだろう。それからというものは、ババの意志を知る上で一番確かなのは公にされた講話であることから、その翻訳が主流になっていったのです。
そして、一方Tさんは、全精力をあげての来日運動をするのです。それは、六本木に7階建てのサイビルを作ってしまう程の勢いでした。「来日しても、しなくても、どちらでもいい。信徒としてやることは、せめてババが来られてもいいようにその用意をすべきではないだろうか」というものでした。
さらに、私は、インド文化協会を取材したり、Tさんの取材を通じて、その来日運動の真実と問題点を知っていくと、そこにサイセンターがもっている大きな問題が浮上してきたのです。サイセンターは実に閉鎖的でした。取材ができるようなものではないのです。サイセンター内部でババ来日の話をすることさえもタブーになったのです。
3.来日問題の経緯
ここで、来日問題の経緯を簡単に説明します。
1999年3月21日と22日に、インド文化協会とサイセンターの有志による合同ツアー総勢110名は、ホワイトフィールドにおいて、サイババのインタビューを受け、サイババは来日を1999年10月21日インド出発、日本の滞在期間は10日間と決めたことから始まります。
当初はババの指示により、インド文化協会の内田氏と日本のサイ・オーガニゼーションの実質的長である比良氏とが協同で、ババを日本に向かえることになっていましたが、その両者の意見のくい違いがあり、比良氏は、「ババは来日しない」と報道し、内田氏は、「ババ来日決定」を報道したのです。
そして、サイ・オーガニゼーションは終始「ババ来日」の話はなかったとし、インド文化協会は、後にサイビルを建設したサイセンター所属のT氏と組んで、ババの来日の運動を進めていきましたたが、結局、サイ・オーガニゼーションとの連携なしには、来日実現は難しいことになったのです。
また、インド文化協会は、2000年8月にアメリカで開かれた「国連平和サミット」に、ババの出席を依頼しましたが、やはり、サイ・オーガニゼーションとの連携ができずに、ババ不参加になり、メッセージのみとなったのです。
それを最後に、インド文化協会主動のババ来日運動は終わりを告げたのです。
【3】組織の分裂
◆ サイ・オーガニゼーションの分裂とサイビル
そうして、来日運動がきっかけとなって、サンセンターにいく者たちは分裂していくようになっていったのです。
来日運動を進めたT氏は、ババが日本に滞在できる場であり、サイセンターの活動に違和感がある人達を受け入れるサイビルを作り、新しいサイババの活動拠点を作っていったのです。
その流れは、地方にも飛び火し、倉敷センターはサイ・オーガニゼーションから離れ、独自のサイ・バジャングループ活動をすることになったのです。
サイ・オーガニゼーションから離れたいた青山圭秀氏はサイビルの活動に共感し、T氏とともにサイババの信仰活動を補助していくのです。
こうした組織の分裂は、来日問題以前にもありました。サティア・サイ・出版協会の会長である若林千鶴子さんは昔日本のサイ・オーガニゼーションの会長をしていましたが、今は一人で、ご高齢にもかかわらずサナザナサラティの翻訳やら、サイババ関係の翻訳出版を精力的にしています。
【4】サイババ中傷事件
1.ババへの中傷事件
サイ・オーガニゼーションの分裂問題もおさまらないうちに、大きな事件が起きました。それは、パンダさんが書いた「裸のサイババ」という暴露本の出現です。これはパンダさんの著作というよりも、元信者さんの内部告発の内容の取材としてとらえた方がいいでしょう。中心は多くのババの信徒を築くほどの功績者だったスエーデンのコニーラルソンです。その内容は非常に露骨な表現でしたので、嫌悪された方も多かったようです。でも、その内容が真実であるかどうかは、はっきりしないのです。自分の目で体験するか、または公式の裁判でもあったり、科学的な実証に基づいて、その事実関係が明らかにされたら、考慮に値しますが、そうでなかったら、うわさの域を出ることはできません。
でも、そのうわさであっても、大きな影響をババの信徒に与えたことは事実です。そこでこのサイ・フォーラムでもどういうとらえ方をしたらいいのかを公にしました。また世界でもこの中傷事件は多くの信徒に大きな影響を与え、特にアシュラムに来る外国人信徒が減りました。そして、今もなお、その中傷事件の真実がはっきりしないために、苦しまれる信徒さんがおられることも確かなのです。
2.中傷事件へのさらなる真実
私は、長いことババの信者さんと苦楽をともにしてきました。そして中傷事件に際しても、自ら取材してきたのです。そしてその内容を発表してきましたが、いまだ本当の事実には手に届かなかったのです。あとは時が解決するものと信じていたのです。そして私は真実の探求精神が効をそうしたのか、さらなる取材と自らの体験を発表することができるようになったと思うのです。
これからお話することは、私の体験であり、また実際の取材から得た内容です。だから、そのまま「うのみ」にすることは危険です。できるだけ、ご自分の体験から、判断されることを希望します。そして、その内容を話すと、多くのババの信者さんの心が傷つくことも覚悟の上です。
「たとえ、それが真実であっても話さない方が良い場合がある」というババの言葉があります。そしてそれを実行してきましたが、この話をしないと私の言うことがほとんどババの信者さんに通じないことがわかってきました。そしてその時期が来たと思うので、意を決して話すことにします。
今まで意見箱等で発表した内容はババの信者さんに喜ばれる内容でした。例えば瞑想中に花びらが降ったとか、性的虐待については二人の信者さんの話を取材して得た感想です。でもさらに私の取材と体験はそれだけでは終わらなかったのです。
3.トリックの目撃体験
中傷事件があって、翌年2001年の夏に例年のごとく、家族とインドのプッタパルティのアシュラムに滞在していました。
インドに数年滞在しているババの信者であるA友人から、意外なことを教わったのです。何と、ババはトリックをしているとのことでした。A友人は親しい友人からそのトリックの見方を教わりそして見たというのです。
そのトリックの見方は、「ババの右手を見ないで左手(手紙の束を持つ)を見るようにしてごらんなさい。そして、左手の小指とくすり指が内側に結ばれていたら、まずトリックしていると思っていいでしょう。そうでないときは、物質化しています。」と言うのです。
私は、さっそくダルシャンのときに、そういう見方をしました。驚いたことに、ババの左手の小指とくすり指はいつも閉じられており、開けられることはほとんどなかったのです。ということは、いつもトリックしていることになるのかな? と思いつつダルシャンに臨みました。そして、1週間たち、やっとそのトリックらしき現場を目撃したのです。というのは、自分がちょうどババ全体を見やすい位置でないと、またババが私の視線に気付かれない位置でないと、それを目撃するのは難しいからです。最前列ではババに気付かれてしまい、また4列以降は人影でうまく見えないのです。だから2列目と3列目に座れたら、うまくトリックを見ることができることを発見しました。
その方法では実際に固められたビブーティーの粒のようなものは見えませんでした。解ったのは、右手と左手がすばやく交差する動きだけです。左手の小指と薬指の中から、何かを取りだして、右手に持ったような動きがわかり、次の動きに写った瞬間、信者さんの誰かにビブーティーをあげるようになることが解ったのです。
だからよくババの手の動きが見えるときには、いつ信者さんにビブーティーをあげるか必ず解るようになりました。
「あ、(右手と左手が)一瞬交差した」「出るぞ・・・やっぱし出た」という感じです。
この動きは非常にすばやいので、たんに右手で手紙を受け取り、左手に手紙を置く場合は非常にゆっくりと行われるので違うことがわかります。またババは左手で手紙を受け取ることもあるのです。その場合も手紙の束の上に置かれます。そしてどんなときも左手の小指と薬指は開くことはなかったのです。
ビブーティーをあげた後、その指がいつ開かれるかはわかりませんでした。というのは、そうした状態のときには大抵ダルシャンは終わっていて、ババが見える位置は遠くて判別できなかったからです。
そして、A友人にトリックを見ることができたことを喜び勇んで報告したのです。A友人も、喜んでくれて、「よかった、ババに見させていただいたんだ」と言われました。
でも、それから私は何日間も苦しむことになるのです。ババがどうしてトリックをするのか、それが理解できないで苦しむのです。私はババが物質化することを信じてきた人間です。奇跡みたいのも体験した人間です。そして中傷事件があったときも、「世界はこうしてだまされた」テレビ放映のときも、ババを積極的に擁護してきた人間です。苦しさというよりも悲しさが支配していました。
頼りはA友人です。私のこの苦しさを訴えたのです。そんな私の姿を見たA友人はとても信じられないという態度で接したのです。
「あなたは、ババにトリックを見させていただいたんです。そして、ある段階に達するとそうしたトリックを見させてくれるようになるのです。ババはトリッックをするときは正々堂々といかにもこれからトリックするぞというように見せてくれます。私はね、そういうババがもっと好きになりました。」
「え? もっと好きにですか?・・・?」
そしてさらに、体験はそれで終わらなかったのです。以前けんかみたいに議論しあったB友人とあるとき偶然に、一緒にトークン(ダルシャンの席を決めるくじびき)の列に並びました。そのときに彼はやはり中傷事件が気になっていたようでしたので、私はさっそくトリックの見方を教えてあげました。そして二人はうまく2列目と3列目に座れたのです。ダルシャンの集中を高めるために、二人は一緒に並ばずに5メートルくらい離れて座ったのです。
そして、私はまたビブーティーのトリックを目撃し、B友人はババが銀のネックレスを出すトリックを目撃するのです。ダルシャン中に銀のネックレスを出すというのは、めったにないのです。
その日に限ってババの左手の小指と薬指の閉じられているふくらみがいつもより多少大きかったのです。
B友人は、ババの左手の小指と人差し指の中から、4センチくらい銀のチェーンが落ちているのを目の前(彼は2列目に座っていた)でみるのです。ほとんどの人は、ババの顔を見ており、たまにババの右手を見ているのです。そのために、手紙の束の下にあるババの左手には注意がいかないからです。
彼が垂れ下がった銀のチェーンを目撃してから、すぐにババは右手を大きく回して、銀のネックレスを物質化し、信者の人にあげたのです。まわりからいっせいに大きな拍手がとどろきました。
私とB友人は、もう有頂天になっていました。「見たか?」「見たぞ!」そして、彼は私には気付かなかったことを教えてくれました。ダルシャンが始まるときに、ババは自宅からホールに向かうときには、左手でローブを持ち上げながら歩くのですが、そのローブを持ち上げる際には、やはり3本指(親指・人差し指・中指)で持ち上げているのです。他の2本指(小指・薬指)は、そこにビブーティーと贈り物が隠されていたことがわかったのです。
考えてみれば、歩く際ローブの裾を持ち上げる動作を三本指で行うのは不自然です。また、いつも左手の二本指が握られているのもやはり不自然です。
私たちは、こうしたトリックを教えてくれたA友人と話し合ってみて、この内容は口外しないようにしたのです。それを聞くと、多くの信者さんがショックを受けるからです。そして、その事実を知る必要がある信者さんには教えようとしたのです。そうした時期があるからです。今、私は皆さんにこうしたことを公にする必要があると判断したからです。
そして2002年の年末にテレビで、「たけしの世界はこうしてだまされた」の番組で、マジシャンであるアメリカ人が、ババのダルシャンのビデオテープを見て、そのトリックを見破っているのが放映されました。そのトリックの説明は実に要を得ているのです。また同じビデオテープで、パンダさんが2001年に説明したときはまことに要を得ていないのです。それはプロとアマの違いかもしれません。
マジシャンであるそのアメリカ人はババを評して「伝統的な手法を用いたトリックですが、実にうまくない技術ですね。私の方がうまくできますよ。ほら、どうですか? 隠し持っている指がそんなに曲がってみえないでしょう」
彼は、両手を拡げ、何ももっていないことをアプローチし、そしてその手から実際に砂を出してみせたのです。その原理は、小さな袋に人差し指と中指の間に砂の入れた袋をこすることによって、砂が落ちるのです。
ババの場合は、袋を使わずに、ビブーティーを固めた粒をこするようです。確かにビブーティーを出す場合は、右手の中指と人差し指の間を親指でこするようにして、いつも出していることに気付きます。そのために、そのビブーティーの量は非常に少ないのです。
4.ビブーティーの効果
1999年私はババからダルシャンで手から出していただいたビブーティーを信者の誰にもあげずに、ただ尊敬し愛してやまない友人の癌をなおすために使いました。彼は無神論者で、サイババとはまったく縁がない者でしたが、社会的に有名でありその功績が惜しまれる人でした。そのためになんとか癌がなおり仕事を続けてほしいと願ったからです。
それを飲んでもらうとき、彼は不審そうに「もし、これが毒だったら、どうするんだ?」「それは私を信用してもらうしかありません」と言って、私の目の前で飲んでもらいました。そしてインタビューでいただいた小さな袋入りのビブーティーを毎日少しずつ飲んでくれるように約束してもらったのです。
だが、彼はその2年後癌で亡くなりました。そして私はビブーティーが癌を治す力がないことを知ったのです。
5.性的虐待問題をさらに取材した6人の内容
この性的虐待に対する真実を探ることは容易にはできません。過去、ババの住む家でババを世話する2人の若者が殺され、襲った学生4人も殺害された事件がありました。でも、その裁判が行われていないことも事実なのです。殺人事件も裁判できないのに性的虐待の裁判をすることはもっと難しいからです。
そこで、私ができることは自分で取材して確かめられる事実だけです。しかもその内容は性的なものであり、微妙に心にうったえるので、同じ事実であっても皆違った印象をもち、違った理解をすることに気付かされました。しかしとにかく取材して得た事実だけを報告し、最後に私の意見を付加しようと思います。
私が取材したのは、6人です。5人が日本人で、1人が外国人です。その人たちのプライバシーを尊重して、単にABCDさんというようにします。(その人たちが体験した年月日を聴くことは忘れていました。そして、その人たちの年齢は、見た感じの推測です)
◆Aさん(29歳くらい)、取材2000年12月
「今問題となっているババの性的問題についてお聞きしたのですが?」
