Archive for 2月, 2013

ベーシックインカムということ

火曜日, 2月 26th, 2013

  basic income を直訳すると基礎収入である。

 今の世界はお金がないと生きられないので、生きていく上で最低限の収入のことをさしている。

 国の最優先はすべての国民の命を守ることであるから、国民の命を守る上で最低限の収入を保証することから始めるのが当然であり、そして、どんな国民でも生きていく権利と義務が平等に与えられることを国が第一にすべきことである。 

                       
→日本国憲法第3章国民の権利及び義務
 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする
     
  そのため、日本では生活保護制度があるが、その不正受給者もあって、その審査も厳しくなっている。しかも、国民年金よりもはるかに多い生活保護収入が保証されているのも矛盾しているし、もし働いて収入があると、その分生活保護費が差し引かれるので、働けても働かない方が得策になってしまうという矛盾がおこる。それに厚生年金と国民年金の差が大きいのも矛盾している。

 国民が生きる権利と義務はどんな国民にも平等に与えることがその国の法律でなくてはならないはずである。

 国民が、老若男女、健康病人、金持ち貧乏人、どんな境遇であれ平等にその国民が生きる権利と義務を保証する最低限の収入を与えなくてはならない。

 もしベーシックインカム(基本収入)が生活保護費であったならば、その審査はその人が国民かどうかだけであり、かつ、その国民がどんな経済的境遇であっても、等しい金額が与えられるはずである。

→第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 

 すなわち、国が最初に行わなければならないことは、すべての国民に等しくベーシックインカムを施すことである。また、貨幣の発行はまずベーシックインカムをするためのものであるといえる。

 国がたとえ小さな部族であったら、青年が狩りと採集にいって食料を採ってきて、部族全員に等しく食べ物を分けることで、部族の団結が強まり、かつ部族の意義があるようなものである。

 食べ物を等しく分け与えるのがベーシックインカムであり、その食べ物の配給券(交換券)が貨幣であるといえるだろう。

 「働かざる者は食うべからず」という考え方は「働けない病人は死んでしまえ」ということと同じ残酷な暴論である。ベーシックインカムは「働く人も働けない人も等しく食べられることを保証する」考え方である。

 しかし、「働かざる者は食うべからず」という真意は別にあって、その相手が金持ちやなにもしないニートだったら、的をえた深い言葉である。金持ちやニートは生きていけるベーシックインカムがあるから、苦労して働く意欲がわかない、食べるために働く必要がないと思いこんでしまうため、それをいさめ力強く生きていく力を身につけるための勇気づけである。

 ベーシックインカムを反対する理由は「働く意志を阻害する」とするものだろう。いわば、生活保護費のようなもので、働けば逆にその分保護費が減るので働かない方が得策というのと同じである。

 この「働く意志を阻害する」のは、現在の貨幣システムから起こるものであり、ベーシックインカムが施行されないために起こるのである。

 人が働く理由は「食べるためだけではない」のだ。キリストいわく、「人はパンのみで生きるにあらず」、つまり、「人は食べるのみで生きるにあらず、自由で幸せになるためでも生きる」

 憲法3章13条  「・・・生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については・・・最大の尊重を必要とする」

 とあるように、「働く理由」には、生命=食べること、自由及び幸福追求=人間らしさの二種あるからだ。

 ベーシックインカムは等しく「命」の保証であって、「自由及び幸福」の保証ではない。「自由及び幸福」は個人個人別々であり、等しくないものである。ときには、「自由のために死す」というような英雄もでてくることだってある。

 現実に、私自身はこの世の中が「仕事か、お金か」という選択を迫られているとき、ほとんどが「仕事」より「お金」を選択せざるをえないことに怒りを感じることが多い。

 「仕事」とは「働くということ」であり、「お金」とは「現在の貨幣システム」のことである。「仕事」は「自由と幸福」に関連し、「お金」は「命」に関連する。そのため、「命」を失ったら、「自由も幸福」も消えてしまうと考えられるからだ。

