Archive for 3月, 2010

ただいま引っ越し中

月曜日, 3月 29th, 2010

 家の売買は結婚式と同じような一大行事に思えたので、その関係者の記念写真をとった。

 左から、銀行員(抵当権の持ち主)、不動産屋1 不動産屋2 売り主 買い主(私) 司法書士

 なお、写し手は不動産屋1の若手の社員であり、場所は現行のロビーの衝立をしただけの一室というよりはコーナーであった。

そして、今は引っ越し真っ最中である。

 引っ越しや家を造るのは業者まかせにしたくなかった。家族でコツコツを築き上げていくようにしたかった。それは畑は野菜を作るように、家は人を創ると思えたからだ。

 引っ越しは転出届けをして転入届けをする。その逆はできない。転出届けがないと転入届けが受け付けられない。これは、何か物事をするうえで、「古いものを捨てなければ新しいものは手に入らない」ということでもある。

 今回、生活の基本となるのが、住所であることが嫌というほど思い知らされた。それは人が自分が中心になるようなものである。人はほ乳類という動物であり、あらゆるところを移動できるのが特徴だが、人が社会的動物になるためには、植物的要素が必要になり、大地に根付くことが必須になる。それが住所を定めることになるからだ。

 家を借りることと、買うことはその家を使う権限が大きく違ってくる。家に対する自由度がまったく違ってくるからだ。家を借りていたら、それを壊して新しく改装することはできないが、買えばそれができる。

 今回、10年家賃を払って家を借りる値段と同じ値段で家を買った。同じ1000万円のお金でその結果はまったく違ってくる。貸借は自分のものにならず、売買は自分のものになる。自由度は天と地の差があるのだ。

 お金のシステムは中央銀行からの貸借から生まれている。所有権の移転ではないのに、事実上はお金を一番持っているものがその所有権を持てることになるという矛盾したシステムになっている。

  お金の権限を与えた国も、発行する中央銀行も、お金の所有権はなく、お金を持ったものに所有権があるというシステムはすべての経済生活はお金持ちに支配されるということである。人は生まれながらにして平等であると国が保証するならば、今のお金のシステムは根本から改める必要があろう。

 ビニールハウスの中に家財をつめこもうとしたが、その中は湿気が多く、家具がすぐにだけになることが判明したので、リビングに全部つめこんで、移動しながら、家を改装することにした。

 家を自由に壊すことができるので、改装が思う存分できるのがたのしくなる。それにしても、改装しがいのある家を買ったものだ。かなりのお金を覚悟する必要がありそうだ。

 

 

直葬が流行

水曜日, 3月 24th, 2010

 今朝、テレ朝で「葬式は要らない」という本が数十万部売れており、「直葬」(ちょくそう)という聞き慣れない葬儀を紹介していた。この直葬という言葉はどうやら碑文谷創さんの造語で、それが社会現象化したようだ。

 彼が直葬を次のように解説している。

「葬式をしない葬儀の形態を言う。死亡後、斎場や遺体保管施設に24時間保管した後、いわゆる葬式をしないで直接火葬に処するもの。火葬炉の前で僧侶等により簡単に読経をあげてもらう等の宗教儀礼をあげてもらうことはある。2000年以降に都市部で急激に増加した形態で、東京では15~20%、全国平均でも5%程度あると推定される」

 この根拠になったのが、

「日本人の葬儀費用は平均231万円。これはイギリスの12万円、韓国の37万円と比較して格段に高い。浪費の国アメリカでさえ44万円だ。実際、欧米の映画等で見る葬式はシンプルで、金をかけているように見えない。対して我が国といえば巨大な祭壇、生花そして高額の戒名だが、いつからかくも豪華になったのか。どんな意味があるのか。」

 と、「葬式は要らない」という本に書かれているようだ。私の親の経験では費用は葬儀屋さんに、300万円は使った。結婚式とは違って、香典の合計費用はほとんどそのお返しと飲食代で消えてしまうからだ。戒名代は別に僧侶に対するお布施に入っており、30万円~60万円かかった。

 葬儀屋さんは祖父の代からの互助会という会員制で、20万円くらいの積立をしており、そこに電話するように指示されていたので、業者を選ぶ手間は省けた。その互助会というのがあったのは葬式に多額の費用が急に必要になるためだったのだろうと思える。

 それにしても、直葬が流行になったのは不景気のせいなのだろうか?

