Archive for 1月, 2013

旧約聖書の神はエジブトの太陽神かも

水曜日, 1月 30th, 2013

 キリスト教とイスラム教の元の神は旧約聖書に出てくるユダヤの神である。これは出エジプト記にも記されているように、モーゼがエジプトで虐げられたユダヤ人を率いて、エジプトを脱出する神話である。

  モーゼの神がその後キリストに受け継がれキリスト教に、さらにマホメットに受け継がれイスラム教になり、その解釈によって、いろいろな宗派ができて今日にいたる。

 最近、BSで「エジプト人」という映画を観た。この映画は紀元前13世紀の物語であり、そこで描かれているアテンの神は太陽神であり、唯一の創造主として、崇められ、まさに民族や貧富の差を超えた愛と平等はキリストの愛と同じであった。

 この「エジプト人」の映画の元になった史実がある。それが紀元前13世紀に生きていたツタンカーメン王である。彼の父親であるアクエンアテン王はそれまで多神教であったのを廃して、唯一の太陽神であるアテンを信仰した。

 しかし、それまでの神々を信仰する民衆や神官に押されて、若きツタンカーメンをかつぎあげて、父王は映画のように殺されたのであろう。

 ツタンカーメンは若くして病死し、その後王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになった。

 映画の主人公である医者であるシヌヘはただ自分の生涯を記した書を唯一の宝として残して映画は終わる。かれは無神論者であったが、唯一神であるアテンの神を最後には信じることになった。

  この主人公シヌヘこそ、旧約聖書で語られているモーゼと重なって見えてくる。

 つまり、キリストとイスラム教の元の唯一神はエジプトのアテンの神である太陽神につながってくる。

 これを最初に発見したのは、どうやら精神分析学のフロイトだったようだ。彼はヒットラーのユダヤ人迫害の馬鹿馬鹿しさをうったえるために、ユダヤ民族は元々エジプト人であったという説をとなえたようだ。

  人は民族の違いで戦争するのではなく、その信仰の違いで戦争するといえるようだ。

 そして、人は信じる内容でその人生が決まるともいえるだろう。

 

ひょっとしたら核ゴミ無害化できるかも

火曜日, 1月 29th, 2013

  井口和基さんのプログで、おもしろい案を見つけた。
http://quasimoto.exblog.jp/18829407/
 ひょっとしたら、核ゴミをあっというまに無害化できるかもしれない。

 それはこうだ。
 原子力は重いウランに中性子をぶつけて核分裂させて、熱を発生させる。その際にでるのが熱と放射能と放射性物質である。

 原子核は陽子と中性子が堅く結びついているが、その結合させている粒子が湯川秀樹が発見した中間子である。

 となれば、放射性物質に中間子をぶつければ、不安定な放射性物質は安定した鉛のような物質になるかもしれない。

 井口さんが提案したように、

 「福島原発の横や近辺に中間子製造機のベータトロンを作る。そこでどんどん中間子ビームを発射する。そのビームの下に放射性廃棄物や放射性瓦礫をどんどん通過させる。どうなるか?
 無害化できるか? 中性化できるだろうか?
 これを知りたいのである。
 放射性原子核は中間子を食って無害の原子核に変化できる。
 これは現実の物理学の教えなのである。
ぜひ日本政府はお試しすべきでしょうナア 」

 このプログを見つけたのは、先日提案した自分の核ゴミを地球の核マントルに捨てた場合、火山のように爆発して、それが溶岩とともに火山灰としてよけいふりそそいだらどうなってしまうのだろう? という不安を解決しようとしたときだった。

 このブログには、もう一つの火山灰による除染案がある。
http://quasimoto.exblog.jp/17934645/

「商品開発の分野でも、新燃岳の火山灰から放射能吸収剤をつくった。 最近、この火山灰商品に光合成細菌をかませてバージョンアップした。 そしたら、さらに性能がアップ、除染効果も格段にあがった。
 この火山灰の粉を、少量、室内に静かに丁寧に散布して、一時間後、 サイクロン型掃除機で吸い取ると線量がゼロに近くなる! という報告 が何件も寄せられてきている」

