Archive for 10月, 2017

平和運動15/平和への架け橋

月曜日, 10月 30th, 2017

Making peace is a marathon. / May El-Khalil

ベイルートマラソン ~平和への架け橋~

メイの祖国レバノンは かって血みどろの内戦で壊滅状態にあった。

シリア イスラエル パレスチナに隣接し、レバノンは今なお分断され 不安定な状態である。

長年 政治と宗教によって レバノンは引き裂かれてきた。

でも 年に一度 皆が一つになる日がある。

マラソンの開催日。

メイはマラソンランナーであったが、練習中に バスにひかれてしまった。

その事故で 昏睡状態に陥ったメイは二年間も入院し、36回も手術を受けてやっと歩けるようになった。

意識がもどって、もう二度と走れないと思ったが、

「自分で走れないなら他の人に走ってもらおう」と、夫と共に数か月後 ”マラソン計画”は走り出した。

自分の体が弱り切っていたからこそ、大きな夢が必要だった。

痛みを忘れるような目標が必要だった。自分を憐れみたくなかった。

”マラソン大会を立ち上げ ランナーをレバノンに招待し”

”平和のもとで一緒に走れば 世界との架け橋が作れて 地域に恩返しもできる”

常に戦争の危機にある国に 走ることの意義をどう伝えればいいのか?

かって敵同士として殺し合った人たちを どうやって一緒に走らせるのか?

”マラソン”という言葉も知らない人に 42キロ走ってもらうにはどうしたらいいのか?

