Archive for the ‘お金って何だ’ Category

人が考えられることはあり得るが・・

金曜日, 8月 3rd, 2018

4月初めに麦間に陸稲の蕎麦の種を播き、

7月に麦を収穫せずに、

陸稲と蕎麦が芽を出し、

雑草のように自然交代することを理想として試みた。

だが、麦間には雑草だけが生えたので、それを一度は抜き、

陸稲と蕎麦の芽が出ることを期待したが・・

3週間後は麦間の雑草は1mにもなっていた。

その雑草を抜き立った後に、200坪の麦畑に播いた20キロの陸稲のうち3粒の種が芽を出していた。

2018.8.3

2018.8.3

100万分の1の確率で理想論が実現していたことになる。

だが、その奇跡的な理想論も、1mの雑草を抜き取り、水揚げし、また生える雑草を抜きとらない限り、消えゆく運命である。

50坪の畑に4月初めに蕎麦と陸稲の種を播いたものは、

6月には陸稲は光が入る部分には10センチほど伸びたが、8月初めにはその陸稲の芽は蕎麦が実りきらずに、ほとんど消え去っていった。わずか一万分の1の確率で、陸稲の芽が生きているのを発見した。

蕎麦の下に残る陸稲の芽

万が一の確率で陸稲の芽が残るが生き残れるか??

その蕎麦下の陸稲の芽も消え去る日は近いだろう。

もし、生き残らせるには周りの蕎麦と雑草を刈り、毎日水やりをすればなんとか生き残れるだろうが・・それだけの手間と犠牲をするだけの価値がそこにあるだろうか?

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多くの理想論がそうだが・・・

あのマルクスの資本主義を修正しようとした共産思想にもいえるだろうが・・・

およそ人が論理的に考えられることはあり得るが、それが実現できる確率は奇跡的な一兆分の1にすぎないことが多いのではないだろうか。

その奇跡的な確率で、突然変異した理想論の稲をなんとか実現させようと必死になっているのが、品種改良であり、遺伝子組み換えであり、ゲノム編集であろう。

共産主義から生まれた国も資本主義の容認する品種改良しながら共産党理想を残しているのもそうだろう。

また、

そうした理想論を必死で追いかけることは

生まれる前にダウン症などの病気が解った時点で流産させるという行為にもつながってくる。

それは二年前に起きた障碍者殺傷事件は意志の疎通ができない障碍者は殺した方が良いという考え方にもつながってくる理想論である。

こうした理想論の根拠になっているのは

その人類の、その人間の、その社会の、その個人の・・エゴからくるものではないかを

問い直してみる必要がある。

その理想を実現するために、

理想的な稲の芽を伸ばすために、多くの蕎麦と雑草の命を、人の労力と金と情熱を犠牲にしていいのか?

また、多くの今の障害者の命を犠牲にしてまで、障害者のいない社会を築こうとしていいのか?

共産主義革命で、どれだけの多くの人が犠牲になったか? そんな犠牲にしてまで共産革命に意味があるのか?

あのオーム真理教もそうだが、理想の国家を築こうと、誰構わず大量に殺していいのか?

歴史的にみても

理想論は人類の、国も、社会の、個人のエゴから実現させようとしていることが多い、

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理想とか夢とか追い求める前に

その欲望らが、

生物多様性の自然において・・自然の倫理に合っているか?

 

 

自然と欲望を照らし合わせて・・

その理想という欲望をよくよく吟味して

それがエゴなら「諦めが肝心」であり、

けして、「ネバーギブアップ」するなである。

だが、その理想・欲望・夢が自然に合致するなら、

「Never give up」であろうし、「夢は必ず叶う」し、

それに対して努力しても、しなくても、

自然が味方するのだから、その理想は実現するといえるだろう。

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いろいろな考え方がある

それらは考えられる限りあり得るだろう。

「火がないところには煙が立たぬ」

という一面だってあることだから。

しかし、

我々の思考は宇宙の果てでも、何億年前でも後でも飛ばすことができるように

それが実現するということは一瞬で一部ありえるだろうか・・そう永く実現できるものでもない。

縄文時代のように、

その生活がより自然にあっていれば一万年も持続可能であろうし、

その生活が不自然であれば、現代生活は数百年で終わりを告げるだろうと思える。

 

余談・・

 

 

