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必要は自分の健康と社会の健全化の源

水曜日, 4月 2nd, 2014

大雪でビニールハウスが壊れて、元も畑にもどしてみると、その方が美しく、手間もかからず、作物も多く育つように思えた。

原発だってそうだろう。原発を作らなければ、事故は起こらず、放射性廃棄物の管理も捨て場所を探すことも、その危険性もなかった。福島の先祖代々の土地を捨てることもなかった。金も命も大地もみな捨てるような人類の自殺行為にすぎない。

煙草だって、もし最初から煙草を吸うことをしなければ、煙草をやめたくれもやめられない苦しみにあうこともない。金と心配と健康を捨てるようなわざわざ病気になるようなものだ。

金儲けだって、食べ物だって、自分が必要なだけ得て、それ以上は持たないようにすれば、無理して働くことも、それでよけいな心配も、苦しみも、病気にもならなかっただろう。

自分しかできないことをするのが、自分らしく過ごすことであり、一番気楽であり、人に役立つことであろう。他人にとって代わることができないのが、自分の命であり、健康である。ダイエットもまた、他人が代わってできるものではないので、自分しかできないことだ。

そもそも自分というのは肉体とその肉体を元にした心のことである。だから、自分しかできないことというのは肉体的なことであり、社会や人類のためというようなものではない。脱原発は日本や世界のためで、自分しかできないことではない。今の自分が脱原発でできるとしたら、投票以外に ダイエットではないだろうか。必要以上の食事や運動はしないことが自分の健康を保てるように、社会も、必要以上の電気も作ることもしなくなるだろう。

今までずいぶん宗教的なことを信じてきて、それに悩まされ続けた。もし、そんな宗教を信じなければ、そんな苦しみに遭うこともなかった。宗教は麻薬といわれるように、神仏という精神的存在への依存症になる。神仏なくして暮らせない生活になってしまう。

必要以上は何もしないことが、一番自然な行為であり、健全で安全な暮らしができそうである。

今の田舎に引っ越してきて、近所の8人の隣人組に入って3年たち、何かと河川清掃とか呼ばれ、私は東京に仕事が多く、また、子供の世話でなかなか行けないし、朝が早いので寝坊してしまったり、その期日をすぐに忘れてしまうことで、参加ができず、迷惑をかけてしまうことで悩みが多くなっていた。もっとも困ることは組長順番性で強制的にされるので、参加もできない自分にとっては悩みの種だった。

そもそも、河川清掃する河川は私の家のそばにはないし、葬式の手伝いといっても、知らない老人のためにする。自分には全く無縁なことである。唯一毎月に組長から配られる市の広報誌や回覧板はなにも組長がしなくても、市が郵送すればすむことだし、それに、ネットでいつでもその内容は知ることはできる。必要のない瓦版や広報誌の配布は組長の手間を増やすだけのことである。

年に一回新年会があるが、それが唯一近所のつきあいの楽しみではあるが、それだって、なにも組に入らなくても、個人的に好きな隣人とつきあえばもっと楽しいし、儀礼的なつきないでなく、友好的なつきあいができる。結局、その新年会でつまらぬけんかになり、私は退会できるようになった。

必要以上のつきあいをしないことも、悩まされることもない自分で、社会の健全化であろう。

必要は発明の母というが、必要は自分の健康と社会の健全化の源ともいえるだろう。

 

 

 

お金は労働では買えない

日曜日, 10月 28th, 2012

1,労働は金で買えるが、金は労働では買えない。

 私達は労働の対価として、お金をもらえるとしている。しかし、よく考えてみると、労働とお金は対等の関係ではないのだ。

  お金とは評価である。

 あるモノの値段はオークションのように、需要と供給で決まる。そのモノの値段(物価)が決まる。その需要と供給の市場物価を決める基準になるのが、全体の商品の平均物価である。

 商品は多くの人の労働で造られるが、労働は一人の個人のサービスで造られると言っていいだろう。

 一個人の労働に対して、関係者に評価されて、お金が支払われる。そのため、お金のために働くという意識があたりまえになってしまっている。

 しかし、どんなに働いても、それに見合う正当なお金がもらえるとは限らない。中にはお金のために働かない人もいる。

 だから、お金と労働は比較すらできないので、対価ではないのだ。その労働を評価できるから、お金で買えるが、お金を評価することはできないため、労働では買えないのである。

2.労働は交換も、貸し借りもできない

 労働とは他人のための行為だけでなく、その個人の行動のすべてであり、その人の人生そのものであるともいえる。

 そのため、どんなに望んでも、他人がその人の人生に代わりたくてもできないように、その労働は交換できない。交換できないのだから、まして、労働の貸し借りなんかできるはずはない。

3.債券と株券の違い

 お金は評価であるから、評価の貸し借りができないように、お金の貸し借りもできない。お金の貸し借りができないのだから、返済義務を信用することもできない。しかし、現在の世の中全体がお金の貸し借りという不正と法的洗脳がまかり通っている。
 
 その矛盾を解決したのが、債券ではなく株券の発行である。いわば、株券とはその株式会社の価格のことである。株式会社は法人でもあり、その法人の労働のことであり、その労働の評価が株価である。

 債券のように、株主に返済する義務もない、利益が出ても、それを配当するしないは自由である。

4,狂ったハカリとしての通貨

 どんな正当な株価も、不正なお金の貸借から成り立っているので、どの通貨も不正債券になり、それが正当な国の株券のようになったため、各国通貨の評価が毎日毎時上がり下がりすることになる。

