作物だって元雑草
雑草は四季折々で、毎年同じ種類の草が交代交代して何処でも生えている。
作物だって、元は雑草だったのだから、雑草のように四季折々、交代交代で生えてきても可笑しくない。
それができるように、石ころを積み上げ、どぶの土を盛った崖のところに、三年くらい前に、種を撒き、花が咲き、身を結ぶと、その種をばら撒くというのを、繰り返ししていた。
もちろん、以前からある雑草はどんどん成長してしまうが、それは身を結ぶ前に摘み取ってしまうことも繰り返しした。
小松菜と長ネギだけが、雑草のように今年は生え続けた。
私の理想は、何もしないでも、毎年作物が雑草の如く交代交代生え続けることである。
麦と稲をそうしたいが、麦は可能でも、稲は実に難しいが、稲だって元は雑草だから、やってやれないことはあるまい。
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何もしないということは無為自然
人が何もしないということはどういうことであろうか?
人の行為には究極的に生きるか?死ぬか?の二者択一しかない。
人が何もしないといいうことは、「ただ生きている」また「天命を待つ」状態であり、
人が何かするということは、良きも悪きも、「より生きる」また「自分から死ぬ」という決断と実行がされる時である。
さらに、生きることの強弱をとって煮詰めれば、
人が何もしないことは生きることであり、人が何かをするということは死ぬことである。
何もしないことを無為といい、何かをすることを有為また人為というので、
何もしないで自然にまかす生き方を無為自然といい、
何かを作るのなら、人工的であり、何かを起すなら人為的という活動行為という。
生死の二者択一の観点で、自分の観点ではなく、他人の殺人者の観点に立てば
殺人者の他人が何もしないことは自分を活かすことであり、
殺人者の他人が何かするということは自分を殺すということである。
殺人者の他人を殺人者の自分であっても、同じことがいえる。
死ぬという有為人為は自殺であり、他殺でもある。
その反対の生きるとは無為自然のことである。
戦争と平和
北朝鮮が敵の米国の核ミサイルに対抗して核ミサイルを持ち戦おうとする。
理想のイスラム教国を作ろうとして、自爆テロの聖戦をしかける。
戦争において、攻撃をしかけること、防衛することは、敵味方が死ぬという有為人為行為になる。
だが、
北朝鮮も米国も、お互いに攻撃も防衛も、何もしなければ、平和が保てると、即実現する。
イスラム聖戦士が、理想のイスラム教国を創ろうとも、自爆テロもしなければ、そのまま平和が維持でき、即実現する。
問題は、戦争をしかけられた場合どうするか?である。
これは人類の歴史において、みな苦悩してきて、その方法を編み出してきた。
もっとも有名なのがイエスの愛である、
「右の頬を打たれれば左の頬を向けよ」
であるが、もし人が自分を殺したら、また生き返って自分を殺させることはできない。
だから、このイエスの愛は必然的に、
「人が自分を殺そうとしたら、すすんで自分を殺させなさい」
となり、イエスは嘘をいって、逃げられても、十字架で死ぬ選択をしたのだろう。
それは生きるという無為自然な行為ではなく、キリスト教を広める有為人為行為であろう。
その自虐的自殺行為は、逆にもなり、十字軍のように他宗教の者を惨殺することに発展した。
だが、
日本の武道は殺人剣が活人剣になり、そればスポーツにも医術にも発展している。
「もし人が自分を殺そうとしたら・・?」
受け流し、
「相手が自ら殺意を失わせよ・・!」
柔よく剛を制する柔道は
相手が剛でもって殺そうとすれば、
自分も同じ剛、またより強い剛をもって対抗また防衛しようとはせず、
相手が自らの剛力によって、倒れるように、
柔をもって、受け流し、逃げ、相手の殺意を失わせよ。
合気道はさらに平和的で
自分から先制攻撃をしかけたり、相手をフェイントして、攻撃させ、その受け身で倒すこともなく
ただ、打ちかかる火の粉を払い落すか逃げるかである。
つまり、
目の前に、石が飛んで来たら、瞬間的に避ける行為と同じである。相手が殺そうとする行為に抵抗とはせず、逃げることで、けして相手も自分も殺傷せずに、活かす、生きられるようにする武道である。
これは
北朝鮮が核ミサイルで日本を攻撃しようとしても、同じ核ミサイルや武器で対抗とはせず、どうやって敵味方殺傷せずに、武器なしで、逃げられるか、殺意を失わせるかを、研究したり準備することが、平和術でもあり、自然災害にも対処できる方法でもあろう。
自他ともに、殺傷しない、共に生きられる術、
それは、何もしない無為自然な生き方が一番安全で平和であるという考えが、常識化すれば、自然と戦争は減ってきて、自然と平和になっていくだろう。