2年がかりで 国中を回り 人里離れた村にも足を運んで あらゆる人々と話をした。

市長 NGO職員 学生 政治家 軍人 イスラム教徒 キリスト教徒 

大統領から主婦まで 選手万別。

この経験から ”有言実行すれば信じてもらえる”と学んだ。

多くの人が メイの身の上話に心を動かされ 自分の境遇も話してくれた。

一人の人間として 誠実に語り合いました。隠し立てしない率直な姿勢が メイとメイが会った人々を一つにした。

信頼が築かれると 皆「協力したい」と言った。

「レバノンの本当の姿を世界に知らせたい 平和に暮らしたがっていると伝えたい」と。

2003年10月 49か国から6000人以上が集まり スタートラインについた。

鳴り響く銃声! それは戦争の音ではなく ”変化”に向かって走り出す合図

退会の規模が大きくなったとき 政治的問題も増えていた。

でも困難にぶつかるたびに マラソンが人々を団結させた。

2005年 元首相が暗殺され 政情は悪化 そこで”今こそ団結して走ろう”と

5キロのマラソンを企画、集まったのは政治的主張が書かれていない白いTシャツを着た6万人以上の人々

これがきっかけで この大会は”平和と団結の足掛かり”となった。

2006年から2009年にかけて レバノンは政情不安に陥った。

再び内戦が勃発しかねない状況になってしまった。閣僚たちは辞職し、国はあmたしても分断されてしまった。

それでもメイたちはマラソン大会を開催し続けた。

マラソンを通じて学んだ”政治的問題は乗り越えられる”と。

野党が市街地の一部を封鎖したとき、交渉して 他のルートを確保した。

政府に抗議するデモ隊は 遠藤の応援団となり 給水所まで設けてくれた。

首都ベイルートで行われる この大会は レバノン国民からも 国際社会からも 高い信頼を得ています。

2015年11月 85か国から 3万③000人以上が集まった。しかし 天候にも恵まれず、まるで嵐のような暴風雨

道路は冠水していたけど ランナーたちは この国民的行事に参加したいと願った。

ベイルートマラソンは規模が拡大し、若者 高齢者 障碍者 一流選手 赤ちゃん連れのママまで

あらゆる人々が参加している。

大会のテーマは「環境保護」「乳がんの啓発」「レバノンへの愛」「平和」「走る楽しみ」など

2013年5月 「女性の社会的地位の向上」をテーマに 女性だけが参加するレースが初めて開催され 

当時の大統領夫人を含む4512人が参加。これは最初の一歩にすぎません。

ベイルートマラソン協会は レバノン再建を助ける慈善団体を支援し寄付を呼び掛けてきた。

社会貢献の文化は広がっている。固定観念は覆され 未来のリーダーたちが生み出されている。

これが平和を築く礎になると メイは信じている。

ベイルートマラソンは中東地域で高い評価を受けている。イラク エジプト シリアの政府関係から

「同様のイベントを企画してほしい」という依頼もある。

今や 中東で最大級の大会であり、何より重要なのは

「この大会が 常に危うく不安定な地域における希望と協力の基盤になっていいる」ということ

(マラソン大会でテロがあった)ボストンからベイルートまで 私たちは一つである。

平和は短距離走ではなく マラソンのように時間をかけて作るもの。

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オリンピックも平和のために、政治や宗教を超えて企画運営されてきた。

だが、その開催は戦争の危険がない場所に限定されており、また、競技の勝敗そのものが政治的に利用されてしまうこともある。

だが、障碍者のためのパラオリンピックが同時開催されて人気をはくしているように、

戦争のはげしい 例えば北朝鮮と韓国の37度線国境をまたぐ 平和マラソンをオリンピック協会が企画実行したら、このベイルートマラソンのように、平和と理解の架け橋になれるかもしれない。

戦争を治めるのは武力の一つの選択ではない、武力以外の平和への道は勇気と創造力さえあれば、政治と宗教を超えて、たくさんの選択ができるはずである。

 

平和運動14/非暴力闘争が武力戦争より 今や効果的

月曜日, 10月 30th, 2017

実行力のある非暴力行動の秘訣

 

 

非暴力行動とはデモやストライキを戦力的に行うことで暴力を使わずに腐敗した政府や軍事勢力などを倒すことである。

2000年ユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領を退陣に追い込んだり、

2011年、30年続いた強権政府のムバラク大統領を退陣終わらせたりして、世界各地で成功をおさめた。

その秘訣を、ソビエト侵攻の半年前にアフガニスタンで生まれたジャミラ・ラキーブはTEDで語っている。

その戦争体験から、「人は危機にさらされても すぐ降参しない」ということを学んだ。

国が占領され 人剣が侵害され 屈辱を受ける、そうした紛争では反撃するための強力な手段が必要である。

防衛手段が破壊的で恐ろしくても、それが唯一の選択肢なら 人は行使する。そんな「暴力はダメ」と言っても戦争は止められない。

では どうすれば、暴力と同じくらい有効な手段を示すことができるのか?

非暴力運動といえば、ガンディやキング牧師よりも前から知られていた。女性 マイノリティー 労働者 性的少数者 市民の環境保護活動などの権利は自分を犠牲にして戦った人々が勝ち取ったものだが、戦術としての非暴力闘争は広く誤解されている。

「抗議行動に出たが逮捕され 潰されてしまった」とか、だが 抗議行動と非暴力闘争は同じではない。

抗議行動は 変革を求める手段にはなるけど、それだけでは変革を生み出せない。一方、非暴力闘争は敵に打撃を与えられ、敵の存続に必要なものが機能しなくなるようしむけられる。

例えば 兵士の離脱を促し 軍を無力化させたり、ストライキで経済を混乱させ 新たなメディアでプロパガンダに対抗するなど 多くの方法がある。

政治学者ジーン・シャープは198の戦術があると言っている。抗議デモはその一つにすぎない。

グアテマラは 何年も元軍人の腐敗した政治家に支配されていた。国民はなすすべがないと思っていた。

きっかけは12人の市民がSNSで #REUNCIA YA と呼びかけたのです。

「中央広場に集まろう ”辞任しろ”と書いたプラカードを持って」

集まったのは なんと3万人 抗議デモは国中に広がった。デモの主催者は 役所に卵を何百個も届け、メッセージを残した。

「腐敗したやつが政治家になるのを止められない ”タマなに”にタマを貸してやる」

それでも辞任を拒否する大統領をみて、全国規模のストライキ、首都だけでも400の企業や学校が業務を停止し、国中で幹線道路を封鎖した。数日後 大統領は 政府関係者とともに辞任した。

