Archive for 3月, 2015

ベイシックインカムとその税とその電子マネーが景気持続させる

水曜日, 3月 25th, 2015

喧嘩神輿というのがある

二台の神輿がぶつかり 押し合いして競り合うのだが

どちらの神輿が勝った負けたというのがなく

競り合う元気な姿を神様に奉納するというものである。

それは神事に勝敗なしということでもある。

 

金銭システムにおいては自由市場が原則であり、

人々が互いに競い合ってモノやサービスを生産し合う活気溢れる姿が健全であり、それが生きている楽しみでもある。

それはマネーゲームのようなギャンブルにも発展しており、それはちょうど麻雀のような数人で運と技能を競って 金銭を取り合う姿でもある。

麻雀は競技者にとっては勝敗があるが、麻雀の場を提供する店にとっては喧嘩神輿の神様のように勝敗はなく、競技者が楽しく活気溢れる参加者も増えることを望んでいる。

 

麻雀を始めるためには競技者四人平等に15000点ずつ分配しなくてはならない。半チャンが終わって誰かがハコテンになって破産しても、競技続行するにはやはり四人平等に分配しなくてはならない。

この麻雀における点数棒の総金額60000点が国においては貨幣発行総額であり、半チャンが終わってハコテンがいた場合 勝った者が負けた者に金銭を貸すことで協議再開され、点棒としての貨幣はまた全員平等に15000点ずつ分配され、金銭の貸し借りした数字の記録紙の総額も点棒貨幣の本質もまったく違うものでああ。

それは現金と債権や株とは違うようなものであり、麻雀の貸し借りは返済できて始めて成立するので信用貨幣といわれ、現金とは別なものである。

 

マネーゲームが麻雀のように持続可能な正常で楽しめるものであるためには

国は全国民に平等に貨幣を分配と回収をゲーム再開できるように定期的にする必要がある。

それがベイシックインカムとBI税の実施必要である。

BI税で、麻雀のように半チャンを毎月末として、分配した貨幣をすべて回収することは難しい。

しかし、現金を紙幣ではなく 電子マネーにして、貸し借り信用電子マネーとは区別して

例えば 銀行預金通帳に 15000BI と記載し、15000YEN とはハッキリ区別すれば 毎月末にすべての銀行預金通帳から全国民のベイシックインカム分配金を回収し、平等に分配することは可能で容易いことである。

つまり、

ベイシックインカムとベイシックインカム税とベイシックインカム電子マネーは三位一体で自由市場の景気を持続させるには必要な貨幣システムである。

どんな戦いにも最低限のルールがある。

ルールがないのが戦争である。だから楽しめないで悲惨だ。

スポーツが楽しいのはけして敵を殺さないことだ。戦争は敵を殺すことが目的にもなっているので醜く苦しみでしかない。

平和における戦いであっても

けして敵を殺してはならないことを最低限のルールにすることが

闘いを楽しくすることができる。それはまた正義でもある。

ベイシックインカムは自由市場の平和社会における闘いにおいて

敵をけして殺さないこと

それは敵を生かす活かすこと

それを最低限の自由市場のルールとなる。

ベイシックインカムなしに自由市場は正しく機能しないのだ。

そのルールを支えるベイシックインカムマネーは貸し借りして返済なければ通用しない信用貨幣や売買できる債権通貨とも違う。

貸し借りなどしなくてもいいし、ましてそれを売買する必要もない

ルールが試合中にコロコロ変わったり、貸し借りできたり、売買できたら マトモな試合なんかできないし、楽しめるものではないではないか!

 

 

 

 

死の世界などない

水曜日, 3月 25th, 2015

今生きていることを楽しむと この世は天国だと思う

今生きていることに苦しむと この世は地獄だと思う

天国も地獄も この世の生活に在るのだ!

善人が死ぬと あの世の天国に逝き

悪人が死ぬと あの世の地獄に逝くというが

人が死んだら その姿は善人も悪人も 焼かれたり腐ったりして 誰が誰だかさえも解らなくなる

死の世界に善悪も 名前も 意識もない 何もない世界だ

つまり 死の世界など無く 死もない!

