Archive for 11月, 2013

倫理的であるということ

水曜日, 11月 27th, 2013

 遺伝子組み換え食品が日本に加工品として大量に出回っている。それを許可している理由というのが、食品検査の結果健康に問題なく安全であると判断したためである。

 ただ、その安全審査がラットで2ヶ月間の健康検査であって、ラットの一生涯の2年ではないということと、その一生涯の実験検査では癌になるラットがあるという結果報告を「世界で食べられなくなる日」の映画で指摘して、けして安全ではないとしている。

 日本には遺伝子組み換え食品は入ってくるが、その種は輸入されていない。遺伝区組み替え穀物の種は雑草よりも強く。日本の在来種を種をすべて絶滅させてしまうからである。

 遺伝子組み換えの品種を作るには放射線で、その遺伝子を切り、除草剤のランドアップに強い遺伝子を切った遺伝子に組み替えることで製造される。そして、その種を栽培する時にたくさんの雑草が繁茂しても、除草剤のランドアップを飛行機で空中散布すると、雑草だけが枯れ、遺伝子組み換えの穀物だけが生育する。

 日本では除草剤ランドアップを雑草だけに散布して、作物にかからないようにしている。この除草剤は地中に入ると微生物が食べて分解するとして、安全であるとしている。

 うちの畑の隣では大量にランドアップを散布して除草している。雑草が枯れるというより、触るとぐにゃりとして腐る感じで崩れてくる。そこには半年はけして雑草はえないので、土のままなので、他の雑草地に比べて異様な光景がする。

 穀物を生産する上で、雑草は穀物よりも繁茂が強く、そのままにしていると、穀物は全滅してしまう。そのため、雑草を刈るのだが、一週間もすると、また雑草ははえてきて、その手間ははかりしれない。しかし、この除草剤を使うと、穀物が育つ半年間も一度だけ噴霧するだけで、こうした苦労をしなくてすむので、農家にとってはとても便利な農薬である。

 こうした遺伝子組み換え作物を倫理的に考えるとどうなるだろうか?

 倫理的というのは、人道的であるということである。人道的であるという意味は現在ではもっと広範囲の生き物すべてにとっての道になってきている。それは地球環境・自然環境の維持が、人類の存続には必要不可欠であるという判断からである。

 遺伝子組み換えを放射線で遺伝子を切って組み替えるという行為そのものも、自然ではなく、人為的である。その人為は雑草だけを殺して穀物だけを生かすということであり、それは人間が食べる作物だけを生かし、食べない雑草のすべてを殺すという行為である。

 この地球上に人類だけ生きて、その他の生き物は死んでもかまわないという行為であり、それはまさに自然破壊・環境破壊の行為である。それは長い意味で、一時は人口爆発させるが、絶滅するという意味である。それはあらゆる生き物は共存しており、一種の生き物だけが生きられるようにはできていないからである。

 倫理的というのは、人と人が平等であり、互いに尊重しあう心が始まりである。それが、他の生き物もまた、同じ地球上に生きている仲間であり、平等に生き、互いに尊重されるべきであるというように拡がったといっていい。

 社会の倫理においては、自分や自国だけが得をし、他人や他国が損をしてもかまわないという心は悪にあたる。自他ともに平等に違いに尊敬しあうのが倫理的善である。

 かように、倫理的ということはもっと広く、もっと全体的に物事をみて、調和共存できる道を探るということであろう。

弁証法に対する小説法

月曜日, 11月 25th, 2013

 1ヶ月後の自分に、名前を付けて 対話しようと思ったら、ふと気が付いた。

 これは小説の設定と同じだと。話したい人物をモデルとして、その想像上の名前を付ける。モデルが仏陀でも、キリストでも、アッラーでもかまわない。実際と神仏ではないから、自分が想像する神仏として名前を付けて、話させるのである。

 また、実際の友人や知人や著名人をモデルにしても、名前を付けて、いろいろと登場させて、何かし、何かを話すようにする。

 そして、登場人物に語らせ、行動させて 問題解決する。会話だけでなく、世界のどこでもいけるし、その登場人物は人間だけでなく、動物でも植物でもかまわない。

 これを弁証法(対話法)に対して、小説法ということにしよう。

 寅さんは実際にはいないが、まるで、柴又に生きていたかのような伝説をつくるようなものである。こうした寅さんの映画のような思索法は難しい理論よりも、楽しくその問題を受け止められるようになる。

