最近のプッタパルティ事情
2008.7.17
 2008年の6月末から7月上旬までプッタパルティに12日間滞在した友人がその報告ををしてくれた

 ほとんどがインド人で、外国人は少なかった。外国人のうち、一番多いのはロシア人で、日本人を見かけたのは旅行者らしく二人だけだったようだ。さらに、きくところによると、長くそこに住んでいる日本人は女性で5人くらいといるとのことであったが、その人に出会えることはなかった。

 以前に比べて、集まってくる人の数は多くなっており、ホールがいっぱいになるくらいだというので、数千人はいるものと思われる。

 サイババは電動式車いすでダルシャンを朝の10時ごろ、行っているが、気ままでそのダルシャンがキャンセルになることも多いという。

 ダルシャンにおけるビブーティを出す回数は少なくなっており、あるとしたら、団体の信者が来たときくらいであるという。

 また、サイババの幼稚園もできたので、小さいうちから宗教教育をさせているようだ。

 報告をしてくれた友人は日本の二つのサイババ団体にも足を運んでいた。
 サイビルの方は数人、サイセンターの方は30人くらいの信者がいたという。

 昔の最盛期とくらべて、10分の1くらいに減っているようだ。

 彼の報告を聞いて、サイババの新興宗教というのは国民性が高く、日本でいえば、創価学会に近く、その発展が急激に増えているが、海外にはほとんど信者が増えていくことは少ない。

 では、いったい、海外の信者が減って、インド国内の信者が増えたのはなぜだろうか? それは私にとって非常に理解しやすいことである。

 海外において、サイババが、トリックして、信者を増やすことが明らかになった場合は確実にその宗教から離れる人が多くなる。でも、インド人はそうではないと思われる。人を騙しても相手にとって有益ならば問題がないと思えるのだと思う。

 サイババの評価は実質的な社会事業であり、また、そこに集まってくる信者たちがお金を落とすので経済的効果も高くなるので、地元にとっては、どんな神様であろうと、経済的にも、心情的にも自分や家族を助けてくれる人をたたえる。

 しかも、サイババの教義はヒンズー教という伝統文化に根ざしており、それを一般民衆にわかりやすく説明している。それに、音楽をとりいれ、みんなで歌う連帯感と楽しさも信者を増やす所以である。

 日本の創価学会のよさは、その教義よりも、その団体に属していると、得られるメリットはいろいろなクラブや社会活動が一緒にできる仲間ができるからである。何か問題があると、そういう信者たちがいろいろと助けてくれる。

 それは、日本のどの宗教でも、その教義はどんなものでもいい、それがたとえ嘘であり、科学的でなくても、葬式を厳粛にやってくれればそれでいいというのが一般的な宗教行事になるだろう。宗教には金を出さないが、葬式の行事にはたくさんの金を出すというのが日本の国民性だ。

 そのため、日本の主流である伝統的宗教は葬式仏教であるといわれる。教義ではお金が入らないが葬式ではでは金が入ることになる。それと同じく、インドでもサイババの教義を信じようと信じまいとそれはどうでもいいことだろう。お金のない貧乏な自分に食べ物やお金を与えてくれる実質的な人が神になる。それが何もしない人ならば、人になり、苦しめる人は悪魔になる。

 つまり、サイババの信者であった方がなにかと経済的に裕福になりやすくなるから、インドの信者は増えていく。インド政府にしても、サイババの経済効果や社会事業で助かるのだから、生き神として崇めていた方が何かと政策に都合がいい。サイババがトリックをしようが、児童わいせつをしようが、あたりさわりがないところでおさめておいて、実質的な効果を優先する。

 ところが、海外にとって、サイババ集団のメリットはなく、単に寄付金と旅行費をとられるだけで、おいしいものはみなサイババ教団とインド国内にもっていかれてしまうので、実質メリットがないから、信者がぐっと減ってくることになる。

 こうしたサイババのような教団はヒンズー教の一派としてしか生きられず、世界宗教にはなれない性格をもっているといえるだろう。

 もし、それが世界宗教に飛躍するためには、1.個人崇拝を廃止 2.ヒンズー教から仏教へとの変換 3.国際的社会事業 4.トリックの禁止などをしていけばいいと思える。

 今の時代は宗教は世界的に求められていない。それに代わるものとしては環境問題である。そして理論は科学であろう。サイババが人類愛に目指すならば、世界の宗教を統一しようとはしないで、宗教そのものから脱却した方がより実現しやすいものとなるだろう。

嘘も方便

 インドを旅行すると、何かと旅行者をだましてお金をかせごうとする人でであうことが多い。サイババのトリックがインド人に受け入れられるのは、嘘をいうことに対してさほど悪いとは感じない国民性があると思える。

 ヒンズー教から発展した仏教さえも、その教義において、「嘘も方便」ということを中心の教えにもってきている。

法華七喩(ほっけしちゆ
 ○三者火宅

 ある時、長者の邸宅が火事になった。
 中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、長者が説得するも外に出ようとしなかった。

 そこで長者は子供たちが欲しがっていた「羊の車(ようしゃ)と鹿の車(ろくしゃ)と牛車(ごしゃ)の三車が門の外にあるぞ」といって、子供たちを導き出した。

 その後にさらに立派な大白牛車(だいびゃくごしゃ)を与えた。


 この物語の長者は仏で、火宅は苦しみの多い三界、子供たちは三界にいる一切の衆生、羊車・鹿車・牛車の三車とは声聞・縁覚・菩薩(三乗)のために説いた方便の教えで、それら人々の機根(仏の教えを理解する素養や能力)を三乗の方便教で調整し、その後に大白牛車である一乗の教えを与えることを表している。

