Archive for 10月, 2017

平和運動15/平和への架け橋

月曜日, 10月 30th, 2017

Making peace is a marathon. / May El-Khalil

ベイルートマラソン ~平和への架け橋~

メイの祖国レバノンは かって血みどろの内戦で壊滅状態にあった。

シリア イスラエル パレスチナに隣接し、レバノンは今なお分断され 不安定な状態である。

長年 政治と宗教によって レバノンは引き裂かれてきた。

でも 年に一度 皆が一つになる日がある。

マラソンの開催日。

メイはマラソンランナーであったが、練習中に バスにひかれてしまった。

その事故で 昏睡状態に陥ったメイは二年間も入院し、36回も手術を受けてやっと歩けるようになった。

意識がもどって、もう二度と走れないと思ったが、

「自分で走れないなら他の人に走ってもらおう」と、夫と共に数か月後 ”マラソン計画”は走り出した。

自分の体が弱り切っていたからこそ、大きな夢が必要だった。

痛みを忘れるような目標が必要だった。自分を憐れみたくなかった。

”マラソン大会を立ち上げ ランナーをレバノンに招待し”

”平和のもとで一緒に走れば 世界との架け橋が作れて 地域に恩返しもできる”

常に戦争の危機にある国に 走ることの意義をどう伝えればいいのか?

かって敵同士として殺し合った人たちを どうやって一緒に走らせるのか?

”マラソン”という言葉も知らない人に 42キロ走ってもらうにはどうしたらいいのか?

2年がかりで 国中を回り 人里離れた村にも足を運んで あらゆる人々と話をした。

市長 NGO職員 学生 政治家 軍人 イスラム教徒 キリスト教徒 

大統領から主婦まで 選手万別。

この経験から ”有言実行すれば信じてもらえる”と学んだ。

多くの人が メイの身の上話に心を動かされ 自分の境遇も話してくれた。

一人の人間として 誠実に語り合いました。隠し立てしない率直な姿勢が メイとメイが会った人々を一つにした。

信頼が築かれると 皆「協力したい」と言った。

「レバノンの本当の姿を世界に知らせたい 平和に暮らしたがっていると伝えたい」と。

2003年10月 49か国から6000人以上が集まり スタートラインについた。

鳴り響く銃声! それは戦争の音ではなく ”変化”に向かって走り出す合図

退会の規模が大きくなったとき 政治的問題も増えていた。

でも困難にぶつかるたびに マラソンが人々を団結させた。

2005年 元首相が暗殺され 政情は悪化 そこで”今こそ団結して走ろう”と

5キロのマラソンを企画、集まったのは政治的主張が書かれていない白いTシャツを着た6万人以上の人々

これがきっかけで この大会は”平和と団結の足掛かり”となった。

2006年から2009年にかけて レバノンは政情不安に陥った。

再び内戦が勃発しかねない状況になってしまった。閣僚たちは辞職し、国はあmたしても分断されてしまった。

それでもメイたちはマラソン大会を開催し続けた。

マラソンを通じて学んだ”政治的問題は乗り越えられる”と。

野党が市街地の一部を封鎖したとき、交渉して 他のルートを確保した。

政府に抗議するデモ隊は 遠藤の応援団となり 給水所まで設けてくれた。

首都ベイルートで行われる この大会は レバノン国民からも 国際社会からも 高い信頼を得ています。

2015年11月 85か国から 3万③000人以上が集まった。しかし 天候にも恵まれず、まるで嵐のような暴風雨

道路は冠水していたけど ランナーたちは この国民的行事に参加したいと願った。

ベイルートマラソンは規模が拡大し、若者 高齢者 障碍者 一流選手 赤ちゃん連れのママまで

あらゆる人々が参加している。

大会のテーマは「環境保護」「乳がんの啓発」「レバノンへの愛」「平和」「走る楽しみ」など

2013年5月 「女性の社会的地位の向上」をテーマに 女性だけが参加するレースが初めて開催され 

当時の大統領夫人を含む4512人が参加。これは最初の一歩にすぎません。

ベイルートマラソン協会は レバノン再建を助ける慈善団体を支援し寄付を呼び掛けてきた。

社会貢献の文化は広がっている。固定観念は覆され 未来のリーダーたちが生み出されている。

これが平和を築く礎になると メイは信じている。

ベイルートマラソンは中東地域で高い評価を受けている。イラク エジプト シリアの政府関係から

「同様のイベントを企画してほしい」という依頼もある。

今や 中東で最大級の大会であり、何より重要なのは

「この大会が 常に危うく不安定な地域における希望と協力の基盤になっていいる」ということ

(マラソン大会でテロがあった)ボストンからベイルートまで 私たちは一つである。

平和は短距離走ではなく マラソンのように時間をかけて作るもの。

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オリンピックも平和のために、政治や宗教を超えて企画運営されてきた。

