東京暮らしはまるで山奥の穴蔵生活のようだ。食べるものはそこにあるものを火を使って料理して食べるのも同じ。自然観察がテレビやネット観察、快適な穴蔵造りがリフォーム、本質的には変わりない。
少年の頃 達磨さんのように 壁に向かって座禅を組み 悟りをえようとする修行にあこがれた。今は 壁がテレビ付きパソコンで 座禅がコタツにあぐら 瞑想がブログになり、求める悟りが寿命がくるまでの計画のようで、少年の夢は老人の現実になっている。
世の中が単に考え方の違いだけで 憎みあい 罵倒しあい しいては殺し合う。それがどうも解せない。もっと第三者的に平然と観察できないものか? いや それは単なる無関心になるのでおもしろみにかける。むしろ それはスポーツのような戦いとしてみれば スポーツ精神 マナーのようなものがあれば 逆に考え方の違いで起こる戦いがスポーツのような楽しみができるのではないだろうか。
殺し合うスポーツはないように 考え方の違いから起こる殺し合いや罵倒がないようなマナーがあったらいい。宗教の違いがあっても 信教の自由を認めれば殺し合うこともない。少数意見の尊重があれば 自由な意見がいえて かつ 楽しめる。
意見の違いによるバトルは ピンポンのような打ち返しがあると やる方もみる方もそのバトルに夢中になって楽しめる。中にはつねにずれていたりする場合もあり、それはそれなりに 話し合いにならない笑いをさそう楽しさもある。
スポーツの戦いは同じレベル同士が戦うのが一番おもしろく、 レベルが違いすぎるとおもしろみもない。意見のレベルの差はスポーツのようにはっきりとはできくいので、どんな意見でも尊重して対応する「言い方」をしたほうがこじれない。
喧嘩は意外と「尊重しないで罵倒した言い方」で起こり、その内容は無関係の場合が多い。意見の違いを楽しむならば 言い方は丁寧で 相手の尊厳を傷つけないのがマナーであろう。
また 逆に罵倒された場合には 相手を尊重する丁寧さで 相手のマナーをいさめるようにかえすのがいいだろう。罵倒はイエローカードやレッドカードの反則として、示せばいいだろう。