 となると、地球深くマントルに捨てた核ゴミが最悪火山として爆発して、火山灰に入ったとしても、その火山灰は容易に集め、また核マントルに捨てることができるのではないかと思えた。

 ともあれ、除染に水による高圧洗浄機は無効であり、むしろ、ブラシで削りとった方が有効であるという報告がある。しかし、それは草木には向かないだろう。むしろ、炭やゼロライトのような多孔の粉を噴霧して、それを吸い取った方が手軽で有効のように思える。

 この除染の実験とその結果はすぐにできる。また、中間子による無害化実験は予算を1兆円くらいかければ可能ではないだろうか? その実験は急務だし、それこそ、公営事業としての景気対策にもなるだろう。

 

前向きに生きるということ

日曜日, 1月 27th, 2013

 原発は事故があってもなくても、人類の失敗であった。それはゴミを資源にできないからだ。どんなゴミも再生できれば自然循環でき、人類はそのゴミで自滅することを免れる。

 「失敗は成功の元」である。

 失敗は失敗のままで終わってはならない。失敗を成功の元にすることが、自然に生きることであり、前向きに生きるということである。

 原発の発電を核爆発ではなく、他の再生可能なエネルギーに転換し、地熱発電に切り替えたらどうだろう。原発の大きなタービンをそのまま使い、原発を冷やす水循環を地下水との循環にすれば、まさにリフォームになる。

 地熱発電は温泉よりもさらに深く3000メートル以上掘れば可能である。それはまさに原発事故のメルトダウンで地下深く穴があくようなものである。

 核廃棄物は地熱発電よりもさらに深く数千メートル掘って、地球の核であるマントルに捨てるしかないのではないだろうか。  太陽は核爆発であるから、地球のマントルも核爆発の一種ではないだろうか。核廃棄物を地球の核にもどしてあげれば、放射能被害も防げるのではないだろうか?

 今、核廃棄物を地下数百メートルに埋めて、数十万年もその放射能を見張るのは、かなり無理がある。日本の核廃棄物をフランスのように、ロシアなどの他国に露天で放置するようなことも、無責任なことである。

 そんな核廃棄物を処理できないような技術を日本はベトナムに売ろうとしている。これはいわば不完全な技術、危険は技術を売ってもうけようとする悪徳詐欺と同じである。

  失敗は成功の元にしてこそ、人類が知恵で進化しか最大の強みである。人類は政治でも、あまりにも欲望的経済的損得で考えてしまい、命を守る地球環境の大事さを忘れてしまう。

 中国や韓国との衝突もまた欲望的経済的損得から生まれるものである。それらはお金の損得で考えようとうするから、衝突する。どんな闘いも、相手を倒して、自分を勝たせようとすることから起こる。基本的に弱肉強食の自己保存の法則である。

 しかし、人類が地球の生物を制する知恵は弱肉強食の自己保存ではなかった。江戸時代の仇討ちの奨めではなかったのだ。ともに生きる生き方であったのである。

 敵を倒しても、その敵を味方にする日本の将棋はまさに武士道の極意であろう。敵という失敗人も、見方という成功人にもなるというゲームのルールこそ、人類が生き残る知恵である。

 私の仕事で今困っていることは貸している倉庫をゴミ屋敷にして、その家賃までも滞納している人である。

 この賃料を払わないゴミ屋敷はいわば原発事故と同じに感じている。賃料を払わないから契約解除してしまえばいいというわけではなく、そのゴミ処置を業者に委託すると100万円近くかかる。

 そのゴミだって、集めた本人にとっては貴重で捨てられないものである。そのため、勝手に処分すれば法的に罰せられることだってあるかもしれない。

 実はこの人は隣町の数十階建ての一室の自宅マンションを持っていて、そこもまたゴミ屋敷にしている。そのため、他のマンションの住人ともめている状態で、私と同じ問題をかかえている。