だが、その開催は戦争の危険がない場所に限定されており、また、競技の勝敗そのものが政治的に利用されてしまうこともある。

だが、障碍者のためのパラオリンピックが同時開催されて人気をはくしているように、

戦争のはげしい 例えば北朝鮮と韓国の37度線国境をまたぐ 平和マラソンをオリンピック協会が企画実行したら、このベイルートマラソンのように、平和と理解の架け橋になれるかもしれない。

戦争を治めるのは武力の一つの選択ではない、武力以外の平和への道は勇気と創造力さえあれば、政治と宗教を超えて、たくさんの選択ができるはずである。

 

平和運動14/非暴力闘争が武力戦争より 今や効果的

月曜日, 10月 30th, 2017

実行力のある非暴力行動の秘訣

 

 

非暴力行動とはデモやストライキを戦力的に行うことで暴力を使わずに腐敗した政府や軍事勢力などを倒すことである。

2000年ユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領を退陣に追い込んだり、

2011年、30年続いた強権政府のムバラク大統領を退陣終わらせたりして、世界各地で成功をおさめた。

その秘訣を、ソビエト侵攻の半年前にアフガニスタンで生まれたジャミラ・ラキーブはTEDで語っている。

その戦争体験から、「人は危機にさらされても すぐ降参しない」ということを学んだ。

国が占領され 人剣が侵害され 屈辱を受ける、そうした紛争では反撃するための強力な手段が必要である。

防衛手段が破壊的で恐ろしくても、それが唯一の選択肢なら 人は行使する。そんな「暴力はダメ」と言っても戦争は止められない。

では どうすれば、暴力と同じくらい有効な手段を示すことができるのか?

非暴力運動といえば、ガンディやキング牧師よりも前から知られていた。女性 マイノリティー 労働者 性的少数者 市民の環境保護活動などの権利は自分を犠牲にして戦った人々が勝ち取ったものだが、戦術としての非暴力闘争は広く誤解されている。

「抗議行動に出たが逮捕され 潰されてしまった」とか、だが 抗議行動と非暴力闘争は同じではない。

抗議行動は 変革を求める手段にはなるけど、それだけでは変革を生み出せない。一方、非暴力闘争は敵に打撃を与えられ、敵の存続に必要なものが機能しなくなるようしむけられる。

例えば 兵士の離脱を促し 軍を無力化させたり、ストライキで経済を混乱させ 新たなメディアでプロパガンダに対抗するなど 多くの方法がある。

政治学者ジーン・シャープは198の戦術があると言っている。抗議デモはその一つにすぎない。

グアテマラは 何年も元軍人の腐敗した政治家に支配されていた。国民はなすすべがないと思っていた。

きっかけは12人の市民がSNSで #REUNCIA YA と呼びかけたのです。

「中央広場に集まろう ”辞任しろ”と書いたプラカードを持って」

集まったのは なんと3万人 抗議デモは国中に広がった。デモの主催者は 役所に卵を何百個も届け、メッセージを残した。

「腐敗したやつが政治家になるのを止められない ”タマなに”にタマを貸してやる」

それでも辞任を拒否する大統領をみて、全国規模のストライキ、首都だけでも400の企業や学校が業務を停止し、国中で幹線道路を封鎖した。数日後 大統領は 政府関係者とともに辞任した。

非暴力で闘うには創造性と勇気が必要で、例えば、ウガンダでは活動家がブタを道に放ちました。ブタはシンボルカラーで塗られ、帽子をかぶっている 大統領とそっくり。活動家はマスコミに注目されるけど 戦略がないと 活動は効力を発揮しない。

戦略なにに戦地に行く軍隊はない。でも非暴力闘争の多くが戦略を持たない。非暴力闘争は戦争と同じくらい複雑である。参加者は訓練が必要だし、リーダーは戦略を練らねばならない。

武器を使った戦いは 数千年かけて改良され、膨大な資金と 人類最高の頭脳を使っているが、一方 非暴力闘争は めったに研究されない。非暴力闘争の指導者は世界に数十人しかいないのです。従来のやり方では紛争に対処できないほど、今は危機的状況。

米政府はイスラム国との戦いが こう着状態どと認めた。でも民衆は 暴力を使わずに 立ち向かい、

2014年 イラクのモスルを占拠したイスラム国は過激な思想を学校で教えようとした。始業式の日 学校に来た生徒は ゼロ、親が登校させなかったのです。「洗脳されるくらいなら家で勉強させる」と。

これは一つの町で起きた一つの抵抗にすぎないが、これば 他のさまざまな抵抗運動と連携したら?