 モノやサービスの評価基準が毎日毎時上がり下がりするという状況は、ちょうど、肉の重さを量るハカリが狂っていて、量るごとに、その重さが上がり下がりするようなもので、物価が決められているということである。

5,未来通貨は国民の評価で発行される

 お金も労働も貸し借りができないように、我々の未来も貸し借りができないものである。震災復興や様々な研究などはいわば未来労働であり、その未来労働への評価が投資である。 
 ところが、未来投資は国民への借金であるかのような誤解を受け、その借金を返済するための税金を、国民の労働でまかなおうとしている。

 これは、不正に不正を上塗りするくらいのつじつまを合わせる詐欺商法と同じ政策である。

 お金は国民の評価である。震災復興や研究の評価は国民が決める。その財源は資本家の持つ貸す金ではない。国民の評価がいわば国のお金の財源なのである。
 
 つまり、日本銀行は民間の銀行のために印刷発行するのではなく、国民の評価のために発行印刷するのが未来通貨である。

 それは国民一人一人の命の等しい評価がベーシックインカムならば、株式会社やNPO法人などの法人団体への国民評価のために、未来通貨を発行すべきなのである。

 人やモノの評価は一時一時変わるように、未来通貨もまた評価に対する通用期限が必要である。そうすれば未来通貨は今までの絶対権力を持つ死なない神様ではなく、寿命期間を必死に生きる人間のような血が通ったように、滞ることなく、ずっと廻るようになるだろう。

 

 

幸せのちから

土曜日, 5月 14th, 2011

 昨夜、金曜ロードショーで「幸せのちから」を観た。二度目だったが、その印象はまったく違ったものになった。

 「お金とは何か?」を知ってくると、お金を求めて、それを手にする成功や幸せは馬鹿馬鹿しいと感じられたからだ。

 一方、震災の処理のお金はどうするというNHKの視聴者の発言があったのも、可笑しなものに思えた。

 生活のためのお金が、お金のための生活になっている現実社会の盲信が感じられたからだ。あと、数十年か数百年か先の未来人はこうした現代の「お金のための生活」をせせら笑ってしまうだろうことを、まるで原始人の占いを信じて行動した姿に移し替えて見えた。

 主演のウイルスミスが、ホームレスから、株のブローカーの一流企業の社員になる成功物語だが、その企業は株の売買のアドバイザーであり、その手数料を儲けるものがだ、それは「金で金を儲ける」という金融商品の販売会社である。いわば投資銀行・証券会社にあたる。

 金を生産することと、衣食住の生活必需品を生産することとは違うはずだが、それが同じに扱われるだけでなく、金が生活必需品よりも大事になっている、本末転倒の姿がいわば投資会社である。

 「お金とは何か?」

 現代のお金とは「国が特別な中央銀行にのみ独占的に発行させたもの」である。つまり、お金が生産できるのは唯一中央銀行だけであり、その他の会社も個人も国も発行生産できないという法律に基づいた数字が書かれた紙切れにすぎないのである。

 投資会社であれ、どんな国民であれ、どんな国であれ、金を稼ぐこと、生産すること、発行すること、増やすこと、みなできないのである。

 これが、できると思いこまされ、金をいかに多く稼ぐことが成功者になるという金の原始宗教政府による洗脳の結果である。

 金が仏教の悟りや、キリスト教の神の愛に当たっており、その金と悟りと神の愛という最高の幸せのちからを求めて、修行努力する姿が、この映画と現代社会の成功物語である。

 仏教の悟りのような全知全能は不可能であり、神の愛といっても、神そのものが不可知であるから、それらを手にすることはありえない。もしあるとしたら、単なる「悟ったという思いこみ」であり、「神に愛された特別な人という思いこみ」にすぎない。

 金だって、すべてのお金の所有者は中央銀行だけであり、それ以外の国民や会社や国がすべて所有することは不可能である。

 現在の金は仏教の悟りや神の存在のような「信心から生まれた空想の姿」にすぎない。

 もし、あなたが仏陀のようにすべて悟った人であり、キリストのような世界中の人類すべてへの愛に満ち、そして、世界の創造主のような神として、世界中の人々が幸せになれるようなお金を発行しようとしたら、まず何を考えるだろうか?

 たぶん、ずべての人々が協力して生活できるためのお金を発行するだろう。協力は「困った人を助ける」ことから生まれる。そのように、お金は困った人を助けるために発行生産されることになるだろう。

 つまり、主演のウイルスミスが息子との衣食住に困った時に、お金が発行生産され、彼の家族に贈られることから始めるだろう。しかし、映画では困った家族の金を国が税金として、資産家が家賃として、奪いさることから始まっている。そして一流企業に就職して、金を得ることが神の愛を受けることが成功者の条件になっている。

 これは金が神のような絶対君主のような姿になった自由も愛もない世界である。金は困った人を助けるための道具であり心である。そのため、困った人がいなかったら、お金の発行は必要がなくなるのである。