二日後

蕎麦を押しのけるように生えた引っ付き虫(コモセンダン草)が繁茂していたのを根っ子ごと引き抜いたら、そこに線播きした陸稲が7センチほど芽を出していた。

この場所は雑草地で、石ころだらけで、耕耘していない荒地である。

だが、畑よりはるかに雑草地の方が稲が芽を出したとはびっくりした。

しかも、蕎麦下よりも、引っ付き虫の下の方がよく芽を伸ばしていたのである。

それから推測すると

日当たりがよい場所なので、稲は水分よりも太陽の光を必要とする。

また、蕎麦よりも、引っ付き虫の種類の方が稲との相性がいいのだろう。

もちろん、

引っ付き虫を抜き取らねば、稲は消え去る運命ではあるが・・・

 

多数決という集団暴力

木曜日, 8月 2nd, 2018

多数決で決められないことがある。

それは命に関することである。

人の命を人が決めることはできない。

その人が自己であれ、他人であれ、

人が創った国であれ、国連であれ、

法であれ、神であれ、人の命を決められない。

命の問題を唯一決められるのは

自然だけである。

 

自然は神ではない。

人間の求める宗教の神や悟りではない。

人間の命は自然に創られた存在であるからだ。

創られた命が同じ創られた命を決定し、

その人の生死の判断を決定していいのだろうか?

それができるのは人の命が創りまた壊すことができる自然だけであろう。

それを創られた者同士がその命を創り壊そうとすることは

単なるエゴのオゴリによる妄想であり、不自然なことをしようとするから迷う

迷って、止む無く多数決で決めようとする。

それは単なる多数の暴力でしかない。

 

民主主義は国民が主人であるのに、国という多数決集団が主人である国民を支配し、その命を決定しようとするのは似非民主主義であろう。

一個の国民も、一個の国も同じ命の重さをもった存在であるというのが民主主義である。

それを多数の国民が、少数の国民の命を支配し、その生死を決定していいのだろうか?

それは集団暴力となんら変わりがない。

 

そうした自然から作られた人の命として判断すると

戦争による殺人、死刑も 人間のオゴリであり、

それは殺人、自殺、自爆テロと変わりない行為であろう。

自分が創造主のような神や悟った仏になったような教祖や信徒や政治家が

その人を救うという名目で、殺しを正当化する事件は後を絶たない。

 

もし、創られた人が多数決でも人の命を決定してはならないという自然法が

世界で承認され、一人1人の意識に働きかけたなら、世界はもっと平和になり、

自然にあった生活ができるように思える。

 

この地球自然を人類だけが支配し、他の生物の命を決定することさえも、

人類のオゴリであり、不自然である。

人類の命も生物の多様性の一歯車にすぎないことを自然は証明している。

 

弱肉強食という一様にみるのではなく生物共存と多様にみるのが自然

 

稲思考から自他共存生活に

月曜日, 7月 30th, 2018

陸稲栽培を8年模索してきたが、

蕎麦と陸稲による実験を契機に諦めた。

5年目には水稲と同じように苗を育て、マルチシートで雑草対策をして、植えるときには水をたっぷり与え、梅雨時に植え付けを完了させて成功した。

陸稲5年目にマルチと苗植えで成功した

だが、苗作り、苗植え、水揚げがかなりの手間が必要であり、マルチシートのコストも高く、毎年行うのは老人1人では無理である。また、自然に育てる農法とはいいがたい。

苗を作らず、直播で、しかも、マルチシートの代わりに蕎麦を播くという方法を試したが、今年失敗した。

稲は光と水がたくさん必要で、蕎麦の下では育ちにくいので、光が入る端でしか芽がでない。

また、稲は元来水辺に生えるもので、いくら品種改良して畑でも栽培できる陸稲の種を作っても、雨水だけでは生育できないことが、今回の実験でよくわかった。

それに、蕎麦の下に生えるのは、雑草も同じで、しかも雑草は雨水だけで十分大きく育つので、10センチくらい6月にのびた陸稲も、もっと大きく育つ7月の雑草に殺されてしまう。