親たちのボイコットがイスラム国に必要な資源を断ち切る戦略の一部だったら?

それは 食料を生産する労働者や石油精製に必要な技術者 メヂアインフラ 交通システムなど イスラム国が依存するものを切り離す戦略だとしたら 非暴力でイスラム国を倒すなんて信じがたいだろうか?

今や 紛争に直面した際の選択肢を見直すときが来ている。

人間のニーズに合わせて システムやテクノロジーを改良してきたように 非暴力闘争が どうすれば機能するのか もっと学ぼう。そうすれば 戦争の代わりに 非暴力闘争が利用されるようになり、

より効果的な武器の発明とともに 弓矢が使われなくなったように 暴力は放棄される。

非暴力闘争を 戦争より強力なものにして 暴力を時代遅れなものにする。人類にとっての最も大きな希望はそこにある。

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目には目を歯には歯

暴力には暴力

核には核

軍隊には軍隊

 

そういう時代はもう時代遅れで、今の世界、武力戦争は正当防衛や仇討ちを延々と繰り返すような悪循環に陥ることを数千年の歴史がそれを証明している。

日本の武道も、剣を捨てた柔道や 攻撃をしない合気道のように、スポーツ、柔道整復のような骨接ぎ医療に変化した・

武力戦争から武器を使わない非暴力闘争の流れは 柔よく剛を制すような柔道や 互いに傷つけないルールのオリンピック競技に、またより互いに理解しあえるような 医療などの文化交流になってきている。

北朝鮮はまさに時代遅れの「核ミサイルには核ミサイル」という防衛戦争をしかけており、それを北朝鮮国民が止められない状況下において、関係国がなす非暴力運動の選択肢はたくさん方法がある。

けして残酷な過去の武力戦争という手段をとって、延々と終わらない戦争の悪循環に陥らないような非暴力運動を提案したいものである。

非暴力闘争には今198の選択肢が研究されている。もっと研究して、今の北朝鮮問題にもっとも合うような処方箋がきっと見つかるだろう。

 

目には目ではなく

歯には歯ではなく

 

暴力には非暴力

核には非核

軍隊には非軍隊

 

創造力と勇気を持てば

その選択肢はいくらでも出てくる。

 

幸せの三条件/健康・平和・自然とは

金曜日, 10月 27th, 2017

幸せとは

自然の中で、健康な身体と平和な社会で暮らせること

自然とは人工的過ぎない、無理のない、無為自然

健康とは食べ過ぎず、働き過ぎず、欲張り過ぎずの足るを知る生活

平和とはけして他を殺傷せず、自を殺傷させずに暮らせる社会

健康と平和と自然・・小さな幸せを自分のできることで無理なく楽しく味わおう

自分ができる範囲内だけで、それらを最小限望んでも、それ以上はそれらを願わない。

健康な身体は、最小限のバランスのよい食事と適度な運動と清潔な環境からなるように、

平和の社会は、支配と隷従のない平等な人間関係と、争ってもけしてお互いを殺傷せず、それぞれ認め合う意識から生まれ、

自然はどんな災害が起ころうと、他の生物との共存関係をバランスよく、常に維持また創り出していく。

 

平和運動13/何もしないということが最高の防衛力

木曜日, 10月 26th, 2017

雑草の如く生える小松菜と長ネギ

作物だって元雑草

 

雑草は四季折々で、毎年同じ種類の草が交代交代して何処でも生えている。

作物だって、元は雑草だったのだから、雑草のように四季折々、交代交代で生えてきても可笑しくない。

それができるように、石ころを積み上げ、どぶの土を盛った崖のところに、三年くらい前に、種を撒き、花が咲き、身を結ぶと、その種をばら撒くというのを、繰り返ししていた。

もちろん、以前からある雑草はどんどん成長してしまうが、それは身を結ぶ前に摘み取ってしまうことも繰り返しした。

小松菜と長ネギだけが、雑草のように今年は生え続けた。

私の理想は、何もしないでも、毎年作物が雑草の如く交代交代生え続けることである。

麦と稲をそうしたいが、麦は可能でも、稲は実に難しいが、稲だって元は雑草だから、やってやれないことはあるまい。

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何もしないということは無為自然

 

人が何もしないということはどういうことであろうか?

