Archive for 5月, 2011

欲望と自然

土曜日, 5月 28th, 2011

 「自然に生きる」が私のモットーであり、それを目標にしている。でも、もし「自分が自然に生きていれば、それがモットーにも目標にはならないだろう。私が自然に生きていないから、自然を目標にするってことになる。

 それに、自然には目的はない。命の生死の繰り返しが存在するだけである。

 目的があるのは欲望だけである。しかし、欲望と自然は同じものだと誤解されてしまうのはなぜだろうか?

 「自然のままに」というのは「ありのままに」ということである。それをそのまま生きる欲望にあてはめると、「ただ欲するままに」ということになり、欲望を肯定するのが自然らしさだと思えてしまう。

 しかし、「欲するままに」と「在りのままに」とは違うのである。その違いは自然は大きく、欲望は小さい存在である。また、自然に自我という個々はないが、欲望には自我・個々がある。

 人類だけで譬えてみると、人類65億人全体の欲求が自然にあたり、個々1人の欲求が欲望にあたる。

 生きるというのは欲望だが、生きて死ぬ繰り返しの存在が自然である。欲望の源泉は自己であるが、自然の源泉には自己も他もあるような自他の存在である。

 今脱原発が世界の一番の課題であるが、原発は電気を製造するが、命の危険性が高いものであり、そのウラン資源も枯渇燃料であり、かつ、放射性廃棄物を安全に廃棄するためには10万年以上もかかるため、持続可能なエネルギーではない。

 それは一部の人間の欲望でしかない。人類以外生物にとってもっとも生命の存続を脅かすものである。この原発推進しようとする欲望は砂糖に群がる蟻や、明るいところに飛び込んでしまう蛾のような行為にみえる。

 欲望がはげしくなると、自分を死に追いやるようになってしまうからだ。快楽ばかり求めて、最後は死に至る病に落ちこむ。それは麻薬のようなものである。

 欲望にはきりがない。どんどん前に進むしかない。しかものめり込むように転がっていくようなものである。目標を達してもさらにその上の目標を持って、進んでいく。それは目標を失うまで続く目標であり、矛盾する目標である。

 食欲のままに食べると、どんどん太り、動けなくなり、また病気になり、死にいたる。人の命の自然死というのは老衰である。欲望のままに生きると、病気や事故に遭うことが多く、老衰で死をまっとうできるのは難しくなる。

 欲望を調整して、必要最小限の食事と運動をしていることが老衰という自然死をえられる。それはまさに自然に生きるとは欲望を必要最小限に調整することだとは言えないだろうか?

 つまり、

 「自然に生きる」とは「清貧に生きる」ということではないだろうか!

財源は国のはずだが・・

土曜日, 5月 21st, 2011

 お金は独占的に中央銀行のみで発行される。その独占を認可しているのは国だ。それだけでも、お金は国が発行責任を持っているといえる。

 国が震災後の復興する財源を増税や国債や寄付から得ようとすること自体おかしなことだ。

 そもそも、お金はどのように発行、廃棄するかがはっきりと法文化されていない。そのため、お金が何か? お金の発行廃棄基準がないのである。

 お金の発行と廃棄の基準は単純に簡単な原理である。国民が経済活動をする分だけのお金を発行し、経済活動に必要のないお金を廃棄するだけである。

 社会の最小単位は二人であるから、売り手と買い手の両者が需要と供給のオークションで、決定された商品価格がそのままお金の発行額である。そして、その商品価格以外のお金は廃棄額になる。

 つまり、お金は国民に必要な分だけ発行され、不必要な分だけ廃棄される。

 国全体でいうなら、消費者物価総額がお金の発行金額である。それ以外のお金は廃棄金額である。

 つまり、国は震災で失った国民の資産分のお金を再発行する義務と責任をもっている。その財源は消費税や所得税ではない、国が発行するだけである。

 しかし今のお金は中央銀行が発行したお金の貸借によって動いているため、それは最終的に金持ちにお金がどんどん貯蓄されてゆき、その金持ちが国や世界を支配する構造になってしまうのである。

