Archive for 6月, 2012

赦すことは絆を作ること

月曜日, 6月 25th, 2012

 12日間も浸水させ、蒔い種籾の芽が1週間もしてもほとんど発芽しなかったので、今年も失敗かと思ったが、数年ぶりの台風がやってきて、大雨を1日降らせてくれ、その翌日には暑い夏日になり、いっきに、その種籾が発芽しだした。

 まだ、失敗はしていなかった。問題はその種籾を狙って、黄緑のメジロがたくさんやってくる。一緒にまいた大豆の種はハトがやはり食べてしまう。

 そこで、音を立てたり、石を投げたりして、脅かすがいっこうに効き目がない。そこで、急遽、昨年使った不織布を敷いたが、今回の稲大豆の雑草計画にはとても量がまにあわないので、麦をすぐ脱穀して、その麦わらをまくことを数日で完了させた。

 どんなにかわいいハトやきれいなメジロであっても、稲や大豆を育てるには害する鳥になる。あのクワガタムシだって、果樹には害虫になる。

 麦わらを蒔くことで、鳥が食べる内容が変化してきた。それがわかったのは、脱穀が終わって、まだ麦種が残っていた最終の麦わらを蒔いたときである。そこに、メジロとハトが集中して集まっていたのである。

 つまり、鳥は籾種や大豆をあきらめて、捨てた麦の種を食べ始めたのである。麦わらに混じって捨てた麦種はすぐに発芽して、秋に見事な麦穂をなるが、どういうわけか、種が実らない麦穂になる。

 そのため、この捨てた麦種は鳥に食べられた方が稲や大豆にとっては雑草になるので、助かることになる。そうなると、このメジロやハトは益する鳥になるのである。

 鳥にとって、自分たちが害鳥か益鳥かなんて関係ないのだが、それは人間にとっての判断なのである。

 害虫や害鳥の判断は人間が行うというのは人間の偏見であるのだが、では人間の善悪はどうだろうか? 

 私にはどうしても赦せない人がいるが、その人たちは私に害した人であるからだ。思い出すだけで腹が立つのだが、もし、その彼らを心の中で赦すとしたら、どうなるか想像してみた。

 自分の心が実に楽になることを発見した。実はこの想像をするにあたって夢をみていた。故障したバイクを空き地に置きっぱなしして、再び取りにいったら、そこは人の家の真ん前で、故障したバイクがなくなっていた。

 悪いことをしたと思い、冷や汗かきながら、その家の住人にきくと、なんとそのバイクはその人の納屋に納めてあった。謝りながらバイクを持っていこうとすると、放置したところがゴミが散乱していたため、急遽、そのゴミ清掃をさせてもらうことにした。すると、その家は広く、他の広い範囲までゴミが多く、清掃する必要があった。それは赦してもらうチャンスと思って、その手伝いをするうえで、その家の人たちとの温かい絆みたいのを感じるようになっていった。

 この夢で、赦されるということは温かい絆を築くことなんだなと知った。

 つまり、自分が害した人間であった場合、その罪が赦されることはとてもうれしい状況になるきっかけになるのだから、自分を害した人を赦すことも同じよき結果を導くことになることは確かなのである。

 仏典の中で、釈迦が数百人も殺した犯罪人を赦して、仏弟子にしてかわいがった。社会ではその仏弟子を怖がり、避難したが、釈迦はいっこうに平気だった。その仏弟子はあとで、善行を多く積むことになったという話である。

 罪を憎んで人を憎むな

 とはいうが、それを実行するのは非常に難しいことである。だが、殺人鬼であった仏弟子は悪人か、善人かというと、どっちでもないし、どっちでもあるということになる。

 人の善悪も鳥の益害も人の多数決で決められる判断であることがわかり、それは多数の社会の一方的な偏見であるのである。

 命ある鳥も人間も、そうした多数決善悪には無関係である。そのため、もし、あなたが多数の社会の善悪判断に従わないで、自分の心で判断するとしたら、こうした善悪は無関係になるというより、あなたの心次第で、相手を悪人にも善人にもすることができるということだ。

 もし、悪人を赦すことができると、その人を善人に替えることも可能になる。実際に常にそうなるとは限らないが、少なくとも、自分の心の中では考え方次第では確実に可能である。