 小説や映画はそうした意味でも、問題解決法を示唆するように思える。

 というように想像すると、

 未来の自分の名は ありがたや権兵衛 過去の自分の名は さち みつる 
と、過去使っていたニックネームに決定した。

 その他は、登場人物の設定で いろいろな名前をつけたいと思う。主人公はもちろん 未来の自分なので ありがたや権兵衛 である。未来といっても、今の自分より年寄りではなく、理想な年齢に設定する。寅さんのようにけして歳とらないようにしてもかまわない、とにかく自由に生きさせるのである。

 未来の自分がモデルだとしても、そういう自分にならねばならないという努力は必要ない、ただ夢みるだけでいい。とてもなれない自分でいいのだ。また、その人物は超能力があっても、なくても、ダメ人間でもいい。

 おもしろい映画をみているような気分になればいいだけだ。それが問題解決にもならなくてもいい。ただ理想を自由に想像するだけで十分なのだ。どんな文学も問題提起をするが、答えはでないが、現実の自分になにかしらの示唆をさせればいいであろう。

 

  

 

物事をシンプルにみる

日曜日, 11月 24th, 2013

 原発事故以降、原子力の勉強をしたくなったが、残された時間が足りない。お金の問題もおうだったが。経済学を大学で1から始めたいという思いを断念したのもそのためだ。

 結局。残された時間の少なさと、生きてきた時間の多さをうまく編み込むと、経済や原発の問題を自分の得意とする宗教哲学のような視点で、その解決の提案ができそうに思えた。

 経済とか原発の姿を、まったく違った分野の宗教哲学からみると、意外にシンプルにみえる。宗教哲学ともいわずとも、身近で経験したことをそこにシンプルに当てはめることができるような気がする。

 沖縄の基地移転の問題だって、沖縄にたくさんの米軍基地があるのだから、移転などせず、基地撤去して、日米中朝鮮韓国ロシア友好公園でもつくり、そこで、6カ国平和会議を毎月開き、貿易、スポーツ、資源開発など共同で行えるようにすればいいと思える。

 それは未知の原子部落にいって、武器を捨て、「私たちはあなたたちの敵ではない。友人になりたいとやってきた」というようなことをする方がはるかに防衛手段にもなる。

 尖閣諸島だって、そこはちょうど沖縄と台湾の中間だから、中国には遠慮してもらって、沖縄と台湾の共同漁業基地にしたらどうかと思える。竹島もまた、日本と韓国の真ん中にあるのだから、日韓友好の地として、いろいろなイベントをすればいいように思える。

 北方領土は地図からみても、日本の領土に入ると思えるので、そういう視点で、ロシアに変換を求めるのではなく、国連や国際裁判所などに訴えていく方向に集中させればいいように思える。

 あんまり、自国の土地というように凝り固まらず。どの土地も友好の地というような形でもっていくと、シンプルに問題解決できる。

一国一国がみな一人の隣人として、一緒に地球に生きているという感じで、物事をみていけば、やたら、問題をややっこしくしなくてすむ。

 原発は電気を造るのではない。猛毒のサリンより何万倍も危険な放射性生成物を造るということも言えるので、即刻停止し、それが使用されることがないように、安全に保管し、将来中和、無害化できるように研究していくという方向がでてくる。

 専門になるとやたら難しくなって、理解がしにくくなる。もっと全体的に日常的にシンプルに眺めると、簡単な解決策がみえてくるように思える。

 

神仏より1ヶ月後の理想の自分を信じよう

土曜日, 11月 23rd, 2013

永いこと信じていた神仏を捨て去ってから、もう10年以上たつ。時々、神仏に替わる何かに甘えたくなるときがある。もちろん、神仏を捨てれば自然だけがそこに在る。自然は甘えられる存在ではなく、無心とか、無我とか、自然との一体感を楽しめるものである。

 甘えられるものは人間であり、それが生きていようと、死んでいようと関係なしに心をゆだねることができる。ただ、生きている人間に甘えようとすると、相手に迷惑がかかることがあり、逆に無視されることもあるので、いつでも甘えられる存在ではない。