人の行為には究極的に生きるか?死ぬか?の二者択一しかない。

人が何もしないといいうことは、「ただ生きている」また「天命を待つ」状態であり、

人が何かするということは、良きも悪きも、「より生きる」また「自分から死ぬ」という決断と実行がされる時である。

さらに、生きることの強弱をとって煮詰めれば、

人が何もしないことは生きることであり、人が何かをするということは死ぬことである。

何もしないことを無為といい、何かをすることを有為また人為というので、

何もしないで自然にまかす生き方を無為自然といい、

何かを作るのなら、人工的であり、何かを起すなら人為的という活動行為という。

 

 

生死の二者択一の観点で、自分の観点ではなく、他人の殺人者の観点に立てば

殺人者の他人が何もしないことは自分を活かすことであり、

殺人者の他人が何かするということは自分を殺すということである。

殺人者の他人を殺人者の自分であっても、同じことがいえる。

死ぬという有為人為は自殺であり、他殺でもある。

その反対の生きるとは無為自然のことである。

 

戦争と平和

 

北朝鮮が敵の米国の核ミサイルに対抗して核ミサイルを持ち戦おうとする。

理想のイスラム教国を作ろうとして、自爆テロの聖戦をしかける。

戦争において、攻撃をしかけること、防衛することは、敵味方が死ぬという有為人為行為になる。

だが、

北朝鮮も米国も、お互いに攻撃も防衛も、何もしなければ、平和が保てると、即実現する。

イスラム聖戦士が、理想のイスラム教国を創ろうとも、自爆テロもしなければ、そのまま平和が維持でき、即実現する。

 

問題は、戦争をしかけられた場合どうするか?である。

 

これは人類の歴史において、みな苦悩してきて、その方法を編み出してきた。

もっとも有名なのがイエスの愛である、

「右の頬を打たれれば左の頬を向けよ」

であるが、もし人が自分を殺したら、また生き返って自分を殺させることはできない。

だから、このイエスの愛は必然的に、

「人が自分を殺そうとしたら、すすんで自分を殺させなさい」

となり、イエスは嘘をいって、逃げられても、十字架で死ぬ選択をしたのだろう。

それは生きるという無為自然な行為ではなく、キリスト教を広める有為人為行為であろう。

その自虐的自殺行為は、逆にもなり、十字軍のように他宗教の者を惨殺することに発展した。

だが、

日本の武道は殺人剣が活人剣になり、そればスポーツにも医術にも発展している。

「もし人が自分を殺そうとしたら・・?」

受け流し、

「相手が自ら殺意を失わせよ・・!」

柔よく剛を制する柔道は

相手が剛でもって殺そうとすれば、

自分も同じ剛、またより強い剛をもって対抗また防衛しようとはせず、

相手が自らの剛力によって、倒れるように、

柔をもって、受け流し、逃げ、相手の殺意を失わせよ。

合気道はさらに平和的で

自分から先制攻撃をしかけたり、相手をフェイントして、攻撃させ、その受け身で倒すこともなく

ただ、打ちかかる火の粉を払い落すか逃げるかである。

つまり、

目の前に、石が飛んで来たら、瞬間的に避ける行為と同じである。相手が殺そうとする行為に抵抗とはせず、逃げることで、けして相手も自分も殺傷せずに、活かす、生きられるようにする武道である。

これは

北朝鮮が核ミサイルで日本を攻撃しようとしても、同じ核ミサイルや武器で対抗とはせず、どうやって敵味方殺傷せずに、武器なしで、逃げられるか、殺意を失わせるかを、研究したり準備することが、平和術でもあり、自然災害にも対処できる方法でもあろう。

自他ともに、殺傷しない、共に生きられる術、

それは、何もしない無為自然な生き方が一番安全で平和であるという考えが、常識化すれば、自然と戦争は減ってきて、自然と平和になっていくだろう。

 

平和運動12/討論の仕方を知る

水曜日, 10月 25th, 2017

NHKスペシャル 徹底討論 政治の行方は 日本の行方は

先日、モンゴルで若者による六か国会議の提案をしたが、

そこで、どのような会議即ち討論をすべきか、この各党を交え、司会者のNHKで、視聴者の意見を加えた議論になり、最終的に、多数決で決めるのではなく、その議論を深めることだけを狙いとするような討論を国会でやろうという内容になった。