死が無いから生だけが有るというのは間違いである

死がなかったら 生もない 逆も真であり

生もなかったら 死もない!

この世は生きている世界と言われるがそうではない

この世に天国と地獄があるように この世には生と死の世界の両方があるということだ

生も死も生きている人しか認識できない 死んだ人は生死など認識できない

つまり 死の世界 あの世など存在しないのだ !

魂だってあの世に存在しない 魂があるのは生の世界 この世だけである

 

死の世界がないならば・・

では・・

人は死んだら みなどうなるのだろうか?

何億何兆もの身体の細胞の一つ一つは毎日のように新陳代謝して生死を繰り返す

その細胞一つ一つが一人一人のように名前が付けられたとしたら・・・

細胞も人も死んだら 名前が変わるだけにすぎない!

細胞も人も その一つ一つの差異などわずかであり みな似たり寄ったりである

現実に死ぬ人もいれば 生まれる人もいる

古今東西 死んだ人も生まれた人も そう大差などない みな似たり寄ったりで

名前は違えども みな同じように感じ 同じように思い 同じような生活をする

他の生物からすれば 人類など一つの生物のように認識するだろうし

人の生死や差異など気にせず 人類ということだけが気になるだけであろう。

つまり

人が死んだら生まれ変わるといってもいいが

死の世界などないから 誰でもすぐに生まれ変わるというのが正解である!

よく死んだら何もなくなるというが そういう意識は間違いだ

死んだら 本当に何もない 無いも無い 存在しないのだから無も認識できないのである

むしろ人はけして死なないといっていい!

人はこの世で名前を変えながら生き続けているというのが実態である!

 

 

フリマ笹塚笑点でもやりますか?!

木曜日, 3月 19th, 2015

もう36年も一緒に仕事している相棒がいて

その相棒が もう新定年65歳になった昨年

突然 映画やテレビの脚本の学校へ行って脚本家になった。

今では毎週水曜に新人の脚本を批評している。

 

一方の私も今年65歳の国民年金受給者になって

この日貸し店舗 フリマ笹塚商店は 空きが増え

その赤字を年金で埋めても なお赤字で ボランティア営業中だ。

 

この老人コンビ二人でなんとか 残りの余生をかけて

この落ち行くフリマ笹塚商店を盛り立てて生きていけないだろうか?!

相棒はフリマ笹塚商店の予約受付や顧客世話などの実際面をやり

私は企画経営面を裏でやっているのが現状だ。

 

相棒は脚本家という技術を身につけているが

「何を書いていいのか?」とんと頭に浮かばないらしい

一方の私にはそんな技術はないが

とにかく いろいろなアイデアがポンポン出てくるが

みな絵空事で いわば空中分解してしまうアイデアばかり。

 

その絵空事が今夜また飛び出した!

ピンチはチャンス!ではないか?

フリマ笹塚商店の空き日にフリマ笹塚笑点を開いたらどうだ?

商店を笑いの笑点とかけて

年金コンビで 漫才やコントを このフリマ笹塚で開店したら

どうだろうか?!

笑点のお題やアイデアは私が出し

その漫才コントの脚本は相棒が書く。

 

例えば こんな漫才で 自己紹介を始める

H「は~い こんにちは フ~マ でーす」(東京五輪を決める安倍首相のように)

K「は~い こんにちは リ ・ サ で~す」(指でおもてなしと決定づけた滝川クリステルのように)

H「ところで なんで名前が呆け老人のような貴方が可愛い名のリサなんですか?」(変だろうという突っ込み)

K「フッ!」(女笑い)で間をとり 一人芝居

「リ! 理由なんかないわ」

「マッ! その返答に驚き

「ここはフリマ笹塚笑点でしょう! だから」

「フ~マさん 貴方がフ!