 では死んでいる人間に甘えられるかというと、自分の想像する姿でしか、甘えられないので、自分の想像力が乏しい場合は空しくなる。つまらないドラマを見ているようなもので、すぐ飽きてくるし、よけい自分をひ弱にしてしまう。

 そこで、唯一甘えられる存在は自分自身だけであると発見できる。甘える自分と甘えられる自分と二種類存在しないとそれはできない。はたして、自分という存在は一人だけであろうか? 体の細胞は1ヶ月もすれば全部新陳代謝することを知れば、自分自身は1ヶ月ごとに生まれ変わっている存在であり、1ヶ月前の自分と今の自分、そして、1ヶ月後の自分は似てはいるが生死の差ほど違っているといえるではないか。

 すると、今甘えることができる自分は1ヶ月後の自分自身ということになる。この1ヶ月後の自分が今の理想の自分であることを信じることが、自信を持つということである。この1ヶ月後の自信こそ、神仏よりも、偉人よりも、先祖よりも、家族よりも、友人よりも、もっと確かな甘えられる存在である。

 自己実現の技術は理想的な自分をまず思い浮かべることである。その理想的な自分を信じて、毎日鍛錬するのがスポーツ、ダイエット、学問。芸術、仕事に通じてもいえることであろう。

何故原発即ゼロがベストなのか?

土曜日, 11月 23rd, 2013

 原発即ゼロか? 段階的に原発度縮小化? という議論にわかれている。

 議論が分かれるのは現在未来において、原発なしに電気が充分できるか? という点だけである。

 しかし、もっと大事なことは 原発の放射性廃棄物と福島事故処理の理解であろう。電気が無くても人は生活できるが、放射性廃棄物があるところでは生活できないからである。

 原発再稼働なしで9月から2ヶ月たっても不自由しないで生活できている。しかし、福島原発周辺地域の住民は2年以上たっても、帰還もできずにそこで生活できないばかりか、事故処理は被爆の危険が増えるばかりである。

 ウラン原石は触っても大丈夫だが、使用済み燃料は近寄っただけで死ぬ。それは原発を稼働させることは触っても安全なものを近寄ったら即死する燃料に変えることである。石炭石油ガスを燃やしても、出てくるのはCO2がほとんどで、生命の危険はないだけでなく、そのCO2を植物の光合成に利用させれば、温暖化による危険は回避できる。しかし、その量は有限だから、再生可能な自然エネルギーにどんどん変えていく必要があるだけだ。

 こうした原発と事故の現状からいくと、原発即ゼロで、再稼働永久停止することが一番である。二番目は何が必要かというと、それは除染や廃炉ではない。現状以上の被爆から防ぐ行動である。放射性生成物は元にもどるまで10万年もかかり、その期間を短くする技術はまだないからであり、除染はできないので、近くに移染するか、遠くに避難するかである。廃炉もまたたとえ原子炉を分解しても、それを廃棄する場がないから、そこに置きっぱなしして保管するしかない。だったら、解体しないで、そのまま稼働永久停止した装置内に保管した方が手間もかからず安全である。

 ただ、福島原発事故で拡散してしまった放射性生成物は安全に保管できるように、移動整理しないと、被爆がどんどん広がる。安全なプールに燃料を移動すること、汚染水を海に流さないよう、敷地内で冷却水を循環させて、これ以上汚染水を増やさないことと、漏れを防ぐことである。

 除染については、さほどひどく汚染させていない地域のみ、移染して、汚染のひどい期間困難地域にもっていき、汚染地域を縮小し、安全保管することであろう。

 原発停止と事故により仕事と生活を失うことがないように、電力会社は軌道に乗るまで国営化し、全国の原発地は太陽光発電事業、その海上に風力発電事業を中心した、国家事業をし、事故処理や放射性廃棄物の安全保管の仕事と合わせて、国家公務員としての仕事と生活保障をしていくことが必要であると思える。

 こうした転換の発想は、経済問題を倫理化して解決策を導き出すようなもので、民営化は経済活力を引き起こし、国営化は倫理化を引き起こすことができると思えるからである。

 原発輸出ほど、倫理観の欠けた行為はなかろう。まして、国のトップがえげつない金儲けの営業マンになるというのは言語道断である。自国の不幸を他国に押しつけるようなものである。もし、首相に倫理観があったら、原発を輸出するのではなく、太陽光や風力地熱発電そして、環境ビジネスを売り込むことが大事であろう。