非暴力で闘うには創造性と勇気が必要で、例えば、ウガンダでは活動家がブタを道に放ちました。ブタはシンボルカラーで塗られ、帽子をかぶっている 大統領とそっくり。活動家はマスコミに注目されるけど 戦略がないと 活動は効力を発揮しない。

戦略なにに戦地に行く軍隊はない。でも非暴力闘争の多くが戦略を持たない。非暴力闘争は戦争と同じくらい複雑である。参加者は訓練が必要だし、リーダーは戦略を練らねばならない。

武器を使った戦いは 数千年かけて改良され、膨大な資金と 人類最高の頭脳を使っているが、一方 非暴力闘争は めったに研究されない。非暴力闘争の指導者は世界に数十人しかいないのです。従来のやり方では紛争に対処できないほど、今は危機的状況。

米政府はイスラム国との戦いが こう着状態どと認めた。でも民衆は 暴力を使わずに 立ち向かい、

2014年 イラクのモスルを占拠したイスラム国は過激な思想を学校で教えようとした。始業式の日 学校に来た生徒は ゼロ、親が登校させなかったのです。「洗脳されるくらいなら家で勉強させる」と。

これは一つの町で起きた一つの抵抗にすぎないが、これば 他のさまざまな抵抗運動と連携したら?

親たちのボイコットがイスラム国に必要な資源を断ち切る戦略の一部だったら?

それは 食料を生産する労働者や石油精製に必要な技術者 メヂアインフラ 交通システムなど イスラム国が依存するものを切り離す戦略だとしたら 非暴力でイスラム国を倒すなんて信じがたいだろうか?

今や 紛争に直面した際の選択肢を見直すときが来ている。

人間のニーズに合わせて システムやテクノロジーを改良してきたように 非暴力闘争が どうすれば機能するのか もっと学ぼう。そうすれば 戦争の代わりに 非暴力闘争が利用されるようになり、

より効果的な武器の発明とともに 弓矢が使われなくなったように 暴力は放棄される。

非暴力闘争を 戦争より強力なものにして 暴力を時代遅れなものにする。人類にとっての最も大きな希望はそこにある。

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目には目を歯には歯

暴力には暴力

核には核

軍隊には軍隊

 

そういう時代はもう時代遅れで、今の世界、武力戦争は正当防衛や仇討ちを延々と繰り返すような悪循環に陥ることを数千年の歴史がそれを証明している。

日本の武道も、剣を捨てた柔道や 攻撃をしない合気道のように、スポーツ、柔道整復のような骨接ぎ医療に変化した・

武力戦争から武器を使わない非暴力闘争の流れは 柔よく剛を制すような柔道や 互いに傷つけないルールのオリンピック競技に、またより互いに理解しあえるような 医療などの文化交流になってきている。

北朝鮮はまさに時代遅れの「核ミサイルには核ミサイル」という防衛戦争をしかけており、それを北朝鮮国民が止められない状況下において、関係国がなす非暴力運動の選択肢はたくさん方法がある。

けして残酷な過去の武力戦争という手段をとって、延々と終わらない戦争の悪循環に陥らないような非暴力運動を提案したいものである。

非暴力闘争には今198の選択肢が研究されている。もっと研究して、今の北朝鮮問題にもっとも合うような処方箋がきっと見つかるだろう。

 

目には目ではなく

歯には歯ではなく

 

暴力には非暴力

核には非核

軍隊には非軍隊

 

創造力と勇気を持てば

その選択肢はいくらでも出てくる。

 