N 「フ!」

K 「リ!」

N 「マ!」

K 「サ! ササヅカよ!」

 

フリマ笹塚笑点は一般劇場ではない

いわば商店街の露店笑人である

舞台も控えもない

練習も創作も その場でやり、その場で演じる

一般商店でないからお金はとらないが

お金の代わりに 笑いをとる。

 

NHKで 法律相談のコントがあり その答えは弁護士がするが

民放にように その答えは弁護士の投票率で正解率何パーセントがいい

漫才コントを観ていた顧客から 笑いの点数として座布団をいただく

お題は法律相談のような世評が正反にはっきり分かれるような

今話題のニュースを取り上げた漫才コントにする

お客さんにも その問題を考えさせ 笑いで回答させてもらう。

 

昔も今も 私は寅さんが好きで

特に チャラチャラ流れる御茶ノ水で始める露店口上が最高だ

最近 ゴミ処理でリサイクルしたい商品がたくさん出たので ただでも売りたい

そこで 寅さんのように リサイクル品を一つ一つ笑いで売るのが好きだ。

 

例えば 炊飯器がゴミで出たとすると その売り口上をバナナの叩きのようにするのだ

「チャラチャラ流れる御茶ノ水 ではないが ここはサッサ ツカツカと歩くガイ 笹塚の商店街・・

家路を急ぐガイ 人たち 家で誰かが温かいご飯を作って待っているのだろうか?

コンビニでご飯なんか 買うんじゃないよ 家で待っている人に作ってもらいなよ?

「何? 待っている人なんかいないって? 一人ものかあ!」

「何大丈夫! この炊飯器 自動でセットして 自分で炊き上げてくれる!

君は一人じゃあないよ! ご飯を毎日作って待ってくれるこんな炊飯器があるじゃあないか?」

「あなたを待つこと一万年 どうだ? この炊飯器一万円でどうだ?」

「何 中古だって? じゃあ その半分の 待つこと五千年 驚き 桃木 山椒の木 五千円でどうだ?」

ってな具合で どうでっしゃろか?

 

 

 

 

 

 

 

禁煙とダイエットの違い

月曜日, 3月 16th, 2015

20歳の時に喫煙をしてから

健康や経済的や清潔的被害そして何よりニコチン中毒による依存症に苦しみ

なんども禁煙に挑戦しては失敗して喫煙量は増え続け、一日に60本吸うヘビースモーカーになってしまった。

だが、45歳の時の何十回目の挑戦で禁煙が成功できた。

 

60歳になった時から自分の体重が増え始め 90キロくらいになり、体が重くなって何かと息切れするようになった。

それで本格的にダイエットに挑戦しだした。

ご飯を御代わりしないで一杯だけにするだけで 数か月で 82キロまですんなりと痩せたがそれ以上痩せることはなかった。

その後気にせずに食べていると82キロと86キロの間を行き来していた。

62歳の時 人間ドッグにいったら メタボだけの診断結果が出た。それで再びダイエットに挑戦した。

禁煙と同じようにやれば ダイエットだって楽にできるだろうとたかをくくっていた。

 

禁煙を成功させるコツは

「一本煙草を吸ってしまったら 一生涯煙草を吸い続けてしまう」

ということを体験的に信じることである。

禁煙は節煙が難しいというより できないのだ。

一生涯 喫煙するか 禁煙するか どちらかの二者択一しか道がない。

煙草一本吸うのも 煙草100万本吸うのも 同じであり、吸う数の問題ではない。

ハムレットのように

「生きるべきか 死ぬべきか それが問題」であるように

命の選択として 煙草は吸うか 吸わないか どちらかが問題なのである。

私は生きる道として吸わない禁煙を選択して、克己して勝ち抜いた。

 

