Archive for 1月, 2013

旧約聖書の神はエジブトの太陽神かも

水曜日, 1月 30th, 2013

 キリスト教とイスラム教の元の神は旧約聖書に出てくるユダヤの神である。これは出エジプト記にも記されているように、モーゼがエジプトで虐げられたユダヤ人を率いて、エジプトを脱出する神話である。

  モーゼの神がその後キリストに受け継がれキリスト教に、さらにマホメットに受け継がれイスラム教になり、その解釈によって、いろいろな宗派ができて今日にいたる。

 最近、BSで「エジプト人」という映画を観た。この映画は紀元前13世紀の物語であり、そこで描かれているアテンの神は太陽神であり、唯一の創造主として、崇められ、まさに民族や貧富の差を超えた愛と平等はキリストの愛と同じであった。

 この「エジプト人」の映画の元になった史実がある。それが紀元前13世紀に生きていたツタンカーメン王である。彼の父親であるアクエンアテン王はそれまで多神教であったのを廃して、唯一の太陽神であるアテンを信仰した。

 しかし、それまでの神々を信仰する民衆や神官に押されて、若きツタンカーメンをかつぎあげて、父王は映画のように殺されたのであろう。

 ツタンカーメンは若くして病死し、その後王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになった。

 映画の主人公である医者であるシヌヘはただ自分の生涯を記した書を唯一の宝として残して映画は終わる。かれは無神論者であったが、唯一神であるアテンの神を最後には信じることになった。

  この主人公シヌヘこそ、旧約聖書で語られているモーゼと重なって見えてくる。

 つまり、キリストとイスラム教の元の唯一神はエジプトのアテンの神である太陽神につながってくる。

 これを最初に発見したのは、どうやら精神分析学のフロイトだったようだ。彼はヒットラーのユダヤ人迫害の馬鹿馬鹿しさをうったえるために、ユダヤ民族は元々エジプト人であったという説をとなえたようだ。

  人は民族の違いで戦争するのではなく、その信仰の違いで戦争するといえるようだ。

 そして、人は信じる内容でその人生が決まるともいえるだろう。

 

ひょっとしたら核ゴミ無害化できるかも

火曜日, 1月 29th, 2013

  井口和基さんのプログで、おもしろい案を見つけた。
http://quasimoto.exblog.jp/18829407/
 ひょっとしたら、核ゴミをあっというまに無害化できるかもしれない。

 それはこうだ。
 原子力は重いウランに中性子をぶつけて核分裂させて、熱を発生させる。その際にでるのが熱と放射能と放射性物質である。

 原子核は陽子と中性子が堅く結びついているが、その結合させている粒子が湯川秀樹が発見した中間子である。

 となれば、放射性物質に中間子をぶつければ、不安定な放射性物質は安定した鉛のような物質になるかもしれない。

 井口さんが提案したように、

 「福島原発の横や近辺に中間子製造機のベータトロンを作る。そこでどんどん中間子ビームを発射する。そのビームの下に放射性廃棄物や放射性瓦礫をどんどん通過させる。どうなるか?
 無害化できるか? 中性化できるだろうか?
 これを知りたいのである。
 放射性原子核は中間子を食って無害の原子核に変化できる。
 これは現実の物理学の教えなのである。
ぜひ日本政府はお試しすべきでしょうナア 」

 このプログを見つけたのは、先日提案した自分の核ゴミを地球の核マントルに捨てた場合、火山のように爆発して、それが溶岩とともに火山灰としてよけいふりそそいだらどうなってしまうのだろう? という不安を解決しようとしたときだった。

 このブログには、もう一つの火山灰による除染案がある。
http://quasimoto.exblog.jp/17934645/

「商品開発の分野でも、新燃岳の火山灰から放射能吸収剤をつくった。 最近、この火山灰商品に光合成細菌をかませてバージョンアップした。 そしたら、さらに性能がアップ、除染効果も格段にあがった。
 この火山灰の粉を、少量、室内に静かに丁寧に散布して、一時間後、 サイクロン型掃除機で吸い取ると線量がゼロに近くなる! という報告 が何件も寄せられてきている」

 となると、地球深くマントルに捨てた核ゴミが最悪火山として爆発して、火山灰に入ったとしても、その火山灰は容易に集め、また核マントルに捨てることができるのではないかと思えた。

 ともあれ、除染に水による高圧洗浄機は無効であり、むしろ、ブラシで削りとった方が有効であるという報告がある。しかし、それは草木には向かないだろう。むしろ、炭やゼロライトのような多孔の粉を噴霧して、それを吸い取った方が手軽で有効のように思える。

 この除染の実験とその結果はすぐにできる。また、中間子による無害化実験は予算を1兆円くらいかければ可能ではないだろうか? その実験は急務だし、それこそ、公営事業としての景気対策にもなるだろう。

 