 もし、あなたが中央銀行の総裁だったら、生活困窮者のためのお金だけを発行し贈与することから始めることがもっとも神様に近い存在になる。

 次に問題になるのが、「どう人々は協力しあうか?」である。

 もし、「あなたが困った人を助けたならば、次にあなたが困った場合は誰かに助けられる」という保証(信心)が協力を持続させる力になるだろう。

 それは地域通貨を発行しようとしたときの、心理と同じである。ボランティアでは無償の愛として、「与えた愛を返してもらわなくてもいい」という行為が持続できないため、せめて、「自分が与えた分の愛」を、与えた人からでなく、他の誰かからでも、「恩返し」してもらう方法が地域通貨の原点であるからだ。

 中央銀行券のような法貨も同じようになることが必要である。しかし、多くの金の悪業を起こす原因となるのが、お金の無制限な通用数・通用期限である。

 人々が「自由と愛」の元に、協力しあうための条件は「人々の平等」である。「人の上に人を造っても、人の下に人を造ってもいけない」

 そのためには、「自分が困った人を助けた分だけ、自分が困った時に助けられる恩返しをされる」ことが条件になる。自分が助けた分また、助けられた分以上も以下も必要がないのである。

 例えば、あなたがお腹が空いていた人に100円のリンゴをあげたとしたら、あなたがお腹が空いたときに誰かに100円のリンゴをもらえればいいのである。100円のリンゴをあげたら、1000円分のリンゴ10個をもらう必要も、また、1円のリンゴに代わってもらう必要もない。

 そのため、お金は最低2回だけ使えればいいことになる。

 例えば、お腹が空いたAさんに、お腹が空かないBさんが100円(りんご)をあげたならば、今度は、お腹が空いたBさんに、お腹が空かないAさんが100円(りんご)をあげて、そのお金の一生は終了すればいいことになる。

 また、10人の間でお金が回ったとすると、100円のお金は→B→C→D→E→F→G→H→I→J→ 10回通用してその生涯を終えることが必要になる。

 しかし、実際問題、その回数をはかるのは難しいので、お金の通用期限を設けることで、お金を回すことができることになる。

 ところが、現在のお金は無期限通貨であり、しかも、利息が付いてくるので、お金は世界中を回ることはなくなり、停滞、渋滞することになる。それが所得格差拡大であり、金による世界征服と隷従世界になってしまっている。

 しかも、中央銀行は商業銀行に金を貸し出すだけで、生活困窮者に直接金を贈与することはないため、金持ちはさらに金持ちで豊かと幸せになり、貧乏人はさらに貧乏に、不幸になってしまう構造になるのである。

 しかも、国民の代表である国家が金持ちから借金して隷従する政治をせざるをえなくなる。それが、この「幸せのちから」の映画の姿であり、金と生活の本末転倒な原始宗教の信徒成功物語になっている。

 金が人々の協力の神具になるか、独裁者の権力の道具になるかは、金がどこから発行されるか、金の通用期間が制限されるかどうかにかかっているのである。

 

仕事とは何か

土曜日, 5月 7th, 2011

 高三の娘が進路を決めるのに困っていた。どの大学を選択するかを迷っていた。

 この迷路は誰でもが経験することだ。私もそうだったからだ。そこで、親の私がアドバイスしたことはこうだ。

「自分のやりたいことをいくら探しても、仕事は見つからないよ。人がやってほしいことの中から、自分しかできないことを探せばきっと見つかるよ」

 青春の日々でもっとも悩ましいのは「自分が何をしていいのかわからない」「自分が本当に求めていることが何かがわからない」ということである。それをさらに考えるといつしか「何のために勉強するの? 何のために生きるの? 何のために働くの?」という根本命題にはまりこんでしまう。

 いわば、生きる意味を問い出すのである。これが生きる迷路の入り口である。「生きるべきか? 死ぬべきか?」とまさに、生命の崖淵に立たされる。

 この迷路を造っているのは「生きているという事実」を疑ってしまう心が生み出すものである。生きているという事実は疑うこともできなければ、信じる必要もないものだ。「自分はここに生きている」というのは、事実であり、その事実をそのまま受け入れる道しか人にはないからだ。ありのままに生きる、自分のそのままでいい、という自然の生き方になってくる。

 ただ、この「自分はここに生きている」という事実には2つの欲求が同時に隠されている。それは自力本願と他力本願の両方である。「自分はここから生きる」と「自分はここに生かされている」という双方向の欲求である。

 大学を選ぶというのは、将来どんな仕事に就くかどうかで決められ。その仕事のために知識や技術を学ぶだからだ。もし、自分が何の仕事をしたいかわからないのは、その仕事の経験も知識もないから、決めようがないためである。そのため、ほとんど知識も経験もない想いから、選ぼうとするから、絵に描いた餅のようなもので、はっきりと、決められない。それがしいては、自分が何をしたいかわからないというような迷路にはまりこんでしまうのである。

 そもその「仕事とは何か?」である。仕事のいう文字は「仕える事」と書く。「仕えるとは

1.目上の人のそばにいて、その用をする、奉仕する。2.官などの、公的な地位について、その職に奉仕する」である。

 そして、「働くとは1.自分の体と精神を動かす2.他人のために努力する、役に立つ」ということである。

 つまり、仕事も労働も、他人のために自分の身体と心を動かし努めるという意味である。その意味はもし自分のために生きるとしたら、それは単なる欲望であって、仕事でも労働でもないのだ。