その経験による自信は大きく 禁煙に比べてダイエットは楽勝だと思っていたが

挑戦してやってみると 禁煙よりダイエットの方が数段難しいことを知った。

理由は簡単だった。

禁煙は吸うか吸わないかの二者択一がコツなので

ダイエットを食べるか食べないかでやれば楽勝だろうとして

絶食ダイエットを10日間実行して ダイエットは成功したかのように見えたが

その後小食に切り替えたが 腹いっぱいに食べられないストレスでジンマシンを発症してしまい

ダイエットを断念してしまった。するとすぐにリバウンドして元の木阿弥の82キロ以上に太ってしまった。

ダイエットは禁煙のように食べるか食べないかの二者択一ではない

節煙のように 量の問題であり、小食で我慢する習慣を身につけることである。

つまり 節煙は禁煙よりはるかに難しく不可能とさえ信じてしまうほどであるように

ダイエットは絶食して生きてはいけない 節食でないと健康で長生きはできないのであり、

禁煙よりはるかに難しいものである。

だが、節煙は不可能でも、節食は可能である。

それは禁煙やダイエットに成功した人もけっこういるからだ。

 

ダイエットは一年くらいの挑戦で20キロ減量までもってきたが、

まだ4キロのリバウンドとリダイエットを繰り返して 安定化を目指して努力している最中ではあるが、

そこで把握したコツは

一日の栄養の必要量より多く食べれば太り 必要量より少なく食べれば痩せる

ということである。

実際的にいえば

栄養バランスのいい食事を三食すれば太り、一食にすれば痩せ、二食にすれば安定する。

もちろん、何食でも 一日でトータルした必要栄養量が安定体重となるというのが基本であるが目安としてのコツである。

 

煙草は生きるに必要がない。煙草を吸わなくても生きられるし、吸わない方がむしろ健康的に長生きできる。

食事は生きるために必要であり、食べ過ぎても、食べなさ過ぎても病気して 早死にする。必要量食べるのが一番健康な生き方である。

禁煙はニコチン中毒の依存症からの脱却だが、ダイエットは過度の食事習慣から 必要なだけの食事の習慣への改革である。

 

禁煙と同時に 禁パチンコで大きく悩んだ時期がある。パチンコで月に20万円も使ってしまい、生活費だけでなく貯金も減らしてしまった。負ければ悔しくてまたやり、勝てば嬉しくなってまたやり、その繰り返しは時間とカネを浪費し、またパチンコする間煙草をたくさん吸うので健康も害していった。まさに復讐するような負の連鎖であった。それは喫煙するときのようなギャンブル依存症になり、その泥沼から抜け出せないであがいていたのである。

ギャンブルもまた喫煙と同じく その依存症から脱却するには二社択一の道しかない。

ギャンブルは生きるのに必要ではない。ギャンブルしなくても人は十分生きていける。実際私はギャンブルをやめてから数十年たっているが生きる不自由をしたことがなく、ギャンブルしていたころの方がむしろ生きることに不自由を感じていたからだ。

 

禁煙とダイエットそして禁ギャンブルと振り返ってみると、こう問い直してみるとはっきりした方向性と決断ができるだろう。

「それは生きるために必要なのか?」

と。

 

金銭システムにしても、同じように「その金銭システムは人々が生きていくために必要なのか?」と、問い直してみれば

新しい健全な金銭システムに改革できることができるだろう。

 

 

終わりなければ始まりもない

日曜日, 3月 15th, 2015

始まりがあれば終わりもある

終わりがあれば始まりもある

故に

終わりなければ始まりもない

 

原発は半世紀前「トイレのないマンション」のような建設で始まり

その放射性ゴミのトリチウム(三重水素)は毎日海に流され、

それ以外の放射性ゴミは世界中どこにも捨てられない物質として 安全になる10万年~100万年どこかに保管しなければならなくなっている。

途中 日本は原発事故で数百万人の被害者を出しながら 故郷から追い出されたが帰るあてもない。

日本与党はそうした現実を無視して再稼働し輸出までしようとしている。

トイレのないマンションに便を垂れ流しながら 次々とトイレのないマンションを建設し また便を垂れ流し、

事故で便が溢れてしまうと 海外にトイレのないマンションを輸出している。

それは危険な生物兵器を開発するが その生物を無害化する技術もなく 使用してしまい その事故にあって自国もその危険細菌に犯されにっちもさっちもいかなくなっているようなものだ。

