Archive for 3月, 2010

ただいま引っ越し中

月曜日, 3月 29th, 2010

 家の売買は結婚式と同じような一大行事に思えたので、その関係者の記念写真をとった。

 左から、銀行員(抵当権の持ち主)、不動産屋1 不動産屋2 売り主 買い主(私) 司法書士

 なお、写し手は不動産屋1の若手の社員であり、場所は現行のロビーの衝立をしただけの一室というよりはコーナーであった。

そして、今は引っ越し真っ最中である。

 引っ越しや家を造るのは業者まかせにしたくなかった。家族でコツコツを築き上げていくようにしたかった。それは畑は野菜を作るように、家は人を創ると思えたからだ。

 引っ越しは転出届けをして転入届けをする。その逆はできない。転出届けがないと転入届けが受け付けられない。これは、何か物事をするうえで、「古いものを捨てなければ新しいものは手に入らない」ということでもある。

 今回、生活の基本となるのが、住所であることが嫌というほど思い知らされた。それは人が自分が中心になるようなものである。人はほ乳類という動物であり、あらゆるところを移動できるのが特徴だが、人が社会的動物になるためには、植物的要素が必要になり、大地に根付くことが必須になる。それが住所を定めることになるからだ。

 家を借りることと、買うことはその家を使う権限が大きく違ってくる。家に対する自由度がまったく違ってくるからだ。家を借りていたら、それを壊して新しく改装することはできないが、買えばそれができる。

 今回、10年家賃を払って家を借りる値段と同じ値段で家を買った。同じ1000万円のお金でその結果はまったく違ってくる。貸借は自分のものにならず、売買は自分のものになる。自由度は天と地の差があるのだ。

 お金のシステムは中央銀行からの貸借から生まれている。所有権の移転ではないのに、事実上はお金を一番持っているものがその所有権を持てることになるという矛盾したシステムになっている。

  お金の権限を与えた国も、発行する中央銀行も、お金の所有権はなく、お金を持ったものに所有権があるというシステムはすべての経済生活はお金持ちに支配されるということである。人は生まれながらにして平等であると国が保証するならば、今のお金のシステムは根本から改める必要があろう。

 ビニールハウスの中に家財をつめこもうとしたが、その中は湿気が多く、家具がすぐにだけになることが判明したので、リビングに全部つめこんで、移動しながら、家を改装することにした。

 家を自由に壊すことができるので、改装が思う存分できるのがたのしくなる。それにしても、改装しがいのある家を買ったものだ。かなりのお金を覚悟する必要がありそうだ。

 

 

直葬が流行

水曜日, 3月 24th, 2010

 今朝、テレ朝で「葬式は要らない」という本が数十万部売れており、「直葬」(ちょくそう)という聞き慣れない葬儀を紹介していた。この直葬という言葉はどうやら碑文谷創さんの造語で、それが社会現象化したようだ。

 彼が直葬を次のように解説している。

「葬式をしない葬儀の形態を言う。死亡後、斎場や遺体保管施設に24時間保管した後、いわゆる葬式をしないで直接火葬に処するもの。火葬炉の前で僧侶等により簡単に読経をあげてもらう等の宗教儀礼をあげてもらうことはある。2000年以降に都市部で急激に増加した形態で、東京では15~20%、全国平均でも5%程度あると推定される」

 この根拠になったのが、

「日本人の葬儀費用は平均231万円。これはイギリスの12万円、韓国の37万円と比較して格段に高い。浪費の国アメリカでさえ44万円だ。実際、欧米の映画等で見る葬式はシンプルで、金をかけているように見えない。対して我が国といえば巨大な祭壇、生花そして高額の戒名だが、いつからかくも豪華になったのか。どんな意味があるのか。」

 と、「葬式は要らない」という本に書かれているようだ。私の親の経験では費用は葬儀屋さんに、300万円は使った。結婚式とは違って、香典の合計費用はほとんどそのお返しと飲食代で消えてしまうからだ。戒名代は別に僧侶に対するお布施に入っており、30万円~60万円かかった。

 葬儀屋さんは祖父の代からの互助会という会員制で、20万円くらいの積立をしており、そこに電話するように指示されていたので、業者を選ぶ手間は省けた。その互助会というのがあったのは葬式に多額の費用が急に必要になるためだったのだろうと思える。

 それにしても、直葬が流行になったのは不景気のせいなのだろうか?