 これをお金に例えるならば、「自分のしたいことをするには金を出さなくてはならないが、他人のしたいことをするとお金が入る」という意味なのである。

 また、生きているという状態からいうなら、「自分が生きるのは欲望であるが、自分が他に生かされるのは仕事であり、労働である」という意味になる。

 人の好きな言葉に「愛」があるが、これは自分が他人に対する行為になるので多分に欲望である、一方「感謝」という言葉は、他人に自分が生かされる行為になるので、多分に仕事や労働の意味になる。そのため、愛することにはいくらでも金も力をつぎこむが、感謝するところからいくらでも、金や力が湧いてくるのである。

 仕事をすると、「ありがとう」というけれど、「愛してる」とは言わないのはそのためだ。

 もし、自分の仕事や勉強の方向を決めるには愛する(好きな)事を探さず、感謝する(生かされている)事を探すことである。

 

財源とは命のことだ

火曜日, 4月 26th, 2011

 今、復興のための財源が政府内で議論されている。1つは国債(日銀または市中銀行から)2つは税金(国民すべてから)である。どちらも、本当の財源が何かを知らない。そもそもお金が何か、お金がどうやって作られるかをまったく知られていない。

 もし、地域通貨を作るとしたら、その財源はいらないことを知っているだろうか? 日銀と同じく、お金は財源が関係なくいくらでも印刷可能であり、それを流通させることができる。

 政府紙幣もまた財源がいらないでいくらでも印刷が可能である。しかし、どうして復興のための財源が銀行の借金か、国民の税金になってしまうのだろうか? それが今までの中央銀行システムによる法律による洗脳のためである。すべて日銀を中心に市中銀行からお金を借りて、働き、利息をつけてそのお金を返済するという繰り返しになっているからである。借金返済がお金の循環であり、その循環力の調整がその利息である。

 しかし、この中央銀行システムは必ず金持ちはさらに金持ちに、貧乏人はさらに貧乏人になり、経済格差が大きくなるのは自明の理である。それはどんな手段であれ、金儲けで成功した金持ちにお金が自動的に集まるようになるからである。つまり、銀行への借金以上の金を多く得た者が日銀や銀行に代わって、貧乏人に金を貸し出すようになるからである。それは主に投資企業と言われる存在であり、世界を金で支配することができるようになるからだ。

 中央銀行システムは市中消化という法律で、国は日銀から直接借りることはできないので、市中銀行から借りなければならない。銀行は金持ちの預金者から借りて、国に貸し出さねばならない。そのため、市中消化の法律は国に必要なお金は大金持ちから借りなければならない。そして、その利息付きの返済はすべての国民から強制的に税金で行わねばならないという金持ち優遇する法律になっている。

 お金はその独占企業である日銀しか、印刷できないのだから、国民はけして日銀から利息付きで借りたお金を返すことはできっこない。それは椅子取りゲームのようなものだからである。日銀が100兆円印刷して、国民すべてに利息1%(1兆円)で貸したら、国民は101兆円日銀に返済できるだろうか? もし、できたとしたら、唯一、国民は利息分の1兆円を国民はどうしても印刷(偽造通貨)をしなくてはならないからだ。

 偽造できないとしたら、国民の1%の人の金を奪いとらなくてはならない。いわば、1%の国民の命を奪う椅子取りゲームになってしまうのである。それが自由市場という弱肉強食というのが中央銀行システムである。金持ちはいわば弱い貧乏人の金と命を奪っていく存在である。世界で6秒に1人の飢餓で死ぬ子供達がいるのはこの中央銀行システムが生み出しているのである。

 もし、あなたが地域通貨を発行して、その地域の経済を活性化させようとしたら、どれだけのお金を作ったらいいか、計算できるだろうか? それはあなたが日銀総裁だとしたら、日本の円をいくら印刷したらいいかを計算することでもある。

 この計算こそ、本当に意味での財源である。財源とはお金の源である。お金の源がお金であるはずはないのだ! それは恋の源が恋であるはずはないことと同じである。 恋に恋すれば空しい思いのように、財源議論がお金の財源がお金という空論をする政府はみてて、恥ずかしくなる。

 さて、今までの日銀券がまったくないとして、新たにあなたが日銀総裁として、国民のためのお金をどれだけ印刷したらいいのだろうか? また、どのように国民にお金を配布したらいいのだろうか?

 たぶん、国民1人1人に生活する上で最低必要なお金を聞くことから始めるだろう。その最低必要生活費の合計額と、また、法人のような会社や企業や団体が最低必要な資金をも聞くであろう。その合計額も加算した総合計額が日銀のお金の製造額になるだろう。

 つまり、財源とは国民の最低生活保障と、法人団体の起業する最低必要資金のことである。東日本震災の復興の財源は被災者の命と被災起業の復興力なのである。

 最低生活保障であるベーシックインカムと企業の最低資金(株式)こそ、お金が生み出される財源である。けして、金貸しする金持ちや貯蓄できる国民のことではないのだ。

 いわば、財源とは国民の命と企業の命である。その命をけして奪ってはならないだけでなく、その命を育むのがお金の役割である。

 だから、復興税や復興国債という空論は必要ない、日銀は復興に必要なお金を必要とする被災者に直接贈与すればいいだけである。

 次は贈与したお金を確実に循環させるだけでいい。それは無利子返済が100%自動的にできる方法がある。それがゲゼルの減価する通貨であり、使用期限通貨である。

 お金の利息付き貸し借りは必ず弱肉強食市場になり、経済格差が激しくなり、一部の人間が大金持ちになり、大量の飢餓貧困者を排出してしまう。

 たとえ、利息なし貸し借りでも、強制的な税金や法律で国民を縛り上げないと稼働しない。これは「借りた金は働いて返せ」という洗脳を国民に無理矢理強いることになるので、働けない病人や老人子供は社会からはじきとばされることになってしまう。