 ただ、直葬よりも、以前から家族・親戚だけの葬儀として密葬というのがあるが、その言葉がまた代わって家族葬という言葉になってきた。

 こうした家族葬や直葬が主流になってくる時代がやってきたのかもしれない。「葬式は要らない」という言葉が新しい価値観を指摘したので、その本が売れたのかもしれない。

 こうした時代の流れは、「お墓は要らない」ということで、散骨がまたこれから主流になりそうな気がする。それは、「千の風になって」という歌がはやったことも、人々が死後自然に帰りたいという気持ちに反映されているのではなかろうか。

 私が丹波山に住んでいたときにはとにかく年に数回の近所の葬式に出ざるをえない環境があり、しまいには、それが何か儀礼的に思え、出席をひかえるようになった。田舎では家族よりも近所の者を大事に扱われる葬儀になるので、それがまたえらい神経をつかうことになる。それが嫌で、近所ににらまれる方がその嫌さよりも楽なので、そうなってしまったようだ。

 もし、家族葬や直葬そして、散骨が時代の主流になったら、近所づきあいもかなり楽になりそうだ。近所つきあいは、死んでからでなく、生きている間にもっとしたいものである。

評価が才能を育ても殺しもする

月曜日, 3月 22nd, 2010

▼ほめるということ

 誰かをほめるということは、他の誰かを暗黙のうちにけなすことでもある。

 人はほめられて育つ場合、けなされて育つ場合とがある。

 逆にほめ殺しという言葉があるように、ほめてその才能が殺される場合と、けなされてその才能が殺される場合もある。

 そのように、人をほめたり、けなしたりすることは才能を育てるには欠かせないことであるが、常に逆に才能をつぶす危険性もあるということでもある。

▼ 評価するということ

 人をほめるということは、その人を評価するということである。評価するということは、いわばランク付けをするということでもある。ランク付けの基準は多数の才能の平均であり、その平均値よりもどのくらい高いか低いかで評価されることである。

 それは人の善悪や美醜や貧富にも適応される。

▼ 個性って何だ

  才能とは個性の極値をいうようなもので、他と自分がどのくらいの差があるかどうかを評価されるのが個性である。

 しかし、個性と才能とは違ったものとしてとらえられている。それは、個性はランクづけできなく、才能はランクづけできるという違いがあるからだ。このランク付けができるできないというのは、ランクづける基準(平均値)が同じか、違っているかというのであって、もし、同じランクの基準であれば、個性も才能も、同じランク付けすることになるということである。

▼ 自由競争って何だ

 評価なしには競争はできない。ランクづけなしには競争はできない。才能も個性も育てるには評価がかかせないように、競争も欠かせない。

 その場合、評価が多数の平均値が基準がなければできないように、基準がなければ正当な競争はできない。しかし、その平均値という基準は競争しあう者同士は同じ基準でなくてはならない。同じ基準でないと自由競争はできない。

 例えば、パラリンピック(半身不随paraplegiaと、オリンピックOlympicを組み合わせた造成語)選手とオリンピック選手が100m競争をするのは自由競争ではない。同じ条件で競いあうのが正当な自由競争になるということである。

 この同じ条件というのが、評価の基準になる。多数の平均値という基準よりももっと大事な基準である。

▼ 正しく自由な経済競争をするには

 同じ条件、多数の平均値という2つの基準が認められて始めて、評価や競争が正しく行われる。

 例えば、

 生まれたときの生活経済環境が同じでなければ、自由経済競争は正しくできないということである。親のいない子とリッチな家庭で生まれた子との間の自由な経済競争は成り立たないのである。

 そのため、今の社会における自由経済競争は不正なものである。

 これを正しい自由競争をして、人々の才能や個性を育てる評価と競争をさせるためには、同じ条件と、多数の平均値を定める必要がある。

 その条件と平均値を与えるのが、ベーシック・インカム(最低生存生活保証システム)である。

 その国民が最低な生活条件で生きていけるだけのお金の手当の保証である。ベーシック・インカムとは働かなくてもお金がもらえるというものではない。社会で正しく働くための条件である。ベーシック・インカムなしに、金持ちになったり、貧乏になったのはみな不正な自由競争をして成立したものであるということだ。

 国民の代表である国家が、数十兆円ものお金を金持ちに借り、利息を金持ちに払うことから、始まる政治は不正な経済自由競争をすることである。一部の金持ち国民と多数の貧乏国民という条件と、平均のない不正競争である。そこから、生まれた貧富の差は詐欺や略奪に近い犯罪から生まれたものと大差はないだろう。

 

 

  

親の一番の宝は子どもたちの夢

日曜日, 3月 21st, 2010

 昨日、オーム真理教に殺された被害者の視点からのドラマがあった。

 そこから、人は何を引き継ぐかということである。無惨に殺されても、その死をけして容認しないで、あたかもその被害者が生きているかのようにして、次の時代を築いていくのである。人はけして犬死にを認めないのである。人の心は神のように気高いものだからだ。

 東京生まれの私は両親が亡くなってから、その墓や故郷づくりを求めてきた。そして、その最終地は自然にあった、しかも、それが特定の土地にすることは一時的にはできたにしても、長くそれが引き継がれないことが明確になってきた。

 あえて、自分の家族の墓や故郷を指定するならば、この一つの地球であるということだ。

 というのは、人の死とは自己の死であり、あの「千の風になって」の歌のように、人は最終的に千の風や大空になって、自己と他の境がなくなるということである。家族の境はおよそ三代が平均で、それ以上になると、家族の境は消えて、社会的つながりになってしまい、血縁よりも、友人のつながりの方が大きな存在になるだろう。

 つまり、どんなに自己を主張しても、三代で終わりを告げるということだ。その先は社会や自然や大空であるということになる。こうなると、自己という存在を自己の肉体や家族に限定することは百数十年も続けばいいだけであろう。