 核ゴミを捨てられないで、それを溜め込む原発は、ゴミを捨てられないで、ゴミを集めて増やし続けるゴミ屋敷と同じである。原発の放射能はゴミ屋敷の悪臭と同じである。

 この困ったゴミ屋敷の問題を早く解決するには、経済的損得では無理であり、地球環境政策のように、「ともに生きる」ような前向きな政策が必要であろう。

 家賃を滞納するのはゴミを強制的に捨てることができる理由にもなる。もし、捨てたとして、裁判になったとしても、勝てる自信がある。数ヶ月前、駐車スペースにあったゴミの山を2ヶ月の猶予期間を設けて、強制的に処分したが、裁判にもならなかったし、何も言ってこなかった。その撤去費用の2万円を請求したが、それも払うことはなかった。

 とにかく、損を覚悟して、相手にも自分にもよい社会的環境を作るような手段をこうじることである。商売の基本にも「損して得をとれ」というのがある。武士道も、商売も、その極意は経済的損得を超えたところに、醍醐味があると思えるのだ。

   前向きに生きるということはともに生きるということだったんだ。

 

 

金は苦労の種、命は幸せの種

土曜日, 1月 26th, 2013

 今月、倉庫をゴミ屋敷のように2件使っている人が賃料を滞納した。唯一の連絡先である携帯電話があるが、今回は契約者のご都合により連絡ができないというアナウンスがあり、あせってしまった。

 単に、賃料の滞納だったら問題は少ないが、そのまま逃げられると、ゴミの処分量が数十万円かかるので、とても敷金だけでは足りなくなる。

 商売をしていると、こうした不動産賃貸でも、滞納されて困ることが多い。それを未然に防ぐようにしても、それでもダマされることがある。商売でもっとも難しいのが滞納の問題であるともいえるだろう。

 この滞納の問題を解決しようとすると、滞納額よりも多くの金がかかり、また、その手間と神経は莫大になる。

 最近、金持ちが自殺するニュースがあり、また、うちの店の家主も莫大な資産を持ちながら自殺した。逆に、借金が重なり、催促者にせまられて自殺する貧乏人もいる。

 つまり、金は多くあっても、なくても、それは苦労の種になるってことだ。

 しかし、金で苦労するとき、本来の姿にもどると、非常に気が楽になるものだ。金があってもなくても、生きることができるということである。

 それは人は食べ物を食べれば生きられるが、金を食べては生きられないということと同じである。

 今回の倉庫の賃料の滞納であっても、私自身が生きられなくなるというほどの問題ではない。大損するという問題であり、生きていられるだけで充分な満足がえられるからだ。

 よくつまらないことで喧嘩して殺し合いになることがあるが、このつまらぬことにうちに金が入ることになると思える。命と金とは無縁であるからだ。

 そもそも金というのは、国民すべてが今まで生産したモノを分配するためにものであり、また、将来国民が生産するであろうモノの分配をするためのものである。

 今日本は高度成長が終わって、少子化と老人大国になった。それは過去生産したモノが多く、未来生産するモノが少なくなるということだ。

 これは単純に借金(過去生産したモノ)が多くなるが、それ(未来に生産するモノ)を返せなくなる社会になったということである。そのため、滞納と不良債権が増えて、その金はゴミとなって消えていく。過去生産したモノの量と未来生産するモノの量が同額に調整されていくのである。

 例えば、過去生産したモノを多くもっちる老人に必要なモノは少ないので、金はほとんど使わない。未来生産するモノは過去ほどの生産は必要がないから、金は過去ほど必要がない。

 これが不景気である。未来の人が借金を返したら、その残りの金が少ないこと、そして、必要なモノをギリギリに使うので、必要で安いモノしか買わなくなる。これがデフレである。

 景気は活動量であり、お金もまた国民の活動量であり、その分配でもある。だから、今のデフレ不況は日本の活動をゆっくりとさせ、むしろ、生活の質を高める方向転換が必要になってきているのだろう。景気回復より、環境回復であり、金に苦労するより、生きることを楽しむ時代になったのだろう。

 世の中、金でもっているのではなく、命でもっているんだ。

 この切り返しをすれば、けっこう大らかで楽しく人生の船がこげそうだ。

川の流れのように

金曜日, 1月 18th, 2013

 最近、亡くなった友人たちのことを思い浮かべることが多くなった。それはどうやらあの世に呼ばれてる兆候かもしれない。または、人生の折り返しをしていて、どう生きるかではなく、どう死ぬかということの計画をしているためかもしれない。

