Archive for 4月, 2015

この世は奇跡の連続故に奇跡を求める

木曜日, 4月 30th, 2015

人はついギャンブルに夢中になり、勝っては嬉しくなりまたギャンブル、負けると悔しくなり またギャンブルする。

この心の習性から ギャンブルから抜け出せなくなり、ギャンブルなしでは生き甲斐も生きる気力もなくなってしまう依存症に陥ってしまう。

古今東西の人類に、このギャンブルの習性があり、それがどこから来るのか? 探っていくと、

自我が生まれる奇跡にあるようだ。

この世に生まれ出る人はみなそれぞれ奇跡の確立で存在し、消えていく。古今東西にわたって まったく同じ人間が生まれ死ぬことはなく、その確立は人類の歴史にわたって生まれ出て亡くなっていった個人の数だけではなく、未来に生まれ出て亡くなっていく個人の数を合わせても、その無限の数ほどの中で たった一人の自我が生まれるのは奇跡中の奇跡でもある。

人類が生物界に誕生するのは進化の産物である。その進化がどのようにされてきたのか? それを探っていくと、

過酷な状況に遭遇した時に、なんとか生き残ろうとする生命力が突然の進化をもたらす。それを環境の適応能力ともいえて、他の生物と違った選択と進化で 人類が生まれてきた。

こうした進化の環境適応能力はいわば「ピンチをチャンスにする」能力すなわち知恵でもある。この「ピンチをチャンスにする知恵」は必ずあり得るもので、それも一つの道だけでなく、多種多様の生物が生まれ出た進化の数ほどあるようだ。

未来が100%見えることはありえないように、ピンチは100%ピンチであることはない。そこに数パーセントのチャンスが隠されていることは確かな真実であり、その進化へのチャンスを狙って夢見るのが生命力の本源ともいえよう。

人はなぜギャンブルに夢中になるのか?

ギャンブルは少ない確率の世界である。確立が少なければ少ないほど奇跡と呼ばれる。

そもそも自我そのものが奇跡の産物であるから、奇跡を求めるギャンブルもまた奇跡の人の習性にもなってしまうのだろう。

ただ、ギャンブルは金銭をたくさん得ることを目的としているが、そのおもしろさは金銭を得ることにあるのではなく、少ない確率に挑むゲームそのものにあるといえよう。この奇跡を求めるゲームは他にもたくさんあり、宗教による救いも、新技術や新発見新発明だって同じだ。それらはみなより進化を求める生命力の本源にあるといえよう。

 

必要は自由への道

土曜日, 4月 25th, 2015

ダイエットに挑戦していると 生活が一変する、特に価値観が変わることだ。

 

ダイエットは必要の栄養だけとって 余分な栄養を取らない食生活で健康になることだ。

いわば 山登りで 本当に必要な最低限のものだけリュックに入れて登るようなものだ。

余分な荷物はいわば重荷であり、すぐ息切れしたり、苦労してしまい、快適な登山ができなくなり、それは労苦であり嫌なものになってしまう。最低限必要なものだけを持って、軽やかに登山すれば それが楽しくもなり、好きになって継続するものだ。

 

必要な分だけ持って生きる快適さは、金銭をかせぐことにもいえて、自分が生きるのに最低限の金銭だけを稼ぐようにすれば 余計な仕事や嫌な仕事をしなくてもすむようになる。金銭はあればあるほど良く、幸福や自由になるのではない。金銭は自分にとって生きる上で必要な分だけ得られるようにすることが 最も良く、幸福と自由を得られるという確信をダイエットから学ぶことができる。

 

ダイエットを継続する上で 「もったいない」心が 肥満を生み出す原因になることが多い。余ったものを捨てないで無理しないで食べてしまう。大量に残った食材が食べないと腐って 食べら得なくなると 「もったいない」から、お腹一杯でも余分に食べてしまう。家族のものが残して 「もったいない」から それも余分に食べてしまう。

「もったいない」精神は裕福でない生活にとっては有効だが、裕福な生活にとっては無効である。

裕福な時に有効な精神は「必要な分だけ買う」「余分に買わないこと」である。また「必要以上のものを持たない」ことである。

「もったいない」精神より 「必要な分だけ」精神が重要である。そうすれば余分はものは残らないし、もったいないと思って余分に食べることも苦労しなくてもいいことになるからだ。

ダイエット継続のポイントは「その時必要な分だけ買う」ことだ。まとめ買いをしないで、その時必要な分だけを買い、面倒なようだけど、その方が残りものをしなくてすみ、後で食べたい内容が変わったときに、それらを腐らせたり、捨てたりしなくてすむ。

