Archive for 3月, 2013

キプロスも最後はユーロ印刷かあ

火曜日, 3月 26th, 2013

 キプロスとトロイカの合意承認、デフォルト回避へ

100億ユーロ(約1兆2400億円)の救済融資のうち、中銀が供給した緊急流動性90億ユーロという記事だから、9割ユーロ紙幣を財源なしで印刷した。
 それは、貯蓄税(10万ユーロ以上の貯蓄者に数十%課税)付き90億ユーロ新マネーを発行したことと同じである。

 アベノミクスだって、日銀が紙幣を101兆円以上印刷し、2%の物価上昇まで無制限に印刷することで景気回復させることだ。

 
 その101兆円は消費増税付き新マネーの発行をしたことと同じである。

 貯蓄税付新マネーは貧乏人優先政策であり、消費税付き新マネーは金持ち優先政策である。

 アメリカもユーロも日本も、大量に紙幣を印刷しても、ハイパワーインフレにならないのは、不良債権を買って、その代金を印刷するからである。

 今の貨幣は実質債券であり、その債券を保証するのが紙幣である。それは借金をした額だけ貨幣を発行し、返済した分だけ貨幣を廃棄したことになることで、お金は廻ることができるからだ。

 借金と返済、発行と廃棄の貨幣流通の過程が経済生活になっている。それはいわば生まれ死ぬまでの期間を命と呼ぶようなものである。

   日本は今1000兆円の国公債があるから、この不良債権を日銀が買って、貯蓄税付き新マネーを発行すれば、病的経済は健康回復すると思うのだがなあ。

 

 

借りて返すということ

月曜日, 3月 25th, 2013

 このブログのタイトルである「生きているということ」の歌がある。一番有名なのが谷川俊太郎の詩に小室等が作曲したもの、

この歌詞の前の方は生きるという詩文と同じだが、いま生きているということの歌詞は途中から変わり、多く追加されている。
▼「生きる」 作詞 谷川俊太郎
 生きているということ いま生きているということ それはのどがかわくということ 木漏れ日がまぶしいということ ふっと或るメロディを思い出すということ くしゃみをすること あなたと手をつなぐこと

 生きているということ いま生きているということ それはミニスカート それはプラネタリウム それはヨハン・シュトラウス それはピカソ それはアルプス すべての美しいものに出会うということ そして かくされた悪を注意深くこばむこと

 生きているということ いま生きているということ 泣けるということ 笑えるということ 怒れるということ 自由ということ

 生きているということ いま生きているということ 
・・・・・・・
 ここまでは歌詞が同じだが、元の詩文は下記である・・・
・・・・・・・・
 いま遠くで犬が吠えるということ いま地球が廻っているということ いまどこかで産声があがるということ いまどこかで兵士が傷つくということ いまぶらんこがゆれているということ いまいまがすぎてゆくこと

 生きているということ いま生きてるということ 鳥ははばたくということ 海はとどろくということ かたつむりははうということ 人は愛するということ あなたの手のぬくみ いのちということ

・・・・・で終わる。しかしタイトルは「いま生きているということ」に変わり、変更追加されたのは次の歌詞である。

生きているということ いま生きているということ いまどこかで兵士は傷つくということ いまどこかで産声があがるということ いまどこかで星は流れ いまどこかで虹が立ち いまどこかで火は燃えること

 いま生きているということ いまだれかが旅立つということ いまだれかがだれかをみつめ いまだれかが決意すること いまだれかが問いかけて いまぼくらは歌うこと

 いま生きているということ いま地球が廻っているということ いまナイフはきらめくということ いま子兎が跳ね鯨はまどろみ いま種子はまかれ石は彫られ いまぶらんこがゆれていること

(歌手の小室等がアドリブで挿入したと思われる部分・・・いまぶらんこがゆれていること ぶらんこは僕が作った ぶらんこ ぶらんこには娘がのっている いまぶらんこがゆれていること)

 生きているということ 鳥ははばたくということ 海はとどろくということ 夜はあけるということ 風が立つこと 静けさということ いま…いまが過ぎてゆくこと いま…いまが過ぎてゆくこと(繰り返し)

