Archive for 1月, 2014

動物にもモラルがある!

月曜日, 1月 27th, 2014

学生の頃、早朝の新聞配達をしているとき、野良猫がたむろしていた。交尾している猫の姿をみて、まわりの猫数匹が転がり笑っていた。この光景は動物はけして笑わない、人間だけが笑うことができる存在だと信じていたので、それが猫も笑い転げる事実を見てしまった衝撃は今でも思い浮かべることができる。

この事実を言っても信じてくれる人は少ないので、ずっと隠していた。だが、NHKのTED「動物にモラルはあるか?」を最近みて、自分の観察した事実が本当であるだけでなく、実験証明により 共感と慰め、向社会性、互恵と公平ささえも持っていたことを知って驚いた。

今年の発祈願が「脱原発」だった。そして偶然にも猪瀬都知事が徳洲会から5千万円を受け取った問題で辞任し、脱原発都知事選のチャンス到来がきた。当初脱原発を推す共産社民緑の政党が前都知事選で100万票とって落選した宇都宮が立候補していたが、知名度が低く、自民公明が推す桝添には到底勝てないと思われていた。しかし、脱原発の小泉が推す細川が立候補して、勝てる脱原発選挙になった。

選挙アンケートでは

都知事選アンケート

 

 

電球4つのうち一つ我慢すれば原発いらないという省エネ脱原発を推奨していた桝添は、都知事になりたくて、数十年も動かないもんじゅを動かせば核ゴミは無くなると誤解宣言し、原発推進する自公民に媚をふるった。そんな事実を知らない都民は圧倒的に桝添を応援していた。2位に細川、3位に宇都宮である。告示前のアンケート内容と同じく、脱原発の細川宇都宮合わせても、人気トップの桝添には届かない状況だった。

その原因は、都民の関心の50%が福祉と景気にあり、18.5%が原発エネルギーであるから、都民の需要と都知事供給の割合からいえば、脱原発一本で戦う細川は元厚生大臣だった桝添には圧倒的に不利であることはあきらかだ。

さらに、脱原発を進める細川を攻撃したのは なんと同じ脱原発の宇都宮だった。宇都宮は脱原発よりも都知事が重要だったため、なんと争点を需要のある福祉を中心に展開した。そして、脱原発だけを争点にする細川を批判したのである。両者とも脱原発候補の統一をしようとはしなかったが、両者の陣営が統一の必要があるのではないかというので、両陣営の激しいバトルがおきた。それが身内同士の醜い争いになっていった。前国政選挙でも脱原発派の党や議員は惨敗したのはそうした同じ仲間同士の争いで死に票が増えたためである。

そんな仲間同士の争いをみて、「動物のモラル」を思い出した。そして、ツイッターにこうつぶやいた。

「同じ脱原発という餌を宇都宮と細川が望むなら、動物でも協調します。

でも片方が知事という餌だけを望むなら、動物でもいがみ合います。」

もし、宇都宮が都知事になることより、本当に脱原発社会を望むのだったら、動物と同じく協力して、二位の細川に譲り、推進派の一位の桝添に勝てるように自分は降りるようにしただろう。

困惑したのは脱原発の運動家である。前参院選で、勝利した山本は無言のまま、「都知事選投票にいこうキャンペーンキャラバン」をしだした。それは選挙に行かない若者をなんとか投票させて、脱原発派の宇都宮と細川両氏の投票を増やそうとしたのである。加藤登紀子も同じ投票にいこうキャンペーンだった。

しかし、「投票に行こう」というだけであるなら、棄権投票も、多数の推進派、脱原発派にも投票してほしいということだ。大事なことは投票できる相手は一人だけであることだ。そして、若者が投票に行かないのは「誰に投票しても同じだから」「投票してもしなくても都政は変わらないので、面倒なことはしたくない」のが本音だろう。

それは自分の娘たちもそうだからである。前回の参院選で娘が親の私にこう言った。

「ねえ、誰に投票したらいいの?」というので、

「とにかく 脱原発の社民党で、もし候補者がいなかったら共産党に入れとけ」と答えたが、

実際二人の娘とも面倒くささにかまけて、投票には行かなかったのである。

小泉は街頭演説

「今回の都知事選は国の方向を決める大事な選挙だ!あなたの投票一つでそれが決まるんだよ!」

と投票を呼びかけた。それは暗に細川氏を投票するかしないかで、国の方向が変わると言っているのである。投票を呼びかけるには

みつを具体的

が必要である。

「一方、緑の党の比例で16万票をとったが、落選した脱原発派の三宅洋平は宇都宮を応援した。当初、細川が本当に脱原発を望んでいるか疑心暗鬼で、対話をしない細川を批判していた。しかし、選挙アンケートによって、両者が票の取り合いをすることで、脱原発都知事が落選する可能性が強くなったため、ツイッターでこう宣言した。それは辛口脱原発派のきっこも同じ意見である。」