 しかし、お金を100年サイクルでもいいから、水や血液のように循環させるには100年の使用期限通貨を発行するだけで、自動返済、税金もまったくいらないシステムができる。

 2008年に、中央銀行システムにおける世界が100年に1度の金融危機が起きたのは、お金に使用期限がなかったためである。無期限に通用するため、お金は作っただけインフレになってきて、それがあたかも正常な経済だと思いこまされてしまった。さらに、金儲けしなくてはならない必要悪が地球環境よりも経済優先をさせてしまい、今回の原発事故のような未来の子供達の命を奪うまでになってしまっている。

 しかし、期限通貨だと、自動的に期限がすぎると使えなくなるし、期限が進むと減価するので、その減価した分を税金徴集したことと同じになる。国民の税金も企業の法人税もその減価分を印刷できるし、また、震災復興や未来の国民年金のような需要に合わせた社会保障費も印刷できるようになる。

 それは社会に必要な分だけお金を製造できるのがお金の基本法則だからである。需要がお金を生み出すのである。それは市場でのセリをみればいい。魚の値段が需要によって、高くも安くもゼロにもなるのはそのためである。

 昔の無期限に使用できる政府紙幣では返済や税収が期待できないために、ハイパワーインフレになる。今の無期限に通用する日銀券では、返済へのリスクが高くて、貸し出しがしにくいため、お金が流通しないで、デフレ不況に陥ることになる。

 これらは社会の需要に合わせたお金が印刷されないで、多すぎたり、少なすぎたりするために起きる現象である。お金はいわば商品の値札のようなものであり、その値札の上がり下がりは人々の需要から生まれ、それと同じくお金の製造額と廃棄額も決定されてくる。

 また、お金が無期限に通用するために、お金はすべて大金持ちに集まっていき、循環が国民全体にされないためである。国民全体に必要なお金とその循環をする方法がある。

 それは確実に貸出返済100%でき、税金もいらないシステムである期限通貨しかない。その循環スピードは期限の年数で調整できる。復興のための期限通貨だとしたら、10年の期限通貨を発行すればいいだろう。

 また、危険な原発から自然エネに転換する政策にするなら、その期限を50年にした自然ネル期限通貨を発行すればいいだろう。

 国民も企業も、古い期限通貨を新しい期限通貨に両替するときに、減価分だけ税金を支払うことになるだけである。こうしたお金は最終的に自由市場での成功者の元に集まってくるため、その成功者が必然的に余裕に減価分の税金(利息)を払うことになるので、強い国民が弱い国民を守る平和で安定した社会を自然と築き上げることになるだろう。

 

復興期限通貨で中銀に代わる新貨幣に

土曜日, 4月 16th, 2011

1,東北関東大震災の復興資金の2大ニュース
 
●震災復興税
 
 義援金が国民の自由な意志で集められたが、それを税金で強制的に集めようとした。それは国に復興する財源がないためで、それは国民から集めるしかないという単純な発想である。

●日銀引き受けによる復興国債の発行

 「新規国債の発行も検討されたが、国債を市場に大量流通させれば財政事情が悪化する上、国債の格付けが下がり長期金利の上昇をもたらす危険性がある」として、市中消化の原則でなく、特例としての日銀が引き受ける国債の発行である。
 

2,復興新通貨発行を
 
 これが私の案である。それは復興の10年計画で発行される期限通貨である。
 震災の被災者全員に必要なお金を国が10年間使用できる通貨を贈与する。その通貨が使用期限が過ぎたら、国がすべて自動的に税金回収できるシステムである。

 復興期限通貨が期限切れになる前に、税金として国に支払われる場合、年利10%の単利計算にされた税額になる。

 例えば、1被災者に国が100万円の10年復興新通貨を贈与した場合、被災者がそれを住宅資金に充てたとする。復興新通貨が1年後建築会社10万円、5年後資材会社40万円、10年後銀行50万円などの金融会社へ流れていったとする・

 ▼各会社の法人税を復興新通貨で払われた場合、発行されてから、年単利10%の復興税が付加されることと同じになる。

 もし、全額法人税を復興通貨で支払う場合、建築会社は10万円に年利1割分が付加され、11万円、資材会社は40万円に5年後の5割分付加され、60万円、金融会社の50万円に10年後の10割付加され、100万円になる。

   しかし、中央銀行制度が廃止され、すべて期限通貨になった場合は、期限がくれば自動的に納税されたことと同じになるので、一切の納税が必要がなくなる。その場合は、新しい期限通貨に両替する時に、自動納税されることになる。例えば、10年ものの期限通貨10万円を1年後にさらに新しい10年の期限通貨に両替する場合は、1割分差し引かれて、9万円の新期限通貨にすることがことができる。

  復興新通貨は将来中央銀行システムを廃止して、すべて期限通貨にする最初のきっかけにすることになれる。
 

3,復興期限通貨は信用創造の正常化
 
▼信用創造

 中央銀行システムでは信用創造によって、金融会社はお金をいくらでも製造している。その元になっているのは中央銀行が必要な融資分をただ印刷発行することからなっている。

 国も市中消化の法律によって、商業銀行からお金を借りて政策を実行する。それは名目上、国民の預金を貸し出すシステムとなっているが、その国民のすべての金は元々日銀が銀行に貸し出したものであるが、その貸し出した金を日銀がすべて回収しなかったために、ほとんどの金は投資銀行に集められ、そこがに日銀に代わって、貸出している。そのため、投資会社が回収を失敗すると、金融危機に陥ったのがリーマンブラザーズの倒産である。
 