 生きているということ いま生きているということ 人は愛するということ あなたの手のぬくみ いのちということ

 と、最後は同じ詩分になる。

 この長い歌詞はいってみれば、「在りのまま」の姿をそのまま描写しただけでいいので、最初に、「生きているということ いま生きているということ」を言い、最後に、「人は愛するということ あなたの手のぬくみ いのちということ」で終わればすべて素敵な詩になれる。

 また、生きているということの歌には、永六輔作詞、中村八大作曲したものがある。

 生きているということは 誰かに借りをつくること 生きていくということは その借りを返していくということ 誰かに借りたら誰かに返そう 誰かにそうして貰ったように 誰かにそうしてあげよう

 生きていくということは 誰かと手をつなぐこと つないだ手のぬくもりを 忘れないでいること めぐり逢い愛しあいやがて別れの日 その時に悔やまないように 今日を明日を生きよう 

 人は一人では生きてゆけない 誰も一人では歩いてゆけない

 生きているということは 誰かに借りをつくること 生きていくということは その借りを返してゆくこと 誰かに借りたら誰かに返そう 誰かにそうして貰ったように 誰かにそうしてあげよう 誰かにそうしてあげよう 誰かにそうしてあげよう

・・・・・・

 つまり、「生きているということは誰かに借りをつくり、それを誰かに返すこと」だということであるから、貨幣制度における貸借システムであり、その債券がいわば命の証みたいなものである。

 しかし、「生きているということの貸借」と「貨幣の貸借」では決定的に違うことがある。「生きているということ」は「誰かに借りたら誰かに返そう」であるが、「貨幣の貸借」は「借りたお金は貸した人に返そう」であり、貸し主である投資家である。

 「いま生きているということ」「それは愛するということ」であるが、その愛する相手は自由に選べる誰かであるということであるが、「貨幣における愛することは」「お金を貸してくれる人」であり、特定な投資家のことである。けして貧乏人は愛されることがないのが貨幣の世界である。

 もし貨幣の世界で、「生きているということ」がどうなるかというと、

 生きているということはお金を借りること、そして、そのお金を貸し主に返すこと それができなければ 死んでしまうということ そして、 貸し主を愛せなくなったら 死んでしまうということ ・・・・

 となり、シュールな苦笑いせざるをえない。実際、借金を苦に自殺する人も出てくるのが「ありのまま」の現実でもあるのだ。

 お金のために人は殺し合うことだってあり、「生きているということ」ではなく、「死んでいるということ」になる。

 その理由はたった一つである。「借金する相手と返済する相手」が自由に選べれば「生きているということ」であり、「特定な貸し主」であったならば「死んでいるということ」である。

 例えば、サラ金から1万円借りたら、その一万円を愛する子どもに返済したとするなら、「生きているということ」だが、借りたサラ金に返すなら「死んでいるということ」であり、利息付きなら「死んで地獄へいく」ということである。

 いわば、「生きているということは 自由であること」なのである。その自由とは愛する人を選べるということであり、特定な金持ちに支配されることではない。

 国自体、自由はなく、特定な投資家に支配されるようになってしまうのは、国は投資会社に借金して、その投資会社に返済しなければ倒産するシステムであるからだ。

 国も国民も自由に生きるためには今のお金の仕組みを変えていくことが必要だろう。

 

みんな違ってみんないい、みんな自信を持て

火曜日, 3月 19th, 2013

 昔昔、笑いの研究をしたくなったことがあった。その始めが確かベルグソンの本を読み始めたが、さっぱり解らないので読むのを途中でギブアップしてしまった。

 笑いを研究したところで、笑いを造れるわけではないので、その意義を感じなかった。笑いとは芸人が直感的に創作しているようなもので、音楽と同じように天才でないと、人を笑わせるようなことはできないと思えた。

 ただ、お笑い芸人がときどき、つっこみとかボケとか、落ちはどうするとか、言うことがあるので、ひょっとしたら、お笑いは直感ではなく、技術なのかもしれないと思うようになった。

 笑いといっても、私にとって、お腹の底から笑えるような芸人は今までにたった一人しかいない。 すでに亡くなったがマルセ太郎さんだけである。

 彼はマイナーな芸人であるが、彼の造る笑いは他とはかなり違っていて、そこに深い愛情が感じられた。言葉の駄洒落とか、下ネタのような笑いはけしてしないし、上から目線で、小馬鹿にした笑いはけしてしなかった。

