知るということを次元でとらえてみよう。
0次元では「有無」「存在と無」であり、「それが在るか否か?」だけであり、
光れば在り、闇であれば無い、すべてを「0と1」の組み合わせで言葉を表記する定義のようなものである。
宇宙の新星出現が存在を、ブラックホールが無とするのもそうである。
空間的次元は0次元から3次元で把握できる。
0次元は点、1次元は線、2次元は面、3次元は立体で示すことができる。
人間の眼は左右にあり、その映像が網膜(面)に映って把握されるが、
自分の視点や対象の動きを2次元の面(網膜)でとらえ、頭脳で、それらの画像をつなぎ合わせ、その全体の立体像を「こういう姿ではないか?」と想像し知覚するのである。
この想像・構成しえた知覚を知識として記憶し、それらの知識をさらに新しい知識と合わせ、演繹発展させて、さらに新しい知識をもつようになる。
その知識構成作業は、
2次元のそれぞれの知識(群盲)データーを多数集めて、総合し、全体の姿(真の象)をあぶりだしていく作業が真実の知識・悟りという3次元作業になる。
3次元の立体の動き(時間)を組み合わせて、4次元の空間と考えるのが常識であるが、
それだと、時間が空間に従属して考えられてしまう。
空間と時間は等価として考えた方がより真実味がある。
光が粒子であり、また波であるということは発見されているからだ。
光を空間的粒子そして、時間的波として、相矛盾するが真実だと悟ることができる。
通常の情報は0と1の粒子を組み合わせた1つの情報を表し、知覚するが、
量子ビットのように0と1の波として、その2つが重なり合った状態をも表し悟覚できると
命が形成される姿として、例えば両親の先祖の血縁数のような2の累乗の情報を表し悟覚できてくる。
通常時間は空間の1次元のように永遠に過去現在未来へと無限に進み続ける直線のように考えられているが、
それは空間の0次元と1次元にある光の粒子の有無(点滅)を命題として演繹知覚していくからである。
光を波として捉えると、点滅(0と1)が重なる「0/1」という悟覚もできる。
ヘーゲル歴史(時間)哲学の「正反」の0次元から「合」の1次元に止揚して悟覚するともいえる。
我々が、
タイムトラベルで、過去現在未来を空想できるような意識が持てるのもそうした真実世界もあるともいえるだろう。
この世界を光の粒子としての有無だけでなく、
光の時間の波としてとらえると、
我々の命は「0=死」「1=生」「0/1=合わさる生死」という悟覚で意識することができ、
それは人の命が物体としての身体、波としての心、心身を合わせもつ魂を意識でき、
存在と無としての1つの自我情報としてでなく、雌雄の2つの自他を合わせ持つ自我情報も意識悟覚できてくる。
また、
身体だけの一生1自我としてでなく、なんども自他として生まれ変わる自我意識も悟覚意識できてくる。
通常命を得たときに意識が生まれると思っているが、
その逆に、
意識が命を生み出すことも真であろう。
意識は神のように、命を生み出すことも、滅ぼすこともできる。
例えば、
男女が愛し合い子が誕生するし、
また、人々が憎み合い互いを死なすこともできる。
それはまさに
人は神のような意識で命を育むことも、滅ぼすこともできる。
さらに、
人は皆どんな意識を持つかで、自他の命模様を編み出しているともいえるだろう。