Archive for 10月, 2010

人は何もしなければ自然は循環する

火曜日, 10月 26th, 2010

米と麦の自然農法について思うのだが、春麦が実り、秋稲が実るのを毎年自然循環させるとしたら、雑草と同じ方法をとればいいのかもしれない。

 つまり、人は何もしないで、ただ雑草が生い茂り、その雑草の交代が自然に行われればいいことになる。毎年、春も秋も同じ雑草が生える・・・人は何もしなくもそうなる。

 そこで、

もし、人が米麦に対して、何もしないで、もちろん収穫もしないで、米麦が毎年循環できる土地になれるかもしれない。

 でも、収穫して米麦を食べるならば、それを食べた生ゴミや人糞は肥料としてもとの土地にもどして肥料にするなら、米麦人の三者が自然循環することになる。

人は自然の一部である。虫も鳥も、牛もみなそうである。雑草も、病害虫もまたしかり。

つまり、その土地の命の循環を生かされている生物で生死をくりかえし、その種を共存させるような自然循環にすれば、人はほとんど苦労しないで、食べ、働くことができるのではないだろうか。

自然を主して、人が従になってこそ、人は快適な生活が可能になるのではないだろうか。それを逆にするから、えらい苦労をすることになって、自然の反動をうけて、被害をうけるのではないだろうか。

カボチャができた

月曜日, 10月 25th, 2010

 生ゴミのカボチャの種から、カボチャが10個くらい実った。

 雑草とともにできたメロンと同じウリ科なので、実が実ると草も枯れてしまうようだ。

 カボチャの花が咲く9月ころは、青々と立派な草だったが、

そして、花が萎み、そこにカボチャが実ることになると、葉は白くなっていった。

ネットで調べると、窒素分が少なくなったためということらしいので、根元に鶏糞などの肥料を追肥したが、あまり関係なく、根本からどんどん白くなって、葉がやはり根本から枯れていった。

そして、カボチャが実った。

実は大きくないが、できたてのカボチャを食べた。

まだ採れたてなので、実の色が薄黄色で、皮も柔らかい。ミリンと醤油で煮込んで、甘みがまだ少なかったので、砂糖(うちはいつもオリゴ糖を使っている)を入れて、料理して食べた。

柔らかく、味も甘く過ぎないので、ちょうどよく、子供達もきそって食べた。

以前のメロンだが、結局12個できた。そのうち、3つくらいが、甘くておいしい皮がしわになった青いメロンができ、あとは、甘みが少ない赤みのメロンができた。どうして、同じメロンの種から二種のメロンができるのか不思議に思えた。

なお、玄米からできたコシヒカリは収穫したら、一束になった。

野菜も稲も実ると枯れるのがよくわかる。

サケも川をさかのぼり、卵を産むと、死んでいく。

親が子を命がけで、守り育てるのは自然の命の姿であるのがわかる。

命は生死を繰り返し、その実を永続させるのが、「愛の本質」のように思える。

水田を造ってみた

水曜日, 10月 20th, 2010

 雨水を使った水田を造ってみた。雨が降ると、段々畑は湧き水が多く出てくる。その水を溜めれば水田ができると思ったからだ。

 そのとき、10000円で買った家庭用電動耕耘機プロ用を使ってみたが、まったく何もできなかった。単に堅い土の上を車のように前に進むだけだった。おもちゃにもならないので、全部鍬とスコップで造った。刈った雑草を周りの畝の土台にした。

 これで、陸稲と麦でなく、コシヒカリと麦ができるのではないかと思われる。でも、本当に雨水と湧き水がたまるかどうかはさだかでない。

 水田と畑の違いは、畝の凸部に野菜を作るのに対して、凹部に稲を作るということになるとおもわれた。 もっとも、水が凹部にためなくてもできないが。

 

なんとコシヒカリが実っていた

日曜日, 10月 10th, 2010

 春にうちにあった玄米をビニールハウスの水はけが悪いところにばらまいたものだった。玄米は食べるものとしてスーパ-で2年前買ったものだった。あとで解ったのは食品用の玄米は殺菌してあるので育ちにくいようだ。でも、かなり蒔いたので、その中で10粒だけ生き残ったことになる。しかも、雑草とともにはえたのだから、かなり強いものだ。

