Archive for 3月, 2013

キプロスも最後はユーロ印刷かあ

火曜日, 3月 26th, 2013

 キプロスとトロイカの合意承認、デフォルト回避へ

100億ユーロ(約1兆2400億円)の救済融資のうち、中銀が供給した緊急流動性90億ユーロという記事だから、9割ユーロ紙幣を財源なしで印刷した。
 それは、貯蓄税(10万ユーロ以上の貯蓄者に数十%課税)付き90億ユーロ新マネーを発行したことと同じである。

 アベノミクスだって、日銀が紙幣を101兆円以上印刷し、2%の物価上昇まで無制限に印刷することで景気回復させることだ。

 
 その101兆円は消費増税付き新マネーの発行をしたことと同じである。

 貯蓄税付新マネーは貧乏人優先政策であり、消費税付き新マネーは金持ち優先政策である。

 アメリカもユーロも日本も、大量に紙幣を印刷しても、ハイパワーインフレにならないのは、不良債権を買って、その代金を印刷するからである。

 今の貨幣は実質債券であり、その債券を保証するのが紙幣である。それは借金をした額だけ貨幣を発行し、返済した分だけ貨幣を廃棄したことになることで、お金は廻ることができるからだ。

 借金と返済、発行と廃棄の貨幣流通の過程が経済生活になっている。それはいわば生まれ死ぬまでの期間を命と呼ぶようなものである。

   日本は今1000兆円の国公債があるから、この不良債権を日銀が買って、貯蓄税付き新マネーを発行すれば、病的経済は健康回復すると思うのだがなあ。

 

 

借りて返すということ

月曜日, 3月 25th, 2013

 このブログのタイトルである「生きているということ」の歌がある。一番有名なのが谷川俊太郎の詩に小室等が作曲したもの、

この歌詞の前の方は生きるという詩文と同じだが、いま生きているということの歌詞は途中から変わり、多く追加されている。
▼「生きる」 作詞 谷川俊太郎
 生きているということ いま生きているということ それはのどがかわくということ 木漏れ日がまぶしいということ ふっと或るメロディを思い出すということ くしゃみをすること あなたと手をつなぐこと

 生きているということ いま生きているということ それはミニスカート それはプラネタリウム それはヨハン・シュトラウス それはピカソ それはアルプス すべての美しいものに出会うということ そして かくされた悪を注意深くこばむこと

 生きているということ いま生きているということ 泣けるということ 笑えるということ 怒れるということ 自由ということ

 生きているということ いま生きているということ 
・・・・・・・
 ここまでは歌詞が同じだが、元の詩文は下記である・・・
・・・・・・・・
 いま遠くで犬が吠えるということ いま地球が廻っているということ いまどこかで産声があがるということ いまどこかで兵士が傷つくということ いまぶらんこがゆれているということ いまいまがすぎてゆくこと

 生きているということ いま生きてるということ 鳥ははばたくということ 海はとどろくということ かたつむりははうということ 人は愛するということ あなたの手のぬくみ いのちということ

・・・・・で終わる。しかしタイトルは「いま生きているということ」に変わり、変更追加されたのは次の歌詞である。

生きているということ いま生きているということ いまどこかで兵士は傷つくということ いまどこかで産声があがるということ いまどこかで星は流れ いまどこかで虹が立ち いまどこかで火は燃えること

 いま生きているということ いまだれかが旅立つということ いまだれかがだれかをみつめ いまだれかが決意すること いまだれかが問いかけて いまぼくらは歌うこと

 いま生きているということ いま地球が廻っているということ いまナイフはきらめくということ いま子兎が跳ね鯨はまどろみ いま種子はまかれ石は彫られ いまぶらんこがゆれていること

(歌手の小室等がアドリブで挿入したと思われる部分・・・いまぶらんこがゆれていること ぶらんこは僕が作った ぶらんこ ぶらんこには娘がのっている いまぶらんこがゆれていること)

 生きているということ 鳥ははばたくということ 海はとどろくということ 夜はあけるということ 風が立つこと 静けさということ いま…いまが過ぎてゆくこと いま…いまが過ぎてゆくこと(繰り返し)