「それは事実です。でも、誤解しないでください。ババはまったく欲望がありません。」
「私は夢で自分の性的欲望と戦っていました。その欲望に負けそうになったので、『スワミ、助けてください』とお願いしたのです。そして、翌日インタビューがあって、ババにこう言われたのです。『嵐は過ぎ去った』ババは私の昨夜の夢の内容を知っていたのです。
註:彼が事実と言ったのは、具体的にどの程度なのかは聞くこともできなかったし、話されなかった。また、彼がパンダの本を読んだかどうかも不明である。
◆Bさん(25歳くらい)取材2000年12月
「インタビュー中に、ババに服の上から股間を触られたそうですが?」
「はい、でも後でその理由がわかったのですが、インタビューの前日にあるヨギが私にこう話しかけたのです。『君はクンダリーニ(股間近くにあるチャクラ)に問題があるな』と。」
このBさんは、ババがクンダリーニを調整してくれたように理解したのです。
◆Cさん(30歳くらい)取材2001年6月
「何か性的問題でお気づきの点はありますか?」
「あのパンダの本は読んだことはないが、何をみんな言っているのか、不思議でならない。確かに、インタビューのときに、ずぼんの上から、ポンポンと触られたよ。でも、それはこう思っている。私の妻が子供を産んだんだ。妻がここに来られないので、『よく、やったな』という祝福だと思っている。」
ABCさんまでは、取材が終わっていましたとき、私は雑誌『カルナ』の取材や意見箱において、ババの潔白を証言しています。
しかし、それから、1年もたつ間に私の取材はもっと進んでいったのです。そしてババの潔白性に疑問が出てきたのです。
◆Dさん(28歳くらい)取材2002年1月頃
これは取材ではなく、たまたまその人が話してくれた。
「私の弟が、インタビュー室に入るときに、ババは後ろに手をくんでいた、そのときに、ババは後ろにいた弟の股間を触っていた。」
◆Eさん(23歳くらい)取材2001年7月
彼と彼のガールフレンド、そしてインド人の3家族とともにインタビューに呼ばれたときの話です。
その日は、中傷事件があった翌年2001年の春にあたり、まだ中傷事件が冷め切らない時のことでした。
註:インタビュー室には、二部屋あり、全員に対して話すインタビュールームと、個人的に話すプライベートルームがあるのです。その両部屋の間には、ドアとカーテンで仕切られていますので、プライベートルームの話し声や姿は、インタビュールームの者にはわかりません。
ここで、彼のガールフレンドはプライベートルームにおいて、ババに頭をたたかれ、祝福されて、『あまり考えすぎないように』というアドバイスを受けます。(別個に私は彼女を取材しています)
Eさんは、ババのプライベートルームに呼ばれていきなり、ガールフレンドのことを言われたのでした。
「あの子は非常に悪い子だ。別れなさい。」
註: この内容は本当は話したくはありませんでしたが、どうしても、中傷事件の内容には欠かせない内容だからです。コニー・ラルソンの報告にも似ているからです。彼女が本当に悪い人であるわけがないのです。皆、愛の化身というのがババの持ち味です。でも、インタビューではまったく違った事を言うことを報告することが必要であると思い、あえて取材の内容を隠さないでお伝えしたかったからです。
そして、ババはソファーの方にEさんを行くように指示し、パンツを下ろすように言ったのです。彼は何の疑問もなしに、パンツを下ろしました。そして、ババは右手を廻しながら、オイル(無臭性のオイル・市販されている通常のオイル)を数分に感じるくらいに長い間廻し、物質化(?)するのです。
註:彼は、オイル物質化(?)について、非常に長い時間を感じたそうです。というのは、通常物質化は一瞬で行われるからです。実際は数分でなかったかもしれませんが、数分に感じるくらいという意味です。
彼は立ったままの姿勢でパンツをおろしました。ソファーには座ることもしませんでした。そこで、ババはオイルを彼のヘソの下から上に向かってオイルを塗ったのです。急所を触ることもせず、そこにオイルを塗ることもせずに、ただヘソの周りにオイルを塗ったのでした。
彼はその理由をクンダリーニを開かせてくれたと思っているといっていました。
そこで、パンツを自分でもどし、インタビューは終わったのです。
註:彼はババからこの内容を口外しないようにとは言われていません。
◆Fさん(外国人・30歳くらい)取材2001年10月頃
この取材は英語で行われていたので二人で取材していくことになります。そしてこのインタビューの内容については、「ババに口外しないように言われている」とのことで、具体的にはどのようなことがあったのか知ることはできませんでした。
でも、概要だけは知ることができたのです。
「ババに急所を触られたことは?」
「はい」
「その時は、オイルを物質化しましたか?」
「ええ」
「どんなオイルでしたか」
「・・・・うまく説明できない」
とにかく、具体的内容は聞き出すことができないので、
「では、もし、ババが同じことを要求したら、あなたは断りますか?」
「きっぱり断ります」
「ババに欲望はあったと思いますか?」
「欲望があったと思います。」
「どうして、ババはそのようなことをしたと思いますか?」
「わからない。」
以上が、私の取材で知り得た内容です。
6.取材から得た少しの事実からわかること
そして、これまでの取材では、実際に『裸のサイババ』に書かれている具体的内容が本当かどうかはわかりませんでした。その中でどうやら本当だと思われることは、ババはインタビューの際に服の上からよく男の股間を触ることがあるということ。また、パンツを脱がすことも、またオイルを物質化(?)することも本当であること。30歳以下の青年が相手であることです。
私の調べた一例からすると、ガールフレンドがいた場合は、そのガールフレンドに「嫉妬」するような言動がありえること、また、ババが性的に欲望があったかどうかは、体験者の意見が分かれるところです。そして、「口外しないように」言われることもありえるようです。
今、世界ではホモ的な男性はけっこういます。そうした人たちも社会的に認められた生活をしていける時代です。だから、ホモだからといって非難する理由は何もないのです。男女関係が少ない場である軍隊などは、ホモ的な人も出てきます。性的な欲求は人間のみならず、動物もまた必ずあるのが自然です。そうした欲求を抑えるのは実に不自然であり、難しいものです。だから、もし、ババが神の化身というと、性的な欲求があったらおかしいと思われるかもしれませんが、ババを普通の人間と同じであるととらえるならば、ホモ的欲求があっても少しもおかしくはないのです。
また、人間が肉体をもつ以上、そこに肉体が要求する欲望は特有な病気でないかぎりにおいて、存在すると考えるのが自然です。だから、肉体をもつババがまったく性的欲望がないというのは不自然であり、信頼できる考え方ではないと思えます。
そして、私が知り得た今の段階では、性的虐待という犯罪行為にはいたっていません。単にババはホモ的な人間である要素があるだけだと思います。これからもっと事実が出てくることはありえると思いますが、それは私の役目ではありません。それに犯罪を立証することも私の主旨でもないからです。
そして、トリッックすることと、ホモ的な性格からみて、ババは、普通の人間と同じであり、神様のような特別な人間ではないということがわかるだけで充分だと思っています。
【5】奇跡とトリック
ババのトリックとは別に、私は中傷事件以前に、奇跡みたいのを体験もしていることは確かです。そのことも報告したいと思います。
1.奇跡のような体験
(1)長年のギックリ腰が治る
私が奇跡のようなことを体験するのは、二度あって、1999年インドのアシュラムに行く前日に、腰痛が走り、20年来のギックリ腰が治ったことです。25年前に、バーベルを急に持って以来、第5腰椎が前方に1センチほどすべり、その首の部分がヒビが入っていたのです。その痛みはトイレにも行くにも難しい程であり、毎年季節が移り変わる毎に繰り返されたのです。そして、医者に行く毎に、レントゲンで、その腰椎を見せてもらっていました。そのときは、自分の病状を知っていましたので、医者に痛み止めだけお願いしましたが、その医者は納得してくれなくて、規定通りレントゲンをとらされたのです。そして、そのレントゲン写真を見せられたとき、びっくりしたのです。その写真は自分の骨ではないようなのです。実にきれいにまっすぐになった骨でした。
「先生、これは私の骨ではありません。何かの間違いでしょう。」
先生は、調べ治すのですが、「いいや、あなたの骨だ」と言い切るのです。
「じゃあ、何で痛いのですか?」
「第五腰椎のすぐ上の軟骨の部分が少し縮まっているからかもしれない。一種のヘルニアだな」
「え? ヘルニアですか? ・・・・?」
そして、私はそれ以来、腰痛は未だに出ていないのです。ヘルニアにもなっていないようです。
(2)黄色の花びらが降ってきた
次の奇跡みたいなものは、2000年の8月、アシュラムのホールでババのダルシャンを待っていたときに起きました。
私は、そのダルシャンにおいて、ババから直接ババの講話の翻訳権をもらおうと毎回チャレンジしていました。インタビューが非常に難しいことは知っていましたので、ダルシャンにすべてをかけたのです。ババのダルシャン中に、翻訳権のサインをもらえるように、日本語と英文の書類とボールペンを用意し、ババが通り過ぎる目の前で、その書類を読んでもらえるようにしたのです。そのチャンスは最前列でないと廻ってきませんから、最前列の席を獲得するのは最低限の条件であったのです。
そして、その条件をクリアしたとき、朝のダルシャン前の瞑想中に起きたのです。私は、サイババ信者さん全体のユニティを祈っていました。そして、天井から黄色のくの字型した花びらが落ちてきて、それが頬に触れ目を覚ましたのです。上をみても、何もない天井です。左隣に座っていた日本の老人がスズメがいたと言いましたが、私には確認できませんでした。そして私のひざの真ん前に、花びらが30センチほどの円の中に散らばって、舞い降りてきたのです。その落ちた花びらは、私の右隣に反対向きに座っていたセバダルが集めてくれました。その黄色の花びらは記念に今も持っています。
それからすぐにババのダルシャンが始まりました。ババが私の目の前を通るときに、すかさず私はサインを求めたのですが、ババは一言「WAIT」と言ったきりでした。黄色の花びらが降ることと、「WAIT」とはあまり関係ありません。私にとって嬉しいのは花びらが降ることではなく、ババのサインをもらうことであったからです。
この翻訳権については、このあと数ヶ月して、サイビル一行がババから直接インタビューで口約束ではありますが、もらうことになるのです。そのため私の目的だった翻訳権をいただくことは果たせたのです。(サイ・オーガニゼーションとは関係なしにその翻訳権が欲しかったので、私自身でなくても、サイビルでもよかったからです)だから、ババが「WAIT」といった意味は納得できるのです。
でも、一体、あの花びらは何だったのでしょうか? 未だに理解できません。
2.指輪をいただいた体験
私は運がいいのか、1997年にババからインタビューで、二つのダイヤがついた金の指輪をいただいた経験もあり(そのときは、中傷事件よりも数年前であったので、トリックなどということは考えてもみなかったのです)、その時は、ただババの愛がうれしくて、1ヶ月ばかりはボーとしていました。でも、多くの方がその指輪からパワーがでているというのですが、私自身はそこにパワーがあるとは一度も感じたことはなかったのです。
そして、今はその指輪は親しい友人に与えました。というのはもう私には必要がなくなったからです。ババを信じ愛する人、指輪を必要とする人が使うことが一番いいと思ったからです。
そのインタビューでは、20数人の日本人がいましたが、半数近くの女性にビブーティーを手から出して与えました。そして、椅子に座って両手を拡げ、手に何もないことを示してから、パッと「フジカラーフィルム(箱入り)」を片手に出したのです。そして、フランスから来た十代の黒人青年が持っていたカメラ(安価にみえた)にそのフィルムを入れようとしたのです。
ババはそのカメラを開けることができませんでしたので、数人がチャレンジしてもできないので、部屋の奥に座っていた私が前にしゃしゃり出てそのカメラを開けてしまったのです。すると、ババはすぐにプライベートルームに行ってしまいました。そこで、そのフランス青年に許可をえてから新しいフィルムを入れようとしたら、何とそこにコダックフィルムがきちんと巻き付いていたのです。
そこで、私はそのフィルムが使用済みと勘違いし、取り外してしまったのです。そして新しいフジフィルムの箱を破り、入れ替えたのです。そしてすぐにババはもどってきました。取り出したコダックフィルムをいかにも無駄にしたなと言うかのように、テーブルの皿の上にポイと投げつけたのです。
それからいくつか私に質問し、手を回さないで左手の指の間から、スルリと2つのダイヤのついた金の指輪を出したのです。そして私の右手のくすり指にはめようとしましたが、サイズが小さかったため、ババは「おかしいな」という感じで、すぐに私の左手のくすり指にはめてくれました。そのサイズがピッタシだったので、ババはいかにも「どうだ、ピッタシだろう」という自慢げの表情をして喜んだのです。
そのときにババは私の予言めいたことを言ったのですが、その予言は未だに的中していません。でも、たくさんの祝福の言葉をいただいたのです。
その翌年、ダルシャンホールやインタビュールームでのカメラ持ち込みは禁止されたいたので、どうしてそのとき、そのフランス青年がカメラを持っていたのか、不思議でしたので、彼を捜し出しその理由を聞き出したのです。すると、彼とその兄弟用にババは二台のカメラを物質化したというのです。つまり、私たち日本人グループがインタビュールームに入る前にババはそのフランス青年のためにカメラ二台を物質化したというのです。
そこで納得したのです。そのフランス黒人家族はその年、数度続けてインタビューされていました。そして、一番下の6歳くらいの男の子は、指輪をもらったけれどなくしてしまったという話が印象的でした。
このインタビューで物質化と思われたカメラやフィルムは既製品であり、ババオリジナルのものではありません。金の指輪には、18kとかいうような文字は記入されていませんでした。ここで、疑問に思ったのは、ババが物質化したのなら、どうして「made in Baba」というようにしないのでしょうか? どうして既製品であるメーカー名が入っているのでしょうか? それに、どうして、ババはカメラにすでに未使用のコダックフィルムが入っていたのにもかかわらず、どうして新しいフジフィルムに入れ替えようとしたのでしょうか?