途中、発言中に、反対ヤジがとんで、発言をとめさせる議員もいたが、そこはNHK司会者がうまくセーブして、きちんと発言できるようにして、おさまった。

こうした平和的な討論法がうまくいくには、司会者とそのサブアシスタントの前もっても、十分な知識と、視聴者を交えたなどの準備、そして、建設的な討論法をよく熟知していることが必要である。

特にその討論が、平和建設的になるか、戦争水掛け論的になるかは、司会者の腕とその場の設定次第である。

 

若者による六か国会議の場は、参加国以外の第三国の隣国のモンゴルであり、また会議討論の司会者が第三国のモンゴルであることも重要なことである。

 

そして、視聴者の意見を交えた討論法は、今ではどんな国際会議であっても、ネットを使ってできるので、そうした手法も取り入れた方が、より広い視野で議論を深めることができる。

また、参加者はその討論に夢中になるあまり、論点がどんどんずれてしまい、それを治め、論点をもどす役目も司会者の役割でもある。

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健康と自然の会では、残念ながら、「健康と自然」というテーマであっても、そのテーマについての、偏った論点、偏った見解、ずれた内容が、発表されただけで、その反論など、また視聴者の意見なども、言える場でもなかった。

まして、その時のテーマが何かどうかも、解らない。討論があるかどうかもわからない。大抵は自己紹介みたいで終わってしまっていた。

来年にあるモンゴルの集まりについても、何がテーマなのか? も知らされずに、参加だけを打診されているので、実にとまどっているのが現状である。

旅も、会議も、その準備でほとんどその内容の楽しさ、充実さが決まってしまう。

このNスペの討論が、国会であれ、国際会議であれ、若者の六か国会議でも、同じように準備、企画、進行させたら、多くの問題は平和的に解決されていくだろう。

 

平和運動11/意見の違いは人生の違い

月曜日, 10月 23rd, 2017

意見の違いから戦争と平和が生まれる

 

意見とはその意識の見解という意味である。

意識不明状態の時は命の危険があり、意識がハッキリと無い時は命が尽きる時でもある。

意識が在って初めて、意識の見解が生まれ、意見が言え表現できる。

よって

命と意識と意見は同じ位の尊さを持つ。

そのため、

意見の違いは命の違いと同じ性質をもち、

意見の押収は、命のやりとりにもなり、意見の戦いが実際の戦いにまで発展する。

逆に

意見の違いを楽しむと、命の交流にもなり、そこに愛と理解と平和が生まれる。

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意見・意識そして命

 

意見も、意識も、命も、人の数だけあり、それは色々多様にあり、

そして、

意見の素には意識あり、意識の元には命が在る。

いわば、

命が身体とすれば、意識は脳、意見は顔である。

 

意見が在るか無いかは

意識が在るか無いかであり、

命が在るか無いかでもある。

 

意見が正反二つに分かれて戦うことになるのは

命が生死両面でできていることから来る。

「その意見を活かす」「その意見を殺す」とも言え、

その意見を活かすのは平和的であり、その意見を殺すのは戦争的であるとも言える。

裁判で、有罪か無罪か、検察と弁護人で議論しあう形式も、

この命の生死の二面性からくる意見の正反の二面性である。

その裁判結果に、死刑があるのは戦争的であり、死刑がなく、無期懲役で活かすのが平和的である。

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意見の違いは人生の違いであり、

意見の違いの多様性を認めることは、人それぞれの人生を認めることである。

命に貴賤も、人種も、国・宗教もないように、

意見に、貴賤も、人種も、国・宗教もなく、

どんな意見でも、その人の命として尊び、活かし合うことで、

正反合にも、会議も、話し合いも、理解も、楽しみも生まれてくる。

 

宇宙から見た バングラデシュ ガンジス川デルタ

 

命は根であり、意識は幹であり、意見は枝葉のようでもある。

命の樹木は大河が海にそそぐデルタ地帯のようであり、身体の毛細血管のようでもある。

 

その意志のYESとNOで大きく世界は変わる

土曜日, 10月 21st, 2017

脳死における臓器移植をYES? NO? かという聞き方一つで

大きく臓器移植率は変わってくる。

 