 その金持ちへの利息付き返済金が税金になっている。

 こうした悪法と悪質な中央銀行システムは「お金が何か?」という理解がなく、「お金の発行と廃棄金額の基準がない」ために起こる。

 国が税収で成り立っているということ自体がまちがっている。金を作れるのは国民ではなく、中央銀行しかないのである。しかも、金を増やせるのは金持ちだけである。

 国の財産と財源は国民の健康で文化的生活であって、それが中央銀行でも、金持ちでもないのだ。

 震災で失った家や土地や生活に必要なお金はすべて国が再発行すべき責任をもっている。それは保険会社のように毎月保険料を払う必要がない。国民であるというだけで、その資産が保証される。

 ベーシックインカム(国民生活最低保障)の財源は必要がない。ベーシックインカムそのものが財源であり、資産であるから、それに必要なお金は国は発行する責任があるからだ。財源は国民の生活であって、金持ちや貯蓄預金や借金ではない。

 必要なお金を発行し、不必要なお金を廃棄する方法は簡単にできる。お金に通用期限を設けるだけでOKである。命はすべて生死の繰り返しによって持続されているが、その命を守る道具であるお金だけが無期限に(生死にないように)通用することじたい、本末転倒な社会を作り出してしまう。

 生死は生きるか死ぬかしかないように、お金は使うか、使わないかでしかない。命を貯蓄することができないように、お金も貯蓄できないことが命を支える道具では必要なことである。

 もし、貯蓄するお金があったら、それは税収廃棄すべきお金である。税金は金持ちのためだけに存在するシステムであることを理解する必要がある。

  

生きているということ、それは死んでいるということ

火曜日, 5月 17th, 2011

死はすべて消えてしまうことのように感じる。死への悲しみや苦しみはなかなか癒えない。

今年の震災の死亡不明者の数は25000人を超えている。そして生き残った被災者の1人がつぶやいた言葉がとても印象に残っている。

「地震や津波はなんとか復興できるが、原発事故は無理だなあ!」

放射能物質があるところに、戻って来られるかは難しいからだ。

 強い放射能を浴びると、命の伝達する遺伝子そのものが破壊されてしまうため、再生できない。人の身体は日々新陳代謝をして、細胞の一つ一つは生まれ変わっている。しかし、放射線を浴びると、その細胞の遺伝子が犯されると、例え再生しても、同じ健康細胞は生まれないで、癌のような自殺細胞に変形してしまう。

 我々が人間らしく生まれ育つためには、人間らしさの形状を記憶伝達する遺伝子が再生されることが必要だからだ。地震や津波は自然災害であるため、生き残った被災者の遺伝子は破壊変形されることはないが、原発災害は人工災害であるため、生き残った被災者だけでなく、その子孫にも遺伝子の変形が遺伝していくことになる。

 放射線を浴びても当初はほとんど何も起きていないが、時間がたつにつれて、細胞が再生できずに破壊され死んでいく。

 原子力そのものが、物質の最小構成要素である原子をその中性子で分裂させて生まれるエネルギーだから、命の遺伝子だって、破壊されてしまうのは当然のことだろう。

 放射線は人間の遺伝子だけでなく、どんな生物の遺伝子さえも破壊変形させてしまう。そのため、原子力を使ったエネルギー開発は、地球上の生物すべてを破壊変形させてしまうという、生命自殺遺伝子製造機なのである。

 そもそも「生きているということ」はどういうことなのだろうか?

 それは「死んでいるということ」でもあるのだ。こんなことをいうと、気が触れたと勘違いされるかもしれないが、よく生きているということが何かを吟味していると、生と死の境がはっきりしなくなってくるのだ。

 これは老子の「不知の知」ソクラテスの「無知の知」のように、知識は相対的認識されるからである。私達は物事を知ったり、判断したりする場合は言葉を使って考える。言葉は物事をシンポル化させて、その組み合わせからなっており、それを構成する展開の基本は相対的な事象である。それは人は男女の相対的な姿からの展開と同じである。

 生きていることを知るには死んでいることを元にしなければ認識できない。死んでいることを知ることもまた生きていることを元にしなければ認知できないのである。

 では、相対的な事象を分ける境とは何か? それは理解する元となる言葉である。もし、言葉がなければ、生死は理解も判断もできなくなる。

 また、神のような絶対的な事象が存在するかどうかもまた、言葉の問題なのである。存在が有無もまた相対的な言葉の判断であり、絶対的という言葉自体が相対的な言葉から生まれたものだからである。