それはリサイクルより リデュースである。再生産しない、余分に買わない作らない持たないことだ。これは原発電気にもいえて、必要以上の電気も熱量も大量に生産しては 必要以上であるから大量に捨てているのだ。そして、その放射性廃棄物で「死と病の苦労」を何世代にもわたって 引き継がねばならなくなる。これこそ「もったいない」のである。

「もったいない」は「必要ない」という意味で使うことが健全な理解だろう。

 

生きるのに必要のないもの、例えば煙草 酒 嗜好品 麻薬 などである。そうしたものは大量に摂取すると 「それなしでは生きられない」という錯覚誤解に陥り、依存症という死にいたる病になることが多い。

それは

生きるために必要なことでないもの、例えば 株や外国為替の売買 金銭の貸し借り マネーゲーム なども、それに夢中になると 「その損得ばかり気になる」苦労性に陥り、それもまた 幻想を追う心的病になり、それらは本質的にギャンブルであり、勝っては喜びまたやり、負けては悔しいのでまたやり、やめたくてもやめられないという心的危機状況に陥る依存症になってしまう。それは経済的破産や誘惑から自殺他殺への危険にはまりこんでしまう。

こうした「生きるのに必要ないモノ・生きるのに必要ないコト」はわざわざ苦労を買うようなもので、自分を自分でそれらの奴隷化させてしまう。酒は飲んでも飲まれるな! という格言があるように、酒の誘惑にまけて、酒を必要以上に飲まざるとえなくなるアルコール依存症になってしまう。

逆に「生きるのの必要なモノ・生きるのに必要なコト」だけをしていると、余分なモノを持たず、余分なコトをせず 苦労も必要な分だけすればいいので、余分な苦労をしないので生きる余裕が生まれる。それに必要のない欲望も生まれないので、誘惑にもまけないですむ。煙草や酒や旨いものや金儲けの誘惑から奴隷化されずに、自由に生きられる。

それはちょうど狭い部屋の中で余分な荷物がなく 必要なものだけあれば快適であるようなものだ。必要な荷物だけですむなら、あえて広い部屋も必要もないので、よけいな金銭も手間も管理も必要なくなるような ちょうど いつでもどこでもいけるフーテンの寅さんみたいな自由がえられるようなものだ。

宗教においても、私の経験からも、

「信ずれば救われん!」とはいうが、実際に「信じて馬鹿をみた!」ということの方が多いのではないだろうか。

「触らぬ神にたたりなし」という諺はまさに「信じなければ その信仰に縛られることはない」という意味で庶民の知恵であろう。

自分が生きるのに必要な信心だけ持てばいい、それ以上の信心をもったら、それは重荷であり、それらの奴隷になって、今世界を震撼させているイスラム国のような残虐な殺人や性暴力をせざるをえなくなってしまうことだってありえることだ。

自由は自分が生きる上で必要な信心 モノ コトだけにして、それ以上余分な信心・モノを持たず コトをしないことで得られるのだ。

 

目的と手段が入れ替わりやすい矛盾とは

土曜日, 4月 18th, 2015

ダイエットを目標にして それを最も優先する行為にしていたが

仕事に夢中になり、仕事をダイエットよりも優先してしまい、リバウンドしてしまった。

ダイエットを最大の目標にした場合、その他の行為はその手段にすぎない。仕事もダイエットのための一つの運動手段にすぎない。

目的と手段を考える時に

平和のための戦争という行為という矛盾がある。

その矛盾のため、この平和目的と戦争手段は入れ替わってしまい、戦争目的と平和手段(偽条約 ただの大儀など)になる歴史の繰り返しをみることができる。

入れ替わりやすい戦争と平和の矛盾は

生きることと死ぬことの目的と手段にも 根本的矛盾が存在している。

誰でもが死んでしまう運命を持っているのだから、どんな人間も目的は死ぬことである。

これが確かな真実であるから、生きることは死ぬための手段であり、

死むまで生きるというような笑い話にもなってしまう。

武士道の極意が「死ぬことと見つけたり」となり、「いかに死ぬか?」それが最も大事になってしまい、

今の「死を待つ家」「デイケアーホーム」の運営につながってくる。

古今東西の宗教においても、この世よりもあの世また来世の方が大事になった信仰があり、この世はあの世のための修行となってしまう。

イスラムの平和社会を実現するための聖戦と信じて 自爆テロを起こす信念もまた、この世よりもあの世 来世の方が目的で大事になっているといってもよい。

この世の経済生活は実質経済と金融経済がはっきりと分かれるが、それも実際の生産と消費とサービスが目的であり、その目的を支える手段が金銭であり、勝ち負けの競争市場である。