 では、赦した方がいいのか、悪いのかという判断はこうだろう。

 命は人だけでなく、命ある生きとし生けるものすべてが一つにつながっており、一つの絆ができている。そうした場合、その命の姿をそのまま認めるならば、どんな害と悪も赦して楽しく生きていった方が楽しいことは確かであろう。自然に順応するとはそういう気持ちであって、人の欲望に従うことではないのである。

 とはいえ、赦しの度合いもあるだろう。それは絆として、糸を紡ぐ範囲のことである。命が一つであるという原理からは本音では100%赦しても、立前上、赦す度合いの決めていくことが、より愉快に社会を楽しむことができるというものだろう。

 

今に生きるのが生きているってこと

土曜日, 6月 16th, 2012

 関東の梅雨入りは6月8日だった。今日は6月16日だが、その期間に、雨が降ったのはたった二日間で、しかも、その両日は、2時間くらいでやんでしまった。確かに、毎日曇り空が多かったが、雨はほとんど降らないので、急遽、ホースを買って水やりをした。 
 水道水で、水やりを十分に300坪もすると、半日もかかる。この手間がバカにならないのだ。雨が降れば体を休めることができる。

 種籾は麦を刈り取った後にばらまけば育つという予想をしていたが、それでは心配なので、いくらか土をかぶせるようにした。それが大変な作業であったのだ。土を買ってきてばらまくとしたら、数トンの土が必要だ。

 さらに、忘れていたのだが、水稲の種籾は水に8日から12日間浸けておかないと発芽しないのだ。それで、梅雨入りに合わせて、6月1日に20㎏の水稲の種籾を浸けた。そして、8日に麦刈りが終わり、6月12日になっても、発芽しなかった。ネットで確かめると、32度の温度にすると、1日で、いくらか発芽しだしたものがあったので、それをばらまいた。

 その種籾をばらまく前に、刈り取った麦の畑を耕やし、その土をかぶせるようにした。この作業がまた大変だ。耕耘機があれば、1日でOKかもしれないが、そのためだけに、買うのもばからしいのでやめ、草刈りをしながら土をおこす三角の鍬のようなもので、麦の根を斜めに線をかくようにひっかいた。

 その作業だけでも3日間かかった。そして、種籾と大豆をばらまいた。すると、ハトがやってきて、大豆をほとんど食べられてしまったし、種籾も土に接しないで、買った麦わらに乗っているものが多かった。

 そこでまた、三角鍬で土かぶせをしようとしたが、とても、すぐには大豆をハトから隠せないので、地面をひっかけるような職人用の30度くらいの平鍬をホームセンターみつけ、値段が5800円もしたが、使ってみた。

 すると、この平鍬は根こそぎ草の根をとりながら、土をまぜてくれるので、効率よく3日間で、種を鳥から隠して、土と麦わらをのせられた。

 あとは、稲と大豆が無事育つかを見守るだけである。

 麦刈りして干した麦の脱穀を本日開始できた。そして、脱穀後の麦わらを1ヶ月間で腐らせ肥料として使えるように、ワラ分解王なるものを農協で購入した。つまり、腐敗を促進する糸状菌などの顆粒状のものだ。

 昨年は肥料として鶏糞を蒔いたが、どうも、それは窒素リン酸カリが強すぎ、また病虫害も多くなる感じでし、その効果が薄い感じがしていたからだ。

 なるべく、自前で肥料をたくさん作りたいためである。

 私の目的は主食である稲が雑草のように毎年育ち実るかどうかの実験である。雑草と稲との交替ができるかどうかにかかっている。麦は冬に育つので競争相手の雑草がいないので簡単に育ったが、夏草である稲は競争相手の雑草が多すぎるのだ。

 ふと思うことがある。どうして稲は水稲として、機械や農薬や肥料で苦労しないと育たないのだろう。どんなに数千年の歳月をえた知識や技術であれ、それは過去のことである。

 人は過去を思い起こすことはできても、過去にもどって生きることはできない。未来だって、ほとんど想定外のことが起きている。占いや予想だって、ほとんどはずれるのだ。

 それは過去と同じで、未来を空想できても、未来に生きることはできないのである。

 一体、生きるということは何だろう?