 つまり、神も人も、有無も、生死も言葉から作り出されたものであり、言葉を超えた真実の姿とは似ていてもまったく同じではない。それは言葉が事象をシンボル化して生まれた所以だからである。

 もし、生死は何か? その真実を追究するためには、言葉の相対を一度超えてから、もう一度組み替えて、文章化すると、新しい理解や判断ができることになる。

 今私は畑で穀物や野菜の一生を研究している。植物の生死を観察していると、絶対的な生も死もなく、相対的な生死が繰り返されていることに気が付く。個人の命は米の一粒のようなものであるが、米自体からすれば、米一粒の命は地球の重さよりも重いとはけして感じられない。

 しかし、米一粒にみな人間と同じように、名前を付けたら、どうなってしまうだろうか? 地球よりも重く感じられるだろう。米太郎は一度生まれたら、二度と生まれることはないからだ。その米太郎の一生の記憶がそれを知る人間に魂として絶対の生になってくるだろう。

 つまり、命や魂は言葉が生まれる最初の「命名」という「シンボル」「象徴」に過ぎない。こうした命名は事象を相対的にとらえた想像世界でも同じ理解が生まれる。

 例えば、生きている世界を「この世」として、死んでいる世界を「あの世」として、命名するのである。すると、戦争の敵味方とおなじように、どちらを基点にするかで、理解が反対になるのである。矛盾という問題がしばしば起きるのはそれが同じ基点ではなく、相対的な基点から、言葉による理解をしようとするからである。

 今地震津波でなくなったAさんがいたとする。この世ではAさんは死んでいるが、あの世ではAさんは生きていると判断できる。あの世のAさんがそこに災害でやはり亡くなったら、Aさんはこの世に生まれてくることになる。

 この場合、この世を基点として判断するなら、Aさんは再生したことになる。それは米一粒の生死と同じで、何度でも生死を繰り返して、米一粒は存在することになる。しかし、Aさん、米太郎という名前は「一度しかない人生の個々の命の姿」であるから、再生はけしてありえないことになる。

 そのため、もし、けして死にたくなかったら、「自分の名前を消し去る」ことである。Aや米太郎という名を消し去るのである。すると、あなたはつねに生死を繰り返す1人の人間になることができる。

 しかし、命よりも今の欲望を優先すると、原発事故が起きて、人類そのものが破壊、変形してしまう。過去の地球上でたくさんの絶滅種があるように、人類もまた同じ愚かな行為に走り出す。

 というのは、生死を繰り返すのは遺伝子が媒体となっているからだ。遺伝子そのものを破壊するような放射能物質をどんどん造ってしまい、それを廃棄できずに、保管垂れ流しすることで、人類は絶滅した恐竜と同じ運命をたどることになるだろう。

 人間のほとんどの根本的問題は「自我」から来る。自我とはこの世のたった一度の名前をもった個人名である。そこに死は必ずやってくる。しかし、個人名を消し去った人ひとりの命の死はなく、再生を繰り返すだけである。

 枯渇するエネルギーを元にするのではなく、再生するエネルギーを元にする生活でこそ、人類がより長く地球上に生きられ、幸せに暮らせる条件になるだろう。

幸せのちから

土曜日, 5月 14th, 2011

 昨夜、金曜ロードショーで「幸せのちから」を観た。二度目だったが、その印象はまったく違ったものになった。

 「お金とは何か?」を知ってくると、お金を求めて、それを手にする成功や幸せは馬鹿馬鹿しいと感じられたからだ。

 一方、震災の処理のお金はどうするというNHKの視聴者の発言があったのも、可笑しなものに思えた。

 生活のためのお金が、お金のための生活になっている現実社会の盲信が感じられたからだ。あと、数十年か数百年か先の未来人はこうした現代の「お金のための生活」をせせら笑ってしまうだろうことを、まるで原始人の占いを信じて行動した姿に移し替えて見えた。

 主演のウイルスミスが、ホームレスから、株のブローカーの一流企業の社員になる成功物語だが、その企業は株の売買のアドバイザーであり、その手数料を儲けるものがだ、それは「金で金を儲ける」という金融商品の販売会社である。いわば投資銀行・証券会社にあたる。

 金を生産することと、衣食住の生活必需品を生産することとは違うはずだが、それが同じに扱われるだけでなく、金が生活必需品よりも大事になっている、本末転倒の姿がいわば投資会社である。