 どう生きるかを考えている時は、自分は何をしたいかどうかを探っていたが、どう死ぬかを考えている時は、自分のやり残しがないように、寿命を計算して計画実行している。

 天才とは何か?という何かの映画の場面があった。

「そこに才能があるかどうかなんかどうでもいいことだ。知らず知らずにそれを夢中でやっていることが、その才能があるってことだ」

 大体、その人の才能があるかないかは、他人が判断することで、自分で決めることではないからだ。努力が意志的な行動量であるならば、才能は無意識的な行動量であるといえるだろう。

 最近、ほとんどの人が金のためには働かないということに気が付いた。そこに山があるから登るというように、人はやりたいことをするために働くのではないか、そのやりたいということだって、希望とか願望とは少し違って、無意識にそれをやってしまうのが、働くということのように感じる。

 つまり、無意識的行動は才能であり、労働であるといえるのではないだろうか。

 このブログだって、書きたくて書いているし、リフォームだって、やりたくてやっている。収入のためではない。ただそれをしたいがためだ。しかも、自分の体力と気力があるときしかやらないので、気ままな仕事というだけである。

 幸いにして、私は自分がやりたいことのためのお金には不自由しない。そのため、金のために働くということは皆無だ。ただ、新しい挑戦をして試してみたいというだけの行動のように思える。

 自分が自分らしくなるようなことを望むので、いわば、自己証明をしつづけるようなものである。

 生きる目的など必要がないように、生きる意味も、死ぬ意味も必要のないものだ。昔、若者の生き甲斐というようなものが流行したことがあるが、生き甲斐とは生きる意味とか、生きる目的のことだから、そんなものは必要がない。

 生きては死に、死んでは生きていく、あらゆる命の生死の流れを楽しむ、ちょうど船に乗って川の流れを楽しむようなものである。その流れの先がどうなるかなんてことは必要のないことだからだ。

 そのとき、もし誰かの命の船の行き先が早死として見えていたら、それを止めて、一緒に寿命を楽しもうと語り合えばもっと楽しくなる。

命は一つ

木曜日, 1月 17th, 2013

 命は一つにつながっている。この真実はこの世のあらゆる矛盾を解決する糸口になっている。

 例えば、戦争や犯罪で、殺す方と殺される方がいた場合、どちらが善人でどちらが悪人かという判断は必要なくなる。人類でなく、生物の世界では弱肉強食は自然のことである。

 先日の大雪で東京から山梨に車で帰るとき、高速道路が通行止めになり、一般道路で上野原から勝沼までの所要時間はなんと11時間かかった。ほとんど車で眠ることができたような状態であったが、その渋滞に対して誰も文句をいう人は一人もいなかった。それこそ、奇跡のような人間行動であると思えたのである。

 それはこうだ。自然の災害に対しては人類はけして怒らないし、素直に受け入れるが、それが人為的災害であったら、人類は怒り心頭して、殺し合いも辞さないということだ。

 2年前の東北震災の津波による自然災害に対しては素直に受け入れるが、きっかけが事前災害であったとしても、原発事故という人為的ミスはけして許さないということである。

 数十年前に、若者のテレビ討論の際、ある若者が、「どうして殺してはいけないの?」という疑問に、聴衆者は背筋が凍ったことがあった。

 また、ある地域通貨のような集会で、ある青年が政治家を目指す理由としてあげた内容にも私は背筋が凍ったことがあった。それは「自殺の自由を認める法律を作る」ということだったからだ。

 自殺も他殺も、殺すという行為には変わりがない。それが自由であり、善いことであったとしたら、自分もその社会も自滅崩壊することになってくるからだ。

 だが、日本の武士道はたぶんにこの精神が入っており、「いかに殺すか、また、いかに自殺するか」という正義であるかのような精神があると思えるのである。

 人は生きる目的とか意味という理由を求める。もし、誰かに「どうして殺してはいけないのか?」と問われたら、きっと多くの人はこう答えるだろう。「殺されたくないからだ」と。

 しかし、この答えは自殺志願者にとっては、逆説になってしまい、「では、殺されたいならば、殺していいということなんだな!」となり、自爆テロや、自殺志願者が無差別殺人をすることを正当化させてしまうという答えになってしまい、危険な答えになってしまう。

 「悪人は殺していいが、善人は殺してはいけない」という境界線をつけているのが、死刑制度である。しかし、善悪の判断にはたぶんにミスもあり、冤罪もあり、善人を法でころしてしまうという矛盾もおきてしまう。

 古今東西、人類はこの善悪で、また殺人行為で多くの矛盾する問題を起こしてきている。しかし、人為的な殺生ではない、他の生物や自然災害においては、なんら矛盾も問題もかかかえることはないのはどうしてだろうか?