 画家が「売れる絵を描く」か、「自分が満足する絵を描く」か迷う姿がそこにある。

 こうした、「命」と「自由と幸福」の矛盾が「お金」を介して起きるのは、「現在の貨幣システム」が「命」と「自由と幸福」という性質の違うものをあたかも同じようにごちゃまぜにしているからである。

 「食べ物を分け合う」お金と、「食べ物を奪い合う」お金とは別々のものでなくては矛盾混乱するからだ。お金は単なる食べ物の交換券のみならず、分け合う整理券でもある。

 そのため、「食べ物を分け合う」ためのベーシックインカムのための「命を守る」貨幣と、「個人の自由と幸福を促進」する貨幣と二種類必要になる。

 「命を守る」ベーシックインカムの施行を目的にした貨幣は「貯蓄税付き貨幣」であり、「個人の自由と幸福を促進する」貨幣は現在の「利息付き債券」であろう。
 
 生活を支える会社の多くは株式会社である。株式とは「利息付き債券」の一種である。最近とくにNPO法人の会社も増えてきた。NPO」とは、Nonprofit Organization  (非営利団体)であり、お金(営利目的)ではなく仕事(非営利)のための活動をする会社である。その資金は会費・寄付のように、「ベーシックインカム」的なものであり、「貯蓄税貨幣」で成り立つような会社である。

 これからは、株式会社を是正するために、もっとNPO法人が増えていくように、「貯蓄税付き貨幣が発行され、ベーシックインカムを施行するような時代がやってくるに違いない。

 

消費税と貯蓄税の違い

月曜日, 2月 25th, 2013

 消費税の増税がされるが、その反対にある貯蓄税は導入されない。また、金利の最低はゼロ金利であるが、それ以下のマイナス金利はけして実施されることはない。

 しかし、現実には、利息付き借金をして、その返済が元金もろともできないで倒産する会社はたくさんある。それはいわばマイナス金利で返済したことと同じである。

 では貯蓄税にあたるものはどうだろうか? それは不動産に投資すると、固定資産税がかかる。また、不動産だけでなく、株式や為替通貨に投資しても、その価格は下がり、価格ゼロにもなることがある。また、銀行に預金していても、その預金が銀行倒産して、最低保証金1000万円以上の金は失ってしまうことだってある。

 つまり、貨幣は現実に自然現象と同じにならざるをえないことの証拠である。

 しかし、貨幣はけして紙くずにはならないと信じられ、それが永遠に貯蓄できるものであると信じられている。しかし、明治における1円は平成の1円とは同じ数字の貨幣ではあるが、その価値は金貨からアルミ貨のように下がり続けている。円という通貨も、極端に円安になれば、昔の銭厘のように廃止されることだってある。

 古代エジプトでは紙幣は「穀物倉庫の預かり証」だった。今の銀行紙幣は「金や銀の預かり証」が発展したものだ。その決定的な違いは「穀物の預かり証」は通用期限があるが、「金銀の預かり証」には通用期限がなく無期限であるということだ。

 それは穀物は必ず腐るから「穀物預かり証」も準じて「腐る数字」であり、金銀はけして腐らないから、「金銀預かり証」は準じて「腐らない数字」である。

 そのため、「腐る数字」は消費されやすく、「腐らない数字」は貯蓄されやすい貨幣になったのである。世界は人々を支配しやすい「腐らない数字」貨幣を選択し、自然に合わせた「腐る数字」貨幣を選択しなかった。そのため、「腐らない数字貨幣」をより多く貯蓄した人間が国や企業や人々を支配するようになったのである。

 これはいわば物資の買い占めと同じで、「すべての物資の交換券」である「腐らない数字貨幣」を買い占め貯蓄することで、物価を変動し、さらに儲け貯蓄しようとするギャンブル遊びゲームのコイン貨幣になったのである。