どんな生物兵器もそれが無害化できる薬も同時に開発されなければ使用もできないので開発されたとはいえないように

原発ゴミを安全に無害にする技術なしに原発を開発し建造したことにはならないし、まして稼働させたら 人類に電力の恩恵を与えるどころか、人類末代まで遺伝子レベルで自滅させてしまうことになる。

もう二度と原発事故による被害を出さない最良の安全策はもう二度と再稼働することも輸出することはしないことである。

原発事故の終わりは原発再稼働の終わりでもある。

もし原発再稼働すれば原発事故もまた始まり 被害はさらに広がることになる。

原発はいわばトイレのないマンションという欠陥住宅であり、そこに住むこともできなければ 取り壊して廃炉にするしか道はない。

終わりがなければ始まりもない

終わりが見えなければ始めてはならない。

 

そして すでに作ってしまった放射性ゴミと原発そして拡散された放射性物質を

人類が100万年の存続をかけて 

海底地下数百メートルに保管管理することから始めなければなるまい。

その間人類は放射性ゴミを安全に無害化技術を発見できるかもしれないし、その無害化技術を研究する努力はけして終わりにしてはいけない。

物事には始まりがあれば終わりがある

事に当たって

終わりなきものは始めてはならない!

 

 

 

 

自分しかできないことをやるのが一番いい

日曜日, 3月 15th, 2015

脱原発を最後の仕事に 大江健三郎さん会見

東日本大震災による東京電力福島第1原発事故について、ノーベル賞作家の大江健三郎さんが10日、日本外国特派員協会(東京都千代田区)で記者会見し「原発がない世界を実現するほかない。声を発し続けることが、自分にやれるかもしれない最後の仕事だ」と語った。

都知事選の時に二人の元首相 細川&小泉さんも街頭演説していたが
「(老齢にして)残された人生すべてを脱原発にかける」と。
その応援をする老齢な著名人もまた同じ気持ちである。

無名人の老人になった私も昨年同じ「残された最後の人生を脱原発にかける」意気込みで都知事選の細川氏を応援した。

だが、トップ投票の自民党候補に半分にも満たず しかも同じ脱原発派と票の取り合いして負けて3位になった。

京大助教の小出さんと同じように つくづく政治の世界が嫌になり、もう二度と政治家の応援はしないことにしただけでない。

多くの著名人や元首相連合でさえ 脱原発一歩へ進める力にはなりえなかった。

まして無名な一老人の自分にとっては「空しい限りの情熱と労力」でしかなかった。

そして脱原発への直接的な運動や応援は一切やめて

「自分が努力すればいくらかでも叶えられる事」だけに 「残された最後の人生をかける」ことに大きく方向転換した。

それがダイエットだった。

一年近く努力した結果 メタボ克服して健康体重近くにすることができた。

自分が努力して報われやすいのは自分の身体だからであろう。

実際に努力する相手は自分の身体というより自分の心であり、その中の主に食欲であり、

目標結果がでたとしても その努力は終わりではなく 一生涯続けなければリバウンドして 元の木阿弥である。

結果に終わりがあっても その努力に終わりはけしてない!

 

この脱原発への挫折とダイエットの成功経験から、大きな人生教訓を得られた。

それは自分の子供たちへの応援や残す遺産にも大きな変化が見られた。

子供たちが本当に望むことを叶えることができるのは子供たち自身の力でしかない。

残す遺産にしても それが本当に子供たちに役立つとは限らない。自分が親から受けた遺産についても、それを自分に役立てるには自分の努力以外にはなかったからだ。

それは

努力すべきことは自分しかできないことに絞り込むことがよりよい結果に結びつく

発見をしたことである。

 

子供がダイエットを望むからといって 親が直接ダイエットを応援することはできない。都知事選応援のようにワイヤワイヤうるさく子供にダイエットをせかせても うざくてしつこいと反発され その結果マイナスになってしまうのが落ちである。