幸せの三条件/健康・平和・自然とは

金曜日, 10月 27th, 2017

幸せとは

自然の中で、健康な身体と平和な社会で暮らせること

自然とは人工的過ぎない、無理のない、無為自然

健康とは食べ過ぎず、働き過ぎず、欲張り過ぎずの足るを知る生活

平和とはけして他を殺傷せず、自を殺傷させずに暮らせる社会

健康と平和と自然・・小さな幸せを自分のできることで無理なく楽しく味わおう

自分ができる範囲内だけで、それらを最小限望んでも、それ以上はそれらを願わない。

健康な身体は、最小限のバランスのよい食事と適度な運動と清潔な環境からなるように、

平和の社会は、支配と隷従のない平等な人間関係と、争ってもけしてお互いを殺傷せず、それぞれ認め合う意識から生まれ、

自然はどんな災害が起ころうと、他の生物との共存関係をバランスよく、常に維持また創り出していく。

 

平和運動13/何もしないということが最高の防衛力

木曜日, 10月 26th, 2017

雑草の如く生える小松菜と長ネギ

作物だって元雑草

 

雑草は四季折々で、毎年同じ種類の草が交代交代して何処でも生えている。

作物だって、元は雑草だったのだから、雑草のように四季折々、交代交代で生えてきても可笑しくない。

それができるように、石ころを積み上げ、どぶの土を盛った崖のところに、三年くらい前に、種を撒き、花が咲き、身を結ぶと、その種をばら撒くというのを、繰り返ししていた。

もちろん、以前からある雑草はどんどん成長してしまうが、それは身を結ぶ前に摘み取ってしまうことも繰り返しした。

小松菜と長ネギだけが、雑草のように今年は生え続けた。

私の理想は、何もしないでも、毎年作物が雑草の如く交代交代生え続けることである。

麦と稲をそうしたいが、麦は可能でも、稲は実に難しいが、稲だって元は雑草だから、やってやれないことはあるまい。

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何もしないということは無為自然

 

人が何もしないということはどういうことであろうか?

人の行為には究極的に生きるか?死ぬか?の二者択一しかない。

人が何もしないといいうことは、「ただ生きている」また「天命を待つ」状態であり、

人が何かするということは、良きも悪きも、「より生きる」また「自分から死ぬ」という決断と実行がされる時である。

さらに、生きることの強弱をとって煮詰めれば、

人が何もしないことは生きることであり、人が何かをするということは死ぬことである。

何もしないことを無為といい、何かをすることを有為また人為というので、

何もしないで自然にまかす生き方を無為自然といい、

何かを作るのなら、人工的であり、何かを起すなら人為的という活動行為という。

 

 

生死の二者択一の観点で、自分の観点ではなく、他人の殺人者の観点に立てば

殺人者の他人が何もしないことは自分を活かすことであり、

殺人者の他人が何かするということは自分を殺すということである。

殺人者の他人を殺人者の自分であっても、同じことがいえる。

死ぬという有為人為は自殺であり、他殺でもある。

その反対の生きるとは無為自然のことである。

 

戦争と平和

 

北朝鮮が敵の米国の核ミサイルに対抗して核ミサイルを持ち戦おうとする。

理想のイスラム教国を作ろうとして、自爆テロの聖戦をしかける。

戦争において、攻撃をしかけること、防衛することは、敵味方が死ぬという有為人為行為になる。

だが、

北朝鮮も米国も、お互いに攻撃も防衛も、何もしなければ、平和が保てると、即実現する。

イスラム聖戦士が、理想のイスラム教国を創ろうとも、自爆テロもしなければ、そのまま平和が維持でき、即実現する。

 

問題は、戦争をしかけられた場合どうするか?である。

 