蕎麦下の雑草と陸稲は半々で芽生えている

まして、

古代麦が枯れて、陸稲の芽が伸びるという理想で、麦と麦の間に、蕎麦をばらまき、陸稲を線播きしたが、蕎麦は5%くらいのびたが、陸稲は100% 7月には芽が出ない。

結局、麦と麦の間は雑草が大きく繁茂してしまったのである。

4月初めに播いた蕎麦10キロと稲20キロはほとんど無駄だったことになる。

麦間に雑草だけが大きくそだってきた7月

雑草抜きをすれば、陸稲が芽をでるかと思い、二度きれいに雑草を根っこから引き抜いたが、ほとんど陸稲は芽を出さなかった。蕎麦だけがいくらか芽をだしていた。

そこで、雑草を抜き取ると同時に、夏に種まく作物を手あたり次第播いて、雑草に負けない作物を探すことにした。

ともあれ、陸稲は8年で終止符を打った。

稲の原産地

イネは、中国南部の雲南(うんなん)~ラオス、タイ、ビルマ周辺に広がる山岳地帯で生まれた

暖かい地域の山岳地帯で、雪解け水が豊富で、昼と夜の寒暖の差が大きいことがよく実を結ぶようだ。

その理由

なぜ、「昼と夜の温度差が大きい地方では、良い作物が採れる」の?

昼と夜の温度差(寒暖差)が大きい地方では、果実にしろ穀物にしろ、美味しいものが採れる。
その理由は、光合成と呼吸の関係に由来している。

昼間、光合成によって炭水化物が作られる。
夜になると光合成はできない。
その夜でも、植物は炭水化物を分化して糖を作り、それを使って呼吸活動をしている。
夜に気温がぐっと下がると、呼吸活動が抑えられる。
つまり、炭水化物の消耗が抑えられるのだ。
すると、作物体内の炭水化物蓄積量が温存される。
要するに、「夜が寒いと、炭水化物の損失が少なくなるため、作物全体の成育および果実に回る栄養が損なわれない」ということだ。
昼間、どんなに好天でたくさん光合成をしたとしても、夜が暑ければ、そのほとんどを消耗してしまうのだ。

熱帯性の植物である米がなぜ日本の北で大量生産されているんでしょうか

イネの栽培種にはアフリカイネ とアジアイネ があり、アジアイネはさらに生態型によってインディカおよびジャポニカに分類される。ジャポニカはさらに、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ)に分けられる。

コメの世界の生産量消費量は?

日本はかなり少ない

日本の国内では?

熱帯のジャポニカの栽培で、最もすばらしいのは 生産量が中国インドにつぐ三番目のインドネシアの

稲の二毛作また三毛作できる棚田がバリの山岳地にある

 

うちは棚田ではなく、水がなく、水はけがいいので、棚畑である。

その土地と気候にあった作物を選ぶことが、まず自然農法の一番の基本であろう。

それはまた、持続可能な農業の基本でもあろう。

やたら、稲作りにこだわりすぎたのは自給自足ということを目標にし、

主食がコメであるというのがあったからだろう。

自給自足は人間の生活だけでなく、植物でもそういえるもので、その土地と気候にあった生き方をすることで、そこで生きられる力を得るということであろう。

そこの土地でしかない特産物があってこそ、他ではできないからこそ、価値がある生き方農業であり、それが他地域の特産と交易することができるというのが、自給自足というより、自他共存できる生活ということであろう。

それは自他が平等に交流しあう関係こそ、ともに生きられる環境づくりといえるのだろう。

 