前向きに生きるということ

日曜日, 1月 27th, 2013

 原発は事故があってもなくても、人類の失敗であった。それはゴミを資源にできないからだ。どんなゴミも再生できれば自然循環でき、人類はそのゴミで自滅することを免れる。

 「失敗は成功の元」である。

 失敗は失敗のままで終わってはならない。失敗を成功の元にすることが、自然に生きることであり、前向きに生きるということである。

 原発の発電を核爆発ではなく、他の再生可能なエネルギーに転換し、地熱発電に切り替えたらどうだろう。原発の大きなタービンをそのまま使い、原発を冷やす水循環を地下水との循環にすれば、まさにリフォームになる。

 地熱発電は温泉よりもさらに深く3000メートル以上掘れば可能である。それはまさに原発事故のメルトダウンで地下深く穴があくようなものである。

 核廃棄物は地熱発電よりもさらに深く数千メートル掘って、地球の核であるマントルに捨てるしかないのではないだろうか。  太陽は核爆発であるから、地球のマントルも核爆発の一種ではないだろうか。核廃棄物を地球の核にもどしてあげれば、放射能被害も防げるのではないだろうか?

 今、核廃棄物を地下数百メートルに埋めて、数十万年もその放射能を見張るのは、かなり無理がある。日本の核廃棄物をフランスのように、ロシアなどの他国に露天で放置するようなことも、無責任なことである。

 そんな核廃棄物を処理できないような技術を日本はベトナムに売ろうとしている。これはいわば不完全な技術、危険は技術を売ってもうけようとする悪徳詐欺と同じである。

  失敗は成功の元にしてこそ、人類が知恵で進化しか最大の強みである。人類は政治でも、あまりにも欲望的経済的損得で考えてしまい、命を守る地球環境の大事さを忘れてしまう。

 中国や韓国との衝突もまた欲望的経済的損得から生まれるものである。それらはお金の損得で考えようとうするから、衝突する。どんな闘いも、相手を倒して、自分を勝たせようとすることから起こる。基本的に弱肉強食の自己保存の法則である。

 しかし、人類が地球の生物を制する知恵は弱肉強食の自己保存ではなかった。江戸時代の仇討ちの奨めではなかったのだ。ともに生きる生き方であったのである。

 敵を倒しても、その敵を味方にする日本の将棋はまさに武士道の極意であろう。敵という失敗人も、見方という成功人にもなるというゲームのルールこそ、人類が生き残る知恵である。

 私の仕事で今困っていることは貸している倉庫をゴミ屋敷にして、その家賃までも滞納している人である。

 この賃料を払わないゴミ屋敷はいわば原発事故と同じに感じている。賃料を払わないから契約解除してしまえばいいというわけではなく、そのゴミ処置を業者に委託すると100万円近くかかる。

 そのゴミだって、集めた本人にとっては貴重で捨てられないものである。そのため、勝手に処分すれば法的に罰せられることだってあるかもしれない。

 実はこの人は隣町の数十階建ての一室の自宅マンションを持っていて、そこもまたゴミ屋敷にしている。そのため、他のマンションの住人ともめている状態で、私と同じ問題をかかえている。

 核ゴミを捨てられないで、それを溜め込む原発は、ゴミを捨てられないで、ゴミを集めて増やし続けるゴミ屋敷と同じである。原発の放射能はゴミ屋敷の悪臭と同じである。

 この困ったゴミ屋敷の問題を早く解決するには、経済的損得では無理であり、地球環境政策のように、「ともに生きる」ような前向きな政策が必要であろう。

 家賃を滞納するのはゴミを強制的に捨てることができる理由にもなる。もし、捨てたとして、裁判になったとしても、勝てる自信がある。数ヶ月前、駐車スペースにあったゴミの山を2ヶ月の猶予期間を設けて、強制的に処分したが、裁判にもならなかったし、何も言ってこなかった。その撤去費用の2万円を請求したが、それも払うことはなかった。

 とにかく、損を覚悟して、相手にも自分にもよい社会的環境を作るような手段をこうじることである。商売の基本にも「損して得をとれ」というのがある。武士道も、商売も、その極意は経済的損得を超えたところに、醍醐味があると思えるのだ。

   前向きに生きるということはともに生きるということだったんだ。

 

 

金は苦労の種、命は幸せの種

土曜日, 1月 26th, 2013

 今月、倉庫をゴミ屋敷のように2件使っている人が賃料を滞納した。唯一の連絡先である携帯電話があるが、今回は契約者のご都合により連絡ができないというアナウンスがあり、あせってしまった。

 単に、賃料の滞納だったら問題は少ないが、そのまま逃げられると、ゴミの処分量が数十万円かかるので、とても敷金だけでは足りなくなる。

 商売をしていると、こうした不動産賃貸でも、滞納されて困ることが多い。それを未然に防ぐようにしても、それでもダマされることがある。商売でもっとも難しいのが滞納の問題であるともいえるだろう。