手段である金銭が目的である生産消費サービスと逆転してしまうのが マネーゲームに夢中になり、スポーツのように勝つことが目的になってしまうという矛盾に陥りやすい。

こうした目的と手段が入れ替わりやすい矛盾を解決するには「生きること」と「死ぬこと」の根本的問題を解決するしかない。

 

その矛盾解消は先日書いたブログ「死の世界などない」という思想が役立つ。

死は意識が無い状態であるから、意識がある生があって始めて目的と手段が生まれる。

そのため、意識の無い死の世界は目的にも手段にもなりえない。

それは死の世界へと導く殺人や戦争は目的にも手段にもなりえないし、

マネーゲームにおける勝負は実際の経済生活の目的にも手段にもなりえないのである。

戦争やマネーゲームが終わった後に来る空しさは「無いものを有るかのように夢中になってしまう幻想」からくるものである。

 

目的と手段が成り立つ世界は意識が在る「生きている」この世だけである。

この世は生きている世界であり、その目的は「生きること」であるから、それ以外はみな手段となる。

つまり、生きることだけが目的になり、死ぬことは目的にも手段にもならないのだ。

平和に生きることは目的にはなるが、そのための戦争で死ぬことは手段にはならないし、まして目的にもならない。

より強く共存するための競争は手段として成立するが、勝ち負けがより強く共存するための目的にはなりえない。

商売や技術が競い合ってより向上するには勝った者は負けた者を助け、負けた者は勝った者を賞賛することである。戦争のように負けた者が死に勝った者だけが生き残るような行為はこの世の地獄であろう。

この世を天国にするには 生きること 生かすこと を目的もして、 死ぬことや殺すことを目的や手段にもしないことである。

そして、「生きること」「生かすこと」を最優先した行為にして、死ぬことや殺すことを除いたすべての生活行為は手段として扱うことであろう。

仕事の成功失敗 勝負事 善悪 貧富 区別差別 法律などはみな「生きること・生かすことの手段」にすぎなく、けしてそれらを目的にはしてはならない。また「死ぬこと・殺すこと」を目的にも手段にもしてはけしてならないのが この世の平和実現には欠かせない意識であり、それが常識や慣習そして憲法にもなってほしいものである。

 

 

民主主義の終焉と命優先主義の始まり

日曜日, 4月 12th, 2015

民主主義といえば、国民による選挙が思い浮かぶ。

そして 選ばれた議員が法律や定めたり、政策を決めたりする場合

最終的に「多数決」で定められる。

これは多数の意見が正しく、少数意見が誤りであり、少数意見の者は多数意見の者に従えということでもある。

日本が太平洋戦争した時、多数が戦争賛成であり、少数が戦争反対であった。

歴史的にみて、多数の国民が戦争賛成して実行されたことが正しくはなかったと判断し 証明することだってできる。

それは多数決を正義とする民主主義は終焉したことを意味する。

 

平和の状態で、一人殺せば犯罪であり、多数殺せば凶悪テロであり、

戦争の状態で、一人殺せば正当防衛であり、多数殺せば英雄となる。

殺人の数と状況によって 正義は変わり、逆転だってありえることになる。

それが民主主義の多数決優先正義であり、それは独裁政権の横暴と同じ 多数集団の横暴テロであろう。

独裁政治と民主政治の違いは一人で決めるか、多人数で決めるか それだけの違いである。

 

では多数決に代わるより正当性な決断とは何だろうか?