世界の臓器移植率の比較

スペインとフランスとオーストリアでは脳死において、

「臓器移植の意志はない・・NO!」と示していない場合は必然的に、「臓器移植の意志ありYES!」と見なされる。

だが、日本やアメリカの場合

「臓器移植の意志がある・・YES!」と示した場合は、家族の意志のYES!も、必要になる。

スペインでは人口100万人に対し34.8人、日本では0.9人の臓器提供者という差が生まれる。

また、

身体はだれからの贈り物であるか?という宗教・思想観でも変わる。

キリスト教国のような、欧米では

「身体は神様からのプレゼント」と考えると、臓器移植率は高まり、

「身体は親からのプレゼント」と考えると、臓器移植率は下がる。

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選挙の投票に行くYESか?、行かないNOか? で大きく政治が変わる

 

投票に行かないNOという意志は棄権であるが、それは必然的に現状の政権に対してYESであるとみなされる。

これは、暗黙の了解また必然的な結果というもので、

臓器移植の意志はない選択は現状の身体のままであり、

投票の意志はない棄権の選択は現政権の与党に投票をすると必然的了解になるというものである。

 

投票に行くといった場合、立候補者を選ぶ場合、政策で選ぶか、人物で選ぶかで大きく政治が変わってくる。

人物で選ぶ場合、政権が安定し、投票率が低ければ与党が優勢になり、

政策で選ぶ場合、政権が不安定で、投票率が高ければ野党が優勢になる。

これは、

数学における対偶証明

 

生きるか、死ぬかの、二者択一であって、その中間は存在しない場合の選択として捉えるかの問題である。

また、

脳死を既死と認めるか、まだ生と認めるかの二者択一でもあり、そのYESとNOでも、大きく世界は変わってくる。

投票を国民の権利として自由とするか、国民の義務として投票に行かない場合は罰則にして抑制するかでも、大きく、投票率も、政治も大きく変ってくる。

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私たちの生き方も前向きか、後ろ向きかで、大きく人生が変わってくるように

 

また、その意志がYESか? NO?か、

他人にも自分に対しても、どちらかの質問の仕方でも、大きく人生は変わってくる。

ともあれ、

一人の意志がどれほど人を社会を世界を変える力があるということだけは確かである。

もし、自分の意志が不明であったならば、自分への問いかけを逆にしてみたら、

案外すんなりと明確化できるだろうことも事実である。

 

平和運動10/若者による六か国会議/モンゴル

金曜日, 10月 20th, 2017

ハワイの家族旅行

来年2月のハワイの家族旅行が決まった。

2/10~14日の 一人86800円の格安ツアーをギリギリセーフで予約。

計画当初バリ島だったが、噴火の危険があり変更。

あとは三日間で何を楽しむか? 期日までにじっくり考え、準備している。

(^^♪ ♩ (^^♪ (^^♪ ♩ (^^♪

 

家族旅行と平和運動がつながった

切っ掛けは「健康と自然の会」の徳島の旅、

それから1年後、「モンゴルのグリーンツーリズム」に発展、

目的が「健康と平和」へ拡大した。

 

世界は「北朝鮮の核ミサイル実験から米朝戦争の危機」に陥り、

対話は経済制裁から武力制裁と、平和運動は瀕死寸前、

 

一方、家族バラバラに暮らしているので、

都合を合わせて、平和裏に、海外の旅の計画を進める。

何のために?

何のために?!

++++

あ…(゚д゚)!

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家族の対話+学生社会人の対話+海外の生活体験

*+*+米朝対話++六か国会議*+*+

つながったあ…(゚д゚)!

平和運動に!!!

対話も、理解も、楽しみも+++++みんな**

本質的に同じなんだあ!!!!!

政府同志は権力と武力で対等の対話なんかできやしない**

ならば、

そんな面倒な関係も偏見もない、

社会に生まれたままの童心の若者同志が対話すればいい

(^^♪ ♩ (^^♪ (^^♪ ♩ (^^♪

 

若者による若者のための六か国会議をモンゴルで

北朝鮮の核ミサイル開発実験問題の今は遠ざかっている

米韓日中朝露の六か国会議を政治とは関係ない若者たちがやればいい

どの政府からも干渉をうけない国で、しかも連接する国で・・?

++++

あ…(゚д゚)!