人間的な組織とはピラミッドではなく地球型

日曜日, 7月 22nd, 2018

組織の参照単位は家族で

その構成は平均的に祖父祖母・父母・兄弟姉妹で、6人

それが家長のような1人が絶対的権力を持っていると

家族の接待権力者がいる6人家族構造

人間の骨組みは固い骨と、柔らかい筋肉で、柔軟に動くようにできている。

固い骨に伸びる筋肉と縮み筋肉がついて自由に動ける

人間の眼は左右の2つ、耳、足も2つで、左右のバランスをとるように感じ動く。

人間関係も、そのコミュニケーションにおいては矛盾する正反の談話で進み決断されていく。

6人家族の団らんする平等な構造は

6人家族で平等な団らんは地球型構造

もし、6人家族が5組の30人社会組織を作ろうとした場合、

絶対的権力構造のピラミッド組織では6人×4組=24人になり、6人1組は外れてしまう。

6人家族4組の24人組織になり、もし12体12となった場合絶対権力者が決められる

1組の6人家族は省かれ、社会の一員とはなれなくなる。

それは4組だと組織絶対決定人が2対2になり、民主的決定はできないので、絶対的権力者1人に決定権があって初めて治められる。

しかし、

6人家族5組30人の柔軟な地球型組織の場合

6人家族5組30人の地球型受難組織はどのメンバーにも決定権がある

しかも、6人家族はそれぞれ別な家族とのつながりがあり、家族の内外において平等であり、それぞれが決定でき、その時々で自由に動け柔軟組織である。

どの家族も、どのメンバーも、その組織から省かれることもない。

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現代の世の中はお金が法的に絶対的権力を握っているが

そのお金の仕組みが中央銀行発行から市中銀行への貸金から始まり、ピラミッド構造になっている。

お金を多く持つ人が持たない人を支配している。

だが、

ビッドコインなどの仮想通貨は

ブロックチェーンで、中央銀行を必要としない、平等構造を持つ地球型である。

今の仮想通貨は投資して金儲けするためのお金であるが、

中央銀行がその支店のような市中銀行に貸し出すシステムではなく、

仮想通貨の発行者が全国民にまず貸し出すシステムにすれば、まちがいなく地球型で平等なお金の循環が血液のように行われるだろう。

その組織が人間味あふれるかどうかは、その構造が柔軟な地球型か、

また、生活の基盤となるお金が平等にまず配られるかどうかで判断できるものである。

 

モノでなく心を売れ

日曜日, 7月 15th, 2018

マレーシアで長年銀行屋さんだったタメに、ボルネオ学会で発表するプレゼンのタイトルのことを相談した。

アブラヤシを売るよりジャングルを売れ(Sell jungle from oil palm)

ところが、ジャングルを売るという意味を逆の意味のジャングルを開発すると勘違いして、

ジャングルの環境保護とは逆にとらえた。

そこで、環境保護する観光事業の意味だと言ったら納得してもらった。

この発想は

麦を売るより麦の風景を売れ!

という視点の転換を応用したものだ。

時代屋の女房という映画の始まりに

ふらっと骨董品屋に立ち寄った女が

「商品を売るのではなく時代を売る時代屋さんね」

「いろいろな時代を売る時代屋かあ・・・」

こういう発想は意外と理解しにくいみたいで、

タメの陶芸品を買うとき、

その陶芸の芸術的美を判断して買おうとするタメが多かったが、

私はこう答えた。

「陶芸品を買うのではなく、タメの心を買うのだよ。

タメが教師をやめて、陶芸の道に老後を生きるその姿に元気づけられるだろう。

その陶芸の価値がどうのこうのではなく、タメがその陶芸を作ったことに意義と価値がある」

モノを買うのではなく、その心を買うのではある。」

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私が営業マンまた小売店をしていたとき、

「商品を売るのではなく自分を売れ」

というのが、私のモットーだった。

それは寅さんの露天商と同じで、

どんなガラクタであっても、そこにストリーと語りを入れて、面白おかしく売り切ってしまう。

お客は

ガラクタを買うのはなく、寅さんの口上のストリーと寅さんの人格を買う

のである。

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今時代はモノから心の時代へと変貌している。

それは

経済社会から環境社会への変換でもあり、

お金から命への価値転換の時代でもある。

それは

贅沢よち質素な生活に価値が出てくる時代でもある。

新しくなるモノより変わらない心に価値が転換している。

それは

縄文と現代の心が変わらないモノの価値を探すようなものである。

八頭身の美より健康と個性美への転換でもある。

それは

肉体という常に変化し、現れては消えゆくモノに迷わされず

心という数万年前から今後のまた人類の変わらない心に焦点をあてて生きていく、

選んでいく、判断していく・・・そんな時代が来たということだ。

その欲望は自然に合っているか?

日曜日, 7月 15th, 2018

とうとう麦・蕎麦・陸稲の実験結果が出た。

例年だったら、梅雨明け頃であるが、今年は22日も早く梅雨明けがあったせいか、毎夕水やりをして、陸稲の芽が出ることを祈り続けた。

1、蕎麦と陸稲の種を4月初めに播いた結果

陽が当たる通路側は線播きした陸稲は10センチくらい芽がでた。

だが、90%は蕎麦や雑草に負けて芽が出なかった。

三度、雑草を抜いたが、やはり、蕎麦と雑草負けして5センチくらい芽が出ていた陸稲は消えていった。

 

陸稲は日当たりのよいところしか芽がでない

2.古代麦と蕎麦と陸稲

4月初めに、古代麦が10センチ芽生えているとき、その麦の間に、陸稲を線播き、蕎麦をばら撒きした結果は・・・

100%近く陸稲の芽は一切出なかった。

5%くらい蕎麦だけが平均20センチくらい芽が出た。

例年の雑草の4種類くらいが平均15センチくらい芽生えた。

それが95%であり、一度根っこから引き抜いても、二週間後はもっと大きくなり、

平均30センチほどの繁茂した。

古代麦の間は蕎麦と雑草だけが芽生え陸稲は一切芽が出ない

古代麦も蕎麦も、ほとんど人が何もしないでも自然に育つ。

だが、陸稲は人がどんなに水あげ、雑草抜き、マルチシートにしても、手間と費用がかかり、自然には育てることは難しい。

 

いったなぜか?