これは命の選択として、自分の命をどうするか 自分で自分の道を決断する行為でもある。

自分の命は常に一つであって、自分の命が多数あることはできないし、存在しない。

それは一人殺すのも 多数殺すのも同じという凶悪犯の論理の正当性でもある。

最近自爆テロで、自殺しながら多人数殺すことがあちらこちらで出てきている。

平和な日本だって、自殺願望の者が無差別テロで次々殺す犯罪が起きているのもそうだ。

この自爆テロや無差別殺人は民主主義の横暴の顕れともいえ、多数による暴力犯罪ともいえるものだ。

こうした多数の命と一つの命を差別することはヒューマニズム人道からも受け入れることはできないし、

どんな人間も一個の自分という命でできており、多数の自分の命でできるいるわけではないので、多数の命など存在しないといっていいのだ。

そこで、多数決に代わるより正しい決断は自分の命における自分の判断基準に照らすことがよいことになる。

例えば

ダイエットするかどうかの判断をする、より自分が長寿できる食と運動の生活スタイルを優先する決断をするだろう。

それは多数の命ではなく、一個の命の長さを最優先する決断をするもので、多数決ではなく長寿決に代えることだ。

民主主義の選挙では議員や党を選ぶが

長寿を優先する命の選挙では政策を選び、選ばれた政策を最も進める立候補者が入選することになる。

例えば 国民は原発をどうするかの選挙が実施された場合、脱原発が最も多くの国民の意思であったと判断された場合、立候補者は脱原発への意志が最も強い人物や党から入選するという選挙に代わることになる。

民主主義から長寿命主義に

多数決から命最優先決に!

 

 

 

 

共存への道しか生き残る道はない

土曜日, 4月 11th, 2015

昨年収穫した陸稲の籾をバケツに培養土を入れて蒔き苗代を作った。

直播きすると 雑草に負けて 芽が出る籾も少なく、成長できたとしても 雑草に殺されてしまう。

苗を作り、しかも雑草対策にマルチシートを敷いて籾を保護しないと陸稲は実らず収穫できない。

野菜も同じである。

どうして雑草の方が穀物や野菜よりも強く、保護どころか何度も刈らされても しっかりと大きく成長できるのだろうか?

穀物や野菜だって 元は雑草だったはずである。

人の手助けなしに穀物や野菜は生育できないほどになってしまったのは 雑草を殺し、穀物野菜だけを生かそうとしたためではないだろうか?

どんなに農薬が発明されても、雑草はけして根絶やしされることはなく、より強く生き続けている。それは雑草をけして根絶できないということであるから、雑草を殺して穀物野菜を生かす道は限界があり、むしろ、雑草とともに共存できる穀物野菜を作っていくことがこれからの農法としては必要なことではなかろうか?

生物世界において 弱肉強食というが、それが本当ならば、強い生物しか生存できない地球環境になっているはずである。実際の地球環境は弱肉強食ではなく、ともに共存しているといった方が現実に合っている。

病害虫だって、それに寄生する植物を殺してしまえば、自分も死んでしまうのに、どうして自爆テロのような行為をするのだろう?

人間のガン細胞だってそうである。正常細胞を殺してしまえば自分のガン細胞だって死滅してしまうのに、どうして寄生する本体まで殺してしまうのだろうか?

生物世界において 勝ち負けで勝った者だけが生き残ることができるというルールは通用しない。勝ち負けがあっても、両者は共存していくというルールがあり、それが生物を永続させている。

生物界において 共存しか生き残る道はない。

雑草に勝つのではなく、雑草といかに共存していくか それがともに生きていける道であろう。

戦争だってそうだろう。殺し合いではなく、どう共存していくか その道を探ることが この地球に生き残る道になっている。

 

 

骨を自然に帰し 夢と魂を残せ!

火曜日, 4月 7th, 2015

魂とか霊とかいうものを 何か見えない肉体のような個人の姿と勘違いしている。

人が死ぬと意識がなくなる。意識があるかないかで 人の生死を判断する。

それはつまり意識が生死を判断するものであり、死んでも生き続ける意識が確認されれば その人は生きているともいえることだ。

例えば

故人の夢はその人の意識として確認でき、家族がその夢を引き継ぎ実現させることだってできる。

故人は生前の夢という意識の中に魂や霊として生き続けているともいえるのである。

また夢とか理想は共有できるものであるから、魂や霊も個々人というよりも自他一体感としても実感できるものでもある。

私たちの肉体的差はほとんどないが その意識の違いは大きいものである。夢や理想は意識の中に創設されるからである。

骨を残すな 生き様を残せ

という言葉があるが

生き様はその人がどう生きたか?であるが それはまたどう生きていくか?でもある。

つまり、生き様というのは その人がどんな意識を持って生きてきたか、生きていこうとしているかであり、その人の夢とか理想の姿でもある。

「骨を残すな 生き様を残せ」をこう言い換えることもできる

骨を自然に帰し 夢と魂を残せ!