 
 
 信用創造は商業銀行がその預金を含む資産評価額の1%くらいを日銀の当座預金に振り込めば、その100倍のお金を借りることができる。
 上記のように、もし、A銀行がX社に100万円融資したら、そのお金は巡り廻って、準備預金が10%だったら、1000万円の預金になり、準備預金が1%だったら、1億円の預金高になる。
 国が国債を1億円を発行しようとしたら、商業銀行は1億円の預金をそのまま国に貸し出すことができるが、その元になっているのは日銀の100万円である。その100万円のお金は国債の利子から算出できるので、銀行は国債の利子だけで充分維持できる計算になる。
 但し、中身の現金がない預金であるから、もし預金者の取り付け騒ぎがおきると、銀行は支払ができなくなり、倒産する。
 銀行も投資会社も、日銀がしなければならない貸し出した金を回収する代行をするようなもので、金利や金融商品の売買はそのためのものである。
 そのため、「貸したお金を利息を付けて返してもらえる」という信用と法律がないと、この中央銀行システムは成立できないことになる。
 利息とは手数料と返済リスクを合わせた額として正当なものとなっている。

▼期限通貨は自動返済システムである

 日銀システムになったのは、国が発行する政府紙幣を無制限に発行し、その回収を一切しなかったために、ハイパワーインフレが起きたための防護策である。

 いわば、政府紙幣の民営化が日銀システムである。しかし、この民営化も、投資銀行や商業銀行の倒産によって、回収できなくなって、金融危機がおきたので、うまく軌道していないのが現状である。しかも、経済格差を増大させてしまう欠点も大きくなってくる。

 貸したお金を100%自動的に返すことができたら、お金は国中循環することになる。それが期限通貨である。原発事故が末代にわたって死の恐怖をもたらすのは放射能汚染が10万年以上の続き、原発から出た放射性廃棄物の捨て場所が地球上のどこにもないことから生まれる。

 どんなエネルギーもその最終ゴミが再生につながる自然エネルギーでなくては循環しない。例えば、木材は薪のエネルギーは、植林と合わせてやることで、再生エネルギーとなれる。それらは命と同じように生死を繰り返すことで、エネルギー循環が起こるのである。

 お金も再生エネルギーと同じくすることで、お金は正常に循環する。例えば、稲を育て、一部を種籾としてまた植え、それ以外を食べるとすると、食べ物は末代までゆきわたることになる。しかし、お金は稲のようではなく、育てることも、食べることも、朽ち果てることもできない。1円は永代1円のままである。これは放射能物質のようなもので、その放射能が0になるまで数万年かかることと同じである。

 お金は貸したら返される循環なくして循環しようように、返す行為が道徳や慣習の信用や強制的法律で強制しようとしたら、それは原発事故のように放射能を封じ込めるような人災事故につながってくる。
 人の技術は自然界から放射能を封じ込めることは不可能である。燃料を冷却循環させることが大事であるが、それは100%できるものではないことは、福島原発事故からも明らかである。

 人は自然に合わせることができるが、自然を支配することはできない。地震や津波を支配することも、放射能を封じ込めることもできない。

 お金もまた人間の欲望に従わず、自然に合わせることで、正常なお金の循環が可能になり、国中の商品やサービスが水の循環のようにいきわたることになる。

 そのためにはお金を作った国が自然の創造物と同じようにすればいいのである。

 今回必要になった復興の資金であるが、復興の期間を10年間と見積もってお金の使用期限を決めることができる。

 国が復興通貨を発行したら、10年後にはその復興通貨は使用期限切れとなってしまえば、お金の一生は終わることになる。それは国が被災者に復興通貨を贈与したら、そのお金が廻り廻って、10年後には国に使用済み復興通貨として復興税として自動返済される。自動とは例え、10年後期限切れの通貨が燃やされ捨てられても、国はその分再発行できるから、自動返済できることとなる。

 税金とは社会福祉として貸し出されたお金が返済されたお金という意味である。つまり、国の税金とは自然界における創造したものはいずれゴミとなって捨てられるものなのである。自然は創造し、維持、破壊するように、国もお金を創造、維持循環し、破壊(使用期限切れ)されることで、命もお金も循環するのである。

▼復興期限通貨の発行と回収図
 
 
 
▼自然循環とは何か?

 地球で創造されたものは地球に戻されるのが循環である。お金も自然循環するためには、お金を生産したら、生産したところにそのお金をもどさなくてはならない。

 そうしないと、お金は正常に国中に循環しない。

 また、その発行額と最終回収額はエネルギー不滅の法則のように、同額である必要がある。

▼お金の発行総額はいかにして決められるか?