自由貿易相手は世界全体でないと無意味

土曜日, 11月 23rd, 2013

 TPPは環太平洋諸国の間で自由貿易協定を結ぶことだが。それを倫理的な視点で考えると 経済戦争における軍事同盟のようにみえる。それは中国やEUに対抗した経済同盟であり、動物の世界でいえば最強の米の縄張りせかいである。

 そもそも自由貿易するなら、世界全体を相手にしてこそ可能なことで、わざわざ狭い地域の米ボスの従属になるのが自由貿易と錯覚していることになる。

 TPP参加国は自国益を優先するのであるから、烏合の衆と同じでまとまらない。まとまるには強い者にまかれて、妥協せざるをえなくなる。結局それは不自由貿易にならざるをえなくなる。

 倫理観とは人と人、国と国が平等に付き合う姿である。ならば、国際連合で自由貿易をすればいいかっというと、国際連合組織そのものが戦勝国が支配し、各国の平等を土台にしていないため、望めない。そのため、面倒なようだけれど、二国間の自由貿易協定をして、それを全世界の国に広げた時に始めて自由貿易協定が実現できたといえる。

人は一対一の付き合いから始まるように、 国も代表を一人にするのだから、国も一対一で一つ一つ自由貿易を積み重ねていくことが必要であろう。

 

経済問題は倫理観で解決できる

金曜日, 11月 22nd, 2013

NHKスペシャルの中国激動 “さまよえる”人民のこころで、拝金主義で不幸になった人民が、宗教的な道徳とか、倫理を求めている姿を放送していた。

原発推進から大事故を起こしてしまった日本国民が脱原発を求めて立ち上がった姿と重なってみえた。

退治に病気が見つかると堕胎する人も増えてきて、医療技術と倫理観がぶつかる問題も増えてきている。

これらの問題は倫理観なしに、金儲けも、技術も、意味がないものになるということだ。

私は少年の頃から 宗教的なものを求め続けてきて、経済的なものを無視してきて、その限界を知り、それらを捨てた人間だった。十年前から 経済的なことを大事にするようになり、それらを研究したが、私とは逆に多くの人が経済的なものから 倫理的なものを求めていること、また、経済的な問題を解決するには 倫理的問題の解決策を用いれば可能になることを発見した。

例えば 核爆発は人を殺す放射性物質を作るので、倫理的にが悪である。核融合は放射性物質を出さないで電気を作れるから 倫理的には善である。しかし、核融合は核爆発なくして作れないので セットとして扱われる。善と悪はコインの裏表というのが道教にある。

自然には善も悪もない、悪を設定するから善があり、善を決めるから悪がはびこるという教えになる。この倫理観を原発に応用すると、原発は核融合であっても必要ないという結論になる。自然界に存在しない放射性廃棄物を作り、元にもどせないことをすると 人類そのものを絶滅させるという考えも 自然なる神に逆らって生きることはできないし、それは破滅につながると言える。

自分にできることをするのが一番

水曜日, 11月 20th, 2013

福島原発事故から、自分の人生が一変した。脱原発に進む人生が一番だとは思うのだが、そうした運動をしても、自分の力では効果的なことができずに、その空虚感に苛まれて、挫折感に追われる。

そこで、今までやってきたことを、脱原発に遠く間接的なことでも、意識するだけでもいいと思うだけでなく、それが一番効果的な前向きのことであるように思えてきて、挫折感のない充実感をもてるようになった。

自分にはできないことを、他の適任者がやってくれることを信じて、影ながら応援するのが社会生活だろう。

大豆から麦へ交代大豆から麦へ

過ぎたるは及ばざるがごとし(丁度よいのがいい)

土曜日, 11月 16th, 2013

美し過ぎる というのは、美しくないということではないか!

その証拠に 美し過ぎる政治家やスパイが美人コンテストに優勝するどころか、参加さえもできないではないか!

諺にも 過ぎたるは及ばざるがごとし というように 丁度いい のが一番だということだ!