親がダイエットしたい子供に対してできることは親自身がダイエットすることで十分であろう。それが瓦理論の他人の2割の刺激力にはなれるかもしれない。

子供たちの生活力を応援したいとして、ただ遺産を残すことで本当に応援ができるだろうか? むしろ、原発再稼働を進める二代目政治家安倍首相のように 日本をマイナスに追いやる力になってしまうのではないだろうか。

板橋で崩壊しかかった木造アパートを今リフォームしているが それを放置して空き家にしても 業者にリフォームを頼んで貸せるようにしても 子供たちへの遺産になる。

空き家だと固定資産税もかかり、また周りに住民にも迷惑をかけるかもしれないし、借金してリフォームしたとしても借り手ができるとは限らないし、姉妹で相続争いをするかもしれない。そうなると 子供にとっては頭も痛いし カネもかかる負の遺産である。

子供たちの生活力を応援することで 親が間接的でも2割の可能性があるとしたら 借金したり業者まかせでリフォームするのでなく、自分でリフォームするという「生き様を残す」ことが一番いい遺産になれるのではないだろうか。

自分でリフォームすることは自分でしかできないことだし、その努力も報われやすく、老人の残された生きがい(生きる力)にもなってくる。

「親がやりたいことをやる」それが「子供たちがやりたいことができる力への2割の応援力」になっていくと思えるのである。

 

「自分しかできないこと」 さらに「自分が大いにやりたいこと」に絞って 残りの人生をコツコツの築き上げていけば 悔いのない充実した人生を全うでき、明日の子供たちにも役立てる可能性がきっと2割くらいはあるだろう!

 

 

放射性ゴミは海底深く貯蔵するしかない

木曜日, 3月 12th, 2015

3.11震災鎮魂祭が昨日行われた。

テレビに映し出された「原子力明るい未来のエネルギー」の看板に身震いする

原子力明るい未来1

放射性ゴミはどこにも捨てられないので 原発再稼働はできないのは当然だが、

すでにばらまかれた大量の放射性ゴミを安全に保管する場所は海底深く保管するしかないだろう。

その放射性ゴミの島を建設するには

海底を深く掘り その土をゴミの島の周囲に配置し 水を堰き止める。

陸地と島を結ぶ海底トンネルを造り 放射性ゴミを搬入する。

その島の地上には自然エネルギー生産基地にしたらどうだろうか。

放射性ゴミの島1

陸地中深く放射性ゴミを保管しても地下水で漏れ出す危険がある

海底深くだったら拡散せずにずっと保管できる。

膨大な放射性ゴミを安全に輸送するには海底トンネルを造るしかない。

ピンチはチャンスのように

原発ゴミの地上には自然エネルギー生産として

風力太陽光潮力発電して陸地に送電また燃料電池工場を造ったらどうだろうか?

実際に建設するとしたら

海底を深く掘って その土で水を堰き止めるためには

海底トンネルよりも陸地より海底深く掘り進む道路建設がいいだろう

放射性ゴミの島2

客観性が自然なんだ

火曜日, 3月 10th, 2015

今までず~と勘違いしていた。

自分とは自分の身体のことだと思っていたことだ。

それはまた自分の心と観察力を一緒くたにしてしまうことでもあった。

自分とは身体と心の両面をもち 性質も姿も違うが けして切り離せない関係である。

 

自分を観る眼は誰にでも在り それは客観ともいう。

主観で主観を語れないように 自分で自分を観ることはできない。

自分を観そして語ることができるのは客観しかない。

この客観こそ自然である。

 

人間と神仏を対比して対話するが

それはインド思想の信心である「神我一如」からくる想像であり、

自分の思いを世界に描くようなものである。

神が善悪の判断をしたり、人を選んで救ったり救わなかったりする愛のような姿をするのは

神が人の思いから創造されたものだからであろう。

人の思いとは人は我の集まりであるから、自分の思いでもある。

神仏の名前がいくつもあるように また同じ神仏を信じていても たくさんの宗派が在るように

神仏はいろいろな人の自分の思いから創造されたものだからである。

 