 生きているということ いま生きているということ 人は愛するということ あなたの手のぬくみ いのちということ

 と、最後は同じ詩分になる。

 この長い歌詞はいってみれば、「在りのまま」の姿をそのまま描写しただけでいいので、最初に、「生きているということ いま生きているということ」を言い、最後に、「人は愛するということ あなたの手のぬくみ いのちということ」で終わればすべて素敵な詩になれる。

 また、生きているということの歌には、永六輔作詞、中村八大作曲したものがある。

 生きているということは 誰かに借りをつくること 生きていくということは その借りを返していくということ 誰かに借りたら誰かに返そう 誰かにそうして貰ったように 誰かにそうしてあげよう

 生きていくということは 誰かと手をつなぐこと つないだ手のぬくもりを 忘れないでいること めぐり逢い愛しあいやがて別れの日 その時に悔やまないように 今日を明日を生きよう 

 人は一人では生きてゆけない 誰も一人では歩いてゆけない

 生きているということは 誰かに借りをつくること 生きていくということは その借りを返してゆくこと 誰かに借りたら誰かに返そう 誰かにそうして貰ったように 誰かにそうしてあげよう 誰かにそうしてあげよう 誰かにそうしてあげよう

・・・・・・

 つまり、「生きているということは誰かに借りをつくり、それを誰かに返すこと」だということであるから、貨幣制度における貸借システムであり、その債券がいわば命の証みたいなものである。

 しかし、「生きているということの貸借」と「貨幣の貸借」では決定的に違うことがある。「生きているということ」は「誰かに借りたら誰かに返そう」であるが、「貨幣の貸借」は「借りたお金は貸した人に返そう」であり、貸し主である投資家である。

 「いま生きているということ」「それは愛するということ」であるが、その愛する相手は自由に選べる誰かであるということであるが、「貨幣における愛することは」「お金を貸してくれる人」であり、特定な投資家のことである。けして貧乏人は愛されることがないのが貨幣の世界である。

 もし貨幣の世界で、「生きているということ」がどうなるかというと、

 生きているということはお金を借りること、そして、そのお金を貸し主に返すこと それができなければ 死んでしまうということ そして、 貸し主を愛せなくなったら 死んでしまうということ ・・・・

 となり、シュールな苦笑いせざるをえない。実際、借金を苦に自殺する人も出てくるのが「ありのまま」の現実でもあるのだ。

 お金のために人は殺し合うことだってあり、「生きているということ」ではなく、「死んでいるということ」になる。

 その理由はたった一つである。「借金する相手と返済する相手」が自由に選べれば「生きているということ」であり、「特定な貸し主」であったならば「死んでいるということ」である。

 例えば、サラ金から1万円借りたら、その一万円を愛する子どもに返済したとするなら、「生きているということ」だが、借りたサラ金に返すなら「死んでいるということ」であり、利息付きなら「死んで地獄へいく」ということである。

 いわば、「生きているということは 自由であること」なのである。その自由とは愛する人を選べるということであり、特定な金持ちに支配されることではない。

 国自体、自由はなく、特定な投資家に支配されるようになってしまうのは、国は投資会社に借金して、その投資会社に返済しなければ倒産するシステムであるからだ。

 国も国民も自由に生きるためには今のお金の仕組みを変えていくことが必要だろう。

 

みんな違ってみんないい、みんな自信を持て

火曜日, 3月 19th, 2013

 昔昔、笑いの研究をしたくなったことがあった。その始めが確かベルグソンの本を読み始めたが、さっぱり解らないので読むのを途中でギブアップしてしまった。

 笑いを研究したところで、笑いを造れるわけではないので、その意義を感じなかった。笑いとは芸人が直感的に創作しているようなもので、音楽と同じように天才でないと、人を笑わせるようなことはできないと思えた。

 ただ、お笑い芸人がときどき、つっこみとかボケとか、落ちはどうするとか、言うことがあるので、ひょっとしたら、お笑いは直感ではなく、技術なのかもしれないと思うようになった。