そこで 食べ過ぎる ということにも それは通用するだろう。

美味いと食べ過ぎてしまう、食べ過ぎると美味いものも不味くなるー つまり、丁度良く食べられるものが美味い ってことだ!

お腹いっぱいだと 美味しいものもたべたくなくなるし、美味しいものも不味く感じるー つまり、ハングリー感なしには 美味しさはやってこない、美味しさにはハングリーが必要不可欠 ってことだ!

このハングリー感だが 、夜食して腹一杯にして寝ると 胃液がで過ぎて 胃酸を飲まないと眠れないことがあり、寝る前に胃袋をハングリーにしておくと 朝起きた時は腹がグーグー鳴って さらにハングリーになっているので、朝食が美味いし、その後は快便でスッキリとし、一日活動が快適になる。

美味いと食べ過ぎる問題だが、甘いものは別腹といって 胃袋が大きくなり、つい食べ過ぎて 後で苦しむことになる。分かっちゃいるけどやめられない ー これは、煙草や酒そしてパチンコと同じで 刺激を求めて 必要以上に摂取する病を引き起こす依存症である。特に辛い、酸っぱい、苦い、塩っぱい、甘すぎるような刺激過多は習慣性をもたらし、その習慣故に 食べ、美味いと 感じるように、自分に嘘をつくような味覚を持ってしまう。

ある有名人も 世間の評判という刺激に調子付いて 転落人生を歩むのもおなじことである。

食べる量も 刺激も ハングリー度も 満腹度も 金の持ち分も 美しさも 丁度よいのが一番だ!

ー仏様のことばー
…丁度よい …

お前はお前で丁度よい
顔も体も名前も姓も 
お前にそれは丁度よい
貧も富も親も子も 
息子の嫁もその孫も 
それはお前に丁度よい
幸も不幸も喜びも 
悲しみさえも丁度よい
歩いたお前の人生は 
悪くもなければ良くもない 
お前にとって丁度よい
地獄へ行こうと極楽へ行こうと 
行ったところが丁度よい
うぬぼれる要もなく 
卑下する要もない
上もなければ下もない 
死ぬ日月さえも丁度よい
仏さまと二人連れの人生 
丁度よくないはずがない
丁度よいのだと聞こえた時 
憶念の信が生まれます         
南無阿弥陀仏

ー真宗大谷派常讃寺坊守、藤場美津路ー

信じるということ

金曜日, 11月 15th, 2013

信じるということは期待する、また支持するということではないだろうか!

「信」は、人の言葉と書くように、その言葉が真実の時も、嘘の場合もあるのだから、「信じたこと」が、「真実であるとは限らない」ということだ。

昔近くの教会があり、そこのクリスチャンになろうとしたことがあるが、パブテスマをまず受ける必要があった。「貴方はキリストが復活したことを信じますか?」という質問に「はい」「いいえ」で答えるのだが、私は学校教育で「科学を信じさせられた」が、「神を信じさせられた」わけではないので、どうしても「はい」と言えずに、その教会を去った。

では今ならどうか?といえば、「はい」とあっさり答えることができそうだ。その理由は「信じることは事実ではなく、期待する、また希望するということ」だと理解できたからである。期待と希望は「そうあって欲しい」ということであり、それは「願望」「欲望」の範疇に入る。

願望の強弱ランキング付すると、最も強い願望が「信」で、次は「祈」「願」「望(希) 」「欲」になり、一番弱いのが「思(想)」ではないだろうか。

これらの願望は「自からの意志」から湧き起こるものだが、「信心」というように「心」が付くと、愛着のような相手に依存する心が生じ、「自からの意志」は転じて「他(相手)からの意志に従う」ようにもなる。

詐欺にあうと、「騙された・裏切られた」というように、自分が信じた内容と違う結果になるのは、「自からの意志」が「他からの意志」とは違ったということだ。

そのように、「自からの意志」が「他からの意志」に転じると、「依存心」になり、その強弱によって、洗脳・依存症・執着・従属・従順・素直になってくる。

私が「信じる」ことが「希望する」または「期待する」「支持する」と言ったのは、「相手の意志」を「自からの意志」に転じた心を付け足したからである。

親が子を助けるとは、子の意志を親の意志に転じて言うことだ。この最も強い助ける心こそ、「親が子を信じる」ということである。