 ただ、直葬よりも、以前から家族・親戚だけの葬儀として密葬というのがあるが、その言葉がまた代わって家族葬という言葉になってきた。

 こうした家族葬や直葬が主流になってくる時代がやってきたのかもしれない。「葬式は要らない」という言葉が新しい価値観を指摘したので、その本が売れたのかもしれない。

 こうした時代の流れは、「お墓は要らない」ということで、散骨がまたこれから主流になりそうな気がする。それは、「千の風になって」という歌がはやったことも、人々が死後自然に帰りたいという気持ちに反映されているのではなかろうか。

 私が丹波山に住んでいたときにはとにかく年に数回の近所の葬式に出ざるをえない環境があり、しまいには、それが何か儀礼的に思え、出席をひかえるようになった。田舎では家族よりも近所の者を大事に扱われる葬儀になるので、それがまたえらい神経をつかうことになる。それが嫌で、近所ににらまれる方がその嫌さよりも楽なので、そうなってしまったようだ。

 もし、家族葬や直葬そして、散骨が時代の主流になったら、近所づきあいもかなり楽になりそうだ。近所つきあいは、死んでからでなく、生きている間にもっとしたいものである。

評価が才能を育ても殺しもする

月曜日, 3月 22nd, 2010

▼ほめるということ

 誰かをほめるということは、他の誰かを暗黙のうちにけなすことでもある。

 人はほめられて育つ場合、けなされて育つ場合とがある。

 逆にほめ殺しという言葉があるように、ほめてその才能が殺される場合と、けなされてその才能が殺される場合もある。

 そのように、人をほめたり、けなしたりすることは才能を育てるには欠かせないことであるが、常に逆に才能をつぶす危険性もあるということでもある。

▼ 評価するということ

 人をほめるということは、その人を評価するということである。評価するということは、いわばランク付けをするということでもある。ランク付けの基準は多数の才能の平均であり、その平均値よりもどのくらい高いか低いかで評価されることである。

 それは人の善悪や美醜や貧富にも適応される。

▼ 個性って何だ

  才能とは個性の極値をいうようなもので、他と自分がどのくらいの差があるかどうかを評価されるのが個性である。

 しかし、個性と才能とは違ったものとしてとらえられている。それは、個性はランクづけできなく、才能はランクづけできるという違いがあるからだ。このランク付けができるできないというのは、ランクづける基準(平均値)が同じか、違っているかというのであって、もし、同じランクの基準であれば、個性も才能も、同じランク付けすることになるということである。

▼ 自由競争って何だ

 評価なしには競争はできない。ランクづけなしには競争はできない。才能も個性も育てるには評価がかかせないように、競争も欠かせない。

 その場合、評価が多数の平均値が基準がなければできないように、基準がなければ正当な競争はできない。しかし、その平均値という基準は競争しあう者同士は同じ基準でなくてはならない。同じ基準でないと自由競争はできない。

 例えば、パラリンピック(半身不随paraplegiaと、オリンピックOlympicを組み合わせた造成語)選手とオリンピック選手が100m競争をするのは自由競争ではない。同じ条件で競いあうのが正当な自由競争になるということである。

 この同じ条件というのが、評価の基準になる。多数の平均値という基準よりももっと大事な基準である。

▼ 正しく自由な経済競争をするには

 同じ条件、多数の平均値という2つの基準が認められて始めて、評価や競争が正しく行われる。

 例えば、

 生まれたときの生活経済環境が同じでなければ、自由経済競争は正しくできないということである。親のいない子とリッチな家庭で生まれた子との間の自由な経済競争は成り立たないのである。