3.奇跡現象と欲望
うわさの奇跡現象には、欲望がついてまわることが多いようです。
(1)マイソールの孤児院
私がそのマイソールの孤児院におじゃました時に、たまたま院長さんがいませんでした。でも、そこで言われたことは100ドル出せばそのペンダントを見せるので、翌日に来てほしいと言われた経験があります。
(2)ビブーティーハウス
ホワイトフィールドにおける、ビブーティーハウスでありますが、そこに何度でも足を運んだ経験があります。ババの写真から、たくさんのビブーティーが出ていた部屋の隣に迎えられて、金の鎖に木の実がついたネックレスを8万円で買ってほしいと言われました。そして、ババの言葉のような日本語に訳された紙には、その木の実の形で、いろいろな効能が書かれていたのです。もちろん不治の病である癌にもきくというのです。しかも、その売り方が実にうまいのです。もしその病気が治らなかったらお金はいらない、後でそのネックレスは送り返してほしいというのでした。
私の二人の知人はその話にとびつきました、二人とも癌の人を助けたい一心だったからです。一人はただ黙って8万円のお金を払ってそのネックレスを買いました。でも癌が治ったかはわかりません。もう一人は日本にネックレスを持って帰りましたが、癌であったお姉さんの病気は治らずに亡くなってしまいました。そこでそのネックレスをビブーティーハウスに送り返しました。
4.トリックと奇跡の違いについて
トリックや奇跡現象そしてそこに集まる欲望を眺めてみると、奇跡的現象とサイババとは切り離して考えた方がこの際スッキリするのではないでしょうか。奇跡の話は、サイババだけについて廻るのではありません。世界ではいろいろな奇跡の体験が報告されているからです。
どのような目安をして、これらを考えたらいいのでしょうか。そこで、どうにもトリックではできないと思われるのが奇跡現象と考えてみたらどうでしょうか。指輪や時計、聖灰、アムリタなどを手から出すのはちょっとしたマジシャンなら可能です。ですから、ババが行うビブーティー、インタビューでくれる指輪、ネックレス、小さな彫像、時計、カメラなどは、みなトリックと考えた方が自然です。そして、写真や彫像、ペンダントから、アムリタやビブーティーが浮き出てくるというのも、トリックからでも可能ですから奇跡とはとらえないようにしたらいいと思うのです。
そして、もしその中で一つでも、そのトリックを証明することができたら、他のそれに類したことを一つ一つトリックであると証明する必要もないと思うのです。
また、トリックや奇跡から得られるその内容こそが本当に大事なものなのでしょう。もしそこに我や欲望やあざむきがあったなら、それは何の意味もないだけでなく、罪をも持っていると判断できるでしょう。
【6】サイ・オーガニゼーションの問題
1.命の水・その基金について
サイババは寄付金を求めないことで知られていますが、「命の水」のプロジェクトには相当な資金が必要でした。そのお金を集めるために、サイ・オーガニゼーションは、かなり裏技を使ったようです。それを私はかって調べたことがあります。その調査公開する時期が今来たように思えるのです。
2001年8月、アシュラムに滞在していた時に、ある信者が憤慨して私に話してくれました。命の水基金で、もどってきたお金が2割も少なかったからです。60代の一人暮らしの彼女は250万円預けましたが、3年後の満期でもどってきた金額が50万円も減ってっしまったからです。彼女はこんなに減るとは想像もつかなかったからです。
1996年頃から、サイオーガニゼーションとは別に信者のアイデアにより、「命の水プロジェクト」を支えるために、銀行預金してその利息の一部を寄付しようとしたのです。(現在はサイ国際慈善基金という名がついている)サイオーガニゼーションでは寄付金集めは禁止されていますから、組織とは別に、その頃日本サイ・オーガニゼーション代表のHさんを中心にその基金が始まりました。その運動は日本だけでなく世界で行われたのです。
そして、2000年の11月23日でその基金の満期が来たのです。その返金が始まり、多くの方が元本割れを起こして、預けた金額の約2割少なくなってもどってきました。預けた金額が少ない人はさほどではないのですが、数百万預金した人にとっては大きな金額になります。250万円預けた人は50万円少ない200万円になったのです。
そこで、帰国してからその事情を調べてみました。まず数人からその事実をきき出しました。そして、サイ・オーガニゼーションからその計算書をとりよせてみました。なるほど3年前の97年に預金した人は2割元本割れするのです。いわば、為替レートの変動がそうさせたのです。
為替レートは毎日違います。だからいつ預金したかによって、その為替レートの差額が決まるのです。利息に対して寄付する金額は、計算書によると銀行利息の5%が本人であり、15%が寄付となっています。その寄付金の割合でも元本割れするかが大きく変わるのです。
まず、私はルピーの為替レートを調べると、10年分の為替レートが判りました。
http://www.federalreserve.gov/releases/H10/hist/
そして、知り合いに5年分の表を作成してもらいました。
元本 10000円として、計算します。
預金日 |
1rs付**円 |
預金時の元本ルピー |
複利5%00.11.23
預金ルピー |
元金10000円返金額 |
95.11.23 |
2.881 |
3,436 |
4,385 |
10,318円 |
96.11.23 |
3.143 |
3,149 |
3,827 |
9,005円 |
97.11.23 |
3.358 |
2,947 |
3,411 |
8,026円 |
98.11.23 |
2.849 |
3,474 |
3,830 |
9,012円 |
99.11.23 |
2.398 |
|
|
|
00.11.23 |
2.376 |
|
|
|
注:
預金時の元本ルピーは手数料1%控除額
返金額は、手数料1%控除額
満期3年前の97年11月23日を見ると、約2割減ることになるのです。そして、どうやら、3年前に預金した人が多かったようです。
そして、満期後も、続けて預金をしてくれるような文書がサイ・オーガニゼーションから出されています。また数十万円という少ない金額の場合は寄付する例もありました。
また、そのお金は当初の「命の水」プロジェクトだけには使われていないようです。そのため、その基金の名前は変わり、「サイ国際慈善基金」に変更されました。
こうした基金集めは、元本が減ることを予想できなかったかどうかです。それは基金をつのる過去5年間のルピーの為替レートを見れば予想できたはずです。
その為替レートは、90.1 1$17rs、91.7 1$26rs、93.3 1$30rs 95.11 1$35rs でした。90年〜95年の間にルピーは2倍に減価していたことがわかるのです。
つまり、信者さんたちは、「いくらかの貯金と、いくらかの寄付」のつもりで参加したと思われます。でも、2割もの差し引かれた金額でもどってこようとは予想もしなかったのです。むしろ元本がいくらか増えてもどると考えた方も多かったと思われます。
ただ皆に知らされなかったことは、ルピーがドルに対して下がり続けていたこということだけでなく、支払いはルピーでなされ、そのうえ持ち込んだときに登録した以上のお金をインドの国外に持ち出すことができないという点であったのです。
海外の参考URL:http://home.no.net/anir/Sai/saiorg/index.htm
つまり、元本が、増えて、もどってくることはありえないという事実だったことです。
もし今もなお続けて基金をされておられる信者さんがおられたら、こうした事実を知ってほしいと思います。
2.著作権・翻訳権問題から解る「神の化身」の幻想
現在、サイ・オーガニゼーションが、「神の詩」の出版社とサイ・フォーラムに対して、その著作権と翻訳権の独占を主張しています。
私はそうした勧告を現在まったく無視しています。というのは、サイ・オーガニゼーションであれ、サイビルであれ、サイ・フォーラムであれ、「サイババを神の化身である」という前提に立っているからです。その信仰がくずれれば、その組織は壊滅すると思われるからです。
「サイババは神の化身であるという信仰」があれば、「神であるサイババの言葉に対して、著作権や翻訳権を主張することはできない」というのは、誰でも理解できることです。神とは別名大自然です。どんな生き物もどんな人間も必要としているものです。そして、神の言葉というのは大自然における空気のようなものです。その空気を独占的に使う権利を主張しているようなものが、著作権や翻訳権です。
ですから著作権や翻訳権を主張する神の化身がいたら、その神は偽物です。そしてその権利を一つの組織に独占的に与えるとしたら、その神は偽神です。
つまり、サイ・オーガニゼーションが著作権や翻訳権を主張するならば、彼らはサイババが偽神であることを証明するようなものなのです。
しかし、著作権に関しては、ババの意志とサイ・オーガニゼーションとの間に大きな溝があることがわかります。それはババがインタビューにおいて、サイビルにも著作権・翻訳権を与えているからです。そしてその内容はわかりませんが、サイ・オーガニゼーションとはまったく関わりを否定しているサティア・サイ出版物刊行センターも、その著作権と翻訳権をもっていることです。
もちろん、著作権や翻訳権は「神の信仰」ということを抜きにすれば成立ができます。それはサイババが人間として、その生活保障と生活の権利を求めたときに始めて考慮されるものだからです。そしてそれは寄付を信者に求める行為と少しも変わりがありません。
3.ババの意志とサイ・オーガニゼーションとの間にあるもの
ババの講話の内容は、サイ・オーガニゼーションでかなり編集され、また削除されています。その編集された内容が英文で世界に公開されています。もとのテープから、各国語に翻訳している私設セバ団体・プレマサイがあります。でも、ここもサイフォーラムと同様にサイ・オーガニゼーションから掲載をやめるように勧告されています。
註:プレマサイ URL:http://www.internety.com/premsai/
そのために、どうしても、ババが直接話された内容が直接に世界には伝えられない状態がでてきています。そのことに気付いた人が、2003年1月9日の意見箱に投書してくれました。
ー抜粋ー
Kingdom Of SaiとAum Sri Sai Ramの元日の講話を見たのですが、具体的な国名が消えています!(現地で聞いていましたので・・・)
Kingdom Of Saiでは国名が全て消えています。Aum Sri Sai Ramでは、講話の最後の方の日本に関する部分で、日本の国名が削除されています。
その内容の概要は・・・「ユニティが大切。グループで行動すること。日本はユニティができている。みんなも見習いなさい」という内容です!!