 穀物の交換券が金銀の交換券、そして、投資ギャンブルゲーム券になり、実際の人間の衣食住とはまったくかけはなれたものになっている。

 ギャンブルはあるルールで成立するように、ギャンブルする貨幣は法律(利子付き貸借のような増加する貨幣)で成立するようになっている。
  
 しかし、経済よりも自然環境の方が大事なように、貨幣経済も自然に準じたシステムに変貌することが大切になってきている。

 そこで、消費税年10%と貯蓄税10%の違いをみてみよう。

 米10キロ4000円の取引をしたとする。

まず国Aさんは国民Bさんが必要な貨幣4000円発行して渡す。国民Cさんは米生産販売者10キロであり、B国民に売るとする。

1,消費税10%の場合

 米10キロの価格は4400円に値上げされる。Bさんは国Aさんに消費税400円借金して、米10キロを買わざるをえない。

 生産販売者Cさんは受け取った4400円のうち、消費税の分400円を国Aさんに税徴収される。

2,貯蓄税10%の場合

   米10キロの価格は4000円のままである。Bさんは手持ち4000円で米10キロを購入する。

 生産販売者であるCさんは売上げ4000円の10%である400円を貯蓄税として国Aさんに税徴収される。

 つまり、消費税をかけた場合、物価は上がり、国は紙幣発行以外に債券の発行を毎年増加し、増税していかざるをえなくなる。そして、生産販売者にお金は貯蓄され、生活消費者は国の生活保護者になり、かつ借金は増え続けることになる。

 貯蓄税をかけた場合、物価は安定し、国は債券を発行する必要もなくなる。そして、国中のお金は貯蓄税10%の場合、10年でABC国民全体で一回りすることになり、ほどよい景気となり安定する。

 この違いは「腐らない貨幣」は貯蓄する貨幣になり、お金は天下の廻りモノにならずに、滞る貨幣になり、それを循環させるために、債券が貨幣の代わりになるが、その債券が返済信用度で価値が増減するため、物価も上がり下がりし、かつ、経済格差が増大していく。つまるところ、不景気と金融危機が到来して、そのシステムは崩壊せざるをえなくなる。

 「腐る貨幣」は消費する貨幣になり、お金は天下の廻りモノになり、天の雨のように国中に循環する。

 穀物は地球の産物であり、それが腐るとまた地球の土にもどる。貨幣は国の産物であり、それが貯蓄税となって、また国の発行元にもどる。

 今や電子マネーの時代であり、紙幣や債券ではできなかった、自動貯蓄税徴収システムが銀行のコンピュータで簡単にできる時代である。我々には借金や税金で苦しむことから解放される技術をすでに持っているのである。

 それは単に貨幣を人間欲望システムから自然環境システムに変化させるだけで可能なのだ。

  消費税は貧乏人を働かせ貨幣を廻す動力であるが、貯蓄税は金持ちを働かせ、貨幣を廻す動力である。いわば、消費税は貧乏人泣かせ、貯蓄税は金持ち働かせってことだ。

 

 

捨てられないモノに操られる

月曜日, 2月 18th, 2013

 人は捨てられないモノに操られ、捨てられるモノに安心する。

 捨てられないモノにはどんなモノがあるだろうか?

 娘が「お父ちゃん、車のバッテリー買ってきて!」というから、私は「それなら、古いバッテリーを持っていかないとできないな。バッテリーはゴミとして捨てられないから」と答えたら、「え、マジかよ!」

 清掃局のパンフレットに、バッテリーは捨てられません、特定の業者に持っていってくださいと書かれている。

 こうした捨てられないゴミは冷蔵庫、洗濯機、テレビ、エアコンなどと増えている。 
 
 特定の業者に捨てられるならまだ救いがあるが、どの業者にも捨てられないモノがある。

 それが核ゴミである。全国の原発に貯蔵されている1万5千トンの核ゴミは特定な業者である青森県六ヶ所村再処理工場に送られる法律があったが、その高速増殖炉「もんじゅ」も1995年以来トラブル続きで稼働していない。さらに、再処理に伴って生じる高レベル放射性廃棄物を埋設処分する場所も決まっていない。

