ご挨拶
なんだかんだと「こんなところに」来てしまいました。
それも「無為自然」という道です。
この無為というのは「実際に何もしない」という意味ではありません。
雪かきをしたり、雑草を刈ったりするような意味です。
雪かきなどはしなくても、自然とその雪は溶けてなくなります。
でも、人間生活する上で、歩きづらいので必要なところだけ雪かきをします。
その雪かきした行為は確かにしましたが、雪が溶ければその行為は消えてなくなります。
だから、自分が何か為しても、その行為は何も残りません。
また、自分が何もしなくてもその行為は自然がしてくれます。」
雑草を刈っても同じことが言えます。
雑草は秋が来れば自然と枯れてしまいます。
でも、人間生活をする上で、邪魔になるところは刈ります。
雑草はいくら刈っても刈っても生えてくるでしょう。
だから、自分が雑草を刈った行為はしてもしなかったように感じます。
また、自然は自分が何もしなくても雑草は枯れてくれるのです。
こういう自分の行為と自然の行為が表したのが、「無為自然」です。
「我」を出すと人間生活する上でいろいろな厄介な問題を起こしてしまいます。
でも、こうした「我」を出しても、出さないような「無為自然」の道を歩けたらと思うのです。
私達が生まれ、死んでいくのはおよそ80年です。
そして、私達を記憶してくれている人たちがいても、およそ三代で終わります。
どんなに偉い特別な人でさえも、三千年くらいが記憶されていることでしょう。
でも、宇宙大自然の時間からすれば、
そんな三千年でさえ、あっという間の出来事に過ぎません。
まるで何もなかったかのようです。
この意識が「無為自然」です。
そんなことをいうと悲観論という人がいますが、それは違います。
休日には独りで、また家族で、山や海などに出かけて行きます。
そして、思う存分自然の美しさを観、
おいしい空気とおいしい水をいただき、
大地や緑の新鮮な息吹を味わうことができます。
こういう自然に溶け込むすがすがしい気持ちになることが「無為自然」なことなのです。
そこに悲観論などありません。
我があるから悲観論になるのです。
我が自然に溶け込んでしまい、我が消えてなくなり、
自然の歓びがあふれる状態を「無為自然」というのです。
いつもそんな生き方をしてみたいと思いこのホームページを作りました。
どうぞよろしくお願いします。
経緯
10年前に、青山圭秀著「理性にゆらぎ」を読んだのがきっかけで
インドのサイババにすっかりはまり込んでしまいました。
当時はそれが愛の思想という気持ちだけでしたが、
知らず知らずのうちにサイババ教という新興宗教にのめり込んでいたのです。
そして、サイババが提唱する信仰生活をするようになっていました。
そのうちそのサイババ組織問題にまで介入してしまい、
「サイ・フォーラム」というホームページを立ち上げました。
そして、2000年末にパンタ笛吹著「裸のサイババ」を読み、
その信憑性を調査しました。
性的問題については今一歩解明できませんでしたが、
トリックをして信者を獲得している証拠をつかみました。
そのショックは測り知れません。
事実を知っただけでは強い信仰はすぐには消えることはなかったのです。
そこで、理論的解明をしていったのです。
その助けとなったのが「ありがとうおじさん」の感謝思想です。
そして、「ありがとう広場」を立ち上げました。
その感謝思想ではっきりとサイババ教の呪縛から逃れることができました。
でも、私は一人で「サイ・フォーラム」を制作したのではありません。
多くのスタッフとすばらしい信者仲間に支えられて始めて制作維持できたのです。
そのため、自分の責任を痛感して、サイババ批判をするようにしました。
それを「お祭り広場」というタイトルで、2003年の1年間をそれに費やしました。
「サイババ批判」を推し進めていくうちに、「信仰批判」にまで発展していったのです。
これは予想をしていませんでした。
そのため、「ありがとう教」まで批判したのです。
ありがとうおじさんは実際は教祖ではなく、
ありがとう教なるものを創設したわけではありません。
でも、「ありがとうございます」を神とする姿勢は
どうしても新興宗教の姿をとってしまうのです。
また、「ありがとうございます」と唱える修行は
「南無妙法蓮華経」の唱題や「南無阿弥陀仏」の念仏とほとんど変わりがありません。
サイババにしても愛の思想だったら何も問題がありません。
ありがとうおじさんにしても感謝の思想だったら何も問題がないのです。
それを信仰と信心というスタイルになるところに無理が出てきたのです。
信仰や信心はほどほどにしておけば、害はありませんが、
度を超すと害が生まれます。
神に取り憑かれたようになってしまうと普通の生活ができなくなってしまうのです。
神仏という信仰生活ではなく、もっと無理のない自然生き方を目指したのです。
それが「無為自然に生きる」になりました。
その生き方の土台を示してくれているのが老子です。
老子の時代は戦国時代でしたが、今の日本は平和の時代です。
そのため、今の日本や世界の現状にあった表現をする必要があります。
戦争する者たちに向かって「もう争うな!」と言えますが、
平和の楽しむ民衆に向かって「戦うな!」とは言えません。
むしろ、逆に「もっと戦え!」という表現が適切になることさえありえるのです。
そんな無為自然の新しい表現をここでしたいと思います。
また、実際にそんな生き方で生きられるような環境づくりをしたいと思っています。
そこで、「自立屋さん」というネットワークを作ってみようと思い立ちました。
ボランティアをしていると、その限界を多く感じるようになります。
そこで、お金の入る仕事とボランティアを合わせたような仕事を作ってみたいと思ったのです。
それが「自立屋さん」です。
「無為自然に生きる」と「自立屋さん」をセットで
これから活動してみたいと思いますのでどうぞこれからよろしくお願いいたします。
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