ババの意志とサイ・オーガニゼーションの間には大きな隔たりがあるようです。それは、2001年7月22日の講話において、「いわゆる帰依者のうち、ほとんど9割の人が平気で嘘を言っています」という内容からも推測できます。それだけではありません。先に述べたババ来日問題はまさにこの溝が焦点であったからです。
【7】アシュラムから見えるもの
アシュラムというのは、いわば修行し祈りをするところです。また神さまとの一体を実感するところです。言うことと行うことを一致させる練習をするところでもあります。でも実際のアシュラムから見られる印象は、サイババの肉体を神とするようなシステムができあがっており、私たちの内なる本当の神を知っていく姿とは程遠いことがわかるのです。
1.アシュラムではかならず高まるインタビュー競争
神の至福を味わうというのが天国の世界です。ところが実際のアシュラムの現実はまるでインタビューを欲しいと群がる信者さんたちの競争が熾烈に行われています。
私はどうして、みんなインタビューが欲しくなるようになるのか不思議でならなかったのです。私自身も猛烈にインタビューが欲しくなるようになるのです。他を押しのけても自分だけがインタビューを欲しい願う自分自身に出会うのです。
早朝の4時半から、先を争って並ぶ様はほとんど熱狂的なスターのファンと変わりがありません。そして選ばれた人だけがインタビューを受けられるのですが、その確率は非常に少ないのです。まさに宝くじと同じような確率を呈しています。
しかもインタビューを受けても、そこで指輪やネックレスをもらえる確率はわずかです。こうした姿は宝くじで夢見る姿と何の変わりもありません。欲望と幻想の世界があるだけです。
譲り合うこと、謙虚に生きること、感謝すること、愛すること、平安な心を持つこと、そうした神の境地とは無縁な世界であり、むしろ反対である欲望と競争と妄想の世界であることがわかるのです。
そして、私はそれを感じて、「ああ・・これがマーヤ(幻想)なんだ」とアシュラム生活そのものがマーヤから生まれた幻想であり、神さまとはほど遠い世界に入り込んでいると実感したのです。毎年の夏、6年間通い続けてそれが幻想であることがわかってきたのです。
2.命令と服従のダルシャン
ダルシャンシステムにしても、その基本は「私は神である。君たちも神である。ただ君たちは自分が神であることを知らないだけである」です。
自分が神であることを知っていようが、いまいがお互いに神であることに間違いないと宣言していることはすぐにわかるのです。そこに何の上下関係はありません。だったら、どうして、神さま同士拝み合わないのでしょうか? ダルシャンから見られる行為は王様と家来の関係であり、命令と服従が強いられる世界です。神さまとは無関係の表れであり、それは権力の象徴の現れであると思うのです。
このダルシャンシステムはインド古来の修行法であり、各地のアシュラムで行われています。でも、バウル(すべてのこだわりから解放されることを目的とし、教えを歌にして歌いつづける)のアシュラムでは、教祖(グル)は信徒の前で頭をこするようなことをして、謝ることもあるそうです。
こうした信徒にパダマナマスカール(御足にキスまたは額をつける)するグルという姿はサイババには見られません。でもお互いに礼拝することが、すべてを神としてみたら必要な姿ではないでしょうか。それが言っていることと行うこととを一つにする模範を示すことだからです。
3.ババの奇跡を広報するチャイタニア・ジョーティ
次に、莫大な金額でチャイタニア・ジョーティが建設されましたが、その展示内容はほとんどがババの奇跡現象を扱ったものです。それはまさに奇跡現象を売り物にした広報機関であると思われるのです。真実を求めることまた社会福祉とは縁もないように思えるのです。
そして、ババが奇跡を売り物、またご自分で奇跡は私の名刺であるというようにしたのは、まさにPRのための信者獲得の有効な手段であると思われるのです。もしこうした奇跡のようなまたトリックがなかったら、こんなに信者は増えなかったでしょう。信者が増えれば当然寄付も増えます。そして社会事業や奉仕も大きくできますが、世間に本当に必要な奉仕ができるかは疑問です
4.宮殿のような病院
そして、まるで宮殿のような病院です。どうして、そんな宮殿のような病院を作る必要があるのでしょうか? しかも、近くにほとんど住民がいないようなところにです。病気で苦しむ人が多くいるところは、都会です。また、田舎であっても、全インド各地でもっと病院は必要でしょう。だったら、同じ信者のお金を使うにしても、ほったて小屋でもいいから、より多くの病院を各田舎に建設し、医者派遣と、医薬を供給していくのが実質的な奉仕になるのではないでしょうか。
宮殿のような無料の病院は、まるで虚栄心を満足させるために建てられたようにも思えるのです。
5.アシュラムとそれをとりまく村との格差
プッタパルティにつくとすぐに感じるのは、アシュラムとそれをとりまく村との格差があまりにも大きいことです。下水道の整備はアシュラム内では完璧ですが、周りの村では下水の悪臭がただよっています。またババの教えとは裏腹に、肉食は平然と行われています。そしてものごいもまた行われており、アシュラムの内と外とでは、天国と地獄のような差を感じることができます。どうしてその差をまず無くすような努力をしないのでしょうか? まわりは、信者さんがばらまくお金に群がっているような社会と村が築かれています。
それは、金持ちと貧乏人との関係、庄屋と小作人の関係のようにも感じます。そして目の前にある民衆に対する社会事業も奉仕もできていないことを示しています。そして、たまに食べ物とサリーを配る姿は見せかけの奉仕、パフォーマンスとしかうつりません。
6.寄付は要らないと言って、受け取るという矛盾
そして、ババは講話では、「私は何も要らない。お金も要らない。あなたたちの愛だけがいる」ということをおっしゃっていますが、その裏でどうして寄付金をいただくのでしょうか? 表でお金は要らないと言っておき、裏でお金を受け取るというのは矛盾していないでしょうか? 信者さんの寄付なしには、ババは何の社会事業もできないのです。
またアメリカに実業家であるティグレットはサイババの病院を建てた人物として有名です。ハードロックレストランの共同設立者であるティグレットは、90年代の初めに自分の持ち株を売却してサティヤサイ総合専門病院の建設のため2,000万ドル(約23億円)を寄付しました。
しかし私はババがティグレットから、その寄付を受け取ることに大きな疑問を感じました。ハードロックレストランは、お酒を出して経営されており、そのお酒で儲けたお金を受け取るということです。それは、ババがお酒を禁止しているにもかかわらず、お酒を飲ませて生まれたお金はいただくということです。
それは、盗むことは良くないと言っておきながら、盗んだお金をいただくことは良いことだと言っていることと同じではないでしょうか。
信者からの寄付金の使い道についてはその会計報告は公にされていません。もし愛の寄付を受けたならば、それがどのように使われているかを発表する姿勢があってもいいと思うのです。そうすれば不正な行為を事前に防ぐことができるからです。
ババが「言うことと行うことが違っていることの典型」を「寄付は要らないと言って、その寄付金を受け取る行為」から見ることができます。それは、表と裏をうまく使い分ける頭脳をみる思いがするのです。
7.神を守る銃砲
ババが住んでいる家を常に守っている兵隊がいます。いつも長い銃砲を持ち歩いています。それは他のインド各地のアシュラムでは見ることはできない光景です。それを見て、すぐに解ることは、「神さまを銃で守っているのか? 変だなあ・・神さまは守られる立場ではなく、みんなを愛で守っているのが神さまだと思うけどなあ」と疑問を感じます
そして、ダルシャンやバジャンにおいて、毎回しつこく信徒たちの身体に凶器があるかないかを検査していることにも疑問を感じます。凶器だけでなく、カメラ、電卓、カバンまで多く規制しています。その規制は空港のチェックよりも厳しいものです。
ババがインドの大統領とか首相だったら何の違和感もありませんが、神の化身として崇められている存在としてはおかしいと思うのは普通でしょう。神さまは私たちをいつも守ってくれる存在です。人間の権力や武器で守られる存在ではけしてありません。
その神さまを守る銃砲を見ることで、神の化身への幻想をも見ることができます。そこにスピルチュアルな姿を発見することはできません。
【8】サイババ思想の問題点
1.ババ思想の大きな見直しの必要性
サイババ来日問題からはじまり、中傷事件も含め、社会におけるババの立場や、その思想の発展性を考慮して、ババの思想と体制に大きな見直しをしてみる必要があると思います。
その見直しをさせてくれたのは、通称「ありがとうおじさん」と言われる人の思想です。その思想は感謝が基本であり、ただ「ありがとうございます」と心で唱えるだけでみんなが悟れる状態になるというものです。
ありがとうおじさんの、もっとも大きな発見は、「ありがとうございます」が「神の御名」であるということです。その発見は、宗教の神さま同士の争いを無くすこともさることながら、一般社会でよく使われている感謝する言葉を神の本当の名前であるとした点にすごさがあります。そのために誰でもが日常生活で抵抗無く神さまへの道を実践できるようになったからです。
次に大きな点は、「みなすでに悟っている」というところから出発するのです。それは、「すべてを神」として受け入れたところから出発するので、神のようになろう、悟ろう、幸せになろう、修行しようという力みがないのです。そしてただ神の愛を受けるだけ、神の心を表現するだけ、みんなが幸せであることの確認をするだけなのです。
このことは、「感謝と思い」の違いで説明されます。私たちは、神さまにいろいろな「お願い」をします。その「お願い」が「思い」に当たるのです。その思いが人間の苦悩の正体です。いわば、「欲望」・「我」が「思い」になるのです。神さまに捧げるのは「思い」ではなく、逆の「感謝」が大切であると言います。
私たちが幸福になるためには二つの道があります。私たちの欲望・思いを実現するか、その欲望・思いを消し去るかです。
欲望や思いの実現には努力や修行が必要であり、仮に実現できたとしても、さらに欲望と思いはさらに大きく膨らんでいき終わりはありません。
しかし、その欲望や思いを消し去れば、すぐに「幸せ」が実現できます。その方法が「感謝」なのです。それは「足るを知る」ということが幸せになる一番の近道であることを示しています。(詳しくはありがとう広場をご覧ください)
サイババ思想とありがとう思想の違いはそれを実践する姿で観ることができます。ありがとうおじさんは、自分の名を隠し、ありがとう教団や組織は作りません。そして自分で話した内容に対して、「著作権」をまったく主張しないのです。しかも「ありがとうございます」の神と「ありがとうおじさんの身体」とは全く区別しており、ありがとうおじさんの身体を崇めることはないのです。
そこで、これからババの思想を感謝思想を通していろいろと見直してみようと思います。
2.ババの思想について
(1)我は神なり
まず、ババの根本の教えはヒンズー教の教えから来ています。そのなかで、もっとも特有な教えは、この全宇宙は一個人の中に集約されているということです。「全宇宙の創造者」を「神」とすれば、「人間の一個人」を「我」とすれば、「神我一如」ということが基本的な教えであり、それは「ソー(神)ハム(我)」「我は神なり」というマントラが根本的な教えだと思われます。
この「ソーハム(我は神なり)」という思想は非常に危険な思想になりやすいことがあります。ババはこの「ソーハム」の意味をこう言っています。
「我は神である」という言葉から、「我」を取り去ったものである。つまり、「私が・・私のもの・・」という我を取り去って、神だけになった境地が本当の「ソーハム」だとしています。
だったら、最初から「我」という言葉を使わない方がいいはずです。「我」という言葉を使うことによって、「我」こそ「神」であるようなまったく意味が逆になるような誤解をしてしまいます。
ですから、「無我」が「神」「仏」の境地であるとした方が確かです。どうしても「我は神なり」という言葉を使いたい場合は、「我も神なり」にした方が誤解がありません。さらに、もっといいのは、我も他も含められた言葉である「みんな」「すべて」を使うとよいでしょう。「みんなは神である」「すべて神である」とすれば一番確かでです。
(2)アバター(神の化身)信仰
この「ソーハム(我は神なり」は、アバター(神の化身)信仰と関係があると思われます。このアバターは宇宙の創造者である最高の神が人間の肉体に宿り、人類を救うために一個人として現れたというものです。
このアバターはババにおいて「ラーマ」と「クリシュナ」が中心になります。そして、自らをそのアバターとして、三代にわたり、人類を救うアバターに生まれ変わります。それが、過去にシルディ・サイババとして生まれ、その8年後に現在のサティア・サイババが生まれ、そしてその死後の8年後に「プレマ・サイババ」が生まれるというものです。