 さらに、原発事故で汚染された捨てられない土壌や瓦礫や灰の量は数千億トンにもなるほどで、とても大きな穴を掘って埋められるほど少なくないし、また、どこかに運べる量でもない。その核ゴミを保管維持する費用は毎年数兆円にもなり、しかも、また原発稼働して、高レベル核ゴミを溜め込んでいる。

 私が運営する倉庫にゴミを詰め込み、数ヶ月で満杯になったが、そのゴミを捨てられず、毎月賃貸料の10万円を支払っていたが、ここ数ヶ月滞納している。その理由を調べたら、100万円の投資をして、すべて大損したためだという。このお客は自分のマンションもゴミ屋敷にしていて、その管理費数ヶ月分滞納しており、その額が20万円になっている。

 お客を強制的に追い出すには溜め込んだゴミの処理料が50万円ほどかかり、マンションのゴミ屋敷は100万円かかると思われ、本人は当然払わないため、当方やマンション住民が負担しなければならないが、滞納を放置すればするほど、その負担額は大きくなるので、早ければ早いほど負担が少なくなる。

 これは赤字が増え続ける店を早く撤退した方がいいとするチェーン経営と同じである。

 今の安倍政権はゴミ屋敷の住人と同じであり、投資した100万円に当たるのは日銀に国債を買わせた額であり、さらなる国債である。そして、原発再稼働で経済復興をしかけるが、はたして、その儲けで核ゴミ保管料を払い続けることができるだろうか?

 結果は予測可能であり、ゴミ屋敷住民と同じく、家賃滞納、赤字増大し、さらに捨てられないゴミで埋まり、我々が生活する場は日本のどこにも無くなってしまうだろう。

 つまり、捨てられないゴミは作ってはならないし、もし、作ったら、その捨てられないゴミに支配され、そのゴミの奴隷になり、しいては命をも取られることになりかねない。

 古今東西、人類がどうにも捨てられないモノがあり、その捨てられないモノに支配され、時にはそれに命を失っている。

 それはカミ(神)とカミ(紙幣)である。

 神を深く信仰した経験のある方は理解できると思うが、神は財産や家族や恋人を捨てられても、唯一捨てられないモノである。仏は宇宙創造神を否定、捨てられたが、仏(悟り・完全知)自身を捨てきれず、やはり最終的に捨てられないモノにしてしまった。そのため、神仏は捨てられないモノとしては同格な存在になっている。

 神仏で戦争も殺人も自殺も起きているのが人類の歴史であり、今の現実である。捨てられないで、信じた神仏に人の心は支配され、進んで神仏の奴隷や道化師になり、自分自身の命を捧げている。

 では「触らぬ神にたたりなし」とする無神教な人たちは何を信じて行動するだろうか?

 神仏の対局にあるのが世俗であり、世俗の心を支配するのがそれもまたカミ(紙幣の紙・神)である。

 山奥に捨てられた数億円の札束は血眼で拾われる騒ぎになる。今世界は紙幣(カミ)なくして、食べ物も、衣服も住まいも得られなくなり、生きるそのものができなくなっている。そのため、カミ(紙幣)を捨てることは命を捨てることと同格になり、カミ(紙幣)は捨てられないモノになり、そのカミ(紙幣)は人心だけでなく、人の生活自身を支配し操っている。

 神仏を信じるモノも信じないモノも、カミカネ(紙幣・紙金)なくして生きられない現実になり、カミカネは神仏以上に捨てられないモノになり、人類を支配する最高のカネカミ(金神)に君臨している。

 しかし、このカネカミ(金神)は本当に捨てられないモノであろうか? 山奥に紙幣を捨てたら拾われるのが落ちだから、捨てずに燃やせばすむはずであるが、そうできないのが、操られた人心である。

 人は心の傷としてトラウマや思い出があり、それが捨てきれずにそれに支配され、生涯を苦しみさいなむように、カネカミもまたカネ=イノチという妄信で人心の喜怒哀楽を操っている。