 そこで、命の遺伝子が引き継がれることが目には見えないが大事になる。しかも、肉体の遺伝子は血のつながりで、その血はどんどん薄められ、その永続性には限りがある。永続性に価値をもたせるならば、「心の遺伝子」がもっとも大事になるのである。

 心の遺伝子は血の遺伝子ではなく、友愛の遺伝子である。友愛でもっとも自然や社会や命の世界で気高いのは「無償の愛」であろう。自分の命を捨てても愛する人の命を救う愛が最も優れた心の遺伝子になる。

 そして、その無償の愛は未来への遺伝子・バトンでもある。そのバトンこそ、生きる欲求つまり愛する人の夢や希望である。

 夫婦や親子や組織が一体感を持つことができるためには、共通の夢や希望を持つ必要がある。それがないと、その間はバラバラになってしまう。そのため、この共通の夢が心の遺伝子を具現化したものだといえよう。

 そこで、自己の三代の限りと、永続性のある心の遺伝子をまとめてみると、親が子の夢を応援することが、もっとも大事な墓や故郷づくりになりえるということだ。

 それは、人の心の遺伝子は愛する人の夢や希望の中に引き継がれ、大きく育っていくというなのだ

 それにしても、うちの子どもたちの夢がまだ大きく育たないのが一番気になるところだ。

ドミンゴよ、さようなら

土曜日, 3月 20th, 2010

 今日、16年間走り続け、187300キロ走った平成6年のスバルのドミンゴを廃車する。ユーザー車検を4ヶ月前にとったばかりだが、政府の補助金の12万5000円につられて、娘が欲しがるダイハツのタントの新車に入れ替えるためだ。

 このドミンゴは友人から、4年前に25万キロ走ったスバルの軽トラ(やはり同じ友人から20数年前に購入した)と交換したのだが、エンジンや電気系統やオイル漏れがあったが、なんとか4年間余り乗っていた。でも、次の車検までで廃車せざるをえなくなると判断した。

 もちろん、娘が欲しがった中古のホンダのザッツを神奈川の足柄山まで娘の運転で見に行ったが、車検が1年半ついて35万円だとネットと書かれてあったが、総価格は50万円だと現地で知ってびっくりした。見かけは7万キロ走行して、外装もきれいだったが、修理歴があったので、そこがどこかと聴いたら、後ろのドアを全部交換したとのことだった。従業員は誇らしげに後ろのドアを開け、しかも、座席のシートをはずして、補助タイヤをも見せた瞬間、私も従業員も唖然としてしまった。

 なんと、たくさんの水がそこにたまっていたからだ。このままで乗れるはずはないことがあきらかだった。その原因を予想することは簡単だった。従業員はドアのパッキンを交換すれば治るというが、そのパッキンは新品だった。これは明らかに後ろから追突された車両で、その車体本体がゆがんでしまい、その車体のゆがみから雨水が浸入してきている。そのゆがみはそう簡単には治らないことは確かだろう。

 そこで、修理は無理として、値引きを交渉したら、5万円まけてもらい、45万円にしてくれた。でも、それでも高すぎるので、その購入をあきらめた。それから他の中古販売会社を見に行ったが、やはり、軽自動車は高く、新車のエコ減税と補助金で新車の方が長い意味で、得だと判断した。

 ドミンゴを廃車すれば3万円ほどかかるのに、新車を買えば、その補助金12万5000円もらえる政策に乗ってしまった。新車でも、一番低いグレードだと加速をつけるCVCがつかないので、減税(車両税)21000円対象にならないが、CVCがついている車が10数万円高いので、割安感がない。

 政府のエコ政策は少しのCO2排出を減らすため、金持ちが金を使うほど減税率も高くなるように思えてくる。何か大きな矛盾があるようで変だ。

 つい1週間前に廃車が決まったドミンゴの運転したら、左右の方向指示器が点滅しないのであせってしまった。これでは危険きわまりないので、すぐに車を止めて、エンジンをきり、またつけて、方向指示器を検査し、数回試すと回復した。

 私には、車がダダをこねているようで、自分の死を予感し、悲しみを表現するような生き物にさえ見えてきた。機械に感情がないとはいうが、どうも、それはちがっているかもしれない、機械にも感情があるのかもしれない。

 ドラマで、人間の命をバッテリーとしてとらえたものがあった。人は機械になれるように、機械も人のようになれるかもしれない。

 このテーマは、昔からある。

 神は自分の姿に似せて人を創ったが、神は創造物を完全に支配することはできなかった。むしろ、人がその神を支配するようになったという歴史を感じる。

 こうした創造者が創造物を絶対優位に立つことはないということではないだろうか。

毎週土曜の夜中にターミネーターが放送されるが、創造物であるコンピュータに創造者である人の生死が管理されてしまう社会の怖さを表現しているが、それはまさに創造者が自分の創造物に支配されるいるという現実を表している姿なのかもしれない。

つまり、

ひょっとしたら、次の原則が真実かもしれないということだ。

「創造されたものは、それを創造したものを駆逐する」

親は子を産むが、子はいずれ親を支配するともいえるからだ。