昨日、

三宅洋平

「最終日に一本化でもいいじゃない。脱原発、脱被ばくで盛り上がれるなら、とことん祭り上げて、情勢的に優位な方へ一本化すれば。そんなことは、一人一人の有権者が投票する瞬間まで調べて見て話して悩んで、最後に自分で決めればいい事だ」

そのコメントに私がこう書いた

「 候補者も投票者だ。とことん盛り上げて、優位の方に譲る責任は候補者と応援者と支持党とリーダーにある。そうでないと、知事になることより、脱原発を本当に望んでいたということが証明できないし、投票者に責任転嫁する、ずるい逃げに過ぎない。感動させるのは主役の役目」

今回の都知事選で、脱原発運動家や脱原発政党や脱原発候補者の本音がはっきりするだろう。

それはいわば「動物のモラル実験」と同じだからである。なぜ、常に正当派の社民党がいつも負けるのはなぜかもはっきりするのである。国民の多くが脱原発を望むのに、どうして原発を進める自公民が圧勝するのか?それがこの都知事選ではっきりと解るだろう。

公平と公正さを望むのは人間だけではない、動物だって同じなんだ。宗教や哲学そして教育がなくとも、平和と共存、平等な社会は人が本能としてもっており、自然と築けるものなのである。

ずるさも、思いやりも、怒りも、愛も 動物には共通して存在している。現在の法律のもとになった社会契約論は

「人間には生まれつき、自分の命を守ろうとする自己保存の欲求と、他人よりも優れた存在でありたいという虚栄心が存在しており、この2つの欲求を誰しもが満たそうすると戦いが起こる」

というモラルのない人間を前提としているが、それは誤りである。人も動物も生まれつき「共存欲求」があるという前提にたった自然法に換える必要があるだろう。

 

 

自然法って何だ?

月曜日, 1月 20th, 2014

リバイヤサン

自然法をWikipediaで調べると、どうやら3つの条件に適応されるもののようだ。

  1. 普遍性:自然法は時代と場所に関係なく妥当する。
  2. 不変性:自然法は人為によって変更されえない。
  3. 合理性:自然法は理性的存在者が自己の理性を用いることによって認識されえる。

1の普遍性と2の不変性は科学における事実のことである。3の合理性の理性的存在者は人間であるから、単に人の理性である。

では現在の法律の源流は近代自然法の父であるグロティウスから社会契約説を唱えたのがホッブスロックルソーであろう。

王の権力は神から与えられたとした絶対王政の時代に、グロティウスは絶対王政を批判し、自然状態では、王がいなくても人々は生きる権利(自然権)を持ち、理性に基づくルールで生きることが出来ると主張した。

1と2の普遍性は宗教における神仏から、科学における事実となった。3の人の理性は 人間には生まれつき、自分の命を守ろうとする自己保存の欲求と、他人よりも優れた存在でありたいという虚栄心が存在しており、この2つの欲求を誰しもが満たそうすると戦いが起こってしまう。これを防ぐためには、お互いの自由を本能のままに求め合うことをやめるという契約を社会と結ぶ。この契約を破ったときに罰を与えられる権威のある国家が必要であるとしたのがホッブスである。そこで社会契約が自然法となり、自然法を管理するのが国家であるようになった。

今の民主主義は社会契約説からきているといえるだろう。

現在問題になっているのが世界全体において、 社会契約がされない、また契約されたとしても、違反したものに罰を与えられる国家は存在していないことだ。それは社会契約論に基づく自然法には無理があるともいえる。しかも、社会契約は人為によってしか成立できないため、2の人為に左右されない不変性とは矛盾している。

社会契約というのは単に議論や裁判みたいなもので 議論別れにもなるし、多数決で結論されても それが真実にあったものになるとは限らない。これからは社会契約論以外で しかも 1と普遍性 2の不変性である事実にも準じた人の理性論が必要になっている。

 