 こうしたカネカミに操られないようにするには、そのカネカミ(金神)を捨てることができなくてはならない。

 しかし、神仏を深く信じた人がその神仏を捨てることが難しいように、カネをイノチと妄信した人がカネを捨てることはもっと難しいことである。

 しかし、神仏が単なる名前であり、カネが単なる数字であることは明白な真実である。それが捨てられないはずもないのだ。

 神は愛、仏は慈悲、カネは愛や慈悲の証であるように表現されるように、捨てられないモノは愛や信仰や執着で創造されている。しかし、愛も信仰も執着も、人の命があって生まれる心や欲望であり、いわば命の一部でしかない。一個人の命が人類全体の命の90億分の1に過ぎないように。

 この一個人の命は寿命が100年であり、人類の命も過去の恐竜のように、無限に生存が保証されるものではなく、その寿命は恐竜と同じくらいと計算すると、恐竜は2億5000万年前に出現して、6550万年前に隕石落下による大量絶滅したので、1億8450万年になる。人類出現は恐竜絶滅の少し前の6600万年前とすると、残りは約1億1850万年の寿命であろう。

 ただ、ここ数百年でカネカミの心の病にかかり、世界大戦から核競争そして、原発核ゴミで自滅する傾向にあるので、楽観はできない。

 そこで、今の捨てられないカネカミによる病から脱出するには、ゴミ屋敷をすぐに廃棄するような政策が必要になってくる。

 失恋の病を癒すのは新しい恋愛である。人の心をコップに譬えるならば、コップ一杯に入っている愛の水を捨てなければ、新しい愛の水は入れることができない。しかし、一度深く愛した水はなかなか捨てきれないので、新しい愛を受け入れることができないのも人情である。

 しかしまた、浮気するのも、もっと深く新しい愛を知ってしまうと、古い愛をなんの未練もなく捨て去ることができるのも人情である。

 つまり、人類を破滅に導くようなカネカミへの愛を捨て去るには、人類の未来を支えるような新しいカネカミを愛すれば可能になるということだ。

 この新しいカネカミ(金神)こそ、捨てられるカミカネ(紙金)である。捨てられる紙幣とは燃やせる紙幣であり、そこに書かれている数字も寿命のように消え去る運命をもった命のような存在である。

 紙幣に歴史において、興味深いのは古代エジプトの貨幣制度である。この貨幣制度は倉庫への穀物の預かり証(パピルス製)が通貨の代わりとして使用されていたが、古代ローマの征服により断絶した。
 現在の通貨と違うのが、穀物は古くなると価値が落ちるということである。したがって、この通貨は長期保存の出来ない、時間の経過とともに貨幣価値の落ちていく通貨である。

 結果として、通貨を何かと交換して手にいれたら、出来るだけ早く他の物と交換するという行為が行われたため、流通が早まった。その結果、古代エジプトの経済が発達したといわれ、この事例は地域通貨の研究者によって注目されている。

 また、ローマの影響下で貨幣が使われるようになった結果、『価値の減っていく通貨』による流通の促進が止まり、貨幣による富の蓄積が行われるようになりエジプトの経済が没落したという意見もある。

 今の神仏の歴史よりもはるか昔のパピルス製紙幣をたどると、古代エジプトに行き着き、その貨幣制度は腐る穀物の預かり証(紙幣)であった。今の銀行が腐らない金の預かり証(紙幣)を発行して発達し、今の金融経済危機を招き、金持ちが貧乏人を支配する世界になっている。

 我々が神仏や腐らない金で支配されないで、自由で平等な社会になるには「自然に帰る」必要がある。自然における生きとし生けるものはすべていつかは消え去る運命であり、命の性質に乗っ取った捨てられる神仏であり、腐るカネカミである。

 不滅の神仏や腐らない金に支配されることなく、寿命のある神仏やカネカミを人々が自由に生活する一つの道具として利用できるように危急に法整備することが大切である。
 この腐るカネカミは今のネットバンク社会における電子マネーで実現できる時代がきたからだ。つい100年前のゲゼル発案の腐る紙幣では価値が減った分の切手を貼り付ける方法では不便極まりないものであった。