 そのため、今の社会における自由経済競争は不正なものである。

 これを正しい自由競争をして、人々の才能や個性を育てる評価と競争をさせるためには、同じ条件と、多数の平均値を定める必要がある。

 その条件と平均値を与えるのが、ベーシック・インカム(最低生存生活保証システム)である。

 その国民が最低な生活条件で生きていけるだけのお金の手当の保証である。ベーシック・インカムとは働かなくてもお金がもらえるというものではない。社会で正しく働くための条件である。ベーシック・インカムなしに、金持ちになったり、貧乏になったのはみな不正な自由競争をして成立したものであるということだ。

 国民の代表である国家が、数十兆円ものお金を金持ちに借り、利息を金持ちに払うことから、始まる政治は不正な経済自由競争をすることである。一部の金持ち国民と多数の貧乏国民という条件と、平均のない不正競争である。そこから、生まれた貧富の差は詐欺や略奪に近い犯罪から生まれたものと大差はないだろう。

 

 

  

親の一番の宝は子どもたちの夢

日曜日, 3月 21st, 2010

 昨日、オーム真理教に殺された被害者の視点からのドラマがあった。

 そこから、人は何を引き継ぐかということである。無惨に殺されても、その死をけして容認しないで、あたかもその被害者が生きているかのようにして、次の時代を築いていくのである。人はけして犬死にを認めないのである。人の心は神のように気高いものだからだ。

 東京生まれの私は両親が亡くなってから、その墓や故郷づくりを求めてきた。そして、その最終地は自然にあった、しかも、それが特定の土地にすることは一時的にはできたにしても、長くそれが引き継がれないことが明確になってきた。

 あえて、自分の家族の墓や故郷を指定するならば、この一つの地球であるということだ。

 というのは、人の死とは自己の死であり、あの「千の風になって」の歌のように、人は最終的に千の風や大空になって、自己と他の境がなくなるということである。家族の境はおよそ三代が平均で、それ以上になると、家族の境は消えて、社会的つながりになってしまい、血縁よりも、友人のつながりの方が大きな存在になるだろう。

 つまり、どんなに自己を主張しても、三代で終わりを告げるということだ。その先は社会や自然や大空であるということになる。こうなると、自己という存在を自己の肉体や家族に限定することは百数十年も続けばいいだけであろう。

 そこで、命の遺伝子が引き継がれることが目には見えないが大事になる。しかも、肉体の遺伝子は血のつながりで、その血はどんどん薄められ、その永続性には限りがある。永続性に価値をもたせるならば、「心の遺伝子」がもっとも大事になるのである。

 心の遺伝子は血の遺伝子ではなく、友愛の遺伝子である。友愛でもっとも自然や社会や命の世界で気高いのは「無償の愛」であろう。自分の命を捨てても愛する人の命を救う愛が最も優れた心の遺伝子になる。

 そして、その無償の愛は未来への遺伝子・バトンでもある。そのバトンこそ、生きる欲求つまり愛する人の夢や希望である。

 夫婦や親子や組織が一体感を持つことができるためには、共通の夢や希望を持つ必要がある。それがないと、その間はバラバラになってしまう。そのため、この共通の夢が心の遺伝子を具現化したものだといえよう。

 そこで、自己の三代の限りと、永続性のある心の遺伝子をまとめてみると、親が子の夢を応援することが、もっとも大事な墓や故郷づくりになりえるということだ。

 それは、人の心の遺伝子は愛する人の夢や希望の中に引き継がれ、大きく育っていくというなのだ

 それにしても、うちの子どもたちの夢がまだ大きく育たないのが一番気になるところだ。

ドミンゴよ、さようなら

土曜日, 3月 20th, 2010

 今日、16年間走り続け、187300キロ走った平成6年のスバルのドミンゴを廃車する。ユーザー車検を4ヶ月前にとったばかりだが、政府の補助金の12万5000円につられて、娘が欲しがるダイハツのタントの新車に入れ替えるためだ。

 このドミンゴは友人から、4年前に25万キロ走ったスバルの軽トラ(やはり同じ友人から20数年前に購入した)と交換したのだが、エンジンや電気系統やオイル漏れがあったが、なんとか4年間余り乗っていた。でも、次の車検までで廃車せざるをえなくなると判断した。