*****

モンゴルがあった

モンゴルの草原で、米韓日中朝露六か国の若者が集まり、

「北朝鮮の核ミサイル開発実験問題」についての会議をする。

あの伝統的な家畜と共に移動するゲルで。

ただ対話や会議だけでなく、

地元のボランティア活動やモンゴルの伝統的生活や祭り体験を通じて、

一緒に、働き、遊び、話し、生活する

そう..三週間ぐらい じっくりと・・

そこに、政府関係者も、年長者のリーダーもいない

若者が持ち回りで、その日の仕事や料理そして、会議進行役などをしていく。

どんな結果がでるかわからない

どんな争いや楽しみがあるかわからない

そうした結果が大事なのではない

関係国の若者が集まり、一緒になって仕事と生活をし、

ともに悩み、ともに楽しみ、

そこから、各自が気付いたことをそこで発表したり、

帰国後、政府や国連に報告発表するだけでいい。

若者による六か国会議の合同決議を出す必要はない。

それは関係六か国の平和への道を歩く一歩一歩にすぎない。

長く、それは、中東問題にもつながる平和への道の一歩でもある。

(^^♪ ♩ (^^♪ (^^♪ ♩ (^^♪

 

老いぼれ親父の平和運動9/武器を持たない方が安全

水曜日, 10月 18th, 2017

非核_脱原発_平和を語る吉永小百合さん

もし、攻められたら・・・・甘いと言われるのですけれど

武器を持たないことが積極的平和主義と思うのです!

 

この武器を持たないことが、例え武器で殺されそうになっても、武器を持たないことがより安全で、より平和的に治めることができるという考え方は、日本の長い武士道から培われた伝統文化であり、今の柔道や合気道に伝えられている。

柔道は柔よく剛を制すということであり、柔は「武器を持たないこと」、剛は「武器を持つこと」である。

合気道は、すべて受け身技であって、先制攻撃を一切しない技である。この受け身が「武器を持たないこと」であい、攻め身・先制攻撃が「武器を持つこと」である。

この「武器を持たないこと」が「武器をもって攻めてきた」時に、最も効果的な防御法であり、また、相手を制することができる術であるという意味でもある。

この「自分の身は自分で守る」という方法は、アメリカの憲法と日本の憲法との対照的な考え方がある。

アメリカ合衆国憲法の中の、権利をまとめた権利章典修正第二条の「人民の武装権」

Amendment I

Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the government for a redress of grievances.

修正第1条
(信教・言論・出版・集会の自由、請願権)
合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律、言論または報道の自由を制限する法律、ならびに、市民が平穏に集会しまた苦情の処理を求めて政府に対し請願する権利を侵害する法律を制定してはならない。

Amendment II

A well regulated militia, being necessary to the security of a free state, the right of the people to keep and bear arms, shall not be infringed.

修正第2条
(人民の武装権)
規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない

日本国憲法特に9条成立において、いろいろな修正がされてきた経緯があり、それは憲法前文と9条と66条はセットとなっている。

日本国憲法前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

憲法9条

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

憲法66条

内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。

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今の自衛隊が所持する武器が自衛のための武器ならOKだが、戦争のための武器ならばNOである暗黙の了解がそこに示されている。

そして憲法66条に

自衛を口実とした武器保有の軍隊になる可能性があるとして、憲法第66条第2項に大臣は文民であることが設けられた。

そして、武器をもたない自衛隊であったために、

朝鮮戦争勃発によってアメリカから、日本を朝鮮戦争に派兵させるため改憲要求が出されたが、

アメリカの要求に対抗するため総理大臣吉田茂は社会党に再軍備反対運動をするよう要請した。

その結果、自衛隊(前警察予備隊)が朝鮮戦争にも派兵されることもなく、また、米韓朝戦争の軍需特別景気で、戦後の経済復興が加速できた。

一方、アメリカのダグラス・マッカーサーは日本再独立後にこの憲法9条を作った事を戦後の米軍の負担増という点から後悔し、旧軍を最低限度の人数と装備で存続させるべきであったと一生の悔いにしていた。

この事実は

戦争とその武器をもった軍隊を持たないことがいかに他国との戦争に巻き込まれないことであるという証拠でもある。

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問題は自衛のための武器を持つことが自国を守ることに本当につながるか?ということである。

戦争において、敵味方で、武器殺傷能力差と人数の差があった場合、歴史的にも、戦力的にも、当然強い者が勝つし、強い者が弱い者を支配する結果になる。

だが、世界の今は、原水爆ミサイルまた生物兵器という武器ができ、それを使用すると、人類破滅に陥る危険が増し、戦争は強い者が勝って弱い者を支配する結果にはならなくなり、戦争そのものが敵味方だけでなく、人類全体を滅亡に追いやる結果になる。