 この滞納の問題を解決しようとすると、滞納額よりも多くの金がかかり、また、その手間と神経は莫大になる。

 最近、金持ちが自殺するニュースがあり、また、うちの店の家主も莫大な資産を持ちながら自殺した。逆に、借金が重なり、催促者にせまられて自殺する貧乏人もいる。

 つまり、金は多くあっても、なくても、それは苦労の種になるってことだ。

 しかし、金で苦労するとき、本来の姿にもどると、非常に気が楽になるものだ。金があってもなくても、生きることができるということである。

 それは人は食べ物を食べれば生きられるが、金を食べては生きられないということと同じである。

 今回の倉庫の賃料の滞納であっても、私自身が生きられなくなるというほどの問題ではない。大損するという問題であり、生きていられるだけで充分な満足がえられるからだ。

 よくつまらないことで喧嘩して殺し合いになることがあるが、このつまらぬことにうちに金が入ることになると思える。命と金とは無縁であるからだ。

 そもそも金というのは、国民すべてが今まで生産したモノを分配するためにものであり、また、将来国民が生産するであろうモノの分配をするためのものである。

 今日本は高度成長が終わって、少子化と老人大国になった。それは過去生産したモノが多く、未来生産するモノが少なくなるということだ。

 これは単純に借金(過去生産したモノ)が多くなるが、それ(未来に生産するモノ)を返せなくなる社会になったということである。そのため、滞納と不良債権が増えて、その金はゴミとなって消えていく。過去生産したモノの量と未来生産するモノの量が同額に調整されていくのである。

 例えば、過去生産したモノを多くもっちる老人に必要なモノは少ないので、金はほとんど使わない。未来生産するモノは過去ほどの生産は必要がないから、金は過去ほど必要がない。

 これが不景気である。未来の人が借金を返したら、その残りの金が少ないこと、そして、必要なモノをギリギリに使うので、必要で安いモノしか買わなくなる。これがデフレである。

 景気は活動量であり、お金もまた国民の活動量であり、その分配でもある。だから、今のデフレ不況は日本の活動をゆっくりとさせ、むしろ、生活の質を高める方向転換が必要になってきているのだろう。景気回復より、環境回復であり、金に苦労するより、生きることを楽しむ時代になったのだろう。

 世の中、金でもっているのではなく、命でもっているんだ。

 この切り返しをすれば、けっこう大らかで楽しく人生の船がこげそうだ。

川の流れのように

金曜日, 1月 18th, 2013

 最近、亡くなった友人たちのことを思い浮かべることが多くなった。それはどうやらあの世に呼ばれてる兆候かもしれない。または、人生の折り返しをしていて、どう生きるかではなく、どう死ぬかということの計画をしているためかもしれない。

 どう生きるかを考えている時は、自分は何をしたいかどうかを探っていたが、どう死ぬかを考えている時は、自分のやり残しがないように、寿命を計算して計画実行している。

 天才とは何か?という何かの映画の場面があった。

「そこに才能があるかどうかなんかどうでもいいことだ。知らず知らずにそれを夢中でやっていることが、その才能があるってことだ」

 大体、その人の才能があるかないかは、他人が判断することで、自分で決めることではないからだ。努力が意志的な行動量であるならば、才能は無意識的な行動量であるといえるだろう。

 最近、ほとんどの人が金のためには働かないということに気が付いた。そこに山があるから登るというように、人はやりたいことをするために働くのではないか、そのやりたいということだって、希望とか願望とは少し違って、無意識にそれをやってしまうのが、働くということのように感じる。

 つまり、無意識的行動は才能であり、労働であるといえるのではないだろうか。

 このブログだって、書きたくて書いているし、リフォームだって、やりたくてやっている。収入のためではない。ただそれをしたいがためだ。しかも、自分の体力と気力があるときしかやらないので、気ままな仕事というだけである。

 幸いにして、私は自分がやりたいことのためのお金には不自由しない。そのため、金のために働くということは皆無だ。ただ、新しい挑戦をして試してみたいというだけの行動のように思える。

 自分が自分らしくなるようなことを望むので、いわば、自己証明をしつづけるようなものである。

 生きる目的など必要がないように、生きる意味も、死ぬ意味も必要のないものだ。昔、若者の生き甲斐というようなものが流行したことがあるが、生き甲斐とは生きる意味とか、生きる目的のことだから、そんなものは必要がない。

 生きては死に、死んでは生きていく、あらゆる命の生死の流れを楽しむ、ちょうど船に乗って川の流れを楽しむようなものである。その流れの先がどうなるかなんてことは必要のないことだからだ。

 そのとき、もし誰かの命の船の行き先が早死として見えていたら、それを止めて、一緒に寿命を楽しもうと語り合えばもっと楽しくなる。