 

陸稲は水稲でなく、畑でも稲が育つよう品種改良されたものである。

その品種はとトヨハタモチがほとんどであるが、その畑作が難しく今はモチ米として流通しているのは水田で栽培された水稲である。

それは稲が夏草で水辺に生えるのが原種の特質であり、どんなに品種改良(遺伝子組み換えも含む)しても、人手と資本をかけなければ冬にまた畑には育たない。

その原種の稲の特質にあった自然の育て方をしないと、

労多くして功少なし

骨折り損の草臥れ儲け

犬の尾を食うて回る

なぜ?犬は自分の尻尾を追いかけるのか?

それがストレスであるとしたら、その結果はさらなるストレスである。

タバコやギャンブルの依存症に通じるものである。

 

その欲望は自然に合っているか?

 

水草の稲を畑で育てようとするのは人間の欲望であって、稲の欲望ではない。

人間が食べやすくするために、稲のような他の生物をいろいろと品種改良したり、農法を変えたりすることは、人間の都合勝手のエゴであり、相手との共存を考えすに強制的に支配しようとする人為的であり、それは多種多様な生物が共存して成り立つ自然の欲望に合致していない。

 

どんな夢も叶うと言うが?・・・・?

 

あきらめずに、コツコツやっていればいつか叶うともいうが・・・?

 

それらの行為がよくよく他との共存ではなく、自分だけのエゴのためだったとしたら、そんな夢も欲望も、叶わない方が世のため人のためであろう。

 

陸稲だって、その気持ちになれば、無理してストレスを感じて、生きようとはしないだろう。

人間からいくら過保護に育てられても、それはよけいなお世話であって、無理やり生かされるより、自殺してしまいたくなるのがむしろ自然ではないか?

 

麦と陸稲の二毛作を8年間追いかけてきたが、

今回の古代麦と蕎麦と陸稲の三毛作の実験結果において次のような結論が出てきた。

 

1.いろいろな麦を育てた結果、6500年間も品種改良されていない古代小麦が一番自然に育ちやすく、その味も美味しい。粉に加工しなくても、そのまま粒としてごはんのように食べられる。

それは品種改良したり、遺伝子操作したりして、人間の都合のいいように作られたものは アレルギー反応が出たり、その品種をめぐって、お金や権利で喧嘩の種になりやすい。

自然の品種に、著作権はない。それらを中心に手間がかからない自然に育つ作物を中心に農業していこう。

 

2.陸稲トヨハタモチの栽培を諦めることにする。

今回 陸稲の種20キロ、自家栽培の陸稲の種5キロを全部播いた結果が、ほとんど芽が出なかったことから解ったこと。

二毛作自体、手間がかかるので、しかも畑作だったら、手間も費用も半端なくかかり、自然に合致しない農法であり、「諦めが肝心」である。

自然に合致しない夢は諦めた方が無難で、取り越し苦労しなくてもすむ。

 

 

3.野沢菜と蕎麦は自然に育つ

8年で、自然に繁茂したのが野沢菜である。

7月で枯れ、その種が零れ落ちて、また芽が出てきた。

野沢菜が枯れ、その種が零れ落ちまた芽を出した2018,7,15

蕎麦の種も零れ落ちて、そこからまた蕎麦の芽が出てきた。

蕎麦の種が零れ落ち、また蕎麦の芽がでた2018.7.15

昨年地這えキュウリの種をたくさん自家採取して、今年播いたが、まったく芽が出なかった。

その地這えキュウリはF1種か、品種改良されたものであったと思われる。

今後、種を自家採種また、採種しなくても、毎年芽を出すような雑草のような作物を中心に、雑草負けしない、雑草と共存できる作物を探すため、陸稲をやめたところに、ランダムに種や球根や苗を植えてみる実験に切り替えることにした。

 