 もちろん、娘が欲しがった中古のホンダのザッツを神奈川の足柄山まで娘の運転で見に行ったが、車検が1年半ついて35万円だとネットと書かれてあったが、総価格は50万円だと現地で知ってびっくりした。見かけは7万キロ走行して、外装もきれいだったが、修理歴があったので、そこがどこかと聴いたら、後ろのドアを全部交換したとのことだった。従業員は誇らしげに後ろのドアを開け、しかも、座席のシートをはずして、補助タイヤをも見せた瞬間、私も従業員も唖然としてしまった。

 なんと、たくさんの水がそこにたまっていたからだ。このままで乗れるはずはないことがあきらかだった。その原因を予想することは簡単だった。従業員はドアのパッキンを交換すれば治るというが、そのパッキンは新品だった。これは明らかに後ろから追突された車両で、その車体本体がゆがんでしまい、その車体のゆがみから雨水が浸入してきている。そのゆがみはそう簡単には治らないことは確かだろう。

 そこで、修理は無理として、値引きを交渉したら、5万円まけてもらい、45万円にしてくれた。でも、それでも高すぎるので、その購入をあきらめた。それから他の中古販売会社を見に行ったが、やはり、軽自動車は高く、新車のエコ減税と補助金で新車の方が長い意味で、得だと判断した。

 ドミンゴを廃車すれば3万円ほどかかるのに、新車を買えば、その補助金12万5000円もらえる政策に乗ってしまった。新車でも、一番低いグレードだと加速をつけるCVCがつかないので、減税(車両税)21000円対象にならないが、CVCがついている車が10数万円高いので、割安感がない。

 政府のエコ政策は少しのCO2排出を減らすため、金持ちが金を使うほど減税率も高くなるように思えてくる。何か大きな矛盾があるようで変だ。

 つい1週間前に廃車が決まったドミンゴの運転したら、左右の方向指示器が点滅しないのであせってしまった。これでは危険きわまりないので、すぐに車を止めて、エンジンをきり、またつけて、方向指示器を検査し、数回試すと回復した。

 私には、車がダダをこねているようで、自分の死を予感し、悲しみを表現するような生き物にさえ見えてきた。機械に感情がないとはいうが、どうも、それはちがっているかもしれない、機械にも感情があるのかもしれない。

 ドラマで、人間の命をバッテリーとしてとらえたものがあった。人は機械になれるように、機械も人のようになれるかもしれない。

 このテーマは、昔からある。

 神は自分の姿に似せて人を創ったが、神は創造物を完全に支配することはできなかった。むしろ、人がその神を支配するようになったという歴史を感じる。

 こうした創造者が創造物を絶対優位に立つことはないということではないだろうか。

毎週土曜の夜中にターミネーターが放送されるが、創造物であるコンピュータに創造者である人の生死が管理されてしまう社会の怖さを表現しているが、それはまさに創造者が自分の創造物に支配されるいるという現実を表している姿なのかもしれない。

つまり、

ひょっとしたら、次の原則が真実かもしれないということだ。

「創造されたものは、それを創造したものを駆逐する」

親は子を産むが、子はいずれ親を支配するともいえるからだ。

畑に家を造る

金曜日, 3月 19th, 2010

 引っ越し先の相手が引っ越し、いよいようちの引っ越しも近づいた。どこまで片づいたのか見に行ったが、最終契約までにはとても住めるようにはならないことが判明した。

 かなりのリフォームと清掃が必要だった。しかし、3月末までに丹波山の家を引き払うようにしていたため、その荷物をどうしても新居に運び入れなくてはならない。

 これを予想して、塩山のアパートの方で4月末までの引っ越しにしたので、生活に支障はなかったが、予想外は、丹波山のたくさんの荷物を新居に置いたら、リフォームや清掃がしにくくなる。

 そこで、ビニールハウスを一つ残してもらったので、そこに1ヶ月間そこを物置にしようと計画した。

 そのとき、「畑に家を造る」という発想が生まれた。

 最近都会ではマンションの中で、小さな植木鉢でいろいろな野菜を栽培して楽しんでいる。家の中に畑があるようで実に楽しい気分になれる。また、銀座のど真ん中で、まったく土を使わないで、電気と水と肥料だけで、野菜ビルが作られている時代でもある。これらはみな家に中に畑を作る発想だが、私はその逆の発想をした。

 畑の中に家を造ったらどうだろうか?