これは人類の歴史において、みな苦悩してきて、その方法を編み出してきた。

もっとも有名なのがイエスの愛である、

「右の頬を打たれれば左の頬を向けよ」

であるが、もし人が自分を殺したら、また生き返って自分を殺させることはできない。

だから、このイエスの愛は必然的に、

「人が自分を殺そうとしたら、すすんで自分を殺させなさい」

となり、イエスは嘘をいって、逃げられても、十字架で死ぬ選択をしたのだろう。

それは生きるという無為自然な行為ではなく、キリスト教を広める有為人為行為であろう。

その自虐的自殺行為は、逆にもなり、十字軍のように他宗教の者を惨殺することに発展した。

だが、

日本の武道は殺人剣が活人剣になり、そればスポーツにも医術にも発展している。

「もし人が自分を殺そうとしたら・・?」

受け流し、

「相手が自ら殺意を失わせよ・・!」

柔よく剛を制する柔道は

相手が剛でもって殺そうとすれば、

自分も同じ剛、またより強い剛をもって対抗また防衛しようとはせず、

相手が自らの剛力によって、倒れるように、

柔をもって、受け流し、逃げ、相手の殺意を失わせよ。

合気道はさらに平和的で

自分から先制攻撃をしかけたり、相手をフェイントして、攻撃させ、その受け身で倒すこともなく

ただ、打ちかかる火の粉を払い落すか逃げるかである。

つまり、

目の前に、石が飛んで来たら、瞬間的に避ける行為と同じである。相手が殺そうとする行為に抵抗とはせず、逃げることで、けして相手も自分も殺傷せずに、活かす、生きられるようにする武道である。

これは

北朝鮮が核ミサイルで日本を攻撃しようとしても、同じ核ミサイルや武器で対抗とはせず、どうやって敵味方殺傷せずに、武器なしで、逃げられるか、殺意を失わせるかを、研究したり準備することが、平和術でもあり、自然災害にも対処できる方法でもあろう。

自他ともに、殺傷しない、共に生きられる術、

それは、何もしない無為自然な生き方が一番安全で平和であるという考えが、常識化すれば、自然と戦争は減ってきて、自然と平和になっていくだろう。

 

平和運動12/討論の仕方を知る

水曜日, 10月 25th, 2017

NHKスペシャル 徹底討論 政治の行方は 日本の行方は

先日、モンゴルで若者による六か国会議の提案をしたが、

そこで、どのような会議即ち討論をすべきか、この各党を交え、司会者のNHKで、視聴者の意見を加えた議論になり、最終的に、多数決で決めるのではなく、その議論を深めることだけを狙いとするような討論を国会でやろうという内容になった。

途中、発言中に、反対ヤジがとんで、発言をとめさせる議員もいたが、そこはNHK司会者がうまくセーブして、きちんと発言できるようにして、おさまった。

こうした平和的な討論法がうまくいくには、司会者とそのサブアシスタントの前もっても、十分な知識と、視聴者を交えたなどの準備、そして、建設的な討論法をよく熟知していることが必要である。

特にその討論が、平和建設的になるか、戦争水掛け論的になるかは、司会者の腕とその場の設定次第である。

 

若者による六か国会議の場は、参加国以外の第三国の隣国のモンゴルであり、また会議討論の司会者が第三国のモンゴルであることも重要なことである。

 

そして、視聴者の意見を交えた討論法は、今ではどんな国際会議であっても、ネットを使ってできるので、そうした手法も取り入れた方が、より広い視野で議論を深めることができる。

また、参加者はその討論に夢中になるあまり、論点がどんどんずれてしまい、それを治め、論点をもどす役目も司会者の役割でもある。

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健康と自然の会では、残念ながら、「健康と自然」というテーマであっても、そのテーマについての、偏った論点、偏った見解、ずれた内容が、発表されただけで、その反論など、また視聴者の意見なども、言える場でもなかった。

まして、その時のテーマが何かどうかも、解らない。討論があるかどうかもわからない。大抵は自己紹介みたいで終わってしまっていた。

来年にあるモンゴルの集まりについても、何がテーマなのか? も知らされずに、参加だけを打診されているので、実にとまどっているのが現状である。

旅も、会議も、その準備でほとんどその内容の楽しさ、充実さが決まってしまう。

このNスペの討論が、国会であれ、国際会議であれ、若者の六か国会議でも、同じように準備、企画、進行させたら、多くの問題は平和的に解決されていくだろう。