 笑いといっても、私にとって、お腹の底から笑えるような芸人は今までにたった一人しかいない。 すでに亡くなったがマルセ太郎さんだけである。

 彼はマイナーな芸人であるが、彼の造る笑いは他とはかなり違っていて、そこに深い愛情が感じられた。言葉の駄洒落とか、下ネタのような笑いはけしてしないし、上から目線で、小馬鹿にした笑いはけしてしなかった。

 彼しかできない笑いは、身障者の聴衆に対して、身障者の笑いで、笑わせることができたことだろう。これは同じ立ち位置でないと、造れない笑いである。

 マルセ太郎がもっとも愛した言葉は、「記憶は弱者にあり」である。墓名碑について話したとき、この言葉にしたらといったら、彼は「いやこの言葉は私の言葉ではないから」と言って驚いた。私は彼の言葉だとばかり思いこんでいたからだ。でも、とっさに彼にこう言い返した。「でも、それを有名にしたのはマルセさんなんだから、使っていいのではないでしょうか」と。でも、彼は「・・・・・」だった。

 彼は「笑いは人格だ」といい、他の真似をすることはけしてしない人だった。猿の物まねで有名になったのだが、他の芸人のモノマネはけしてしなかった。

 彼にとってモノマネの笑いは形態模写のようなもので、ある種のパターンをとらえるようなものだった。猿の真似でも、通常の舌で上唇を押し出すようなものではなく、猿が後ろ向きになり、それで振り返るしぐさに猿独特の哀愁を演出した笑いなのである。

 彼の墓名碑は結局「マルセ太郎」という芸名になった。彼の言葉で有名なのが「be動詞への自信を持て」である。それは中津川市阿木中学校の噴水の碑として作られている。このBe動詞への自信もまた、形態模写の中にある一連のパターンを見いだしたものである。

 英語で、「I am」は「私は存在する」、「You are」は「あなたは存在する」、「He is」は「彼は存在する」であり、そのam、are、isという動詞は「存在する」というbe動詞がみな変化したものである。

 つまり、be動詞にとって、I もYOUも、HEも、同じ存在であるが、それぞれに合わせて変化した形になる。「私は私、あなたはあなた、彼は彼、それでいいのだ。みな同じ存在であるが、みな違った姿をもっているに過ぎない。他と比較する必要なんかない、君らしく生きなさい」というのが、Be動詞への自信である。簡単にいえば、「あるがままに」であり、英訳すると「Let it be.」「as you are・・as I am ・・ as he is・・」とまあ、be動詞の変化が実存を表現する。

あの金子みすずの「みんな違ってみんないい」というのを英訳すると、「Everyone is different, and everyone is great.」であるが、これをさらに私流英訳して追加すると、「to be is different,  to be is great. and to be is confidence 」になり、そして、もとの日本語に還元すると、「みんな違ってみんないい、みんな自信を持て」となる。

 実に、書道家の相田みつをが「自分が自分にならないで誰が自分になる」にも通じるような意味が深いものなのだが、マルセ太郎にとって、その深い意味をどうして笑いにすることができるのか?不思議である。

 もっともマルセ太郎にとって、「人間性そのものが笑い」なのかもしれない。

 確かに、人間しか笑わないし、他の動物がたとえ笑っても下品だろう。

 私はずっとマルセ太郎にあこがれており、あんなふうに笑いを作れたらいいなあと思っているが、最近、「愉快に生きるコツ」がつかめてきたので、ひょっとしたら、マルセ流の人間存在への笑いはできないが、私流の現実への笑いはできるかもしれないと思えるようになってきた。

 

今に生きるということ

月曜日, 3月 18th, 2013

 最近、愉快に生きるコツをつかんだ。過去にこだわる必要がないように、未来を不安に思う必要もない。
 それは過去はいずれ消え去るので、それを限定することはできないし、こうだという確定もできない。過去と同じように、未来は誰にもこうなるとは確定することはできないのだから、その未来を限定的にとらえる必要がない。

 では今はどうだろう?