 彼しかできない笑いは、身障者の聴衆に対して、身障者の笑いで、笑わせることができたことだろう。これは同じ立ち位置でないと、造れない笑いである。

 マルセ太郎がもっとも愛した言葉は、「記憶は弱者にあり」である。墓名碑について話したとき、この言葉にしたらといったら、彼は「いやこの言葉は私の言葉ではないから」と言って驚いた。私は彼の言葉だとばかり思いこんでいたからだ。でも、とっさに彼にこう言い返した。「でも、それを有名にしたのはマルセさんなんだから、使っていいのではないでしょうか」と。でも、彼は「・・・・・」だった。

 彼は「笑いは人格だ」といい、他の真似をすることはけしてしない人だった。猿の物まねで有名になったのだが、他の芸人のモノマネはけしてしなかった。

 彼にとってモノマネの笑いは形態模写のようなもので、ある種のパターンをとらえるようなものだった。猿の真似でも、通常の舌で上唇を押し出すようなものではなく、猿が後ろ向きになり、それで振り返るしぐさに猿独特の哀愁を演出した笑いなのである。

 彼の墓名碑は結局「マルセ太郎」という芸名になった。彼の言葉で有名なのが「be動詞への自信を持て」である。それは中津川市阿木中学校の噴水の碑として作られている。このBe動詞への自信もまた、形態模写の中にある一連のパターンを見いだしたものである。

 英語で、「I am」は「私は存在する」、「You are」は「あなたは存在する」、「He is」は「彼は存在する」であり、そのam、are、isという動詞は「存在する」というbe動詞がみな変化したものである。

 つまり、be動詞にとって、I もYOUも、HEも、同じ存在であるが、それぞれに合わせて変化した形になる。「私は私、あなたはあなた、彼は彼、それでいいのだ。みな同じ存在であるが、みな違った姿をもっているに過ぎない。他と比較する必要なんかない、君らしく生きなさい」というのが、Be動詞への自信である。簡単にいえば、「あるがままに」であり、英訳すると「Let it be.」「as you are・・as I am ・・ as he is・・」とまあ、be動詞の変化が実存を表現する。

あの金子みすずの「みんな違ってみんないい」というのを英訳すると、「Everyone is different, and everyone is great.」であるが、これをさらに私流英訳して追加すると、「to be is different,  to be is great. and to be is confidence 」になり、そして、もとの日本語に還元すると、「みんな違ってみんないい、みんな自信を持て」となる。

 実に、書道家の相田みつをが「自分が自分にならないで誰が自分になる」にも通じるような意味が深いものなのだが、マルセ太郎にとって、その深い意味をどうして笑いにすることができるのか?不思議である。

 もっともマルセ太郎にとって、「人間性そのものが笑い」なのかもしれない。

 確かに、人間しか笑わないし、他の動物がたとえ笑っても下品だろう。

 私はずっとマルセ太郎にあこがれており、あんなふうに笑いを作れたらいいなあと思っているが、最近、「愉快に生きるコツ」がつかめてきたので、ひょっとしたら、マルセ流の人間存在への笑いはできないが、私流の現実への笑いはできるかもしれないと思えるようになってきた。

 

今に生きるということ

月曜日, 3月 18th, 2013

 最近、愉快に生きるコツをつかんだ。過去にこだわる必要がないように、未来を不安に思う必要もない。
 それは過去はいずれ消え去るので、それを限定することはできないし、こうだという確定もできない。過去と同じように、未来は誰にもこうなるとは確定することはできないのだから、その未来を限定的にとらえる必要がない。

 では今はどうだろう?

 今という時は、過去でも未来でもないのだから、過去にも、未来にもとらわれることはないということは確定している。つまり、今は過去未来から解放された瞬間であり、そこに限定するものはなく、まったく自由な時なのである。そして、そこには無限の可能性が在るということだ。

 それは現実が限定的であるのに対して、夢は無限に広げることができるように、今とは夢のような瞬間なのである。

 先週、リフォームの遅れやら、仕事の問題が大きかったせいか、とにかくあせりを感じて、えらい疲れていた。それで、みな神様道の空想をしたら、生死を超えて、生きることを楽しむことができた。

 確かに、現実に死はあるし、政府も私の夢とは反対の方向に進んでいるが、だとしても、夢は現実に左右されることはないのだ。現実に死があっても、政府が原発推進でも、私の夢を制限することはない。