自然法による政治が丁度いい

日曜日, 1月 19th, 2014

深海のアンコウ

東京で自分のアパートのリフォームをしているが 一日で3時間がいいところだ。日によっては気乗りがしないと別なことをする。基本的に自分が今一番したいことを優先してやることにしている。

10年前だったら 一番に収入をあげるこの仕事を優先しただろう。 しかし今は別なツイッターとかの方がより重要になってきている。それはどうも自分より社会の方が関心が強くなったためだろう。

アパートをリフォームして 人に貸して収入をえる必要はない。今の収入だけで十分に暮らしていけるし、それ以上のお金は必要がないからだ。なぜリフォームするかは 自分で家を建てる楽しさのためだろう。自分の好きなことをするのに 苦労してやることはないし、やりたくなったらやればいいので 気ままになる。

一方 ツイッターの方だが 関心がお金の仕組みから 脱原発の政治に移ってきた。若いころにはお金とか まして政治なんかはまったく関心がなかった。関心があったのは いかに生きるべきか? といった生まれいずる悩みみたいなものであった。時代が高度成長 学歴重視社会であり、その反発するヒッピー生活にあこがれていた。

若者が政治に無関心なので投票に行かない気持ちは 自分もかってそうであったからよく理解できる。老年になると すぐに死んでいく自分のことより あとに生きる人たちのことが気にかかるようになった。

なぜ生きるのか?は なぜ死ぬのか?になるのだが これはアンコウやシャケの生態をみれば理解できる。

深海の提灯アンコウのオスはメスに吸収されて死んでいく。シャケのメスは子の卵を産むと死んでしまう。生死の流れは オス→メス→子供 というのが自然である。夫死んでもは妻を守ろうとし、母は死んでも子を守ろうとする愛は自然な心である。そして 老人は死んでも若者を守ろうとするのは自然の発意である。人類が永遠に地上に生き続けるための自然法である。

特に脱原発は老人が未来の若者を守ろうとする運動である。老齢の隠居生活をやめてまでして 脱原発運動のために都知事選にでる細川元首相の気持ちもそうであろう。

今まで生きてきて、最も大きな収穫は 「うまく生きるコツは自然に自分を合わせることを知った」ことだ。ケセラセラ 何くるないさ Let it be あるがままに という言葉もそうだが 生きるも死ぬも自然のままに自分を委ねることで 実に安らかな気持ちになれ、すると 問題の方がいつしか消えてしまうのを体験する。

この自然に自分を任せる「生き抜くコツ」は 政治における法律を「自然法」にすることで 社会も平穏になれる気がする。脱原発して再生可能なエネルギーにするのも自然法であり、貨幣システムを減価(貯蓄税)する貨幣にするのも自然法だし、貨幣を雨のごとく公平に与えるベーシックインカムも自然法だし、 水は高きより低きところに流れて海の水平を保つ福祉も自然法である。 無理してわざわざ遠くから輸入せずに食糧やエネルギーを地産地消するのもまた自然法であろう。

私の役目はどうもこの生き抜くためのコツである自然法を若者に伝授することのようだ。

 

考え方の違いもバトルで楽しく

土曜日, 1月 11th, 2014

東京暮らしはまるで山奥の穴蔵生活のようだ。食べるものはそこにあるものを火を使って料理して食べるのも同じ。自然観察がテレビやネット観察、快適な穴蔵造りがリフォーム、本質的には変わりない。

少年の頃 達磨さんのように 壁に向かって座禅を組み 悟りをえようとする修行にあこがれた。今は 壁がテレビ付きパソコンで 座禅がコタツにあぐら 瞑想がブログになり、求める悟りが寿命がくるまでの計画のようで、少年の夢は老人の現実になっている。

世の中が単に考え方の違いだけで 憎みあい 罵倒しあい しいては殺し合う。それがどうも解せない。もっと第三者的に平然と観察できないものか? いや それは単なる無関心になるのでおもしろみにかける。むしろ それはスポーツのような戦いとしてみれば スポーツ精神 マナーのようなものがあれば 逆に考え方の違いで起こる戦いがスポーツのような楽しみができるのではないだろうか。

殺し合うスポーツはないように 考え方の違いから起こる殺し合いや罵倒がないようなマナーがあったらいい。宗教の違いがあっても 信教の自由を認めれば殺し合うこともない。少数意見の尊重があれば 自由な意見がいえて かつ 楽しめる。

意見の違いによるバトルは ピンポンのような打ち返しがあると やる方もみる方もそのバトルに夢中になって楽しめる。中にはつねにずれていたりする場合もあり、それはそれなりに 話し合いにならない笑いをさそう楽しさもある。