その他の宗教におけるキリストやシャカなどもまたアヴァターとして扱われますが、ババの思想においては、それらは神々の最高神の化身とは取り扱われていません。むしろ、人間が霊的に進化もしくは修行して神と合一した者であり、最高神自らの意志をもって権現したものとは区別されているところがあるのです。そのためにどうしてもババの信者はサティア・サイババが最高神の化身であると信じてしまうようです。
このアバター(神の化身)信仰はヒンズー教の特徴であり、そうした考え方に対して仏教徒は反発します。2001年インドで、ヒンズー教徒と仏教徒の対話をするに当たって問題がありました。仏教徒は、「仏教の教祖であるシャカを神のアバターである」とするヒンズー教の主張をまず撤回するように要求しました。そして、ヒンズー教の代表であるシャンカラチャリアが「アバター信仰の撤回」の要求を受け入れたことから、始めて実現したのです。
世界の平和を実現するためには、各宗教間の対話が必要です。その対話するにあたって、神の化身という考え方を捨て去る必要があることをそれは教えてくれます。それは、自分を神の化身とするサイババでは他との宗教対話ができないことも教えてくれるのです。宗教対話ができないことは、世界平和の実現もまた難しいということを示しています。
ババは一方で「神はすべての形あるものすべてに現れる」と言っています。つまり、「この世に存在するすべては神の化身」であるということです。こちらの考え方の方が真実です。もし、「ラーマ」「クリシュナ」「サイババ」という個人に限定したとしたら、それ以外は神の化身ではなくなります。神に「最高」も「最低」も本当はありません。本当の神は一つです。それはすべてをひっくるめて一つの神という意味です。
「我」というのは、他と区別するための言葉であり、限定する言葉です。この「自分だけ」と限定するために「欲望」が生まれ、サイババのいう「六悪(こだわり、うらみ、いかり、おごり、むさぼり、にくしみ)」が生まれます。そのように神の化身を一人のサイババに限定するとき、私たちは「我の神」を生み出すことになります。その「我の神」こそ私たちの苦悩の原因となるからです。
だから、アバター(神の化身)信仰はすべてを等しく愛する「愛の宗教」「平等思想」にはなりにくく、「我の宗教」「差別思想」になりやすいのです。そうした危険思想にならないためには限定した「神の化身」という思想ではなく、限定しないすべてを「神の現れ」という思想の方がはるかに真実をとらえることができます。
全体が「神の現れ」という基本にたてば、サイババの肉体を神と崇めるようなダルシャンは無くなり、アシュラムにおけるインタビュー競争もなく、サイババから指輪やネックレスを欲しがる姿は消えていくでしょう。そしてインドに行かなくても、いつでもどこでもみんなが互いに崇めあう姿がみられ、愛と平安を誰でもが感じることができるようになると思えるのです。
(3)奇跡信仰
ババが世界で多く知られるようになった大きな原因は多くの奇跡を行うことでした。日本でも、まずサイババの存在は超能力者として知られました。そしてその後から、その教えが少しずつ拡がっていったのです。
そして「超能力」・「神の化身」・「愛の思想」が重なって、多くの信者が世界に生まれたのです。
奇跡信仰は多くの民衆を魅了しその信者を増やしますが、その弊害もまた増えていきます。それはその奇跡の力に頼ることによって、庶民の欲望・願望もまた増えていくからです。それは働かずに楽して、ギャンブルでお金を稼ごうとするのと似ています。いわば単に夢を与えるだけの幻想に陥る危険があり、本当の幸福を見いだす力とはならないだけでなく、むしろ本当の幸福とは逆の不幸へと導く落とし穴がたくさんできてくるからです。
本当の奇跡とは一体何でしょうか?
奇跡というのはとても考えられないこと、とてもあり得ないことと思われます。それが起こる確率はほとんどないといえるものです。
この大宇宙において、生命あるものの存在を探し出すことはどのくらいの確率なのでしょうか?まして広大な宇宙に人間がいる確率はどれほどのものなのでしょうか?
そしてわたしたち一人一人と同じ顔、同じ手、同じ心、同じ性格の持ち主を捜すとしたら、どれほどの確率なのでしょうか?
そうした確率をみるときに、生命自体と個体の存在はまことの奇跡に価するのではないでしょうか? 私たちが超能力と言われるようなものは、ほとんどそういう能力がなくても結果的には誰でもができることです。たとえば聖灰やアムリタは作ることもできるし、どこにでも持ち運びができます。まして時計やネックレス・指輪は世界にあふれるように存在しています。でも、あなたという人を作り出すことはほとんどできません。それほどあなたという人が存在するということは奇跡なのです。そして広大な宇宙において、生命の存在もまた奇跡なのです。
こう考えると、多くの人が奇跡と言われることは本当の奇跡ではなく、多くの人が当たり前であると思っていることが本当の奇跡と言えるのではないでしょうか。
そしてこの地球上に生きているということがどれほどの奇跡の連続であるのかとびっくりさせられるのです。そうした気付きこそ、私たちが必要とする喜びであり必要な価値観ではないでしょうか。
(4)神の御名を歌う、唱える
神の化身を見、聞き、話し、触れて、崇めるのがダルシャンですが、それは神の化身とされるババがそこにいないとできないので、家庭や集会所ではバジャン(神を賛美する歌を歌う)が中心になります。
このダルシャンとバジャンはババ特有の修行法ではなくインド古来からある修行法です。いわば自分の意識を神の化身に集中させていく修行法です。神と一つになったような至福をそこで味わうことができるものです。
サイババ・バジャンにおいて、その神の名はほとんどが「サイババ」「ラーマ」「クリシュナ」「シバ」の名です。歌い方はリードシンガーがいて、その後に全員でそれを繰り返す方法がとられているので全員参加できます。
この神の御名を歌う方法とは、別に唱えたり、書いたりするのは、「オーム・シュリ・サイラム」という言葉が多く、挨拶は「オーム サイラム」です。
サイラムは「サイババ」と「ラーマ」を合わせたもので、やはり神の御名であり、その意味合いは「サイババ」と「ラーマ」は一つというものです。
こうした「神の御名」は、ほとんどがヒンズー教の神さまの名前であり、またサイババ個人の名前でもあります。そこに大きな問題があるのです。その名は世界中のどこでも通用できる名前ではありません。特殊な名前であり、本当の神さまの名前ではないことです。
サイババ自身もいうように、本当の神さまは「名前がない」し、また「すべての名と姿を持つ」というものです。だからインドのヒンズー教とサイババ信者しか通用しない神さまに限定することは、世界中に発展しにくい思想であり、また、本当の神を小さく限定する働きがあります。
そのためサイババ・バジャンは日常社会から遊離し、また本当の神さまから遠ざかる修行法であるとも考えられるのです。そして特別に限定した神さまの名ばかり歌うことは、他のすべての神さまをないがしろにすることにもつながっていきます。そのため、自分たちが歌い唱える神さまが最高としてとらえ、その他の神さまを低くみてしまうようになります。それは差別信仰を生み出し、他の神との喧嘩を促す修行法にもなってくるからです。
そこで本当の神の御名を個人名にするのではなく、世界中どこでも通用する別な言葉にする必要があると思うのです。それを「神の名」ではなく、「神の心」で表すと、世界中で通用できることになります。
サイババ思想とヒンズー教で、唯一それにあたると思えるのは「ローカ サマスター スキノ ババンツー(みんなが幸せでありますように)」です。また日本の神の心では「ありがとうございます」です。
つまりバジャンでも神の御名を唱える場合は個人名ではなく、このような「神の心」を歌いまた唱える方が本当の神に近づける方法であり、また世界のどこでも通用し、日常の社会生活において、抵抗のなく受け入れられる言葉だと思われるのです。
(5)奉仕活動
ババの教えに最後に行き着くところは「奉仕における修行」です。つまりボランティア活動こそが神との合一において非常に有効でありもっとも推奨されているのです。
そこでババは学校や病院を作り、また水の供給までも大規模に行っています。そしてその資金源はみな信者の寄付であり、また信者の無料奉仕に支えられています。
このような社会福祉はインドでは必要ですが、社会福祉がある程度整っている国ではそうした奉仕活動は違った内容になります。日本ではネットワーク地球村のような環境奉仕のようなスタイルの方が合っているかもしれません。インドの奉仕を真似すると、どうしてもその奉仕がホームレスに対するものに偏ってしまうことが多いのです。
そうしたものよりも、もっとその国々に合ったそして必要なボランティアが期待されると思うのです。例えば、すでにあるたくさんのボランティアグループに参加・協同していく方向が考えられます。
サイ・オーガニゼーションの規約ではこうした他の団体や組織とは一緒に参加できないということがありますが、そうした他と協同できない奉仕は本当の奉仕活動といえるのかが問題です。他の奉仕団体と協同できないような奉仕は社会性にとぼしく、単に自分ところの奉仕が最高とか純粋というような狭い心を生み出すもので、神との合一というような修行には役にたちません。
この奉仕のあり方で実際にあった事件があります。それは東京サイセンターとサイビルが同じ奉仕先である目黒の老人ホームと板橋にある知的障害者施設での奉仕をする時に起こりました。
サイビルはサイセンターと一緒に奉仕することを望みましたが、東京サイセンターはサイビルの者たちとは一緒に奉仕できないとして、長年続けた奉仕活動をやめてしまったのです。そのため現在はサイビルが中心になって奉仕を続けています。またサイセンターを離れて個人活動している人たちもそこに加わって奉仕をしています。
そしてババ来日運動もまた同じ原因でだめになったとも言えます。日本のサイ・オーガニゼーションがインド文化協会という団体と一緒に行うことを拒んだためです。
このような他の団体・組織や個人と協力できない奉仕というのは純粋な奉仕ではなく、別な目的や意図があることがわかるのです。
ババは2000年3月5日の講話でこう述べています。
「奉仕活動に参加するとき、それぞれの所属する組織の違いに気を取られてはいけません。どの組織でもよいのです。そんなことは関係ありません。行って、そして参加しなさい。奉仕自体が目的なのです。自己犠牲が目的なのです。」
これは、ババの教えとそれを実践していくサイ・オーガニゼーションとの間に大きなズレがあることがわかります。それはババの教えに矛盾があることも一因かとも思われます。先に講話で話した内容とは別に、サイ・オーガニゼーションの純粋性を保つために、奉仕を協同でしないというようなことも述べているからです。
無料の学校をつくっている奉仕ですが、その奉仕の内容にも問題があるように思えるのです。それはその教育の中味なのです。
アシュラムの近くにあるババの学校がありますが、日本人信徒のグループがその学校見学させてもらったことがあります。その報告を受けて一番驚いたのは「何が一番の楽しみですか?」と生徒に聞いたとき、生徒全員が「ババのダルシャン」と答えたのです。
外国人による学校見学はなかなか難しいという理由にも驚かされました。それは、「外部からの良からぬ情報が入ると困るから」というのです。
私はその報告を聞いて「オーム真理教」を思い出していました。まるで「思想統制」「洗脳」に思えたのです。学生がみんな同じ考え方で同じ希望であったら、どうなるのでしょうか? その体制や答えから、まったく自由の尊重されない教育であることがわかるのです。まるでカルトではないかと思ってしまった経験がありました。つまり、サイババが実践している奉仕が本当の奉仕になっているようにはとても思えないのです。
宮殿のような病院、心臓外科という世界最先端をいくような病院をつくることが、インド社会で本当に必要とされる奉仕でしょうか? ババの奇跡を集めた大きな博物館であるチャイタニア・ジョーティなどは、どうしても見せかけの広告塔であるように思えてならないのです。
(6)菜食主義
先に私の信仰とベジタリアンのことを書きましたが、今ではすっかり「なんでも感謝して食べる」ように変更しました。
菜食主義人口は、世界では圧倒的にインドに多いことが知られていますが、世界全体では菜食主義は少ない比率を占めています。また宗教や思想の違いによっても、その食物規制は違ってきます。
私たちは世界の何処に行っても、またどんな災害にあっても、「菜食主義」を貫くことが正しいことでしょうか?
エスキモーの人たちに、野菜がないところで肉を食うなと言えるのでしょうか? また飢餓に苦しんでいる人たちの目の前に肉があったら、それを食べるなと言えるのでしょうか?