 もしあなたが牛や豚であったら、人間に殺され食べられたら恨むだろうか? 牛や豚だけではなく、魚もまたどんな野菜も穀物であっても、恨むことはないだろう。恨むのは人間だけであると思える。

 それは弱肉強食の生物界ではそれが自然に成り立ちであるから、そのまま受け入れているにすぎない。

 人類の間においても弱肉強食のような世界があるが、それは人為的であるために、自然のようには受け入れられなく、喜怒哀楽が大きく働き、それはけして許される行為ではなくなる。

 しかし、こうした人為的殺生に対する怒りをおさえて平静な心になり、幸福感を取り戻す方法は唯一、自然の命に対する意識と合わせることである。

 それはどんな命も一つにつながっているということである。人類だけでなく、どんな生物とも命が一つとしてつながっているという真実をみることである。

 もし、殺す人と殺される人の命が一つになっているとしたら、食べる方と食べられる方の命が一つでつながっているとしたら、個々の命はちょうど海の波間のように生と死が揺れているだけのように感じられてくる。

 一つの死はまた再生するという姿にすぎなくなる。一つの生は始まりであるが、一つの死もまた始まりである。

 動物においての自我は世界一の独裁者になろうとしている。どんな人間であれ、潜在的にはみな世界一をめざすようにその命がしくまれている。だから人はスポーツの勝ち負けを楽しむのである。

 自我とはいわば世界を映すレンズのようなものであり、自我がなければ世界は存在できない。逆も真なりで、世界も自我がなければ存在しない。この世界というのは人間がみることができる世界のことであり、人類がなくても存在している自然界のことではない。

 人類がみる世界とは地球とか宇宙のような世界観のことである。その世界観は自我なしには存在できない感情思考世界のことである。

   幸福とか豊かさというのは感情思考の世界のことであり、人がそれを求めたとき、自然界を受け入れる姿勢になったときであろう。

 

 

より自由な社会には二種のお金が必要

水曜日, 1月 16th, 2013

 現代を生きるために必要なものは食料の他に電気である。この電気は再生可能な自然エネルギーであることがまた必須になってきている。

 個人における自給自足は食料でも電気でも難しいが、小さな地域社会では可能である。

 自由主義か社会主義かという数十年の世界の闘いで優勢なのは自由主義であるが、それは完璧に勝利したのではない。というのは、完璧な自由とは自分の自由を貫き通すことができるということだから、それは最終的は独裁的になる。完璧な社会主義という場合は、その社会を統括する最高指導者が最終的に独裁的になり、両主義は同じところを目指すことになるからだ。

 簡単にいえば、自分一人で生きられる社会はなく、最高指導者のいない社会は存続できないということである。

 自由主義と社会主義を融合させるには、自由主義の幅を小さな地域社会にすることで可能になる。しかも、その社会は経済的に自給自足が可能でなければ、他に従属するか、他を支配するかになり、真の自由は生まれない。

 しかも、この小さな地域社会において、独裁者を生ませないためには、基本的政策においては住民全体から自由な意見が出され、その多数決で決められることが必要である。今のテレビとネット社会ではそれが可能になっている。

 それが民主主義は政治家を選ぶことから始めるのではなく、民衆が直接政策を投票できる制度を造ることから始める必要があるということだ。

 というのは、選挙するときに、自分が望むような意見の持ち主の立候補者も党もないという経験が常であったからだ。

 自由な社会をさらに実現するためには、この小さな地域社会が他の地域社会との交流をどう発展させるかというのも重要である。科学技術が発展したおかげで、世界は小さくなり、国際的な交流なしには各国の自由は存続できない。