 また、腐らない紙幣発行では政府はいくらでも政府紙幣を発行して、ハイパーインフレを起こして経済を破壊してしまったという苦い経験があるため、それを防止するため、今の利子付き貸借制度が生まれ、その信用債券が貨幣として最も多く流通している。

 信用債券は株券にも、また各国通貨そのものにも変貌し、モノやサービスの価値を表す紙幣の数字はその信用度によって変貌するものとなった。つまり、株や通貨のように、その価値は市場競争によって、毎日増減する貨幣になっているのである。

 それはあたかも人々が激しく揺れる波に浮かぶ船の上で生活しているようなもので、不安定な経済生活が強いられている状態である。

 しかも、この船の舵をとるのは、金持ちの投資家たちであり、貨幣価値の増減をさらに大きくして、経済をさらに混乱させている。

 こうした不安定で混乱する貨幣制度を自然に帰る「腐る貨幣」を基本にした電子マネーにすることが安定した経済社会になることであろう。そして、カネカミは人々の命を支配するのではなく、生活する上で便利な道具として使えるようにするアイデアが、復興カードであり、e中銀券である。

 この自然に腐る通貨、また自動的に支払う税引き通貨を新しく発行することで、今までの信用債券貨幣は金融取引税(トービン税)を採り入れたりすることで是正されていくだろう

  というのは、税とは腐ったお金の部分にあたり、捨てたお金の金額のことだからである。

 例えば、国はお金を1万円発行し、国民がそのお金1万円を燃やして捨てると、国はさらにお金1万円を発行することができる。すると、1万円の貨幣は流通することになる。

 これは国が1万円発行し、国民に与えて、1年後1万円の税金を徴収しても同じように、1万円は1年間流通し景気がよくなる。

 もし、国が1万円発行し、国民の誰かが一人1万円貯蓄すれば、貨幣は流通しないで、デフレ不況になる。そして、国はその1金持ち国民に利息付きで借金(国債)をして、信用貨幣1万円プラス利息1千円が流通する。一年後国の威信をかけてその金持ちに返済すると、カネがなくなってしまうので、さらにその金持ちに1万1千円プラス利息1千1百円借り、その信用貨幣が1年間流通する。つまり、国の借金はこうして現在1000兆円に膨れあがってしまったが、さらに数十兆円借金するしか道がなくなってしまっている。

 つまり、腐らないカネの債券システムでは金持ちの国以外は、どんな国でもいずれ破綻するか、貧富の格差が膨大になり、革命で政変するしか道がなくなる。

 自然の水が天地を循環するように、カネを自動的に社会循環させることがこれから生きる人類のカギとなるだろう。

 

 

自立力通貨と社会力通貨

火曜日, 2月 12th, 2013

 生きている上で、必ず2つの力があたかも矛盾するかのように、支え合っている。それは自由を求める自立力と、協力する社会力である。

 例えば、ラグビーのチームを強くするには、「チームはメンバー一人のために、メンバー一人はチームのために」頑張る必要がある。それは社会力の発揮である。

 このチームを支えているのは個々のメンバーであり、個々のメンバーはそれぞれ自分のために努力して体力や技術を向上させていく必要がある。この個々のメンバー努力が自立力である。

 生きているということは、自立力である「生きるということ」と、社会力である「生かされているということ」の2つの命の力で支えられている。

 自由なくして自立力は育たないし、協力なくして社会力は育たない。

 これは人間社会の経済力を動かす通貨にもいえることだ。

 通貨とはいわばモノやサービスの交換券である。そこに書いてある数字は交換する量の大きさである。そのため、経済力とは通貨量の大きさであるといえる。

 人間の命が自立力と社会力で成り立っているのに、人間社会における経済力はその片方の自立力である通貨保有量だけに頼っているため、しまいには、金持ちだけが生きられ、貧乏人は死んでいくという現代社会になっている。