 コシヒカリはハウス内30センチくらいまでで実っていたので、そこまで、水田として米麦が栽培できるかもしれない。この奇跡の確率で育ったコシヒカリはまさにうす青の黄金色の穂だった。そこからできた100粒の種をどこまで生育させることができるか楽しみである。

自然農の研究

金曜日, 10月 8th, 2010

 さて、いよいよ自然農の研究を開始した。福岡さんの方法が本当に可能なのかを実験することにした。実際方法は、福岡さんは水田稲作をしている途中からの方法だから、雑草畑からの出発する私は別なやり方で実験せざるをえない。

 この自然農の研究過程をブログでは報告しにくいので、新たなホームページ「自然農の研究」を造った。

 既存の畑の土は堅くて、まるで岩を砕いて土にする感じで作業する。大型の耕耘機があったら、あっというまにできるのだが、将来耕さないで、二毛作ができるかもしれないので、じっと我慢して、まずつるはしで砕き、そして、スコップで溝を30センチ以上ほり、その掘り出した堅い石ころのような土を鍬で砕いていく。この作業は雨が降った翌日だと土が雨で柔らかくなっているので比較的楽である。ビニールハウス内の土は雨が入らないので、土がほとんど細かく砕けないので、家庭用の電動耕耘機を9000円くらいで買って、野菜を育てることにした。

 それにしても、畑の土がどうして岩みたいに堅いのか不思議である。相当堅いのは砂岩や泥岩のようなもので、石なのか土なのか見分けがつかないものがある。

 それに、この砕いた土で野菜の苗を育てようとしたが、豆類以外の野菜は生育しないで枯れるか、芽を出さない。特に葉物野菜は育たない。そのため、苦土石灰をまいて、土をアルカリ性にしてから、育てることに再チャレンジすることにした。

 もっとも、野菜育てよりも、メインの米と麦が自給自足できることに主力をおくことにした。それにしても、昔は米麦を二毛作するのがあたりまえだったというが、麦は輸入に頼った方が安上がりだということらしい。

 ここ山梨では、以前は稲作が盛んだったが、お金にならないということで、みな果樹園に転向したと近所の農家さんが言っていた。農業はまさに経済志向でどんどん変わってきたのだろう。

還暦を迎えた

火曜日, 10月 5th, 2010

 還暦は満60歳の誕生日であるが、この60歳の誕生日は自分にとって大きな意味をもっている。それは子供から成人になる二十歳になる時の似ているが、それ以上の重みを持っている。

 還暦という言葉は、万物を表す、曜日の日月をのぞいた火水木金土の惑星の気にそれぞれに日(陽気)と月(陰気)をあてたカレンダーである陰陽五行と、歳を表す木星が12年で太陽を一周することから来た十二支「(ね(鼠)・うし(牛)・とら(虎)・う(兎)・たつ(竜)・み(巳)・うま(馬)・ひつじ(羊)・さる(猿)・とり(鶏)・いぬ(犬)・い(猪)」の60の組み合わせで生まれた起点に暦がもどることを言うようだ。

 ちなみに、干支(えと)という言葉は、太陽と月を表し、干支の干(え)は兄の意味で陽気を表し、支(と)は弟の意味で陰気を表す。これは昼と夜の毎日影響を受けるという意味であろう。

人生の暦の最高年齢は120歳で、還暦が二回転して、それを大還暦という。人生と陰陽でいうなら、60歳までが陽気であり、120歳までが陰気にあたるのかもしれない。

 というのは、60歳までは「生きること」が目標だったが、それ以降の120歳までは「死ぬこと」が目標になるといえるからだ。

武士道の聖典である葉隠に「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉があるが、その武士の生き様が60歳からの頑固じじいにみられるのかもしれない。

 人生を山登りにたとえれば、60歳が命の山頂で、その登り降りといえるだろう。

生命は生き死にがベースになり、一日も昼と夜が基本になっているのだから、人の人生もそういえるだろう。そのためか、地方によっては成人式と同じように、還暦式というのがあるそうで、どちらも第二の人生といえると思えるのである。