 自給自足が自由の原則ではあるが、より多くの自由を望んだ場合はさらに大きな国との協力関係が必要になる。国際化なしには自由はありえないとも言えるので、小さな地域社会という自由社会主義とは矛盾してしまう。

 この矛盾は自由の内容によると思われる。食料や電気のような経済的な自由は小さな地域社会が必要であるが、文化、政治、教育医療研究などは大きな国際化が必要であるといえるだろう。

 どんな自由資本主義社会でも、最低生活保護政策は必要なものである。この最低生活保障が自給自足と同じ次元の政策であろう。というのは、最低生活保障はその地域の住民の命を守ることで、その社会全体で助け合うもっとも基本的な協力関係であり、いわば、最も重要な社会主義である。住民一人一人が自由であることが自由主義であるから、社会が一人の人間の命を奪うとしたら、そこに自由は消滅してしまうからである。

 つまり、自由主義とは相手の自由を奪うことではなく、相手の自由を認めかつ、自分の自由をも認めなくては成立できないからだ。

 食料も電気も、お金という経済で生産流通している。また、文化・政治・教育医療研究さえも、お金で動いている。経済と政治文化教育とは一つにすると自由さに弊害が生まれる。経済にあったお金と政治文化教育医療にあったお金と区別した方が、より自由な生産と流通かつ文化が生まれると思われる。

 お金も科学技術のようなものである。それがどんな使われ方をするかで、善し悪しが生まれてくる。お金で教育を買おうとすることが犯罪になるようなものである。ならば、人は肉体と心があるように、お金も肉体を支えるお金で、心を支えるお金の二種があってこそ、自由な社会が、小さな地域社会と大きな国際社会で実現できるように思えるのである。

 

多数決の民主主義が正しいとは限らない

月曜日, 1月 7th, 2013

 山本五十六というテレビのロードショウを観たが、未来に向けての正しい判断をしていた山本五十六という個人の意見は上の命令と、国民の声とマスコミによって、間違った戦争へといかざるをえなく、またその職務から数百万人の命と自分を犠牲にしてしまったというものだった。

 間違った戦争の反省がまだまだ足りないような気がする。それは多数決が最優先される民主主義が常に正しいとは限らないことを教えてくれる。

 人の意見は事実からいろいろと変わってくるものだ。その事実がもし嘘であったり、その事実が全体で組み合わさった事実ではなく、ほんの一部の抜粋された事実であった場合、人は誰しも間違った意見へと導かれてしまう。

 そこで、もっとも大事だと思われるのは、一人一人が自分で確認できる事実を組み合わせて、自分の意見を持つということであろう。

 次に大事なことは、自分の意見のとおりに行動することではないだろうか? 山本五十六は上の命令には従ったが、部下は山本五十六の命令には従わなかったということで、自分の意志と行動とは逆の結果になってしまった。

 その結果からの反省をするなら、連合艦隊の指揮する任務を断った方がより正しい判断だったかもしれない。しかし、断ったとしても、戦争は避けられなかっただろうし、より被害が少なかったかどうかはわからないが、少なくとも、彼自身はより長く生き延びることができたかもしれないだろう。

 だが、より長く生き延びることが常に正しい判断かどうかはそれも疑わしいことだ。そう考えると、正しい判断は何かなんてことは誰もいえないこととしかいいようがない。

 しかし、人は正しい判断をしようと常にもがいている、それが他人と多く会談して、自らの判断をすることが大事であるのだろう。

 そう考えると、多数決である民主主義よりも、多数の意見と会談して、自分の意見と行動を決め、その結果が、多数意見とは違っても、自分が決断した意見と行動をすることが大事であるといえる。

 多数決に従うのではなく、多数の意見を吟味して自分の意見に従うのがこれからの生き方ではないだろうか。

 それをあえていうなら、謙虚な自由主義ということになるだろう。

 

 

経済優先から環境優先へ

金曜日, 1月 4th, 2013

 耕耘機で、米の畑作用に耕した。あまりに石ころが多いので、耕耘機が壊れる寸前のところまでいった。米は余っているくらいで、しかも、条約で輸入しているので、栽培する必要はないのだが、自給自足を目指す者にとって、毎日の食事のメインが米である以上、それを自分で栽培したいと思うので、挑戦している。