お金の問題解決も、生産とお金の大事さを逆転させることで、新しい経済の道が見えてくることと同じである。

人間が主か、自然が主かという根本的な生き方がここに問われるのである。

動物園は人間社会の中で、動物が檻の中で暮らすが、新しい自然動物園は動物社会の中で人間が車の檻の中で行動することで、迫力のある楽しさが生まれる。

そこで、サファリパークのような発想で、畑の中に家を造れないかという試みをしたくなった。家の中で住むのが大事ではなく、畑で野菜を育てることが中心になれるような家の設計をしたらどうだろうか?

ビニールハウスの中心に畑を残し、そのまわりに家具や生活道具を配置して生活できる空間をつくれるようにする。それにあった家の設計を組み立ててみる。簡単にいえば、中庭が畑になるように家を造るということだ。囲炉裏のある家はとてもくつろげる家のように思えるように、キッチンも、畑の中でバーベキューをするようにしたら、何かとても豊かな生活ができそうな気がしてきた。

 畑は植物を、家は人を育てる

 その根本は自然が人間を育てるということではないだろうか!

 お金のシステムを自然のシステムに適応させるには、こうした実験がかかせないように思える。

 

 

 

 

理解が心を創る

月曜日, 3月 15th, 2010

▼ 知と愛

 学生のころ、ヘルマンヘッセの「知と愛」の小説を読んだことがある。知的な人間と愛情豊かな人間の生き方とその友情を表現したものだったが、たまにこの対照的な二人を思い出し、知と愛の関係について、考え直すことがある。

 当時から、知と愛は双頭の鷲のような平等の関係にあると思っていたが、最近、そうではなく知の方が愛より上に立っているように思えた。

 戦争を知らない子どもたちの世代である私は世界の価値観がもっとも高いのが「愛」であるように教育されてきたように思う。そのため、すべてに愛を優先して考えてきたが、ときどき、その矛盾に悩まされることがあった。

 とくに、サイババの「世界の宗教は一つ、それは愛の宗教」という言葉にいちころだった。でも、それが不可能であり、インチキ宗教を創り出す言葉の誘惑だった。

 キリストの「右の頬を打たれば左の頬を向けよ」という愛だって、キリスト教国と思われる国の歴史はまさに十字軍や米国のやり方は正義をふりまわし、「弱肉強食」の軍隊で制圧してきたのはどうにも解せない。

 第一、科学的ものの見方や教育をうけた人間が、オーム真理教のようなテロ集団の幹部で毒ガスをつかって無差別殺人をしたのも解せない。彼らはポア(殺す)ことで、相手を救うと本当に思いこんでしまったのはどういうわけだ!

 お金のシステムにしても、国民の生活を守るべく生まれたお金の発行をどうして国が行わず、一部の銀行に独占的権限を与えるのか、しかも、国が金持ちに借金して、その利息を払うことに対して、どうして疑問を持たないのか?

 どうあがいても、同じような人間なのに、片方は1時間で数億の収入を得、片方は時給数百円しか得られないようなお金のシステムに、何の疑問ももたずに、それが正当であるかのように従ってしまうのか?

 宗教には洗脳とか、催眠術のような、自分の意志とは違う教祖や他人の意のままに動かされることがあるが、それがどうして可能になるのだろうか?

 キリストが生まれ変わるというように、亡くなった人間が生まれ変わると本当に信じることができるのはどうしてだろうか?

 ありえないこと、あったことが一度もなかったことを、人は信じることができるのはどうしてだろうか?

裁判において、冤罪があるが、誤解で相手を有罪に、ひどいときには死刑にしてしまうことがあるのはどうしてだろうか?

 この答えを今朝浮かんだ!