 私は数千年先の時代だって、夢を描くことができる。私は夢では死ぬことはなく、死んでもまた生まれ変わることができるほど、神様のような存在なのである。

 つまり、夢においては、私はけして死ぬことはないのだから、どうして、自分の行動に限定をして、あせりや怒りを感じる必要があるというのだ?ほどんど限定的な現実はまさに落語の落ちにようなもので、笑い飛ばせるほど愉快なことばかりだからである。

 野球で、日本がプエルトリコに負けたとして、がっかりしたとする。でも、自分をプエルトリコ人だと想定したら、これは愉快になってすっきりするものだ。つまり、現実とは自分を日本人であると限定してしまう感情なのである。

 今は限定的ではなく、無限に広がる夢のような時間である。それをどうして限定的にとらえて、いらいらしたり、不機嫌になってしまうのは自らすすんで病気になるようなものである。

 今に生きるとは夢に生きるということであり、愉快になるということである。現実の過去や未来にとらわれるのは馬鹿げたことだ。

 

天に倣った自由市場を支える法を

日曜日, 3月 17th, 2013

 昨日のキプロスの貯蓄税は強制的に行われた。財政破綻を経済の病気とするならば、高額医療が必要な子どもを救うために、募金を集めることはいわば自由な貯蓄税の支払いである。

 自由市場を支えているのは強制的な法律による借金返済である。法の元における平等というように、法(強制)の元における自由が約束されるというものだ。

 つまり、命が生死でできているように、強制と自由はコインの裏表である。それは強制なきところに自由はないという意味もあるのだ。

 キプロスの救うためには強制的貯蓄税は必要であり、難病の子どもを救うには自由な募金は必要である。これは自由市場の矛盾がよく現れている。

 今の貨幣が債券になったのは命は天の債券だとも考えられるからかもしれない。
つまり、自分の命は天から借りたもので、いずれ、天に返さなくてはならない。そこに利息が付くとしたら、出産して子どもを育てるように、「人の役にたつ」ような事をするということだろう。

 自分の命を天に返すには自由ではなく、天から強制的に行われている。自分の命を天から借りるのも強制的であるともいえるので、人が自由でいられるのは肉体を借りている期間だけであるといえよう。

 科学技術が天の理を倣うことであるように、経済技術である貨幣も、天の理に倣うことで、人々の生活が楽になる。

 そこで、天から借りた命のように、貨幣を発行させたらどうなるのだろうか。

 命を発行するのは天のように、貨幣を発行するのは国である。そして、命を天から借りて、返すのは人間であるように、貨幣を国から借りて返すのは国民である。命の貸し借りは天の強制であるように、貨幣の貸し借りは法によって強制である。

 天は人に平等に命を貸し付け、返済させるようにするには、国は国民に貨幣を平等に貸付返済させる。それがすべての国民に平等に貨幣を貸し出す生活保障金であるベーシックインカムであり、その返済は平等な貯蓄税である。

 ベーシックインカムは国民の権利であり、貯蓄税は国民の義務であり、それは法的強制で行われる。

 天から借り受けた命のある期間は自由に使うことができるように、国から借り受けた貨幣は持っている期間は自由に使うことができる。

 この自由な期間が貨幣の自由市場になる。この自由市場を支えるのは国の平等なベーシックインカムと貯蓄税であるといえるだろう。

新マネーが解りやすい貯蓄税の実例が起きた

日曜日, 3月 17th, 2013

ユーロ圏、キプロス支援で合意=1.3兆円融資、貯蓄税を徴収

 「欧州連合(EU)のユーロ圏諸国は15日、ブリュッセルで臨時の財務相会合を開き、16日未明まで議論の末、ギリシャの債務危機で銀行が深刻な打撃を受けたキプロスに対する金融支援で合意した。支援額は最大100億ユーロ(約1兆2500億円)。
 ユーロ圏による危機支援は、ギリシャ、アイルランド、ポルトガル、スペインに次ぎ5カ国目。キプロスは2012年6月に支援要請後、ユーロ圏との交渉が難航していたが、ようやく一区切り付いた。
 融資には国際通貨基金(IMF)も参加する。キプロスは支援と引き換えに、同国の銀行預金を対象に最大9.9%の貯蓄税を徴収。財務相会合の声明によると、キプロスは法人税率の引き上げや、劣後債保有者に損失負担を要請することも約束した。(2013/03/16 時事通信)」