人の思いとは別に

宇宙にたくさんある星は爆発しては収縮を数百億年をかけて生死のように繰り返す

地球の姿 そこに住むたくさんの生物の姿も またまったく同じ姿にはならないが生死のように繰り返している。

それを自然という。その自然は事実ともいい ときに人の言葉に照らして真実ともいう。

その自然の姿は人の客観として共通認識できるものであり、また他の生物にとっても同じ認識ができるものである。

この自然の客観が在るからこそ 自分も他人も 神仏も 宇宙も地球も 共通認識また受容できる。

 

ダイエットも どんな戦いも 人の欲望との戦いであり、

そうした欲望との戦いとは無関係のような自然客観性ではあるが

長い時間をかけて 「なるようになっていく」ような欲望と身体を支えている。

星の爆発収縮を止めようがないように 命の生死のくりかえしも止めようがない。

それは時間がけして止まらないように 星も命も生死を繰り返す それが自然と客観である。

もし欲望との戦いに疲れたら 自然と客観で一休みすればまた回復して戦えるだろう。

欲望だって睡眠が必要だからだ。

 

 

自分とも友だち会話が丁度いい

火曜日, 3月 10th, 2015

親子も友だち関係が丁度いいように

自分との関係も友だち関係が丁度いい。

自分の身体は自分の思い通りには動かないで苦労するし

自分の心や欲望だって 自分が本当に望む通りには動かないこともたびたびだ。

そこで

自分との葛藤といいうか 自分との会話というものが必要になってくる。

こうしてブログを書くことだって 自分との会話である。

多くの人が利用するツイッターだって それは自分のつぶやきであって 他人のコメントを期待するものではない

家族もそうだが 人と話をしていると

特に自分に攻撃的に話しかける人をよく観察していると

彼らは私に語りかけているのではなく 彼ら自身に話しかけていることに気が付くことがある

娘が親の私にうるさくダイエットするように話しかけることがあったが

それが親の私に対してではなく 娘本人がダイエットに苦労していて自分自身に語っていた。

それは日頃のうっぷんを特に親しい人にうさばらしするようなものである。

それが気が付く時はその内容がかなりずれている時である。

それはうっぷんばらしだけでなく 通常の会話でも起こりえることだ。

つまり 人と話している時でも 自分自身に話すときでも 友だちとして話せば丁度いいってことになる。

 

神さま 自然から見ても 自他は一体である。

それはまた自分自身もまた自他二人に常に分かれているようなものでもある。

自他 そして自分自身の会話そのものが 自他一体の姿を映し出しているのだろう。

 

ダイエットも仕事のうち

月曜日, 3月 9th, 2015

ここ2日で3キロもリバウンドした。

バイク修理が4日もかかったが治らず、修理不能で買い換えるしかないと判断した。

そのストレスのせいか 腹一杯食べて癒したために肥ってしまった。

ダイエットも一年も挑戦していると

貯まった脂肪を洗い落とす作業つまり清掃のような仕事に思えてくる。

ダイエットは食べたい欲求を抑える忍耐なので それはつまり努力をともなう労力であるからだ。

一方何か甘い物や美味しいモノを食べたいときは疲れを癒すようなもので休み時間のようである。

健康は過ごしやすいように毎日部屋を掃除するようなものである。

メタボになると それは家の修理作業になる。

食べれば何かと汚れるので かたづけ掃除をするように

食べれば食べ過ぎないように 自分の身体をきれいにする身だしなみみたいなものだ。

老境になると仕事はマイペースでないと続かないので

ダイエットも できるだけ我慢して 我慢できなければ食べればいいくらいな気楽にやることにした。

孔子がいうように 「70にして 心の欲するところに従って法を越えず」が丁度いい。

我慢もしたい時にすればいいし、やせ我慢なんかしないで 気楽に腹が減るのを楽しむのがいいだろう。