 「お金とは何か?」

 現代のお金とは「国が特別な中央銀行にのみ独占的に発行させたもの」である。つまり、お金が生産できるのは唯一中央銀行だけであり、その他の会社も個人も国も発行生産できないという法律に基づいた数字が書かれた紙切れにすぎないのである。

 投資会社であれ、どんな国民であれ、どんな国であれ、金を稼ぐこと、生産すること、発行すること、増やすこと、みなできないのである。

 これが、できると思いこまされ、金をいかに多く稼ぐことが成功者になるという金の原始宗教政府による洗脳の結果である。

 金が仏教の悟りや、キリスト教の神の愛に当たっており、その金と悟りと神の愛という最高の幸せのちからを求めて、修行努力する姿が、この映画と現代社会の成功物語である。

 仏教の悟りのような全知全能は不可能であり、神の愛といっても、神そのものが不可知であるから、それらを手にすることはありえない。もしあるとしたら、単なる「悟ったという思いこみ」であり、「神に愛された特別な人という思いこみ」にすぎない。

 金だって、すべてのお金の所有者は中央銀行だけであり、それ以外の国民や会社や国がすべて所有することは不可能である。

 現在の金は仏教の悟りや神の存在のような「信心から生まれた空想の姿」にすぎない。

 もし、あなたが仏陀のようにすべて悟った人であり、キリストのような世界中の人類すべてへの愛に満ち、そして、世界の創造主のような神として、世界中の人々が幸せになれるようなお金を発行しようとしたら、まず何を考えるだろうか?

 たぶん、ずべての人々が協力して生活できるためのお金を発行するだろう。協力は「困った人を助ける」ことから生まれる。そのように、お金は困った人を助けるために発行生産されることになるだろう。

 つまり、主演のウイルスミスが息子との衣食住に困った時に、お金が発行生産され、彼の家族に贈られることから始めるだろう。しかし、映画では困った家族の金を国が税金として、資産家が家賃として、奪いさることから始まっている。そして一流企業に就職して、金を得ることが神の愛を受けることが成功者の条件になっている。

 これは金が神のような絶対君主のような姿になった自由も愛もない世界である。金は困った人を助けるための道具であり心である。そのため、困った人がいなかったら、お金の発行は必要がなくなるのである。

 もし、あなたが中央銀行の総裁だったら、生活困窮者のためのお金だけを発行し贈与することから始めることがもっとも神様に近い存在になる。

 次に問題になるのが、「どう人々は協力しあうか?」である。

 もし、「あなたが困った人を助けたならば、次にあなたが困った場合は誰かに助けられる」という保証(信心)が協力を持続させる力になるだろう。

 それは地域通貨を発行しようとしたときの、心理と同じである。ボランティアでは無償の愛として、「与えた愛を返してもらわなくてもいい」という行為が持続できないため、せめて、「自分が与えた分の愛」を、与えた人からでなく、他の誰かからでも、「恩返し」してもらう方法が地域通貨の原点であるからだ。

 中央銀行券のような法貨も同じようになることが必要である。しかし、多くの金の悪業を起こす原因となるのが、お金の無制限な通用数・通用期限である。

 人々が「自由と愛」の元に、協力しあうための条件は「人々の平等」である。「人の上に人を造っても、人の下に人を造ってもいけない」

 そのためには、「自分が困った人を助けた分だけ、自分が困った時に助けられる恩返しをされる」ことが条件になる。自分が助けた分また、助けられた分以上も以下も必要がないのである。

 例えば、あなたがお腹が空いていた人に100円のリンゴをあげたとしたら、あなたがお腹が空いたときに誰かに100円のリンゴをもらえればいいのである。100円のリンゴをあげたら、1000円分のリンゴ10個をもらう必要も、また、1円のリンゴに代わってもらう必要もない。

 そのため、お金は最低2回だけ使えればいいことになる。

 例えば、お腹が空いたAさんに、お腹が空かないBさんが100円(りんご)をあげたならば、今度は、お腹が空いたBさんに、お腹が空かないAさんが100円(りんご)をあげて、そのお金の一生は終了すればいいことになる。