蕎麦や野沢菜や長ネギのように雑草まけせず、手間もかからなく育つ作物を探す旅をしていこう。

夢や欲望を叶えることが重要ではない。

自然に合った夢や欲望を探すのが重要なのだろう。

Sell jungle from oil palm

日曜日, 7月 15th, 2018

ボルネオ島の先住民「首狩族」による民族紛争

先住民であるダヤク族の土地に、政府がマドラ島の住民を強制移住させたのが、発端である。

アマゾンの森の伐採業者と先住民の闘いは政府は法だけ作ってその執行は先住民まかせである

そもそもボルネオ島はインドネシア・マレーシア・ブルネイの三つに分かれていなかった。

それが、オランダとイギリスの侵略と、そこに住む民族間の争いから生まれてしまった。

華僑の多いシンガポールもまた独立したのも、そういう歴史があった。

ボルネオの熱帯の森は日本の経済発展のために、次々と乱伐されていることも、こうした先住民の生活を阻害していることには変わりがない。

こうしたグローバル社会の問題はローカル社会と比例するので、

侵略したローカルなイギリスの森の取り組みが将来グローバルなボルネオの森の取り組みになってくるだろう。

我々は侵略し略奪する視点から、逆の侵略され、略奪される原住民や野生動物の視点にたって、この世界を見つめなおしてみることから、まず始めてみよう。

私は40年前、ゴリラの恰好をして結婚式や誕生会に花束やメッセージカードを届けるゴリラ便という商売をしていた。

その時、絶滅危惧種であるゴリラの気持ちになって人間社会を見つけたことがある。

ゴリラと同じ類人猿・絶滅危惧種であるボルネオのオラウータンの気持ちになり、また国境など関係ない先住民の心を受け取ってみれば・・これからの平和なまた持続可能な森と社会と農業に行き着くことができよう。

その原生林や野生動物とは反対照的な続可能な未来都市をどう建設していくかということにも繋がっている。

自分の姿は鏡を通じてみることができるように、森の民と都市の民の未来の想像をして、そこからどう地球の森と都市の生活を結び付けるかというアイデアが出てくる。

それは経済と環境の矛盾をどう解決するか?

一つの提案をここでしたいと思う。

グリーンツーリズム 都会人が田舎での農業生活体験する旅のことである。

である。

これを50年前から国際的なボランティア(グリーン)ツーリズム

国連と連携して、今は世界遺産を守るボランティアが主流になってきている。

それはまた、

都市と田舎、海外コミュニケーション、現代人と原住民との交流

それは森と都会の調和、環境と経済の調和への一歩は互いの理解から始まる、

ボルネオの先住民と一緒に暮らす体験

マレーシアの少数民族イバン族のくらしを知り、守る2週間。ボルネオ島ワークキャンプ

日本の中高生が現地の子供たちとスタディツアーをして理解しあう

持続可能な農業とは

持続可能な森と都市であり、国際交流であり、古代と現代の理解であり、野生生物と人間との共存である。

理解はまず偏見なく出会うことから始まり、

ともに生活し、語り合い、共存への道を探ることであろう

そこから、

森の環境と都会の観光経済とが出会い、調和する未来が見えてくる。

ボルネオ先住民族の文化と伝統を学ぶ「マリマリ文化村」

こうした観光とともに、一緒に生活体験するグリーンツーリズムまたボランティア・ワークキャンプを合わせた森と都市の理解しあう一歩があるだろう。

持続可能な農業も社会も強大な国家が強制的に治めるピラミッド構造ではなく、

多様な民族・宗教・考え方・生活・生物がまるで語り合い、理解しあって楽しめる環境の地球のような円い構造であることが必要だろう。

我々人間もあらゆる生物もみな ピラミッド建造物に住んではいない、円く回っている地球に住んでいることは真実なのだから。

その真実を認めて、明日を見つめてみよう。

 