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 このニュースは実に貯蓄税付電子マネーシステムを理解する上でとても解りやすいものだ。

 これはキプロスの財政援助で、ユーロ圏財務相が100億ユーロ(約1兆2500億円)貸し出す代わりに、キプロス国民の預金(貯蓄)に税金を10万ユーロ以上持っている人には9.9%、10万円ユーロ以下は6.75%を急に預金封鎖して、キプロスの国内総生産(GDP)の3分の1に相当する約58億ユーロ(約7200億円)の貯蓄税を一気に集めてしまうものだ。

 これを貯蓄税付電子マネーでいうと、新マネー発行額 100億ユーロ、貯蓄税率10万ユーロ貯蓄者10%、10万ユーロ未満の貯蓄者6.75%ということになる。

 ユーロが紙幣のため、預金封鎖しなければならないが、もし、電子マネーの場合は常に銀行の電子マネーであるために、預金封鎖する必要がない。

 ジンバブエのハイパーインフレは多額の紙幣を印刷して起きる現象だが、このユーロ財務相のように、多額の紙幣の貸出をする担保として、貯蓄税として、その徴収が返済とする場合、インフレにはならない。

 この貯蓄税は財政破綻のキプロスで行われたのであるが、それは震災復興支援金でも可能である。新しい財政支援は貸出とその返済で行われるように、財政再建も、復興資金も、貯蓄税付き電子マネーの発行で可能である。

 貨幣があたかも金のような物質や紙に書いた数字のようについ思いこんでしまうが、現在の貨幣流通は借金とその返済から成り立つ信用債券である。そして、その貨幣流通は労働や金融投資においてされる不確かな借金返済力(不確かな約束事)にある。

 その不確かさを支えているのが法律である。貨幣が法貨といわれるのはその所以でもある。法律を改正するだけで、新貨幣である税付き電子マネーは財源なしで発行できる。

 キプロスのような財政再建の事例から、信用債券という貨幣制度の欠陥を補うような新しい貯蓄税付き電子マネーの発行が待たれる。

 

 

みんな神様道 3

火曜日, 3月 12th, 2013

 三章  道って何?

  神様とみんなについて考えると、それは「自分の意識」が出発点になってくる。そして、三本柱の道についてはこの「自分の意識」をどこに置くかということなのだ。

 「道」とは「生き方」である。当初、「みんな神様術」にしようかと考えたが、好きな柔道を柔術にはしたくなかったからだ。「術」とは「技術・知識」みたいで、狭くなるので、「自由な生き方」というような意味で広くとらえたテクニックにしたかったからだ。

 四章  みんな神様道って何?

  これを簡単にいうと、「もし自分もみんなも神様だったら、この世界をどうする?」という空想を楽しむティータイムである。

 実際、私はあの世が近いのだが、「もし生死が自由にできる神様になれたら」、私は自由にあの世もこの世も出入りできる存在になる。これほどおもしろい空想もあるまいと思うからだ。

 確かに現実的には悲惨で苦しい毎日があっても、空想だけはそんな現実に左右されないで、神様仏様にも、また、どんな姿にもなれるし、宇宙や世界だって、いくらでも変えられることも確かなのだ。

 あの震災で二万人亡くなったかもしれないが、空想ではあっという間にその二万人を生き返らすことだってできるほど、自由自在なのである。

 しかし、この自由自在の神様空想ゲームをよりおもしろくするには、ルールが必要であり、ルールがなければゲームもできない。

 この空想ゲームのルールはただ一つ、自分も神様であると同時に他人もすべて神様であるとするルールである。そのため、なかなか自分の思い通りに空想は進まないってことになる。

 例えば、あいつは殺したいと思って殺しても、相手も神様なので、殺されてもすぐに生き返ってしまうことになり、そして、復讐されて自分も殺されるが、また再生してやりなおすってことになる。

  神様というのは殺せないのだ。いわば、将棋みたいなもので、敵駒をとって、好きなところに味方の駒としておける存在のようなものである。

 

みんな神様道 2

火曜日, 3月 12th, 2013

 二章  みんなって何?