 還暦の祝いに、赤い帽子やちゃんちゃんこを贈るのは、どうやら、「赤ちゃん」にもどるということで、もう一度生まれ変わって、赤ちゃんから行き直すようなものになる。

 二十歳と還暦の大きな違いは、生活の不安があるかどうかである。二十歳からは大人として社会生活を支える役割ができるが、還暦からは社会に支えられるようになる。

 二十歳からはどう生活したらいいのか? どういう仕事をしたらいいのか? どう子供達を育てられいいのか? ということで、生活の不安がたくさんあった。

 でも、還暦の60歳からは、仕事も、子育ても終わって、財産もでき、年金ももらえるようになって、生活の不安から解消されて生きられる年齢になったということである。いわば、生活の不安の代表であるお金から開放されて、本来の人のために働ける年齢になったといえるだろう。

 私にとって大きな生き直しができたのは畑を得たことだろう。自分の食べ物を自分で作ることができる状況が一番ありがたいと思っている。それがお金からの開放されたという気持ちになった。

自然と習慣は違う

日曜日, 10月 3rd, 2010

 どうしてダイエットがうまくいかないのか?

 大体、自然な生き方が自分の信条だ。

 自然な生き方というのは、「ありのままに」「あるがままに」ということだ。

 この「あるがままに」という意味がしっかりした把握がされないと、

「思いのままに」という人為と、「自然のままに」という自然の力とごっちゃにしてしまう。

 ダイエットが必要になるもっとも問題になるのが「習慣病」である。「自分が食べたいままに」「自分が動きたいままに」という動向の集約が「習慣」であり、社会においては「慣習」である。

 そもそも「思い」というのは、2つの意味がある。

1つは「欲する」という欲望や願望であり、「理想とする」「考える」という信念である。いわば、体の欲望と、心の欲望の2つがあるようなものである。

 自然の流れというのは、いわば慣性の法則やエネルギー保存の法則のような物理法則、そして、命の生死が繰り返されるという生命法則である。

 それに対して、心と体の欲望はその快楽を永遠に求めるものである。いわば、その代表が永遠の欲望のシンボルである神様ようなものである。

 自然と神様は違う。神様は人の欲望が作り上げた目標体であるが、自然はその人も、物質も、あらゆる生命体も作り上げては壊している存在である。

 麻薬は依存症を引き出すものだが、それに依存してしまった人の欲望の性質を分析してみると、タバコと同じで「わかっちゃいるけどやめられない」というものだ。ダイエットも難しいのは「食べると太ってしまうとわかっているけど食べてしまう」というようなもので、本質的に似ているのである。

 メタボや成人病は依存症のような習慣病から引き起こされる。また、宗教信仰は神様依存症からくる生活からくる。

 こうした習慣病は欲望のままに、理想や信条のままにからくるものであり、自然とは異質である。自然は食べ過ぎれば太り、しいては心身を破壊する姿である。欲望や理想や信条の原因と結果をそのまま示すものであって、人の欲望や理想とは超えたものである。

 ウリハムシはウリ科の植物の葉も花も実も食いあさってしまい、最後はそのウリ科の植物も枯らしてしまい、自分も死んでしまう。蛾も火に向かって飛び込み死んでしまう。人のガン細胞だって、本体を死に導いて自分も死んでしまう。鬱病は自殺病ともいえて、「死にたい・楽になりたい」という心が、本体を死に導き、自分の心も消滅させてしまう。

 こうした欲望のままに進むことと、自然とは違う。自然はその欲望の原因と結果を示すことであり、そのとおり進む力のことである。もし、その欲望の原因であるガン細胞を取り除けば、その死の結果は回避され健康になるというのが自然の力である。

 もし、ウリハムシが生きるに必要な分だけの葉を食べ、本体の植物が枯れないようにウリハムシの数を制限させるような益虫や鳥や人間がいれば、ウリハムシもウリ科の植物も共生することが可能になるというのが自然の力である。

 人はウリハムシのような欲望のままに生きている姿はまさに、人と地球の間に起きている世界環境問題である。あの、イースタ島のようなモアイ像だけが残り、人はそこに生存できなくなる未来を示している。

 地球の経済問題と環境問題はいわば地球のガン細胞問題と同じである。地球を食い尽くして、人類が死滅してしまうようにならないように、その原因と結果をしっかりと把握して、人類が永続できる道を与えてくれるのが自然の力である。