いつでもどこでも通用するのが真理です。真理はまた「神の教え」でもあるのです。そう考えた場合、「菜食主義」は個々人の思想や生活習慣・社会慣習に関係ありますが、「真理・神の教え」とは無縁であると思われるのです。
ババは「食べ物は神である」と言っています。それはどんな食べ物も神であるということです。神であるということは、どんな食べ物も神聖であるということです。
では、どうして食べ物を制限するのでしょうか。肉やタマネギやニンニクは食べ物ではないのでしょうか? しかもババは「すべて形をもったものは神である」とも言っています。また肉食していたマザーテレサは悪い人でしょうか? 魚とワインを信者に与えるイエスは間違っていたのでしょうか?
菜食主義を実践していると、肉を食べる人に対して、無意識に「残虐者」と責め立てる気持ちが起きます。しかも肉という食べ物を「汚らわしい」というような態度が生まれてくることに気付きます。その食物の善悪観は、人と人を比べ、その優劣をつける差別思想に発展していくことがわかるのです。
ババはあるとき、「兵隊は肉を食いなさい」と言い、神を求める人たちには菜食を勧めるのです。兵隊は「神を求める人」であってはならないのでしょうか?
無殺生ということは命あるものを殺さないということです。命とは何でしょうか? どんな植物であれ、動物であれ、命をもったものです。その命には上下や優劣があるのでしょうか? 神さまはある一面「命」であるとも言えます。生と死を合わせ持った大きな命です。そして命を司るものです。
生きるためには他の命を奪って自分が生かされているのです。他を殺して自分が生かされるというのが命の原理です。むしろそうした殺さねば生きられない命を知り、自分がみんなから生かされているという感謝が一番大切であり、そこに真理があるのではないでしょうか。
食べ物には物理作用もあります。そのため身体の病気をもった人たちは、それなりの食べ物を規制する必要がありますが、健康な身体の人たちには食べ物を規制する必要がないと思われるのです。
(7)光明瞑想
光明瞑想はまず蝋燭の炎を見つめるところから始まります。その炎の残像を自分のハートの中心に持っていきます。それは、内なる神の光(真我・アートマ)を象徴しています。その神の光を手足、口耳眼、頭へと移動させ、良い方向に向くように暗示させていきます。それは五官を統制することを表しています。そして身体全体が光り輝いた姿をイメージします。その光は愛となり、親兄弟、先生、友人と拡げていき、人類全体さらに、動植物、地球から宇宙全体に拡げていくのです。そして宇宙全体が輝く愛の光となることをイメージします。それは、神と自分が愛の光の中で一体(アートマとブラフマが一体)となった姿を象徴しています。
ここで、しばらく至福の時間を楽しみ、神我一体となった光を最初の出発点にあったハートにもどして終了します。
神我一体になるには、二つの道があります。我から神にいたる道と、神から我にいたる道と両方あります。光明瞑想は、我を大きくして神と一体させる道です。その反対である神から我へと進む道に大きな比重をかけていないのが特徴です。
そこに大きな問題が生まれてきます。我から神へと進む道には、「愛」を拡げると同時に「我・欲望」をも拡大させていく危険性が潜んでいるからです。愛の光だけが大きくなれば問題はないのですが、世界征服というような野心や驕りをも増大させる危険があるのです。
そこで、そうした危険を避けるには、逆の道である「神から我へ」の瞑想を十分にする必要がでてきます。この道は、神我一体となった姿から出発していきます。それは神が宇宙を創造するがごとくに進んでいきます。神の光は、宇宙から、地球・生命・植物・動物・人類・社会・家族そして一個人に宿っていきます。そして、眼耳鼻舌身意へと光は宿り最後にハートに収まっていきます。そして、身体は神さまの手足になって働くイメージがでてきます。それは神の光が宇宙から降りてきて、小さな我が消え去っていくイメージになります。それはいわば神の化身に変化することを表しています。
先に神と合一するには「我を捨て去る」ことがポイントであることを話しました。その我を捨て消し去るには、神の光と力を大きく受けていくことによって可能となるからです。その方法には、危険性がありません。
また、この神我一体となる二つの道は、先に話した幸福になる二つの方法と類似しています。願望成就させて幸せになる道が「我から神への道」であり、願望や思いを捨てきって幸せになる道が「神から我への道」なのです。前者の神は「願望成就の木」であり、後者の神は「ありがとうございます」の感謝です。
(8)悟り
ババの有名な言葉に「私は神である。あなたも神である。ただ私は自分が神であることを知っているが、あなたは自分が神であることを知っていない」というのがあります。
この意味は「自分が神であること」を知っていると「悟り」になり、「自分が神であることを知らない」と「悟っていない」「無明」な人ということになります。
そしてまた「自分が神であることを悟っても悟らなくても、その人は神であることには変わりがない」ということも示しているのです。だったら「悟ったサイババ」と「悟っていない私たち」の間には、神と神との触れあいがあってもいいはずです。相手が無明な者であれ、悟る悟らない人であれ、そこに差を設けないマナーがあるはずです。
でもババはどうでしょうか? 明らかに自分だけを神として扱い、他の人間を神としては扱っていません。それは、言うことと為すこととが違っていることをさしています。だから矛盾をおこすのです。そしてサイババ神に服従するような教えと態度を見せるのです。それは支配者と服従者の関係です。パダナマスカルはその象徴です。もし本当に毎回講話で信者に語りかける言葉「愛の化身たちよ」という気持ちがあるのなら、どうしてババは信者の足にパダナマスカルをしないのでしょうか? それを一度もしていないのならば、ババは嘘を言っていることになります。
古来のギリシャでも、古来の日本でも、その賢人・覚者と言われる人は「自分が無知であることを悟る」ということがとても大切であると言っています。このことは神との合一とは「自分を捨て去る」ことからも解ります。
「悟ること」は神との合一をするということです。言い換えれば「私は神である」というのは、「私は悟っている」ということです。そのためには「私は悟っている」言葉から、「私」という言葉を取り去って、「・・・は悟っている」とする必要があります。
それはつまり、どういうことかというと、個人である「私の悟り」はありえないことを指すのです。そして「私」というのは悟りとは無縁であり、「私」という実体は「無知」「無明」であることをいうのです。
だから、「私は悟っている」という言葉は虚しく、「私は無知である」という言葉の方が真実を表しています。それは驕り高ぶった人間になるか、謙虚な人間になるかの境目なのです。
これをもう少しわかりやすくいうなら、先の私を取り去った「・・・は悟っている」を「みんなは悟っている」とする方が自他の区別をせず、自他一体の心が基礎にありますから、もっとも真実を表現している言葉なのです。
これをありがとうおじさん流に言えば、「みんなはすでに悟っている」ところから、私たちは「出発」していく必要がありそうです。先の光明瞑想のところでお話した「神から我への道」「感謝の道」です。
私たちは神さま(大自然)から生まれてきました。だったら、私たちは「すでに悟っている」のです。そして、いつしか神さまのもとにもどっていくのです。だから、「未来も悟っている」のです。また私たちすべては神の現れですから「今も悟っている」のです。
そのことを無知な私という存在にあてはめれば、私一人一人は他の存在するすべてから悟らせていただいているというのが本当の姿なのでしょう。
(9)神は愛
ババの思想の中心は「愛」です。他の真実・正義・平安・非暴力の中でも一番大きなウエイトを占めています。
この「愛」という言葉は日本ではキリスト教から入ってきたと思われますが、それは非常に誤解しやすい言葉でもあります。仏教では、「愛」は「愛欲」というもので扱われ、それは「執着」からくる感情をさしています。一番小さな愛は自己愛と思われますが、それは「我欲」のことをさしている場合もあるのです。そこで神は愛という場合は、正確には「神は大きな愛・与える愛・本当の愛」というように「我や執着」と区別しなければならなくなります。
そこで誤解しやすい言葉を使わないためには、「愛」ではなく「幸い」「感謝」にして表現した方がいいと思われます。
インドでは、感謝の言葉はあまり使われず、そうした日本の感謝の言葉はないようです。むしろアーナンダ(至福)という言葉が使われます。ですから神のもつ三つの特質であるサット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)からとった方が誤解が少なくなるのです。
だから「神は至福」「神は幸せ」「神は感謝」というような使い方がよいように思われます。というのは、「幸せ」「感謝」という言葉は「満足された状態」を意味するために欲望がない状態をさすからです。「愛」は「求める」という気持ちが強くなり、そこに「不満」状態を仮定していると思われので、神の表現には不適切な言葉のように思われます。
(10)良いものだけを見る
この「良いものだけを見なさい」というババの言葉もまた有名ですが、この言葉の意味するところを分析してみます。
「見ざる聞かざる言わざる」を日光の東照宮にある三匹の猿が表現しています。これは「悪いものを見ざる聞かざる言わざる」という教えです。この教えを肯定的に表現したのが「良いものを見、聞き、言う」ということです。
この教えは「すべてを愛する観点」から考えると大きな問題をもっています。それは「良いもの」「悪いもの」を区別して判断するところに問題があるからです。神の心は人間を善人悪人とは区別しません。人間だけでなく生物も鉱物もこの世のすべてを良い悪いで見ることはないのです。すべてが神聖であり、すべてが神の子であり、すべてが神の現れです。それはすべてが良いものであることを示しています。
それに対して、良い悪いの判断は、「我」からくるのです。例えば、ある殺人に対しても、戦争において、またその事情において、また殺す方と殺される方からして、良い悪いという判断がいくらでも逆転してくるのです。
だから、「良いものだけを見る」というのは、「神の心」を元にしないで、「我欲」を元にしていることが解るのです。私たちが目指すのは、「我欲」を取り去って、「神の心」を得ることです。その神の心とは「すべてを良いものと見る」ことなのです。
人間関係を中心にしたいろいろな問題は、人をものさし(優劣・善悪の判断)で計ることから生まれてきます。人と人を比較して優劣や善悪で見たりすることで、どれほどの人を悲しみに追いやっていることでしょう。人種差別、職業差別、階級差別などはまさにこの「優劣」「上下」「善悪」というものさしから生まれてくるのです。
サイババ信仰もまたこうした人を差別することから生まれてきます。言葉では「みんなは神」とは言っていますが、行為では「サイババだけが神」となっているのです。いわば言葉だけは「愛の宗教」ですが、実際の行動は「我の宗教」になっているのです。
(11)差別思想
一人の個人が「神」になることがもっとも大きな差別の原因になると思われます。神とはすべての支配者という一面があるからです。そして一個人や一組織・一階級が神のように支配者になるときに、差別思想が社会問題化してきます。
インドにおけるカースト制度や職業差別をするジャーティはインド民衆に多くの苦悩を与えています。その中でもっとも高い地位がバラモン階級です。バラモンというのはいわば僧侶であり、神に仕えるものです。それは武家階級である政治家よりも高い地位なので、バラモンは社会に大きな影響を与えていきます。インド国家の主席がババ詣でをすることがあるのはそうした社会を実に反映しています。
でもバラモン階級の人が本当に社会福祉や奉仕をするとしたら、積極的にカースト制度やジャーティを撤廃するようにすることが、インド国民の幸せを実現することに一番近い奉仕だと思うのです。物的な奉仕よりも心の奉仕の方が価値が高いものだと思うからです。
ところがババはこうした差別制度を肯定する発言をしています。それを差別としてとらえないで、役割の分担としてとらえているのです。こうした役割の分担ととらえる前に必要なことは、自由にその階級や職業が選べられるということです。もしそこに自由がなければ、その役割分担の考え方は差別を増長する力になり、支配と服従の構造を強固にしてしまいます。
そうした自由のない基盤に立てられた奉仕は上辺の社会奉仕になります。それが貧しい人に単に食事や服を与え、一時の慰安を与えるだけのものとなります。しかしそうした奉仕は根本的な人から貧乏を消し去る働きにはなりません。むしろそうした一時の、見せかけの奉仕は、自分たちの慈善活動をしているという社会的PRに活用され、ますますお金を集めやすくしていきます。そして人気も高まりますが、社会全体は差別を撤廃させない限り、富める者と貧しき者との差はますます広がっていくのです。
もしバラモン階級の人たちがもっと社会奉仕に力を入れるとしたら、そうした差別撤廃と民衆の自由を認める社会を築くことだと思われます。
(12)「…ねばならない」「…しなければいけません」
