評価が才能を育ても殺しもする

▼ほめるということ

 誰かをほめるということは、他の誰かを暗黙のうちにけなすことでもある。

 人はほめられて育つ場合、けなされて育つ場合とがある。

 逆にほめ殺しという言葉があるように、ほめてその才能が殺される場合と、けなされてその才能が殺される場合もある。

 そのように、人をほめたり、けなしたりすることは才能を育てるには欠かせないことであるが、常に逆に才能をつぶす危険性もあるということでもある。

▼ 評価するということ

 人をほめるということは、その人を評価するということである。評価するということは、いわばランク付けをするということでもある。ランク付けの基準は多数の才能の平均であり、その平均値よりもどのくらい高いか低いかで評価されることである。

 それは人の善悪や美醜や貧富にも適応される。

▼ 個性って何だ

  才能とは個性の極値をいうようなもので、他と自分がどのくらいの差があるかどうかを評価されるのが個性である。

 しかし、個性と才能とは違ったものとしてとらえられている。それは、個性はランクづけできなく、才能はランクづけできるという違いがあるからだ。このランク付けができるできないというのは、ランクづける基準(平均値)が同じか、違っているかというのであって、もし、同じランクの基準であれば、個性も才能も、同じランク付けすることになるということである。

▼ 自由競争って何だ

 評価なしには競争はできない。ランクづけなしには競争はできない。才能も個性も育てるには評価がかかせないように、競争も欠かせない。

 その場合、評価が多数の平均値が基準がなければできないように、基準がなければ正当な競争はできない。しかし、その平均値という基準は競争しあう者同士は同じ基準でなくてはならない。同じ基準でないと自由競争はできない。

 例えば、パラリンピック(半身不随paraplegiaと、オリンピックOlympicを組み合わせた造成語)選手とオリンピック選手が100m競争をするのは自由競争ではない。同じ条件で競いあうのが正当な自由競争になるということである。

 この同じ条件というのが、評価の基準になる。多数の平均値という基準よりももっと大事な基準である。

▼ 正しく自由な経済競争をするには

 同じ条件、多数の平均値という2つの基準が認められて始めて、評価や競争が正しく行われる。

 例えば、

 生まれたときの生活経済環境が同じでなければ、自由経済競争は正しくできないということである。親のいない子とリッチな家庭で生まれた子との間の自由な経済競争は成り立たないのである。

 そのため、今の社会における自由経済競争は不正なものである。

 これを正しい自由競争をして、人々の才能や個性を育てる評価と競争をさせるためには、同じ条件と、多数の平均値を定める必要がある。

 その条件と平均値を与えるのが、ベーシック・インカム(最低生存生活保証システム)である。

 その国民が最低な生活条件で生きていけるだけのお金の手当の保証である。ベーシック・インカムとは働かなくてもお金がもらえるというものではない。社会で正しく働くための条件である。ベーシック・インカムなしに、金持ちになったり、貧乏になったのはみな不正な自由競争をして成立したものであるということだ。

 国民の代表である国家が、数十兆円ものお金を金持ちに借り、利息を金持ちに払うことから、始まる政治は不正な経済自由競争をすることである。一部の金持ち国民と多数の貧乏国民という条件と、平均のない不正競争である。そこから、生まれた貧富の差は詐欺や略奪に近い犯罪から生まれたものと大差はないだろう。

 

 

  

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