 今日、3月11日震災2年目、全国で午後2時46分に犠牲者への黙祷が捧げられた。

 その様子がテレビ朝日ではとくに原発近くで帰宅OKの村でライブされていた。しかし誰もそこに帰宅してこない、これない現状を踏まえて放送していた。特に除染されたとされる家を取材している様子にはびっくりした。

 除染した後も周囲の木の枯れ葉などで、放射線量が増えている。しかも、除染して山積みになった土砂が近くに放置されたままで、その行き先も決まっていない。とても、帰れる場所ではない。

 つまり、原発周辺は復旧も復興もできないという現実がある。それはもう二度と取り返しがきかない死の町をいっており、チェルノブイリと同じ惨劇があるということだ。

 しかし、衆院選の再稼働を進める自民党圧勝以降、脱原発への声は消えていっている。国民の多くの関心は株と通貨の上がり下がり、そして、TPP参加である。

 さて、被災された人たちにむかって言う「みんな」と、与党を選んだ多くの国民に向かっていう「みんな」とはあきらかに違いがある。

 「みんな」とは一体どういう内容なのか?

 壇上で演説するときに、「みなさん」という場合、演説を聴く人たち全員をさしている。演説する自分が「みなさん」に入っている場合と入っていない場合があり、それは話の内容で選択される。

 そして、「みなさん」はその演説を聴いていないその他大勢の人たちはさしていない。

 つまり、「みんな」とは、そこに自分が入っているかいないかはっきりしないし、その場その場で、変わってしまう内容だということだ。

 しかも、「みんな」という発言者個人の意識の対象者であって、「みんな」という存在が実際にあるのではないし、固定できるものではない。

 しかし、神様は何かという対象でと同じで、小さな集合体から大きな集合体をさすともいえるが、そうした集合体も固定してなく、変動するものである。

 そのため、「みんな」とは自分が意識する対象者全員であるといえる。もし、自分が井戸に住むカエルだったら、「井の中の蛙大海を知らず」ということになり、「みんな」とは同じ井戸の中に住む他のカエルにあたる。

 もし、自分の意識が変わればみんなも変わる。「世界を変えたければ自分を変えればいい」と言われる所以である。

 そのため、「みんな」とは「自分」のことであり、「自分が意識する他人全体」のことだとして考えていきたい。

 

みんな神様道 1

月曜日, 3月 11th, 2013

 一章  神様って何?

 「みんな神様道」は、「みんな」「神様」「道」の三つの柱で成り立っている。

 三本柱にしたのは、大体、物事を決めたりするのは最低三人必要であり、知恵だって、三人集まれば文殊の知恵というではないか。

 この中でもっとも目立つのが神様という言葉なので、それから始めてみよう。

 十代の頃、神様が何か死ぬほど悩んだことがあった。死ぬほど? というと、大げさのようだけど、当時「なんのために生きるのか?」と悩み抜き、あげくのはてに、精神病院まで入院したことがあった。

 それは「生きる理由がわからないと、生きられなくなる」という時期がある。そして、若くして自殺に走ることだってあるのだ。

 人間は肉体と精神(心)を持っており、肉体の病気のように、精神も「生きられない悩み」も生じる。最近はうつ病が注目されている、うつ病はいわば自分で自分を生きられないような精神的状況においやってしまうものだ。逆にそう病はまわりの人に対して生きにくくしてしまうものである。

 ウイルスのような病原菌は人にうつる場合と、うつらない場合があるように、精神もまた自分だけおかす病と、他人をもおかす病がある。その他人にうつらない代表がそううつ病であろう。