 これを是正するには、社会力である通貨も同時に発行流通させる必要がある。

 現在流通している自立力の通貨の原理は「貸借とその利息」から成り立っており、Aという人からBが通貨を借り、BがAに利息を付けてその通貨を返済するシステムである。

 AもBも一個人または一法人である。そして、社会全体は通貨を借りたBの自立努力だけで成り立っている。もし、BがAに借金返済できなければ、生きてはいけないし、BがAに借金できなければ、死ぬしか道がなくなる。どんな食料も金で交換するからである。

 世界では飢えで死んでいく子どもが五秒に1人という現実を生んでいる。

 この自立力通貨に対して、社会力通貨とは、もし社会構成員が五人ABCDEがいたとしたら、AがBに10000円貸した場合、その返済金は利息なしに、B一人だけでなく、BCDEの四人が協力して返済するシステムである。

 つまり、Bの借金はみんなのために、みんなはBの借金のために動く社会力である。

 具体的にいうとこうなる。

 震災ですべてを失ったBさんが、Aさんに10000円無利子で借りた。Bさんはそのお金で、Cさんから食料を3000円買い、Dさんから衣服を3000円買い、Eさんのアパートに3000円で借り、残り1000円を予備費として残して生き延びた。

 そして、BさんはAさんに予備費の1000円返済し、Cさんは3000円、Dさんは3000円、Eさんは3000円売上げをBさんのために、Aさんに返済した。

 つまり、Bさんの命を、他の社会構成員であるACDE四人が協力して支えたことになる。これが社会力を発揮する通貨である。

  この社会力通貨モデルは復興カードまたはe中銀券発行で可能になる。

 つまり、Aさんはe中銀券の10000円の発行者である国であり、 その返済を10年にしたら、Bさんは毎年100円、CDEさんは毎年300円税金として銀行から引かれるという自動返済システムである。

 五秒に1人の子どもの飢え死にを救うには人類の協力する社会力法貨で可能になる。

 

同じ損なら景気よく踊らな損

月曜日, 2月 4th, 2013

 今年に入って、急激に売上げが落ちた。店を利用するお客も減ったし、倉庫やアパートの賃貸料の不払いも多くなってきた。

 店の定価はギリギリの経営価格だから、これ以上、下げれば店は赤字が続くことになるので、店を撤退した方が傷が少なくなる。

 しかし、倉庫付き駐車場を維持するには、店による広告は欠かせない。特殊な物件なので、固有に宣伝してくれないので、不動産屋ではほとんどお客をとれないのが現状であるからだ。

 店の顧客を増やすには、店の売り上げをあげる必要がある。そのためには、商店街全体の売上げをあげる必要がある。ここ笹塚10号通り商店街は毎年のように、店が入れかわりしており、永く店の経営ができているのは地主経営か、賃貸料が安いところであろう。

 10号道路商店街の通行人は多いが、そのほとんどが顧客には結びつかない。それが問題の核心である。隣町の和泉商店街はシャッター商店街だったが、今は沖縄の物産や食べ物を扱う店が多くなって、遠くからもお客を呼べるようになってきたようだ。

 商店街が日本全国また海外からも注目もあびるような特色を持たせることが、再生には欠かせないと思える。それには商店街の各店がばらばらに売上げをのばそうとしても、無理がある。

 そのため、商店街がその特色をつけるために、沖縄商店街のような特色をもたせることができる有名店舗を誘致して、それを核とした商店街を造った方がよさそうに思える。

 または、現在のお店が商店街の特色を持たせる方針になんらかの商品を作って売ることもまた効果的であろう。今までの商店街のイベントは年に一度の縁日にようなことをしてきたが、その日は盛況でも、残りの364日は不況では意味がない。

 毎日が祭りのような商店街であることが必要だからだ。でも、そうするには商店街の現況はまとまって動けるような基盤はない。基本的にみな店はばらばらに行動する個人店であり、またチェーン店である。最近はモノを売らないサービス業が多くなってきたので、本来の商店街の特色が少なくなってきている。