スポーツの戦いは同じレベル同士が戦うのが一番おもしろく、 レベルが違いすぎるとおもしろみもない。意見のレベルの差はスポーツのようにはっきりとはできくいので、どんな意見でも尊重して対応する「言い方」をしたほうがこじれない。

喧嘩は意外と「尊重しないで罵倒した言い方」で起こり、その内容は無関係の場合が多い。意見の違いを楽しむならば 言い方は丁寧で 相手の尊厳を傷つけないのがマナーであろう。

また 逆に罵倒された場合には 相手を尊重する丁寧さで 相手のマナーをいさめるようにかえすのがいいだろう。罵倒はイエローカードやレッドカードの反則として、示せばいいだろう。

 

 

 

荷を最小限にすると自由は最大

金曜日, 1月 10th, 2014

東京生活は田舎の別荘という感があり、部屋も家具も少なく、ノートパソコンとテレビを一体化させ、エアコンも冷暖房で一体化、wifiも持ち歩き、生活の動きも仕事もコンパクトにまとまる。

年柄 「どう死ぬか?」 ということがテーマになっているが、それはあの世に旅立つ際 「いかに荷を少なくするか?」 ということでもある。あの世には肉体も財産も持っていけない、持っていけるのは「心だけ」である。その心だって 生きている者とこれから生まれるであろう人たちへの思いやりである。自分の欲望とは 他人と区別できる自分という顔を持つ肉体から発するので、それは肉体の死とともに消滅するので、持っていけない。

生きる者にとって、亡くなった者の心を受信できるのは 「生前何をしたか? 何を残したか?」によってである。私の人生を決定的に変えたのはロマンローランが残した「ジャン・クリストフ」小説である。また、最近では福島原発事故である。それが負の遺産であっても 反教師になって大きな影響を受ける。

つまり 若いときは先陣の心を受信すべく 大いに無駄をすればいいが、老いたときは後輩に発信すべく 大いに無駄を省くのが自然である。老いて動きがにぶくなるのは 無駄のない動きに心がけよという意味であり、荷はできるだけコンパクトにまとめて 自由になり、遺産も後輩に伝える心になるように プレゼントせよということだろう。

で 思いついたのが どこでも移動可能なコンパクトな住宅である。 モンゴルの移動式テントのような仕事にあわせて手軽に移動組み立てできるものがいい・。しかも 現代生活のような電気や電波もすぐに仕え、自然サイクルにあわせられるもの、しかも、ジャングルであっても、 都会であっても使えるようなものがいい。そして、災害時にも、そこで畑で食べ物を栽培できるような家が理想だ。実際 私が目指しているのがそんな家造りのような気がする。

 

明るい未来を信ずれば救われん!2014元旦

木曜日, 1月 2nd, 2014

地元の大井俣窪八幡神社に初詣

大井俣窪八幡神社

元旦なのに、初詣の人は10人もなく、ひっそりとしている。正月前に御札を買わされることに文句を言ったせいか、今年は初詣で昨年札の炊き上げを段ボール(嫌だったが)に入れ、新しい御札と御守りとおみくじ(吉だった)を買った。

今年の願掛けは 脱原発 娘たちの自立 自分の健康 の4つにした。初詣で脱原発のような社会的なことを祈ったのは始めてである。

私が生きている間に、脱原発ができたとしても、福島原発事故の終息はありえない。核ゴミを無害化する技術は100年後でも無理だと思えるからである。原発は核戦争と同じで、人類全体の地球存続をかけた問題で、温暖化よりもはるかに 危険な人類自爆装置である。

世界は核兵器廃絶とともに、原発廃絶していかないと、子孫代々にわたって、癌などの病に悩まされつづけなければならない。そんな世相に押し潰されたくないので、人類はいつか脱原発を決断することを信じて、自分ができることを精一杯やって、明るく生きたいものである。

「信ずれば救われん」とは、何もキリストを信じることでなくていい。明るい未来を信じることで救われるってことでいい。

こうした明るい未来の幕開けを信じる行事が正月にしていきたいものだ。

明るい未来を信ずれば救われん!

信じることは願うことでもある。願いの上が祈りであり、 祈りの頂点が信心である。

人は何かを行動する時は、欲望からだ。欲望を大きくしたのが願いである。つまり、人はいつしか信じるとおりに動いていくということである。