また、今までの戦争でも、敵味方の死傷者がでて、両者がルーズルーズになる。それは周辺諸国でも、世界全体でもそうである。

この事実は、戦争における武器の使用による殺し合いは、単なる両者の自爆テロにすぎない結果になるという証拠でもある。

そのため、武器を使用しない戦争によって勝ち負けを決めていくことが人類の常識にならざるをえなくなる。

それは各国の警察の銃が殺傷能力のない、ゴム弾や電子ショックに代わって、単に抑制するだけに代わってきている。

自衛のための武器ならば、なにも敵を殺して守る必要はなく、敵を殺さずに自分を守る殺傷能力のない武器開発と所持をするのが、もっとも戦争を治める方法としてはベストだといえる。

今、北朝鮮が核のバランスで、自国の安全を確保しようとしているが、それがもう通用しない時代に入っており、殺傷能力のない武器の開発と所持へ、転向するように進めることが、世界にとってもよいことになるだろう。

そういう国連演説を首相が、日本が憲法9条から、北朝鮮に、世界に向かって発信したら、日本は被爆国の世界のリーダーとしての位置をもてるようになるだろう。

 

 

どうしてマルセ太郎が好きだったのか解った!

日曜日, 10月 15th, 2017

正月は日本の年初め、クリスマスはキリスト教国の年初め。

私は10月4日の誕生日が私の年初めである。

それから、新年の抱負・方針を語る。

「今年は何をやろうかな?・・」

67歳になったので、余生の抱負になってしまい、

「いつまでに?」

死ぬまでにというわけにはいかず、

「活動できるまでに!」

と、日本人の平均寿命から引き算して算出する。

剣呼応寿命は・・・・
男は71歳、女は74歳

私はあと5年の健康活動いわば終活期間があるとして、実現までの具体的チャートを作成できる。

 

67歳の今までで一番楽しかったこと、一番好きだったこと、一番求めたことが、

なぜか、奇跡的に、一つの具体的表現にまとまってきた。

 

一日一生一表現

 

オランダのワークキャンプ、マルセ太郎、自信を持つこと

 

特に、自分の一生を表現するにはマルセ太郎芸は必須だというのが解ってきた。

マルセ太郎の表現法を真似ると、三つの楽好求の命のバトンがしやすくなる。

この動画にはカットされた部分が裁判所風景である

マルセ太郎のマルセは、日本のパントマイムのマルセル・マルソーのようになりたいとしての芸名をつけたものだ。

言葉があるとないとでは、その伝達力にプラスマイナスがある。それをカバーするのが、ボディランゲージであり、音楽である。マルセ太郎は落語や映画を取り入れたパントマイム的法則を発見する笑いを表現していた。

 

私はそれをさらに問題解決技法に焦点をあてて、演じたい気分になってきた。

そのテーマは

「健康と平和」であり、楽好探のような「知と愛と幸」を加味した、物語を作って、一人で演じたくなってきた。

 

マルセ太郎の芸にはほとんど道具がいらないし、一人芸なので他人への気遣いが必要ない。

私は好きな尺八一つを道具にして、「健康と平和合わせて、我が名の康平」を演じてみたくなった。

その発表会は、動画配信でもいいし、友人のところに遊びにいって演じてもいい。SNSに投稿すればいいので、ひと昔のように、ライブしたり、本を書いたりする必要もないので、金も気苦労も要らない。

 

それは、自宅で、仕事ではなく趣味として、畑仕事を独り楽しむ「自遊」のようなものである。

 

と、考えつつも・・・

物語を考えるのも、描くのも、どうも苦手でそういう根気がない。

私は理屈屋さんの方で、芸術家タイプの小説家や劇作家のようなタイプではない。

だが、人に自分の考え方を解りやすく伝えるためには、

事実が一番ではあるが、そうした事実がうまく提示できない場合は、

科学者のように、実験をするような、その事実を提示せしめるようなものがいい。

だが、そうした実験も、人の生き死にや、人を傷つけるものはできないため、

仏教やキリスト教の例え話をすることで、人の習性や欲望をうまく表現しやすいものになる。

こうした例え話を創作したり、実際の事件や体験を持ってくるというようなもので、意見を組み立てていく。

その例え話と体験ドラマならば、さらりと書けて、演じられそうである。

あとは、写真や動画にの中の自然観察を中心に構成した様々な事実を集めて、それらを総合した現象からある種の法則や知恵を引き出していく。

事実は創作する必要はなく、探し出すだけでいいし、それにいろいろな事実を知るのは楽しいものである。

自分の意見を言うのはかなり大変だが、「こんな事実がある」という提示は、自分の意見でもあるし、自然の意志でもある。

それはつまり、自分の意志とはいろいろな事実の中から一つの事実を選択するということなのかもしれない。

私自身が生きているということ自体、一つの事実であるということからも、そう言えるだろう。