 生きていることは自己が存在していなければならない。我々はこの宇宙時間において、自己はいつ産まれ、いつ死んでいくのだろうか? 人の寿命が80年とはいっても、それは宇宙時間における数億年単位で比較すればまさに一瞬である。

 人類だって、宇宙空間における存在としてみれば、まさに一瞬の光のまばたきみたいなものであろう。

 我々の最も大事なものは自己の存在と自己の寿命時間である。人類・世界・国・社会と言ったって、それは単に自己の存在が大小集まっただけにすぎない。それらが絶対的に存在することも、永遠に生き続けることはできない。

 だったら、最も大事な自己という存在は何であろうか?

 それは今の自分でしかないだろう。過去の自分も、未来の自分も、みな空想の産物であり、自己存在できていないものだ。それが存在した、存在できるような自己は、今存在する自己が種となって、育った想像の概念にすぎないので、いわば、過去の自分も実在しないし、未来の自分も存在もしないものである。

 生きていることが存在であり、死んでいることが無存在とすれば、自己の存在は今の一瞬でしかありえないのである。

 未来を悩むことも、過去に振り回される必要なんか何もないのだ。それが過去の知識や技術であり、未来の科学的予測や占いであっても、それらは無存在に等しいものであり、今の自分の想像の産物でしかないものである。

 そのため、過去も未来も、今の自分がどう想像するかで、築かれるものであり、それが実際に確実に起こったことでも起こりえるものでもないのである。

 過去の歴史がしばしば変わってひっくりかえるのはそのためである。過去は事実ではなく、単に人の解釈にすぎないのである。事実は今の瞬間でしかありえないものである。

 こう思うと、

今の自分が最も大事な時間と最も高貴な存在であるかが解った気がする。

 

自然は完璧ではない

金曜日, 6月 8th, 2012

 昨年麦が食べきれないほど実ったので、ほとんどの麦を雑草を刈って麦をそこらじゅうにばらまいた。すると、翌春には他の雑草が入り込めないほど、麦がどこでもはえてきた。

 ほんの隙間があるところに、アメリカフウロが多く、成育していた。また、まわりの果樹園の休耕地にはほとんどイヌムギが繁茂していた。うちも、麦があまり育たなかったところに一部生えていた。

 梅雨入りに合わせて、種籾をばらまくため、まだ実が堅くはないが、早めに麦を刈ることにした。 そして、8日間かかって、麦刈りが終了した。

 麦刈りのときに、少々のアメりカフウロが混じると何か嫌な感じがしたので、束ねるときには抜いていた。脱穀する際にはあまり問題はないのだが、何か仕事をきれいに完璧にしたくなり、その手間が意外とかかっていた。

 そのままいくと、梅雨入り前に麦刈りが終わらないあせりを感じて、少々のアメリカフウロが混じろうと気にせずに刈っては束ねていったら、なんと倍の早さになっていることに気が付いた。

 この世界を数学のような完璧だというピタゴラスがいたが、この自然は違うな!と思えたのである。大体、古今東西、人は神のような完璧な存在を求める。多くの人がそうだが、とにかく世界一が好きだ。この世界一になろうという意識も、完璧な神のような姿になろうとするものだ。

 つまり、人為を煮詰めると、それは完璧な存在なる。麦や米も完璧な白さや甘さを求める。それに田畑もみな整然と美しくしないと気が済まないのである。

 だが、自然はこんな整然さや数字に合わせて形作られてはいない。知識とはいわばこうしたある数式みたいな完璧さである。しかし、どんなに計算をして月に行っても、その誤差はでるものである。完璧な計算はありえないのである。

 こうした完全無欠で、全知全能のような神に反するのが、自然の予測不可能な姿である。それは人はけして悟りきれない存在であるとする不知を説く老子はまさに自然の姿をそのまま言い表したのであろう。

 昨年の震災も原発事故は想定外である。原発だって、完璧な安全などは人は作り得ないのである。

 だから、自然は完璧ではないってことだ。  しかし、人はいつも完璧さを求める。だから、苦労が絶えないのである。麦の収穫だって、自分が自給自足できればいいのだ。それを売って金儲けしようとすると、苦労するわけだ。要は生きていければいいだけなんだから、あまり完璧さを求めずに、自然に楽しく生きていきたいものである。