 

 

命に勝る善悪はなし

月曜日, 4月 6th, 2015

映画でも 現実でも

何事も 最終的解決方法が命を奪うことになっていることは愚かで空しい。

宗教や法律の解釈により、残酷な殺戮行為がおきている。

十代の頃 宗教的生き方に憧れていたときに

「戦わずして生きるよりも 戦って死ね」という言葉を信念にしていた。

老年になった今 それが間違った信念であり、その信念は解釈によっては残虐な危険行為を起こさせると思える。

アメリカ映画は勧善懲悪が多く、悪人はバンバン殺してこそ世の中の平和と幸福が保たれるという信念が底辺にあり、

善人は悪人と戦かわずして生きるよりは 戦って死ねという宗教的な信念と共通している。

こうした善悪が命よりも重要視されることは根本的な間違った思想であり信念である。

なぜなら

命あっての善悪だからである。命がなければ善悪なんか空しい限りである。

命は善悪を超えた最も大切な宝であるからだ。

宗教における神仏は善であり、悪魔や修羅は悪であり、

神が人の命を創造したり破壊したりすることを受け入れていること自体馬鹿げた信仰である。

この神が天地創造したという信仰は善が命よりも大事にしなさいという洗脳教育であり、この世の現実とは合わない空虚な論理である。

人の命なくして神仏はない! 命なくして善悪など空しきこと!

神仏や善悪よりも 人の命を大切にする思想や信念がこれからの時代を平和へと導くことができるだろう。

 

 

 

紙幣を燃やす儀式があった

日曜日, 4月 5th, 2015

土曜のBSテレ朝の新番組「奇跡の地球紀行」ブータンを観たが・・

小麦粉とバターで練った人形に悪霊を閉じこめ、それを燃やして仏様に捧げる儀式があった。

その際、神様に祈りを捧げる賽銭のような意味で 紙幣も一緒に燃やして仏に浄化してもらうことを知った。

ブータン悪霊燃やし1

 

オカネを燃やして神仏に捧げるなんてことは世界でも珍しく

それはまさに腐るオカネ・減価する貨幣を象徴するようなものである。

イエスは

「皇帝に税金を納めるのは正しいことですか?」という問いに

(銀貨に刻まれた皇帝の肖像を指して)

「これは誰の肖像と銘か?」

「皇帝のものです」

皇帝のものは皇帝へ 神のものは神に返しなさい」と答えた。

貨幣は血液のように身体全体を循環して命を保つようなものであり、

もしオカネが循環しないで 滞ってしまうと 不景気になり 経済は病的に悪化する。

今の貨幣は貸し借りを基本とする信用貨幣(債権)となっており、返済されない債権は紙屑となり、燃やされたり捨てられたりする。

イエスが言うように

オカネはその発行者に最終的に返還することで 循環し 価値を維持することができる。

腐るまた減価する貨幣はいわば燃やせる貨幣であり、燃やした貨幣分の額を発行者はまた印刷製造することができるということで循環するシステムである。

現貨幣システムは貸し借りで増価する貨幣であり、返済されないリスク分を上乗せした利息分で増加するが、

元金も返済されないと不良債権となって紙屑になるか、発行者の日銀が新たに紙幣印刷製造して不良債権を買い取り

信用を回復させて循環させていくものである。

つまり

どんなオカネも発行者と使用者全体で循環しなければ意味がなくなるものだ。

ブータンにおける賽銭を燃やす儀式は悪霊が好きなバターケーキやオカネに取りつかせて それを燃やし 仏様や貨幣発行者に返還し 循環浄化する行いといえよう。

仏教における悪霊とはものの執着心である。悪霊に取りつかれた人とは 甘くて美味しいケーキばかり食べて肥満になったり、金儲けにこだわり、ギャンブルばかりした浪費生活になってしまうような人のことである。

カネは天下の回りものと言われるが

カネは天下の回りものでなければ何の価値もなし

であろう。

ブータンは日本と同じ火葬であるが 生まれ変わりを信じるが故に先祖の墓はない。

火葬された遺灰は聖地に持っていき播かれ、仏の元に返して清めてもらう。

命もオカネのごとく、また神のものは神へ 仏のものは仏へ 返して また新たに生まれ出る循環によって その価値を持つのだろう。

先祖の名も生まれ変われば新しい名が付くので 名前や家にこだわるのは執着心であり、悪霊に執りつかれ 不幸になるようなものだ。

日本も先祖の墓を作らず 自然葬として 海に播いたり、桜の木の下に播いて自然に戻す埋葬方法が流行ってきている。それが余計な世俗的なこだわりや執着の問題に巻き込まれて不幸になるよりは 流れる水のごとく幸せな気持ちにいられるコツであろう。