倫理的であるということ

 遺伝子組み換え食品が日本に加工品として大量に出回っている。それを許可している理由というのが、食品検査の結果健康に問題なく安全であると判断したためである。

 ただ、その安全審査がラットで2ヶ月間の健康検査であって、ラットの一生涯の2年ではないということと、その一生涯の実験検査では癌になるラットがあるという結果報告を「世界で食べられなくなる日」の映画で指摘して、けして安全ではないとしている。

 日本には遺伝子組み換え食品は入ってくるが、その種は輸入されていない。遺伝区組み替え穀物の種は雑草よりも強く。日本の在来種を種をすべて絶滅させてしまうからである。

 遺伝子組み換えの品種を作るには放射線で、その遺伝子を切り、除草剤のランドアップに強い遺伝子を切った遺伝子に組み替えることで製造される。そして、その種を栽培する時にたくさんの雑草が繁茂しても、除草剤のランドアップを飛行機で空中散布すると、雑草だけが枯れ、遺伝子組み換えの穀物だけが生育する。

 日本では除草剤ランドアップを雑草だけに散布して、作物にかからないようにしている。この除草剤は地中に入ると微生物が食べて分解するとして、安全であるとしている。

 うちの畑の隣では大量にランドアップを散布して除草している。雑草が枯れるというより、触るとぐにゃりとして腐る感じで崩れてくる。そこには半年はけして雑草はえないので、土のままなので、他の雑草地に比べて異様な光景がする。

 穀物を生産する上で、雑草は穀物よりも繁茂が強く、そのままにしていると、穀物は全滅してしまう。そのため、雑草を刈るのだが、一週間もすると、また雑草ははえてきて、その手間ははかりしれない。しかし、この除草剤を使うと、穀物が育つ半年間も一度だけ噴霧するだけで、こうした苦労をしなくてすむので、農家にとってはとても便利な農薬である。

 こうした遺伝子組み換え作物を倫理的に考えるとどうなるだろうか?

 倫理的というのは、人道的であるということである。人道的であるという意味は現在ではもっと広範囲の生き物すべてにとっての道になってきている。それは地球環境・自然環境の維持が、人類の存続には必要不可欠であるという判断からである。

 遺伝子組み換えを放射線で遺伝子を切って組み替えるという行為そのものも、自然ではなく、人為的である。その人為は雑草だけを殺して穀物だけを生かすということであり、それは人間が食べる作物だけを生かし、食べない雑草のすべてを殺すという行為である。

 この地球上に人類だけ生きて、その他の生き物は死んでもかまわないという行為であり、それはまさに自然破壊・環境破壊の行為である。それは長い意味で、一時は人口爆発させるが、絶滅するという意味である。それはあらゆる生き物は共存しており、一種の生き物だけが生きられるようにはできていないからである。

 倫理的というのは、人と人が平等であり、互いに尊重しあう心が始まりである。それが、他の生き物もまた、同じ地球上に生きている仲間であり、平等に生き、互いに尊重されるべきであるというように拡がったといっていい。

 社会の倫理においては、自分や自国だけが得をし、他人や他国が損をしてもかまわないという心は悪にあたる。自他ともに平等に違いに尊敬しあうのが倫理的善である。

 かように、倫理的ということはもっと広く、もっと全体的に物事をみて、調和共存できる道を探るということであろう。

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