話す人が「自由と平等」を大事にしているか、「統制と権力」を大事にしているかは、その言葉使いから解ることがあります。
ある人が「神の言葉」として話された場合、そこに命令調の言葉があるかどうかです。神懸かりというものには、ずいぶんと偉そうな神さまが出てきて、その人に取り憑き、「ああしろ! こうしろ! こうしなさい!」といろいろと命令してきます。そうした言葉に真理がありそうだと、これは本当に神さまではないかと信じてしまう危険があります。また霊的な取り憑きでないとしても、教祖とか先生がそうした命令調の言葉を使う場合は要注意だと思って間違いないと思います。
神さまはけして命令してこないからです。人間を自由にするのが神さまの働きです。神さまは自由自在です、神さまから生まれた人間も自由を与えられています。命令するのは「我をもった人間だけ」です。愛・感謝・幸福・平和という神さまの特性には命令や服従がありません。
ババの言葉には「・・しなさい」「・・ねばなりません」という言葉が多いことに気付きます。例えそこに真実そうな言葉があったとしても、真実とは別な意図が隠されていると思っていいでしょう。
そしてババの組織であるサイ・オーガニゼーションでも、そこにたくさんの規則があり、その規則によって信者は縛られてしまいます。神と一つになるには、そこに自主性なくして不可能です。悟りにしても、自主的に求めなければ不可能です。
つまり誰かに強制されて悟ったり、命令されて神と一つになれるものではありません。それは「愛せよ」「感謝せよ」と言われて「愛せない」「感謝できない」というのと同じ事です。本当の悟りとか、力、幸福、感謝、愛とかは自分の内からわき出てくるものだからです。
(13)インド中心思想
ババの講話はそのほとんどがインド国民に語られたものです。世界中の人に語られてはいません。そしてその目的とするところがインド古来の文化と伝統の復権です。インド国民に自信と誇りをもたせようとしています。
そのためにその講話の中には、愛国心のあまり選民思想が生まれているのです。
例えば、「アバターはインドしか生まれない」「真理を賛美し、普及する点で、バーラタと並ぶ国はありません」というような言葉です。
選民思想は民族宗教の特徴です。旧約聖書も読むとそうした選民思想が浮き彫りになっています。こうした選民思想はサイババ信徒さんにも表れて来る場合もあります。例えばアメリカにおける自爆テロで数千人が亡くなった事件で、「サイの信者さんにはその犠牲者がいませんでした」とアメリカ・サイセンター長の何気ない発言もまた、「サイババを信じるものだけが救われる」というような狭い信仰に陥ってしまっていることに気付くのです。
こうした選民思想は「我の宗教」「愛国心」と関係してきます。今世界で必要とされる心は「ともに地球に生きる仲間たち」です。国の違いをこえ、人種の違いを超え、しかも今や、命あるものの違いを超えていく時代です。そういう時代にあって、いつもババの視点がインドの文化と伝統だけに向けられているのはババの狭い心の現れです。
それぞれの国や文化や伝統を生かすには、むしろ世界全体を見つめてはじめて見いだせることだからです。私たちの個性は、全体あっての個性です。全体がなければ個性は存在できません。だからまず、全体を知り次に個性を知っていくのが手順です。それはみんなの幸せがあって始めて、自分の幸せが実現できることと同じことです。
【9】サイババ宗教からの脱却
1.ババの教えに多くの矛盾
いろいろとババの思想を見直してみると、多くの矛盾があることに気付きます。その矛盾があるため、ババを慕う信者は翻弄され、ババの組織は分裂していくように思えます。
「その人を知りたければ、その友人を見るといい」というババの言葉は、そのまま「教祖を知りたければ、その信徒の姿を見ればいい」という言葉に置き換えできます。サイ・フォーラムが出来たのは、ババがインタビューで来日を約束し、それを信じたことから始まります。それを信じて、いろいろなことをやっていくうちに、信者さん同士の仲違いが生まれ、サイセンターの分裂までに発展していったのです。
そうした流れは日本だけではありません。世界で起きてきたのです。その一番大きなものが、元信者さんの内分告発によるサイババ中傷事件です。この事件によって、サイババ信者の世界は互いにいがみ合う結果を生み出しています。
そして愛と真実を真摯に求めてきた信者さんはババの言動に翻弄され、同じババの信徒さんによって傷つき、それでも必死によりよく生きようとする、けなげな信者さんの姿をみることができます。
2.狂信とカルト的要素
日本においてサイババ信仰が拡がるとともに、オーム真理教の殺人事件やライフスペースなどの事件が起きてきました。特にオーム真理教の事件は世界的に多くの波紋を呼びました。そのカルト集団はいまも壊滅していません。この「オーム」と「真理」という言葉はサイババ思想でも重要な核心的なものになっています。
だから、彼らとまったく関係なしではすまされない問題なのです。ライフスペースはサイババの教育システムに理想を求めてきたのですから、それもまた関係なしですまされないと思えるのです。そして関係ないどころか、私たちの反省材料として考えていくことが大切だと思うのです。
カルトの特徴は、その教祖が「私は神である」と主張する点です。つい最近でも、アメリカにおいて連続殺人犯が残したメモにも、「私は神である」と書かれていましたが、それは個人的カルトとも言えるでしょう。
次のカルトの特徴は大きな犯罪に発展することです。最終的に、集団殺人・集団自殺に陥ってくるからです。
私の友人に、長年の間ババを本当に信じ愛している方がいます。そしてクリシュナとラーダのような関係を目指して生きています。その友人と話してびっくりさせられたのは、「もし、ババが肉体を捨てたらどうします?」という私の質問に対して、はっきりと「私も死にます」と答えました。このような信者さんはもっと多くいらっしゃると思うのです。以前のような熱狂的な私だったらありえることだからです。
最近のババの講話にも、そうした行為を助長する話があります。例えばクリシュナが肉体を捨てるとアルジュナ兄弟たち全員がその後を追うという話や、ババが少年時代、二人の友人がババとの別れを悲しみ死んでは犬に生まれ変わり、また死んでいく話が出てきます。
77歳になったサイババに後何年の猶予があるのでしょうか。その間に、狂信的な集団自殺を阻止しておかなければ、何のために「サイ・フォーラム」を必死に頑張ってきたのかわけがわからなります。みんなの幸せのために生きてきたのです。それがもしみんなの不幸を助長するようであったら、悔いても悔いても救われません。
ラーダとクリシュナの話がありますが、ラーダには夫がいました。ラーダが夫のことをまったく意識しないで、いつもクリシュナのあとを追いかけていたとしたら、夫の気持ちはどんなであったでしょう。そして、もしクリシュナが死んで、ラーダがその後を追いかけとしたら、夫はどんな気持ちになったでしょう。
それから、何千年もたっているのに、ラーダとクリシュナは民衆からその名を歌われていますが、ラーダの夫の名さえ、知る人もなく、まして歌われることはありません。
神はすべての中に存在しています。けして特別な人だけに存在しているのではありません。狂信とカルトは「我の宗教」です。けして「愛の宗教」とはなりえません。
3.どうしてサイババは中傷されるのか
「我が出れば、周りからたたかれる」という言葉があります。それは大自然の営みでは、こうした「我」からうまれた「驕り」は必ずたたかれ反省させられ、自ずと「謙虚さ」が生まれるようになっているようです。
個人が神となって指導することは、「我」を「神」とするところからの出発です。それは自ずと「我の思想」「我の行為」となっていきます。そのために本当の神は、その「我」と「驕り」をとって、その本人だけでなくその縁者全体を救おうとしていくのです。そして「みんなが神の現れである」ことを知らせようとするのです。その「我と驕り」をとるもっとも効果的な方法は中傷されることだと思うのです。
もしマザーテレサのように自らはキリストにならず、単に信徒であり奉仕者であることに徹し、しかも神をこの世の最も小さき人の中に見た人には、世界中からの尊敬と愛を受けても中傷や憎しみとは無縁です。
同じ時代のインドでの奉仕者としての立場はあまりにも違っているのです。マザーテレサは他の信徒と同じ立場に立って働いていました。けして他の信徒の神とはならなかったのです。そこに「我と驕り」を見ることはできません。
4.宗教戦争をなくすには
ババの言葉に「宗教は一つ、それは愛の宗教」というものがあります。そして宗教の争いを止めさせようとします。そのために、今まであった伝統宗教の他に「愛の宗教」教団なるものを作ったらどうなるでしょうか?
それはまったく言うことと、為すこととが逆の現象が出てきます。つまり自分の宗教が一番すぐれていると言っていることと同じ結果が生まれてくるのです。他の宗教よりも優位性を強調するために、言った方便にすぎないことになります。
もし「愛の宗教」なるものを実現しようとしたら、他の宗教の上に立たないことです。下にたって奉仕する必要がでてきます。そして始めて、他の宗教の信徒の心を愛の心で溶かすことができます。だから「愛の宗教教団・組織」を作らないことが必要です。それは奉仕することでも言えます。他の愛の奉仕団体に奉仕してこそ、始めてみんなの心を一つにもっていくいことができます。
また、宗教という次元で争いがあるのなら、同じ宗教の次元で活動したら、けしてまとまりません。もっと大きな次元が必要です。それが愛という次元なら、もっともっと大きな愛である次元、人類のみならず命あるものすべてを包有するような愛の次元です。例えば地球環境という次元であれば、宗教戦争をやめさせることは可能になります。
5.宗教と自由
信仰の根本には、神への絶対服従と全託があります。この両者の姿は実によく似ています。でも中味は全く違っています。それは絶対服従する姿は「我」であり、全託する姿は「神」です。「我」は差別・統制などの性格をもっていますが、「神」には自由と平等があります。
そのため、本当の信仰に欠かせないのが自由と平等です。自由があると、たとえ教祖の批判であっても喜ばれます。もし教祖批判もできないような信仰であったら、それはまずカルトに一歩踏み出したといっていいでしょう。批判とは本物か偽物かを判断することであり、それは知恵の道につながっています。
愛は「すべてを一つ」にしますが、知恵は「すべてを分ける」性質があります。この愛と知恵の両方を使ってこそ、真実に到達できるのです。この愛と知恵にとってけして欠かせないのが「自由」です。
6.みんな自由・みんな神さま・みんな友だち
こうして私はサイババの思想と体制とを見直しかつ批判をしてきましたが、それらは全面的否定ではありません。私たちは誰に対しても全面的否定はできないと思うのです。できるのは部分否定だけです。
人には長所と短所があるように、その思想にも長所短所があると思うのです。ババの思想や体制の長所を肯定し、短所を否定し、その否定した部分を他の思想の長所で補ったものです。
ババを私たちと同じ能力をもった一人の人間として見ていくと、冷静に長所と短所をとらえることができます。私たちはみな互いに長所短所を補い合い、助け合って生きています。神さまを一個人に限定しないで、みんなにすることがとても大切であると思ったのです。だから、「ババも神さま」というくらいがちょうどいいのかもしれません。でもなんといっても「みんな神さま」とすることが一番いいと思います。
また、神さまという場合は、どうしても願望や上下関係で判断しやすいものです。人間関係で特に男女の関係で愛となると、欲望がついてきます。親子兄弟というのも上下関係があります。そこで、もっともうまく神さまと人との関係を表す言葉は、「友だち」ではないかと思うのです。「みんな友だち」「神さまも友だち」が一番真実に近い表現だと思います。
7.サイババ思想の肯定的な捉え方
批判することはそのまま否定的という捉え方は間違っています。どんな思想であれ、どんな人であれ、私たちの考え方次第でみんな良い思想とみんな良い人にすることができます。その考え方が感謝思想です。
良くない思想を実行することはできませんが、良くない思想から学び、感謝することができます。良くない人を愛することは難しいですが、良くない人に感謝することができます。そして「すべて良し」とするのが感謝思想です。そこでサイババ思想を肯定的にとらえていくには、その思想を「浮き輪」「学ぶ場」としてとらえることだと思うのです。
(1)浮き輪
私たちは水泳を覚えるときには、どうするかというと、まず浮き輪を使って水に慣れる練習したりします。そしてビート板を使って、バタ足を練習したりします。そうしてうまく水泳ができるようになります。こうしたことは「神の信仰」にも言えると思うのです。
名前のない神、すべての名前のもつ神が真実です。それは何度もババは講話で述べています。この「名前のない神・すべての名前をもつ神」がここでいう「世間という海」に相当します。そして、その海はどうにもつかみようがないような不安がうずまいているように最初はみえるかもしれません。それは、子供が海の姿を見て恐れをいだくのと似ています。