 生き死にを分けるとき、英語では「OH MY GOD」であり、「あー、神様助けてください」と世界共通の叫びであり、祈りである。

 もし、その人が無神論者だったら、神様の代わりに、「お母さん、助けて」もしくは「お父さん助けて」になるだろう。

 自分の命を授けてくれた存在は親であり、神様であるからだ。

 自分の命を授けてくれた存在を次元を大きくしていくと、神様の具体的姿が見えてくる。

 血筋をたどると、

1,自分を生んでくれた母親 2.自分を生んでくれた父親 3.父母の先祖

 生みの親より育ての親というように、
 育てをたどると

1,自分を育ててくれた人 2.自分を育ててくれた組織や社会 3,国、民族、世界、人類、地球、宇宙

 というようにどんどん大きくなってくる。

 一番大きな宇宙の存在になると、「天地創造する存在」を神様と呼ぶことになり、もっとも位の高い存在・・つまり、もっとも大きな視点が位になってくる。

 私達が上下の位を競争することが好きである。スポーツやギャンブルでは勝負に勝った方が位が上になるからだ。

 人は本能的に一番上を目指すようにできているようだ。この一番という位を一つの視点としてみると、それは一つの意識であるともいえる。

 我々が生きているかどうかの判断は「意識があるかないか」でさえる。それが自己意識でなくても、植物人間であっても、反射機能のような意識があれば、生きていると判断される。眼にライトをあてて、その瞳が動くかどうかで反応があるかないかが生死の判断になる。

 そのような意識を視点として物事を判断してくと、人は神様のような意識を持つことができる。それは、人は真っ白なキャンパスに自由に絵が描けるように、人は自由自在に想像することができるということだ。

 「想像できることは実現できる」ことだとも言われる。

 これは「夢は必ず叶う」とも信じられている。その理由は「もしそれが不可能であったり、存在しないのであれば、けして想像さえもできないはずである」ということがあるからだ。

 さて、ここで問題なのが、「すべての想像」と、「すべての存在」と、「すべての実現」とはまったくイコールではないことだ。

 「夢は叶うこともあるし、叶わないこともある」というのが現実である。それは神様という存在にもいえて、「神様はいるときもあるし、いないときもある」というのが世の中である。

 さて、神様とはなんぞやである。

 そこで、私は思うのだが、「神様とは一つの大きな意識であり、一つの大きな視点であり、一つの大きな想像力である」と。

 つまり、神様は夢と同じで、実現することも、しないこともあるが、少なくとも、我々の問題を解決してくれる最も頼れる存在であり、視点であり、知恵であり、そして、想像力であると思うのだ。

 この意識と視点は「もし自分が神様だったら、この世界をどうするか? どう想像するか?」になり、そこから、始めてみようと思うのだ。

 もちろん、そこからの想像が実現するかしないかはわからないが、少なくともその空想は充分楽しめるものであり、自分が自由自在に宇宙や人類を操れる想像主になれるものだ。

 人はファンタジーのような空想が大好きで、まるでありえない話が大好きである。それは人は本能的に自分が神様のような意識をもつことができるからだろう。

  いわば、みんな神様道というのはファンタジーな神様物語を描くようなものなのである。

 

みんな神様道 0 

月曜日, 3月 11th, 2013

 序章

 残り少ない人生で考えるとしたら、生きている間に自分ができること、いや、自分しかできないことは何かである。

 自分しかできないことというのは、今まで自分が悩みながらも発見したことを後世に伝えることではないだろうか。

 十代のとき、死ぬほど苦しかった過去の自分と、その苦しみを乗り越えてのんびり生かされている今の自分と比べてみると、明日の自分は何をすべきかが解ってくる。

 自分の子どもの苦しみを観察すると、当時自分が苦しんだ内容と同じもの、違うものがある。違うとすれば、その時代時代がみんなで解決した内容であったり、逆に昔はそんな問題はなかった内容である。

 でも、百年たっても、同じ問題を抱えている内容もある。いわばそれは永遠のテーマであり、人間の生と死に集約することができる。

 永い経験で、どんな問題もその次元を大きくしていくと解決できてしまう。逆に、どんな問題もその次元を小さくしていくと、どんどん問題が大きくなってしまい、にっちもさっちもいかなくなる。

 最近、ユーザー車検でブレーキランプが切れてスムーズに通らなかったときだ。そんな小さな問題にくよくよしたり、はらはらしてあせってしまう自分に驚くことがあった。まるで生きるか死ぬかのようなドキドキしたのだから、あきれてしまった。歳のせいか? 歳にしてはとりすぎている。はて? 猿も木から落ちるということか? いやいや年寄りはほんの小さな段差でもつまづくというではないか、やはり老化が原因ではないのか?

 とまあ、悩むのはいくつになっても同じのようだ。

 生と死は時代も年代も超えて、悩むテーマである。そこで、生と死の問題において、これから自分しかできないような発想をして、後世に伝えたいと思う。

 その視点を「みんな神様道」と名付けてみた。