 また、10人の間でお金が回ったとすると、100円のお金は→B→C→D→E→F→G→H→I→J→ 10回通用してその生涯を終えることが必要になる。

 しかし、実際問題、その回数をはかるのは難しいので、お金の通用期限を設けることで、お金を回すことができることになる。

 ところが、現在のお金は無期限通貨であり、しかも、利息が付いてくるので、お金は世界中を回ることはなくなり、停滞、渋滞することになる。それが所得格差拡大であり、金による世界征服と隷従世界になってしまっている。

 しかも、中央銀行は商業銀行に金を貸し出すだけで、生活困窮者に直接金を贈与することはないため、金持ちはさらに金持ちで豊かと幸せになり、貧乏人はさらに貧乏に、不幸になってしまう構造になるのである。

 しかも、国民の代表である国家が金持ちから借金して隷従する政治をせざるをえなくなる。それが、この「幸せのちから」の映画の姿であり、金と生活の本末転倒な原始宗教の信徒成功物語になっている。

 金が人々の協力の神具になるか、独裁者の権力の道具になるかは、金がどこから発行されるか、金の通用期間が制限されるかどうかにかかっているのである。

 

仕事とは何か

土曜日, 5月 7th, 2011

 高三の娘が進路を決めるのに困っていた。どの大学を選択するかを迷っていた。

 この迷路は誰でもが経験することだ。私もそうだったからだ。そこで、親の私がアドバイスしたことはこうだ。

「自分のやりたいことをいくら探しても、仕事は見つからないよ。人がやってほしいことの中から、自分しかできないことを探せばきっと見つかるよ」

 青春の日々でもっとも悩ましいのは「自分が何をしていいのかわからない」「自分が本当に求めていることが何かがわからない」ということである。それをさらに考えるといつしか「何のために勉強するの? 何のために生きるの? 何のために働くの?」という根本命題にはまりこんでしまう。

 いわば、生きる意味を問い出すのである。これが生きる迷路の入り口である。「生きるべきか? 死ぬべきか?」とまさに、生命の崖淵に立たされる。

 この迷路を造っているのは「生きているという事実」を疑ってしまう心が生み出すものである。生きているという事実は疑うこともできなければ、信じる必要もないものだ。「自分はここに生きている」というのは、事実であり、その事実をそのまま受け入れる道しか人にはないからだ。ありのままに生きる、自分のそのままでいい、という自然の生き方になってくる。

 ただ、この「自分はここに生きている」という事実には2つの欲求が同時に隠されている。それは自力本願と他力本願の両方である。「自分はここから生きる」と「自分はここに生かされている」という双方向の欲求である。

 大学を選ぶというのは、将来どんな仕事に就くかどうかで決められ。その仕事のために知識や技術を学ぶだからだ。もし、自分が何の仕事をしたいかわからないのは、その仕事の経験も知識もないから、決めようがないためである。そのため、ほとんど知識も経験もない想いから、選ぼうとするから、絵に描いた餅のようなもので、はっきりと、決められない。それがしいては、自分が何をしたいかわからないというような迷路にはまりこんでしまうのである。

 そもその「仕事とは何か?」である。仕事のいう文字は「仕える事」と書く。「仕えるとは

1.目上の人のそばにいて、その用をする、奉仕する。2.官などの、公的な地位について、その職に奉仕する」である。

 そして、「働くとは1.自分の体と精神を動かす2.他人のために努力する、役に立つ」ということである。

 つまり、仕事も労働も、他人のために自分の身体と心を動かし努めるという意味である。その意味はもし自分のために生きるとしたら、それは単なる欲望であって、仕事でも労働でもないのだ。

 これをお金に例えるならば、「自分のしたいことをするには金を出さなくてはならないが、他人のしたいことをするとお金が入る」という意味なのである。

 また、生きているという状態からいうなら、「自分が生きるのは欲望であるが、自分が他に生かされるのは仕事であり、労働である」という意味になる。

 人の好きな言葉に「愛」があるが、これは自分が他人に対する行為になるので多分に欲望である、一方「感謝」という言葉は、他人に自分が生かされる行為になるので、多分に仕事や労働の意味になる。そのため、愛することにはいくらでも金も力をつぎこむが、感謝するところからいくらでも、金や力が湧いてくるのである。

 仕事をすると、「ありがとう」というけれど、「愛してる」とは言わないのはそのためだ。

 もし、自分の仕事や勉強の方向を決めるには愛する(好きな)事を探さず、感謝する(生かされている)事を探すことである。