「理解が心を創っている」

 そう考えれば、これらの疑問が解けるのである。誤解にしろ、想像にしろ、真の理解にしろ、人は相手に対するどういう理解をするかで、その相手にたいする心が生まれるのだ。

 理解するとは知るということである。知るには正解も誤解もあるが、それによって、喜怒哀楽という心が生まれるのである。

つまり、知から愛が生まれる。愛から知も生まれるが、それは後からである。知から愛がまず生まれ、その愛がさらにその知を深めるのである。それは知が愛よりも上に在るということでもある。

 今までは世界の価値観がもっとも高かったのは愛だったが、これからの時代のもっとも高い価値観を「まず理解」にしていくことが必要になってくるように思う。

お金はダイヤル

木曜日, 3月 11th, 2010

 丹波山村に来て8年たち山梨市に引っ越しすることになった。その最後の3月に私が過ごした8年間のうちで一番の大雪が降った。30センチくらいだが、近くの高圧線が雪で寸断されて、停電が18時間続いた。それまで、暖房設備が電気しかなかったので寒くてたまらない。そこで、厚着をし、さらに、せめてコタツを暖かくしたかったので、2つの方法を試してみた。

 大きな鍋に水をいれ、ガスで湯を沸かし、それをコタツの中に入れた。もう一つは木炭があったので、それをガスで燃やし、陶器の皿において、コタツに入れた。

 鍋湯たんぽの方がすぐに暖かくなったが、1時間もすれば冷たくなった。木炭は最初一カケラをガスで火をつけただけだったので、やはり1時間もすれば、火は消えてしまった。

 そこで、木炭の量を増やし、ガスで念入りにつけたら、その暖かさは停電が終わるまで続いた。そこで気が付いたのは、木炭が燃え続けるためには、一カケラではダメで、2カケラ以上ないと燃え続けられないということだ。木炭が燃えているところを観ると、2つの木炭のカケラが適当に離れていて、その間が真っ赤に燃えており、その外側は未だに燃えていない黒い背中のようになっていることだった。

 また、木炭の陶器の受け皿はそのまま置いたら、その熱電動がマダラだったせいか、爆発し飛散してしまったので、鉄のボールに仏壇の灰を入れ、そこに木炭を入れ、その下に陶器、さらにその下に木の板を敷いて熱が均等に廻るようにして成功した。

 電気が使えないので、光電話もネットもできない。携帯電話だけが頼りの仕事をする。すると携帯の電池が2本になり、1本になり、外とも連絡も切れそうになってはらはらしたが、そこで停電が回復した。ヤレヤレの1日であった。それにしても今の生活は電気に頼りすぎているように思える。

1.自立って何だ?

 「天上天下唯我独尊」とはいうが、我(自分)は尊く立つことができるのは、天上天下のまわりの人や世界の助けがあってだ。それは他のすべてにもいえることなので、唯我独尊が成立するためには、自他の協力なしにはありえないことであり、また、こうした唯我独尊という自立心は自他の協力そのものだとも言えるのである。

 自分が尊いのではなく、自他の協力そのものが尊いのである。そもそも尊いというような心は自他の関係でしか生まれないからである。

 自立とは協力心である。

 と言い切ることができそうだ。

2,お金の暴走をくいとめるには

 今やアメリカドルが世界共通の貨幣であることが、昨年の世界恐慌ではっきりした。お金はドルが基軸通貨として、世界のお金は一つになっている。
 もし、基軸通貨以外の通貨が暴走しても、世界恐慌にはならない。昨年のジンバブエのお金のハイパーインフレがあったとしても、世界恐慌にはならなかったのである。

 世界の経済を調整安定化させるには、それはダイヤルのように強弱できるようなシステムがあって丁度いいダイヤルシステムができる。

 世界の基軸通貨はドルを強くするダイヤルとすれば、逆の弱くするダイヤルであるもう一つの基軸通貨が必要であろう。

商品をガソリンとして、お金を車とすれば、車を動かすアクセルとして貯蓄できる今のお金と、動きを止めるブレーキとして貯蓄できない減価する貨幣が両方あって始めて、お金という車を安定して走らせることができる。

 先の自立心でいえば、自他の協力があって始めてお互いに存続できる状態にするには、現在のドル基軸通貨と、それがたとえ機能しなくなっても、他の基軸通貨で代用できるようにすればいいのである。