 人類が生きるために必要とする必要最小限の総額である。自然は必要以上に生産されたものは、必要以上のものはゴミとして捨てられるようにできているように、人為的にお金を生産する場合は、必要最小限のお金を発行することで、合理的にお金は循環し、かつ、お金の奪い合いにならなくなる。

 2008年の金融恐慌は投資銀行が返済できなくなって倒産したことから始まり、信用創造されたお金の返済が滞ってしまったために起きた。それは人類が生活するために必要なお金が回らなかったことであり、それはいわば必要のお金が電子マネーとして大きく消えたことと同じである。

 電子マネーは政府紙幣のような現金ではなく、預金のような貸し借りする電子数字のようなものであって、その裏付けの現金はわずかである。政府紙幣のような現金は消える数字ではないので、消えることはなく、ただ印刷されつづけるためにハイパワーインフレが起きるが、預金のような現金でない電子マネーは返済されないと、消えてしまうため、デフレスバイラルが起きる。

 金融危機が起きて、アメリカを先頭に各国で消えた電子マネー分を大量に発行しても、ハイパワーインフレが起きなかったのは、国民に必要なお金の分を印刷しただけであり、必要以上の現金を印刷することではなかったからである。

 しかし、中央銀行制度をそのまま維持して、金融危機で消えたお金を印刷しても、助けるのは投資会社や銀行や金持ちを助けるだけであり、低所得者の生活を助けることにはつながらないので、景気は低迷することになる。

 今回のように震災で大きく資産もお金も失われた場合は、その失われた損失額以上のお金を新規に発行しても、必要最小限のお金を発行維持することに繋がるので、ハイパワーインフレにはならないし、その発行された復興費を全額回収できるようにすれば、デフレスパイラルにはならない。

 この震災復興期限通貨は人々が健康で文化的な必要最小限のお金の発行と回収をすることで、今までの政府紙幣のハイパワーインプレや中央銀行システムのデフレスパイラルの失敗をすることはなく、震災のピンチを正常復興のチャンスに切り替えられるようにすることができる。

4月1日、金のいらない日開催します

土曜日, 2月 26th, 2011

 チャイルドマインダーの人がうちのミキシーのフリマ笹塚のマイミクになってくれた。そのときのメールがとても印象深かった。

「年に1度バザーをやりますが、ほとんど投げ売り状態…
ちっとも収入になりません。売り上げを施設退所の子ども達の為にと知恵を絞り、フリマにたどり着きました」

 フリマーケットにたどりついたとはどういう経緯なんだろうか? こちらはやもをえずフリマ会場にしたのだが・・?

 年に一度くらい無料開放してもいいかな・・とは思っていたし、たまにゴリラの歌ライブをやったが、あまり反応がうすいのでやめてしまった。そして・・次の言葉・・「ほとんど投げ売り状態!」が気になった。・・・・そしてはっと気づいた!

 無料で店を解放するから、売るものもみな無料で売ったらどうだ!?

 ミキシーの「あげますコミュ」があり、1万人以上のメンバーがいて、毎日あげたいもののメールが届く。これを笹塚フリマでやったらどうだ!と思った。

 この参加資格が実にいい、特に、●ブツブツ交換はNG。あげるのみです。

 実は「昔のわらしべ長者」「アメリカのピン長者」が可能かどうかを実験しようとホームページで呼びかけていたが、一件もなくて、店から撤去した。

 物々交換からお金が生まれたが、無償の愛からはお金は生まれないはずだ。ボランティアは無償の方が面倒なことはない。ただ、無償の愛は継続ができないのでNPO法人にならざるをえない。金がなくて暮らせるのは毎日は無理だ。

 金のいらない国を、演劇で表現していて、とてもおもしろいが、それを実際にやってみようではないか。できる! 毎日は無理だが、たった1日だったらできるはずだ!

 モノをただにするだけでなく、実はもっと実現したいことがある。サービスをただにする日も実現したいのである。

 私は元便利屋なので、地域の便利屋を30数年やっていたが、それを地域通貨でできないかという取り組みをしたが、やはり、反応は一件もなかった。

 フリマ笹塚の店で、「1時間無料掃除券」や「5分かたたたき券」をちらしと一緒に配ったこともあるが、やってみると、1件はきたが、とても大変で、体がきつかったため、1日で降参したことがある。

 無料で非常によろこばれるサービスとして、手軽なのは買い物代行である。掃除や肩たたきはプロでないと、失敗がつきものなのでやめた方がいい。そのため、無料でモノを買ったら、無料でお届けもできたら、完璧に金のいらない日になるだろう。 特に、外で買い物ができない老人や病人にはもってこいだろう。

▼金のいらない日 開催

 開催日:2011年4月1日(金)・・よいカネの日

 開催時間: 10時~20時

 場所:フリマ笹塚 (渋谷区笹塚2-11-5)

 内容:自分があげたいモノを持ってきて、誰かにあげてください。

     また、自分が無料でしたいことを書いて、誰かにしてください。

     大きいモノやサービスは写真付きで書き示し、翌日以降あげてください。

参加費:もちろん無料

参加時間:10時から20時の間いつでも自由に参加できます

申込 フリマ笹塚 岡部 (締め切り 3月20日まで)

手段がその手段であるかはその目的をみればいい

木曜日, 2月 3rd, 2011

 アメリカの映画なんか見ると、「自分の命は自分で守れ」と「ピストル」を渡す。西部劇は今も続いている。

 しかし、ピストルで自分の命を守れるのだろうか? これは、北朝鮮でもいえる。「自国を守るためには核が必要である」として、核開発をする。しかし、実際は反対の結果になる確率が高い。

 この理屈が正しいかどうかを検証するには、道具(手段)であるピストルの目的を見ればいい。

鍬の目的は畑を耕すように、ピストルの目的は人を殺すことである。そのため、自殺にもピストルが使われる。つまり、ピストルは自分の命を守る道具ではなく、自分の命を奪う道具でもある。