千年一昔

金曜日, 7月 13th, 2018

縄文展に行って感じた。

縄文の生活はつい一昔だと。

人類誕生を赤ちゃんが生まれたと仮定すると、

1000年は1年に相当し、人類は今50歳になる。

弥生時代は2年前で、縄文時代は15年前に始まった。

その前までは寒冷化で、石器時代で他の動物との暮らしの差はさほどない。

温暖化になって、動植物が繁栄し、地域によっては、縄文時代の暮らしをしている先住民も熱帯地域にいる。

今文明が栄えというのは、弥生時代あたりで、

哲学・宗教・科学が発展したのは2年前あたりだ。

世界史を見てみよう。

今の世界の国々ができたのは1か月前であり、科学技術が発展したのは2か月前である。

1年半前はローマ帝国や三国志の時代である。

先日、50年前の高校のクラス会があり、風貌は変わったが、中の心はほとんど変わりがない。

肉体は変化するけど、心はほとんど変化しないのがよくわかる。

人類の生活スタイルは大きく変わっても、心はほとんど変わりがないともいえる。

最近、医師や免疫学の大学教授に教えられたのだが、

今の西洋医学は原始宗教とほとんど変わりがない。

儀式や占いや迷信の科学技術だと知らされ、驚嘆したばかりである。

美の観念も、縄文と今と比べてみれば、偉く違うが、心は同じであるのがわかる。

同じ彫刻であり、究極の美はまるで逆であるが・・・・その美の心は同じであるといえよう。

今は空間的な視点で 地球村とか 地球家族という視点が重要になっているが、これからは

時間的な視点で、人類の千年一昔というように考えて、

体重やお金や健康を数字で判断して、ストレスを感じて、病気になったり、犯罪に走ったりしないで、もっと ゆったり のらりくらり 適当に喧嘩仲良くして、楽しく生涯を暮らしたいものである。

 

金儲け欲望に操られるな!それはAIに任せろ!

木曜日, 7月 12th, 2018

[7月11日(水)〜17日(火)]松形恭知 作陶展

初日の正午に担任の恩師もいらしてクラス会が始まった。

私は西武デパートが西口にあるかと思ってそちらにいったが、東部デパートだった。反対側の西武池袋線側にあり、10分ほど遅れた。

展示作品はみな一点もので、即販売されていたので、まさに取り合いだった。

なんとレジに並ぶくらいであり、私もあわてて欲しかった湯飲み、飯茶碗、どんぶりをゲットし、お金だけ払って、8階のレストランでクラス会の食事をした。

作陶展に戻ったときには、写真のメインの壺は売り切れていた。

思うに半日で、半分の作品が売り切れてしまった感じがする。

松形氏には特注は快くOKしてもらえた。

帰宅後、彼の作品で飲み食いしたら、特注でなくとも、十分元気をもらえたので、これもありかなと考え直した。

当日、送ってくれた写真を見て驚いた。松形陶工も冗談でいっていたが、私の作務衣姿が様になっていたので、私の方が陶芸家に見えるといったように、なんと私がメインの写真で、これはまさに勘違いされてしまう。

松形陶工は向かって右、三枝幹事は向かって左、北地先生は松形陶工の後ろで、杖を持っている。

恩師の北地先生は、90歳半ばで、なんと老々介護をしている本人だった。

奥様を90歳にして、介護しているので、食事をする時間もなく、足早に帰っていった。

これは元気をもらおうと、別れ際にハグさせてもらった。

ハグする時、「今生の別れになるかもしれないので」といったら、恩師「おいおい、まだ死なんぞ!」とますます元気だ。杖なんか必要ないくらい、50年前の背筋がまっすぐ姿も、ほとんど変わっていなく、快活で元気そのものだ。

それに、集まったタメは現役バリバリの働き手が多く、定年すぎているのに、引退もせず、バリバリ働いており、それも急遽決まったクラス会に来られなかったタメを含めると、80%くらいが忙しい現役で、欠席した大学教授のタメも老々介護をしていたのも思い出した。

渋谷の笹塚に戻り、店を任せているNさんとその作品をカフェで広げながら話していて、その話がビットコインや株になったときに、ふと気が付いた。

株 FX 仮想通貨 そして、労働そのものが、金儲け欲望に操られ、数字を追いかけて、忙しく右往左往させられている姿・・まさに操り人形・・・が見えてきた。

そうした金儲け操り人形でない生き方をしようとしているのが、松形陶工もそうだし、わがタメの心情も見えてきた。

金で動かず、心で動いている

老々介護だって、50年前の同輩に集まるのもそうだ。

翌朝、テレビのスイッチを入れたら、働き方改革の話があった。聞きなれないRPAを連発している。

調べたら、Robotic Process Automationの意味で、

単純作業の三種の機械化で、

ブルカラーの単純作業を ロボットで。

ホワイトカラーの単純作業を パソコンで自動処理化するRPAで、

マネーゲーム・ギャンブルなどの単純作業を 高処理できるAIで

ということである。

AIは碁・将棋でも、そのトップ騎士に勝つ。人間の知能ではコンピューターのソフトには叶わないことが実証されている。

それは、株・FX・仮想通貨のマネーゲームの金儲け能力も碁と将棋と同じようなソフトを作ってAIにやらせれば、人間が金儲けするより、AIの方がはるかにすぐれた投資と判断をして、金儲けをするだろう。むしろ、ほとんど失敗がなく、損失はなくなるだろう。