  そのため、商店街に期待するには難がある。むしろ、売れる店を作って、その店が商店街の核となり、商店街全体がその顧客に合わせたような店作りになるように自然にもっていくというのが、一番合理的な感じがする。

 とはいえ、これが最も簡単であり、かつ最も難しいことであるような方向であろう。

 そこで、フリマ笹塚を「損して得をとれ」というようなかってないような店を造ってみたくなった。それにはとりあえず、お客がない日に何をするか? それを実験店としてさまざまなイベントをする道楽店から始めてみたらどうだろうか。

 どうせ損をするなら、とことん損をして、商店街を活気づけてみたらどうだろうか。

 それは「同じアホなら踊らな損」というような祭り気分で商売をするというだ。つまり、「同じ損なら景気よく踊らな損」ということだ。

 

捨てられないなら無害化するしか手がない

月曜日, 2月 4th, 2013

 核ゴミを世界のどこにも捨てるところがないならば、当然原子力発電はしてはならないはずだ。それは細菌兵器を造れても、その細菌を殺せる方法がなければ、その細菌兵器は作っても、自滅してしまうので、完成とはならないものだ。

 新しく核ゴミを発生させないとしても、今までの核ゴミと、放射能汚染をどうにか処理しないとやはり自滅してしまう。

 そこで唯一の道は核ゴミを無害化する研究しかないことになる。

 ネットでその技術を調べていくとおもしろいニュースUSというのを見つけた。

「福島原発問題は解決できる!放射能を9分で中和し、発電すらも可能に!軍事利権にしがみつく日本政府の癌を潰せ」

http://www.news-us.jp/article/262861588.html

 放射能を無害化する方法として、

1,高エネルギー電子線で放射性物質を無害化
2.放射性物質を多重のコイルで囲み、発電すらも可能
3,縦波の電磁波で放射性物質を9分で無害化
4,ブラウンガスで放射性物質を無害化

の4つがあり、しかも、1は三菱重工の高エネルギー照射システムが使えるというのだ。さらに、4のブラウンガスはあの水素2と酸素1の酸水素混合ガスと同じようだ。

 となれば、その電子銃と酸水素ガスで、放射能を無害化できるかすぐに実験できるはるである。

 この記事は残念ながら、その実験結果を掲載していないので、真偽はさだかではないが、即実験する価値はあるはずである。

 その他、EM菌のような腐敗菌で除去できるようなネット記事があったが、それはかなり眉唾もののような気がするが、ものは試しで、実験する価値はあるものだ。

 素人の発想ではあるが、核分裂が中性子をぶつけて、その連鎖で起こるならば、そこから発生した放射性物質を逆に核融合させれば無害化できるかもしれない。核融合というのはまだ実現できていない技術ではあるが、それを使用するのが水素というのがこれまた不思議である。

 以前、原子核を構成している中性子と陽子を結びつけているのが中間子だから、その中間子をぶつければ、原子核は安定化するのではないかと言った。もし、それでダメだったら、陽子をぶつけたらどうだろう。

 ともあれ、放射能を無害化する実験は核ゴミを捨てるところがないため、すぐに実施すべきことだ。

 ウランを核爆発させると元のウランの10億倍の放射能が出るので、原発は再稼働すべきことではないし、それに、原発は元々発電するためのものではなくプルトニウムを作るための装置だった。

 それは原子炉は2000度になり、タービンを稼働させるのに必要な温度は200度だから、海水で1800度冷やす必要があり、ほとんどムダな熱源になるからだ。

 放射能の無害化研究は1942年時点から始まっているが、未だにできていないのが現状というのが実状であるようだ。
http://jiro-dokudan.cocolog-nifty.com/jiro/2012/06/post-4537.html

 しかし、それをすぐに実現しなければならない状況がきているのも現状なのである。どんなに費用がかかろうと、即無害化の実験をしていくことが必要であろう。

 人間の技術はすべて自然をまねて作られた。だから、人間が作った核ゴミだって、きっと無害化できる道が自然に隠されていると信じられるのだ。