そこで親は子供に浮き輪をもたせて、まず水に浮いて水と親しむことをさせるのです。その浮き輪に当たるのが「名前のある神」です。「名前がある神」は形があり、イメージしやすく、私たちの五官を満足させてくれるからです。だから神を見、神の言葉を聞き、神を歌い、神に触れることができます。こうして神というものがどういうものかをつかんでいくのです。
この「名前がある神」が「ラーマ」「クリシュナ」「シバ」「ブラフマ」「ビシュヌ」「サイババ」「イエス」「仏陀」「アラー」「ガネーシャ」・・・などです。
しかし、そうした「名前のある神」は本当の神である「名前がない神」を知る上での練習台にすぎないのです。いわば海を自分の力で泳ぐために使っている「浮き輪」にすぎないのです。そして、自分の力で泳げる力がでてきたら、そうした浮き輪を捨てきることが必要になります。そうして始めて自分の力で、本当の神という海を泳げるようになるのです。
神の信仰に生きるそうした浮き輪には、いくつかの特徴をもっています。
@偶像崇拝
A個人崇拝
B奇跡信仰
C占い信仰
D教え信仰
E神の言葉
F神の御名
これらは優れた先生(人物)が中心になることが多く、その人の言葉を頼りに世間を安全に泳ぐ方法を教わるのです。またちょっとしたきっかけによって、泳ぎ方に気付くことができます。
しかしこれらは本当の神ではありません。それらはみな本当の神を知る上での一つの手段です。いわば水泳でいう浮き輪にすぎないのです。
もしそうした浮き輪にばかり頼っていたら、いつまでたっても自分で泳げる力をもつことができません。時期がきたら、そうしたものに頼らずに、浮き輪を取り去って泳ぐことを始めることが大切だと思うのです。そうしないと、いろいろな問題が生まれてきます。
「分裂問題」「中傷問題」に巻き込まれ、そして「矛盾」する教えや言葉に振り回されるような事態が起きてくるからです。
(2)一括置換
編集機能で、一括置換という機能がありますが、これは校正する上で大変便利なものです。これは、思想でもいえると思うのです。
ババの思想をさらに肯定的にとらえるには、いくつかの言葉を一括置換すると非常にとらえやすく、また矛盾が解消されてきます。
@サイババ → 神さま
A私・我 → みんな
B愛 → 幸せ
C…いけない、…ねばならない → …させていただく
D神 → 大自然・幸せ・感謝
E神の御名 → 神の心
その他にもあるかもしれませんが、否定的なことを肯定的に変換するのは一括置換のようにすればいいかもしれません。マイナスの言葉をプラスの言葉に置き換えるだけでいいからです。例えば、悪魔がいたとします。その「悪魔」を「みんなの罪の身代わり観音様」という言葉に置き換えればプラス思考できるからです。
【9】はじめに
このサイババ思想とありがとう思想を比較してから、3年の月日が経ち、感謝思想の元祖ともいう「ありがとうおじさん」が、とんでもない事件を犯し続けていることが判明しました。
その事件は、20年に及ぶ人権侵害です。そして、今回おじさんが女性信者に対するセクハラと和姦事件から、その全貌が明るみにでてきました。そして、その反省どころか、信者また一般人あてに、とんでもない、妄想・幻想の戦いを起こすような脅迫状が配布されました。
それは信者さんたちに、大きな衝撃を与えました。サイババもありがとうおじさんも同じ穴のムジナだったんです。しかも、両者とも性的虐待ということが引き金で、その真実の姿が浮き彫りにされました。
私は二度大きな失敗を繰り返してしまったのです。狂信と妄信という失敗です。しかも、私はサイババにおいても、ありがとうおじさんにおいても、そのホームページを主催して、読者をかなり持っていました。そのため、私個人の責任だけですまなくなり、多くの狂信者と妄信者を生み出してしまった責任がとわれてしまったのです。
また、私のように、サイババからありがとうおじさんに学ぶ方向性に進んだ人も多かったと思います。また、別な方向からのありがとうおじさんに来た人も多かったようです。
「もう二度とおかしな宗教にひっかからないぞ」と言ってた人が、やはりひっかかってしまったという人も多かったようです。二度あることは三度あると言います。この三度だけはなんとしても、ひっかからないようにしたいと努力するつもりです。また、どうして、人は騙されてしまうのか、どうして、安易に宗教に入り込んでしまうのかを明らかにしたいと思うのです。
ありがとうおじさんの思想については、2004年5月に、このサイババ批判と同様に、ありがとうおじさんの批判を『「ありがとう」と遊び心』でしています。でも、それでは甘っちょろい批判であったと反省しています。もっと、その根はサイババと同じ「私は神である」という信念から出た「個人崇拝」思想であり、それは「カルト宗教」へとなっていたのです。
【10】三度目の宗教被害を受けないために
1.予想外の展開
このサイババ批判を書いた当時、BBSで、サイババの言う「私は神である」思想とありがとうおじさんの言う「すべては神である」は同じ思想であるという指摘を受けました。その当時、私はそれに対して違うとしたのです。それは、おじさんが、謙虚な態度で、下からみんなを仰ぎ見るという姿勢があったので、サイババのように自分を神のように振り舞う驕り高き人間ではなく、非常に謙虚な人間だと思えたからでした。
でも、今となっては、BBSで指摘してくれた人は正しかったと思っています。おじさんも、やはり、自分が神様になって、驕り高き人になってしまっていたのです。そして、その根はその感謝思想に・・・いやありがとうおじさん思想にあったのです。
「私は神である(ソーハム)」思想は非情に危険な思想へとなってしまうことがよく解らせてくれた事件でした。だから、こうした人権無視、人間差別の毒魔にひっかからないようにするためには、
「けして私は神にはならない」という誓いを、お守り袋に入れておく必要があるでしょう。
そして、サイババのときも、ありがとうおじさんのときも、最初は宗教ではないと思っていました。もし、それが最初から宗教だとわかっていれば、けして近づかなかったでしょう。でも、その人物の魅力についつい引き寄せられて、いつしか、その信者になり、その宗教にどっぷりとつかってしまっているのです。そのため、他者が、おじさんをありがとう教の教祖であり、私たちのことをその信者と呼んでも、いや、これは「宗教ではない」と反論してしまうのです。もし、その妄信している人が「これは宗教でない」という時は、まず「ガチガチの宗教」だと思った方が間違いないようにさえ思えます。
2.信仰は移る性質があるから注意せよ
私のように二度と騙される単純な人は少なからずいると思います。そして、もう三度目は騙されないためにはどうしたらいいのかをきちんと、ここで反省しておかなくてはなりません。
サイババから、アマチなどの、インド新興宗教教祖へと移動した信仰家も多知ってします。また、ありがとうおじさんのところに来たものは白光真宏会や生長の家信仰家も多いのです。そのように、似たような宗教の系列から移動がされるのです。その場合、ほとんどが、残念なことに社会的事件が明るみに出た場合なのです。
そこで、もう宗教はこりごりだ。と思って、宗教じゃないものに転向しようとします。ところが転向した先が、「宗教ではない」と思って、それを信じたら、それも後でなって、「やはり宗教だった」になってしまうことがまた多いのです。
なぜ、宗教を転々としてしまうのでしょうか? それは自分の心の拠り所を求めるからです。そこで、自分の心の拠り所を他者に求めないで、自分にすることが、最も安全だと思われます。ところが、それをどんな宗教でもそれを説いているのです。
「神は自分の心の中にある」と。
自分の中にある神が自分自身なのですが、・・・そうなると、「私は神である」というところに戻ってきてしまい、自分で新しい宗教を築いてしまうという、まことにどうどうめぐりをしてしまいます。
そこで、宗教にふらつかないためには、どんな神仏(自分自身の神仏も含めて)をも捨てきる必要が出てきます。そして、事実を最も信じることから始める科学的ものの見方から出発することが、最も安全な生き方であると思われます。但し、擬似科学、似非科学には充分注意してください。それらは科学の名を借りた宗教です。
でも、人は奇跡や感動ものがとても好きですから、どうしても宗教の魅力に引き寄せられてしまいます。それは、真実ではない幻想の世界を楽しむのが人間の性質だと思うからです。人は多くの物語、小説、映画、演劇など、作られた架空の物語が好きだからです。それが、人間の文化であるとも言えます。それを失うことは人の心の豊かさを失うようなものです。
そこで、宗教を人が作った架空の物語として、また、人が意識の切り替えをする方便として、楽しんだらいいと思うのです。
だから、二度と宗教の被害に合わないため、他にその被害を与えないためには、科学的に自分で一つ一つ現実と事実を確かめながら生きていくことと、「宗教は物語や方便」として、意識的に楽しんで生きていったらいいと思うのです。
3.補足
さらに、2年の月日がたち、まだまだ宗教被害者の多くでてくるニュースがあとをたちません。
一体、宗教なるものが必要なのでしょうか? どんなに科学が発展しても、科学者や学識者さえも、ある宗教にだまされるということが多くあります。
人は何かしら信じていなくては生きていけない弱い生き物なのかもしれません。しかも、どんなに文明が発展しても、原始時代のような迷信や儀式を信じてしまう性質があるようです。
ある外国人受刑者に「どうして何度も日本に来るのですか?」と聞いたら、「日本人を騙すことは簡単だから」と答えていたのは印象的でした。
仏教国のタイだったか、法律で信仰を侮辱する行為は罰せられるということがあるそうです。また、イスラム教の教祖であるマホメットを侮辱するような本を出したら、またそれを翻訳でもしようなら、世界のどこにいても殺される危険があったことは事実でした。
その人が信仰する神や仏はその人がもっとも大切にしたものであり、その大切さは自分の自尊心以上の大きな存在だからです。そのため、自分が崇める神仏を侮辱する言動は最も思い罪にされてしまいます。
戦争においても、その国の寺院や神社を破壊することはもっとも懸念されます。それはその民族や国の心のよりどころとして祭られている場所だからであり、肉体の破壊よりも、心の破壊の方がより恨みや抵抗をうけることを直感するからです。
その宗教がどんなに迷信や誤信であっても、それを信じる人たちにとっては自分の命以上の存在であるために、それを批判するには命がけでないとできません。批判するというのは侮辱するということではありません。物事の真実を明らかにする行為のことです。でも、それがそうと信じる者たちには理解されません。
信者にとって、神を崇めるのは最高の善であるため、その反対に神を批判するのは最大の悪ということになります。神というのは感情論であり、心の問題なので、理性や知性は度外視されてしまいます。
あの殺人集団であったオーム真理教はいまだに壊滅していません。しかも、新たに入信する人もいます。 それはどうしてでしょうか? 社会への反抗する心がそこにあるからではないでしょうか。
心のすべてが理解できるものではありません。 宗教は人をその依存症にさせる力をもっています。また、宗教の教えの核心も「すべて神に依存する」ことが最も高い道徳・修養だということにされています。その性質によって、洗脳とかマインドコントロールしやすい環境になり、信者は教祖や団体の幹部の操りロボットになってしまいやすくなります。
マルクスが宗教は麻薬だと言い切ったような性質もあるのです。麻薬中毒患者などの依存症から脱却するには大変な努力が必要になります。同じく、誤信も時間をかけて、もがくようにして、解いていく力が必要です。その脱却する力には理性と知性が大いに役立ってくれます。
もし、サイババがトリックをしてなかったり、児童虐待をしていなかったら、私はその宗教から脱却できなかったでしょう。そして、その思想を分析するようなこともしなかったでしょう。
何がその誤信から脱却させる力になったかは、「事実を認めること」からだったのです。その人の言葉を信じるのではなく、その人の実際の行為を信じることです。言葉に嘘はあっても、その行為に嘘はないからです。行為に演技という嘘があっても、その人の行為全体を集合させれば、真実が浮かび上がってくるからです。
「神は言葉とともにありき」
つまり、神は言葉の世界だけにしか存在しません。実際のこの現実には存在できません。言葉には嘘と真があるように、言葉の世界には神と悪魔が同時に存在します。そして、その神と悪魔は見方によってはどちらにもとれるような心の相対性があるのです。
それは民族同士の戦争のように、味方にとっては神の存在も、敵にとっては悪魔の存在として写り、そう信じられてしまうのです。
でも、その戦争から一歩離れて平和な自然の世界を見てみます。どんな石ころだって、どんな植物だって、どんな人だって、神も悪魔も関係ありません。その石ころであり、その植物であり、その人でしかありません。
それが事実です。そのものをそのまま受け入れることです。そのものを自分の色眼鏡(信条や感情論)で、別なものとして見ないことなのです。
このサイババからの脱却の経験はその他の宗教的な盲信からの脱却する力になると思います。宗教は甘い蜜のような世界です。たくさんの魅惑的な内容に満ちており、その世界に陶酔しやすくなっています。でも、それが幻想か、事実かをしっかりと確かめながら、自分の大事な人生を石橋をたたいて渡ってください。