金儲けは単純な投資作業であるからだ。

ギャンブル依存症は勝ったらまた儲けたくなり、負けたら悔しくてまた挑戦したくなる。そういう単純なやめられない心理作業の繰り返しでもある。それはまたAIに任せられる作業でもある。

 

ロボットもRPAも、AIも、24時間365日働いても、けして疲れないが、

人間はそれを同じ単純作業に追われれば、疲れ、しいては人間性喪失としてうつ病や自殺まで追い込まれる。

もし、忙しく働いて疲れるようだったら、それは人間的な働きをしていないと判断した方がいいだろう。

もし、どんなに働いても、ちっとも疲れないのなら、それは人間的な働き方をしていると考えた方がいと思える。

人は強制的に金で働かされるが

人はけして金では働かず、心で働こうとする。

 

その心というのが、

ロボットやRPAやAIにはできない

提案、判断、接客、研究開発であろう。

AIはどんな碁や将棋にも勝てるが、新しいゲームの碁や将棋を作ることはできない。

ルールに従うことはできても、ルールを作ることはできない。

これは従属的に生きるか、自由に生きるか?

その違いであり、人間らしく、自分らしく 楽しく生きられる道を見つけ出す判断でもある。

 

地方創生と国際観光

月曜日, 7月 9th, 2018

先日、農業遺産から先住民遺産からの地方再生を提案した。

それは大資本が必要のないボランティア国際交流が基盤だが・・

今の資本主義における、大資本における「持続可能な農業」の例として、

「持続可能な地元産業」ともいえるような「温泉街が国際都市化」した、成功都市事例がある。

《 番外編 》【温泉街が国際都市化】温泉街が一変…世界中から観光客が!

《 番外編 》【温泉街が国際都市化】温泉街が一変…世界中から観光客が!
  • 日本有数の温泉地として知られる大分県別府市が大変身。 外国人観光客数が激増し、温泉街が国際都市化している別府。 それだけではなく、街のホテルや飲食店にも外国人従業員の姿が!
  • これによって別府の街は活性化し、かつての輝きを取り戻している。
  • なぜ別府は復活したのか!?そこにはあるモノが別府にできた事が要因だった!
  • そのナゾを解くべく池上彰自ら別府飛び、直撃取材を敢行!

それは 別府湾を見渡せる 立命館アジア太平洋大学(APU)が設立され、そこの学生の半数が留学生である。授業は同じ内容を英語と日本語で学べるというので、留学生は日本語ができなくても、英語で学べるものだ。

しかも、その寮は、必ず日本人と留学生の二人の組み合わせで生活する。

留学生が日本語を学び、日本人が英語を学ぶのには好都合な環境をつくっている。

留学生にとって、その学費や生活費は、地元の温泉のホテルなどで、アルバイトできる。

一番大きな別府のホテルでは、3000人の留学生が、アルバイトしており、その対応が、どんな外国人にも対応でき、30か国語で対応でき、それが噂に噂をよんで、別府は半端ない外国人のもてなしをされるということ、また、日本独自の温泉文化を堪能できることで、別府は国際観光都市へと大きく変身した。

その地方創生の原動力は

立命館アジア太平洋大学(APU)が世界の留学生と日本の学生を結び付けた交流の学びを実現させたことである。

こうした大学を作ること、またそうした留学生がアルバイトできるホテルはみな大手資本がなければ無理な地方創生である。

でも、

大手資本なくても、いやむしろ大手資本がないほうが、

留学生と日本の学生を結び、地元の伝統的な産業(農業・牧畜・林業など)へのボランティアとして結べば(農業遺産や先住民遺産でも生活体験)、地方創生同時に、資本主義の格差矛盾に対抗できる持続できる産業と自然環境が実現できるだろう。

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APUの学生生活がポイントだろう。

これは知足庵でも同じだ。

そこで、大事なのは、学生も留学生も、社会人も、同じ方向を見ていることである。

そこに会話と生活の理解と、楽しさが生まれるからである。

教え学び合いから、大きくいえば、世界の問題点を解決する一歩がそこにある。