 今という時は、過去でも未来でもないのだから、過去にも、未来にもとらわれることはないということは確定している。つまり、今は過去未来から解放された瞬間であり、そこに限定するものはなく、まったく自由な時なのである。そして、そこには無限の可能性が在るということだ。

 それは現実が限定的であるのに対して、夢は無限に広げることができるように、今とは夢のような瞬間なのである。

 先週、リフォームの遅れやら、仕事の問題が大きかったせいか、とにかくあせりを感じて、えらい疲れていた。それで、みな神様道の空想をしたら、生死を超えて、生きることを楽しむことができた。

 確かに、現実に死はあるし、政府も私の夢とは反対の方向に進んでいるが、だとしても、夢は現実に左右されることはないのだ。現実に死があっても、政府が原発推進でも、私の夢を制限することはない。

 私は数千年先の時代だって、夢を描くことができる。私は夢では死ぬことはなく、死んでもまた生まれ変わることができるほど、神様のような存在なのである。

 つまり、夢においては、私はけして死ぬことはないのだから、どうして、自分の行動に限定をして、あせりや怒りを感じる必要があるというのだ?ほどんど限定的な現実はまさに落語の落ちにようなもので、笑い飛ばせるほど愉快なことばかりだからである。

 野球で、日本がプエルトリコに負けたとして、がっかりしたとする。でも、自分をプエルトリコ人だと想定したら、これは愉快になってすっきりするものだ。つまり、現実とは自分を日本人であると限定してしまう感情なのである。

 今は限定的ではなく、無限に広がる夢のような時間である。それをどうして限定的にとらえて、いらいらしたり、不機嫌になってしまうのは自らすすんで病気になるようなものである。

 今に生きるとは夢に生きるということであり、愉快になるということである。現実の過去や未来にとらわれるのは馬鹿げたことだ。

 

天に倣った自由市場を支える法を

日曜日, 3月 17th, 2013

 昨日のキプロスの貯蓄税は強制的に行われた。財政破綻を経済の病気とするならば、高額医療が必要な子どもを救うために、募金を集めることはいわば自由な貯蓄税の支払いである。

 自由市場を支えているのは強制的な法律による借金返済である。法の元における平等というように、法(強制)の元における自由が約束されるというものだ。

 つまり、命が生死でできているように、強制と自由はコインの裏表である。それは強制なきところに自由はないという意味もあるのだ。

 キプロスの救うためには強制的貯蓄税は必要であり、難病の子どもを救うには自由な募金は必要である。これは自由市場の矛盾がよく現れている。

 今の貨幣が債券になったのは命は天の債券だとも考えられるからかもしれない。
つまり、自分の命は天から借りたもので、いずれ、天に返さなくてはならない。そこに利息が付くとしたら、出産して子どもを育てるように、「人の役にたつ」ような事をするということだろう。

 自分の命を天に返すには自由ではなく、天から強制的に行われている。自分の命を天から借りるのも強制的であるともいえるので、人が自由でいられるのは肉体を借りている期間だけであるといえよう。

 科学技術が天の理を倣うことであるように、経済技術である貨幣も、天の理に倣うことで、人々の生活が楽になる。

 そこで、天から借りた命のように、貨幣を発行させたらどうなるのだろうか。

 命を発行するのは天のように、貨幣を発行するのは国である。そして、命を天から借りて、返すのは人間であるように、貨幣を国から借りて返すのは国民である。命の貸し借りは天の強制であるように、貨幣の貸し借りは法によって強制である。

 天は人に平等に命を貸し付け、返済させるようにするには、国は国民に貨幣を平等に貸付返済させる。それがすべての国民に平等に貨幣を貸し出す生活保障金であるベーシックインカムであり、その返済は平等な貯蓄税である。

 ベーシックインカムは国民の権利であり、貯蓄税は国民の義務であり、それは法的強制で行われる。

 天から借り受けた命のある期間は自由に使うことができるように、国から借り受けた貨幣は持っている期間は自由に使うことができる。

 この自由な期間が貨幣の自由市場になる。この自由市場を支えるのは国の平等なベーシックインカムと貯蓄税であるといえるだろう。