 これは死刑制度でもいえる。死刑という法律(政治の道具)の目的は人を殺すことである。故に、相手が善人であっても殺すことができる法律である。つまり、ピストルも死刑も人を殺す道具と手段であり、人の命を守るものではないことがわかる。

 この基本的な検証はいろいろと使える。

 お金は生活する道具であるが、道具であるお金の目的をみれば、それが本当に生活の道具であるかどうかが解る。

 今のお金の目的はモノや人を支配することである。国債も投資家が国を支配する。株主が会社を、会社が社員を支配し、働かせる。支配するための道具が金である。けして、生活の道具ではないこと明確である。

 働くという目的は「助け合う」「分かち合う」ことである。支配されることが目的ではない。故に、働く道具としての今のお金は使えないし、働く対価としてのお金など正当なものではない。

 世界中で発行されたお金の10倍債券があり、それから派生した100倍もの金融商品がある。それは貸した人が借りた人を支配するためのものである。

 もし、お金が商品を買えるためのものであるならば、今のお金で地球100個分買えるだけのお金が印刷、または電子化されている事実はどう解釈すればいいのだろうか?

 どうして、そんな人を支配し、かつ戦争させるお金が生まれてしまったのだろうか?

 それはたった一つの事実ではないミスから生まれた。

 「お金は貸し借りができる」という錯覚からである。例えば、リンゴをお金と交換できるため、お金Xにリンゴ1個を代入して検証できる。お金の貸し借りができるならば、リンゴ1個も貸し借りできなければ事実ではない。

 リンゴ1個は食べるものであり、食べなくても朽ちて消えてしまうものであるから、貸し借りはできないことは明らかである。

 貸し借りができないという事実を無視して、それができるという幻想(嘘)から、利息を付けて増やすことができるという幻想(嘘)ができる。その複利のような双曲線が物価に現れる。ハイパワーインフレのように、コーヒー一杯100円が1兆円になることが現実になる。世界中の国の借金だけを合計しただけでも、未来の人類が時給1000円で働いて返済したとしたら、何万年もかかっても不可能である。

 老後のための生活費として貯金をするが、もし、お金がリンゴなどの食べ物だったら、何十年先まで腐らずに貯めておくことができるだろうか?

 お金が腐らないで永遠の金(きん)のように輝いて自分の命を保証する神という幻想を信じているだけにすぎないのである。

 こうした嘘と本当を見抜く眼は、

 その手段・その道具の目的が何かを見ればいいだけである。

 もし、その道具が本来の目的と違っているならば、それを捨て去り、目的にあった新しい道具を造ればいい。

 子供の命を守る防犯グッズにピストルはない、防犯ブザーがある。災害があった人の生活を守るのは水と食料であって、借金ではない。

 命と生活を守るものは人々の協力と自然の水と食料であるようなシステムと新しく朽ちる金である。

 

水田を造ってみた

水曜日, 10月 20th, 2010

 雨水を使った水田を造ってみた。雨が降ると、段々畑は湧き水が多く出てくる。その水を溜めれば水田ができると思ったからだ。

 そのとき、10000円で買った家庭用電動耕耘機プロ用を使ってみたが、まったく何もできなかった。単に堅い土の上を車のように前に進むだけだった。おもちゃにもならないので、全部鍬とスコップで造った。刈った雑草を周りの畝の土台にした。

 これで、陸稲と麦でなく、コシヒカリと麦ができるのではないかと思われる。でも、本当に雨水と湧き水がたまるかどうかはさだかでない。

 水田と畑の違いは、畝の凸部に野菜を作るのに対して、凹部に稲を作るということになるとおもわれた。 もっとも、水が凹部にためなくてもできないが。

 

円高?輸出入も物々交換と思えばいいではないか

木曜日, 8月 26th, 2010

 今急激な円高で騒いでいる。

 円高の問題というより、実質的にはドル安が問題だと思えるのだが。

 この円高ドル安の問題は輸出輸入の問題になる。石油タンカーで石油を輸入する際、行きは空のタンクで、帰りは満タンにして航行するのはもったいないから、行きのタンカーも他の商品で満タンにして航行すれば、経費の無駄がない。

 この行き帰りの船荷を一杯にして運行するように、輸出入をすれば、円高問題も解決するように思える。

 円高で損失するのは輸出業者であり、得をするのは輸入業者である。

 そこで、その国の輸出輸入業者が企業合併や資本提携すればいいのである。輸出と輸入の金額が同じくらいの企業合併がいいだろう。

 お金で輸出収入をとらえてしまうから、問題が起こるが、商品の交換というお金本来の物々交換という視点にたてば、お互いに便利で友好的な国際関係ができるだろう。

 輸出輸入も物々交換と思えばいいではないか。

 例えば、

 アメリカへ車の輸出企業とアメリカから穀物輸入企業が合併すれば、円高ドル安や円安ドル高になっても、なんら心配はなくなる。為替相場で損得をいちいちきにしなくていいからだ。

 これは、損得を白黒の石で賭け事をするときに、白黒のどちらにも同じ金額で勝負するようなものであり、勝っても負けても損得しないことになる。

 今日本は輸出が輸入に比べていくらか多いから円高が問題になるが、同じ程度だったら、そう問題は起きないはずである。