 なお檀一雄の「火宅の人」のタイトルは、この三車火宅を由来としている。


 他の6つの喩えも仏は人を救うために嘘をいうだけでなく、真実を秘密にしたり、惑わしたりするんだという教えである。

 サイババの場合は残念ながら、最初から最後まで人を騙し続けて、けして真実を明かさないために、信者は悟りを得ることは難しい。もし、自分がトリックをしていること、そして、自分が神でなく、信者と平等の立場であることを最後に明かすならば、多くの信者は目が覚めて救われるが、騙したままでは信者は本当には救われない。

 そのため、多くのインド人のように最初からサイババをマジシャンくらいにしか思わず、現実的な損得勘定で信者をきそうことで、つきあえば、被害者にはならないが、本気で彼を天地の神だと信じ込んだ信者は精神的にも経済的にも、家族や友人関係的にも大きな被害を受けることになる。

 また、今更サイババの自分の真実を明かそうとしたら、インド人の信者幹部たちは反対するだろう。今までの地位も、お金も、仕事も無くなってしまうからだ。そして、サイババをとにもかくにもすごい神様にしたてる必要がでてくるだろう。

 そして、サイババはサイオーガニゼーションのいいなりに神様を演じ続けさせられるだろう。さらに、サイババの時代で終わりになったら困るので、すぐに、次の生まれ変わりのプレマサイババを誰かにしたてあげ、その人を生まれ変わった神としてしたてあげていく。

 それはチベット仏教の仏の生まれ変わりとして英才教育をしていくようなものになると思われる。

 長いことサイババとその教団とつきあった経験からいくと、サイババは、その個人の力はほとんどなく、教団のいいなりにならざるをえなくなっている。日本に行きたいと思っても、教団がノーと言えば、行かなくなったことがあるからだ。

 教団の幹部はサイババがトリックをしていることをよく知っており、それを一般信者には悟られないような仕組みをつくっている。例えば、アシュラム内は写真やビデオ撮影は禁止する規則をつくっている。

 教団の幹部であるHさんはインタビュールームで、サイババから指輪を物質化してもらったが、それがHさんは気にくわなかったので、他のものを要求した。そばにいた長年の信者はそういうHさんの態度をみて、なんて失礼な態度だとあとでいさめた。

 この話をきいて、さも、ありそうなことだと思えた。Hさんはサイババがトリックしていることも、神でないことも、たんに、自分の仕事の手段にすぎないことも承知していたことが伺えるのである。

 サイババからインタビュールームで、指輪をもらったが、その効果はまったくなかった。たんに信者から羨ましがれただけで、他の人からは奇異な目でみられただけだ。また、預言も受けたがまったくはずれていて、それが実現できなかっただけでなく、そんな気配さえもなかったのである。

 また、私が指輪をもらったというときは、日本のインスタントカメラを物質化してもらったというフランスの青年に、再び、そのフジフィルムを物質化して、さっそくサイババがカメラに入れようとしたが、その入れ方ができないでいたところ、私が気を利かせて、カメラを開けた。

 すると、サイババはばつが悪そうに、そのフランス青年を呼んでとなりのプライベ−トルームに移動した。残された私と日本人のグループは、そのカメラにはすでにコダックカメラがセットされて、すぐにでも写せる状態だった。

 変だな? と思いつつも、そのコダックフィルムをとりはずし、新しく物質化したフジフィルムをカメラのセットした。そして、サイババはもどってきて、取り出されたコダックフィルムを手に取り、ポイと皿に投げた。いかにも、無駄にしたという感じである。

 そのとき、サイババは私に指輪を物質化して、私の右手にはめようとしたが、はまらないので、おかしいと思い、左指にはめて、はまったので大喜びして、「ピッタリだ」といった。

 私には、その場面を何度も思い出しても、これは口封じのプレゼント作戦だと理解している。つまり、カメラも、フィルムも、物質化したのではなく、トリックであること、また、サイババがすべてを知っているというのは嘘だということを公表させないための口封じだったと思っている。

 当時は夢のような出来事だったが、今ではそれはペテン師が体裁をつくろった姿としか感じないでいる。

 サイババの講話はほとんどがインドの過去の物語である。今世界で起こっている問題には兎頓着である。彼がヒンズー教の世界だけで生きているのがそうした講話からもうかがえるのである。


盲信から抜け出て欲しい
 
 今もまだ数人の日本人がアシュラムに住んでサイババを天地の神だと信じ込み、そして、自分が神と一致するまで修行をつんでいるという。

 こういう盲信した人たちを早くそこから抜け出て欲しいと願うものである。

 「宗教はアヘンである」

 といったのは資本論を描いたカールマルクスであるが、その共産革命を起こしたロシア人がサイババのアシュラムにしげく通っているという現実に複雑な思いがしてくる。

 共産主義は失敗したが、サイババ宗教もいずれ失敗するだろう。

 どちらも、人の平等を求めていたが、現実はその逆の結果になっているからだ。現実的に人の平等は無理だろう。それができるとしたら、人の心の中だけで可能であると思われる。

 人は神を作り出すことで、神は上になり、人は下になる。よって、人は不平等になるというのは明かな理であろう。