 政府でいえば二院政である。不況となったときに、地域通貨がそれに代わって流通できれば、経済は安定することになる。

 つまり、お金の暴走をとめには、そのお金がなくても他のもの(商品券や地域通貨など)で常に代用がきくシステムが必要だということである。

 そこで、世界の経済を安定化させるには、2つの基軸通貨を建てることであり、1つは貯蓄やギャンブル性のあるドルの基軸通貨と、もう1つは貯蓄しない分配性のある減価する基軸通貨が必要であろう。

 そして、各国のまた二種の通貨を持つ必要があり、貯蓄する通貨と消費する通貨をもつことで、国民生活を安定化させることができる。

3.お金はダイヤル

 お金のいらない国はとてもあこがれである。しかし、この理想はお金を一つとしてみてるからである。今のお金(日銀券)がいらない国ということでもある。そのため、お金のいらない国とは、「ベーシック通貨だけでもやりくりできる国」であるともいえるのではないだろうか。

4.お金は個性の燃やしあい

 1つの木炭は1人の人間であろ。

 木炭が燃えるとは生きているということ。

 1つの木炭では燃えない、2つ以上のの木炭で燃え続けられるとは、人は社会生活でないと生きられないということ。

 お金のシステムも1つでは安定した生活はできない。2つ以上の基軸通貨がある事が安定した生活ができる条件であるということだ。

 

人を許す科学

土曜日, 3月 6th, 2010

 最近、「ピンチはチャンスの科学」のような簡単な原理を発見した。

 これだけは「どんなことがあっても許せない」ってことが誰だってある。

 しかし、それが

「どんなことも許せる」

 ことが可能になる技術というか方法がある。

 ものごとをもっともっと大きく観るという方法である。

 これを名付けて「人を許す科学」と言ってみたい。

☆人を許す科学

 人が最も許せないことは愛する人が残酷に殺された場合であろう。

 その殺人者を一生涯許せない。たとえ、殺人者が死刑になっても、許せないはずである。

 唯一、許せるのは愛する人が以前のように生きて帰ってきたときである。

 そこで、許す科学では

「愛する人は生きて帰ってきます!」

 と言い切ることができる学問である。

 これは、生死というものがまずどういうものであるか、その基礎から学んでいく。

 次に自己とは何かを分析発展させていく。

 さらに、命や人間や社会・・・現実と真実、心と体というものを勉強していく。

 そして、最後に見つけ出す答えが、

「愛する人は必ず生きて帰ってきます!」

 である。

 昔、「右の頬を打たれれば左の頬を向けよ」 とか、「飢えた虎に命を捧げる人の話」はとても信じられなかったし、それは馬鹿げた行為としてしか思えなかった。

 しかし、

 「人を許す科学」では、この問題を方程式を解くような感じで、その答えを導き出すことができる。

 この問題提起が何を言わんとしていたのか、それがどんな状態で可能か、不可能かが明確に導き出すことができるようになる。

 この原理を支えているのが、物事をどんどん大きく観ていくこと想像力である。

例えば、

 私たちの生死は宇宙の時間と空間の中で、一瞬のまばたきとしか感じられないという想像をするのである。

 人の喜怒哀楽がどれほど小さな自己の視点から生まれてくるかも想像できることになる。

 この想像力はどんな視点でも広げることができる。この場合の殺人者の視点にも、被害者も視点にも、首相の視点にも広げることができる。

 こうした想像力が人の許せない気持ちを許せる気落ちに替えられるのである。

やさいベーシック・インカム

木曜日, 3月 4th, 2010

 最近出たベーシック・インカム関連の本のタイトルにすぐ読んでみたいと思った本があった。

やさいベーシック・インカム

 野菜によるベーシック・インカムかあ・・・・・

 これはすばらしい視点だなあ。読んで見る価値があるなあ。

さっそく、注文してみようと思ったら、

 やさしいベーシック・インカム

 で、がっくりした。「易しい」BIと「野菜」BIとではえらい違いである。

私自身、野菜と作ろうとすることと、ベーシック・インカムを実現しようとする企画を持っているから、間違えた笑い話だった。

でも、この間違い、世の中に野菜ベーシック・インカムをプロジェクトしたくなった。

 この視点は実に野菜という自然存在とベーシック・インカムという社会的存在と実にマッチしているからだ。

野菜ベーシック・インカムを実現しよう!