 水田だとうまくいくようだが、畑作で米の栽培は難しいようだ。福岡式自然農が米麦の二毛作だったので、そこから入ったが、麦は成功したものの、米は二度も全滅して、今度は三度目だ。

 伝統的栽培を勉強せずに、まったくゼロから挑戦したいので、三度目は冬に種籾をまいて、どうなるかを試す。

 私の理想は何もしないで、毎年穀物や野菜が収穫できることである。それは山で柿がとれたり、山菜やきのこがとれるようなものである。

 農業と漁業は似ている。魚はたくさん採らなければ、毎年魚は充分捕れる。穀物や野菜だって、魚と同じようにして、来年もそのまま収穫できるくらいに、間引くくらいに少しだけ収穫しておけば、可能ではないかと思うのである。

 毎年何もしなければ、同じような雑草が春夏秋冬で生えては枯れている。しかも、草刈りをしても、やはり生えては枯れる。そんな雑草と穀物野菜とどう違うのだろうか?

 漁業や農業において、人は売ってお金にすることばかり求めているから、苦労多くして、不安定な収穫になってしまうのではないだろうか。

 確かに、お金の発明は経済的に生活を豊かにしてきたが、逆に心を貧しくしてきたのではないだろうか。国の経済戦争は武力闘争にも発展する。そして、何よりも、貧富の差を大きくしてしまう。それは強い者が弱い者を虐げるような社会になってしまう。

 経済がある程度発展したら、環境を重視せざるをえなくなる。そうしないと、全滅してしまうからである。

 今のお金のシステムでは自由市場が基本であり、より多く金持ちになった者がその市場を制することができる。個人でお金は無制限に持てるので、「お金はあればあるほど良い」という考え方が主流になってしまう。

 これは魚や穀物野菜を採れれば採れるだけ採れれば良いということであり、それは来年には持続できない、一時の経済的観念である。

 人間が住みやすく、未来にわたって安心して暮らせるようにするには、食料や資源を常に持続可能な循環にする環境が必要である。そのためには、必要以上の食料も資源もお金も得ようとはしないことが大事になる。

 今の経済はギャンブルと同じになってしまうのは、必要以上のお金を発行するから、生活から離れて、勝ち負けの楽しみだけで、お金を儲けようとする。それが食料や資源は本来の目的ではなく、ギャンブルを楽しむのために、コインになってしまっている。

 経済が損得で動くが、環境は損得は関係なく、命の循環がされている。原発はまったく環境を配慮しないで、経済だけで動いている典型的なものだ。未来の人類の命を捨ててまで、今の電気を享受するのは馬鹿げている。

 数十年前は核戦争で人類は破滅すると言われてきたが、今は原発で人類は破滅するといえるだろう。

 これは経済を最優先すると、人類は破滅し、環境を最優先すると、人類は永存するともいえることだ。

 

 

平和と感謝の心を輸出する日本へ

木曜日, 1月 3rd, 2013

 世界の経済戦争で世界一をめざすような時代は終わった。これからは、日本の心を輸出する政策に転換する時代になってきている。

 中国にGDPで追い越され、韓国で家電製品が追い越され、そのため、安売り合戦をして、さらに優位に立とうとする経済戦争はまるで軍拡競争みたいなものになっている。

 それが、あらゆることに対して、経済優先の政策になり、それが内外のおける摩擦を多くしている。

 それは貧しき心を世界に輸出しているようなものである。 今、日本が輸出すべきなのは平和と感謝の心であろう。

 中国が尖閣諸島を武力でとりにきたら、どう答えるか、韓国が竹島の領土を主張したら、どう答えるか。
 福島の原発事故の始末で、どういう政策を世界に示すか? TPPのような経済問題にどう答えるか?
 世界の紛争に、世界の悲惨さにどう答えるか。世界の人々が感動するような言葉と行動をどう示すかである。

 モノから心の時代になった今、日本の心を輸出する政策に転換していくことが大事であろう。

 国の損得で行動するのではなく、徳で行動する時代であろう。