 人はうちとける時にはまず一緒に食事をする。ナンパだって、「お茶しない?」から始まるだろう?

 ベーシック・インカムだって、人と人が助け合うためにまず一緒に食事をしようという発想から生まれている。

 人の空き腹は人の収入の格差ほどの差はなく、一定量しか食べられない。この一定量で金持ちでも貧乏人でも、みな満足することができる。この一定量の食事が一緒にできる環境がやさいベーシック・インカムである。

 なぜ、食事ベーシック・インカムでなく、野菜ベーシック・インカムかというと、人類78億人と一緒に同じ種類の食事をしたら、肉類だと、量が足りない。肉を生産するには数百倍の野菜が必要だからだ。野菜と穀物だけの食事だったら、全人類68億人に食事が同時にいきわたることができるからだ。

 68億人の持てるお金の差は数兆円の差があるが、食べられる野菜の差は1キロくらいで金額にして1000円にもならないだろう。人が心をうちとけ、助け合うには、平等な関係がまず必要である。そのため、68億人が食べられる野菜を世界分配するシステムをまずつくりだすことが、これからの人類が地球で生き残る基本となる。

具体策

 ・野菜だけ売買できる世界共通通貨を作る。

 例 野菜ドル通貨になるから、 $vegetables で、それを略して、$v(ドルベジ)

 ・世界野菜ドル通貨銀行で、電子マネーとそれを印刷発行する商品券によるベーシック・インカムをする。

  1食=1$v として、1人1日3食年365日に必要な野菜ドル通貨は

 3×365=1095$v 68億人合計=7兆4460億$v であるから、

 毎年の野菜ドル通貨発行額は7兆4460億$vである。

 ・安定分配システム

  1.野菜ドル通貨は減価する貨幣にして、その財源と分配を自動化する

  2,野菜ドル通貨の減価率は年100%

    野菜が朽ちるのは1週間くらいであるから、他の商品よりもはるかに短いので、それにあわせた減価する貨幣システムにする。分配する手間を楽にするため、年ごとに更新される野菜ドル通貨がいいと思われる。

 3.野菜ドル通貨は他の貨幣とは交換できない

 野菜だけの分配・売買をするため、その他の商品と交換する必要がない。それと、その野菜ドル通貨を使って、投資して、マネーゲームすることを防止するためである。

 また、野菜ドル通貨で肉を買えるようにすると、野菜ドル通貨による貧富の差を生まれてしまい、野菜分配が平等にされないからだ。

4.各国はその国民の数の分だけ野菜ドル通貨を発行できる。各国の野菜ドル通貨は世界各国共通のレートで使える。

 日本の1食の値段と、チリの1食の値段は1野菜ドル($v)で同じである。但し、その発行はその国であるので、最終的に野菜の生産と流通した業者に集まった野菜ドルはその政府の政策レートで、その国の現金と交換できる。

5.年末に生産と流通業者に集まった野菜ドル通貨を政府は一定の現金と交換できるが、その交換期間は3ヶ月間だけである。

 それによって、野菜ドル通貨による投資やギャンブルはできなくなる。各国政府の国民と国際的義務としての基礎自給率と生存を確保する通貨になれる。

 ・野菜通貨によるベーシック・インカムはこんな感じ

  お米券のようなもので、世界のお米銀行から毎月お米券が配られる。そのお米券でお米だけ買える。

  お米生産と流通業者に集まったお米券は政府が日銀券と一定の比率で交換できる。しかし、交換できるお米券はその年発行されたお米券だけであり、その交換期間は3ヶ月間である。

  そのため、政府が毎年、お米券の予算を生存補償費として、確保し、そのお米の生産と流通業者を保護して、食料の自給率を確保することになる。

 今の世界は一つの通貨では、世界の生産と流通を調整できないため、各国通貨や商品券や地域通貨や債券が生まれているという現状ではないだろうか。

  この野菜ドル通貨は野菜ベーシック通貨として、これから新しい平和通貨としても流行するかもしれない。