Archive for 3月, 2017

邪馬台国は奈良と地図に示されていた

火曜日, 3月 28th, 2017

健康と自然の会で、邪馬台国は魏志倭人伝の距離と方位が正しければ、四国徳島にあったという講演があった。

同じ説の動画「剣山TV 本当の邪馬台国 四国山上説」

その3の2分22秒に、混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)が出てくる。

この地図は1402年に李氏朝鮮で作られた地図で、15世紀末まで、世界地図としてヨーロッパのものよりも優れていた。

この日本地図に日本と首都が記されている。

それは明らかに奈良に邪馬台国があったとみるであろう。

そして、卑弥呼は天照大御神であり、日が昇る東に祭ったところに伊勢神宮があるのもうなづける。

 

癌からの脱却が日本の最重要課題

金曜日, 3月 17th, 2017

社会の健全度の指標は犯罪率と自殺率というが、逆に社会の病気度で、死因率をみた方が確かに思える。

↑ 主要死因別にみた死亡率の年次推移(人口10万対)

平成27年には癌死亡者は38万人、死去した人の3人に一人である。

毎日1041人癌で亡くなっている。癌撲滅が政治にとっても、景気回復よりはるかに重要であり、癌撲滅が政治課題のトップにならないこと自体、社会は病気化している。金で命が買えるかのおような錯覚をし、命より金優先の病魔に侵されている。

癌は手術、放射線、化学療法とあるが、最新では免疫治療が最も注目されている。

癌の治療はその原因を追いかけることから始まる。

癌の原因は免疫力の低下

免疫力の低下は血流の悪さ

血流の悪さは交感神経と副交感神経のバランスが崩れ

交感神経が副交感神経より優位になりすぎが原因

 

つまり、癌の根本原因である交換神経と副交感神経バランスをよくすることで、癌は消えるか、また予防できることになる。

 

腱引きも、緩消法も、気血免疫療法も、みな副交感神経を上げて、交換神経のバランスをよくして、そこから自然治癒力(免疫力)を上げることであろう。そして、それらは癌予防にも、癌治療にも役立つともいえそうである

交換神経と副交感神経は

青色に見える神経が副交感神経。その奥に、ピンク色の交感神経の幹が見える。
その後ろに脊髄があり、交感神経幹と連絡している。

全身の神経図

全身の神経系

脊髄と神経図

自然治癒とNK細胞&免疫

金曜日, 3月 17th, 2017

免疫を高めるということ

NK細胞とは

ナチュラルキラー細胞のことで、自然な状態で体を守ってくれる細胞で、自然治癒させる細胞である。毎日一兆個の細胞ができるが、その内、できそこないの細胞が5000個もできる。そのできそこないの細胞を殺してしまうのがナチュラルキラー細胞で、外からのウイルスをやっつけることもする。

3つの影響を受ける

  1. 30代くらいから低下する
  2. 日内変動
    一日の生活リズムを崩すと低下する
  3. 精神の影響を受けやすく
    積極的な精神と、消極的な精神があるが、特に消極的な悲しいストレスにより下がる。

NK細胞の今後

  1. NKを元気にさせるには食べ物からの元気成分の抽出液で摂取
  2. 長生きするにはNK細胞の働きを高くする
  3. 病院の薬はNKが下がるのが多い
  4. NKは治療に使える

厚労省の年齢別死因トップをみると、

20~39歳 自殺がトップ

40~89歳 癌がトップ

若者が苦しみ、悲しみの心の影響が強くて、免疫が低下し、自殺に

熟年老人は生活のリズムが崩れ、生活習慣病から、免疫力が低下し、癌に

なりやすいともいえるかもしれない。

うつや自殺は副交感神経が優位すぎるために、

癌は交換神経が優位すぎるために、起きるともいえよう。

 

ツボの痛気持がなぜ効くのか?

金曜日, 3月 17th, 2017

忍者腱引きナイトの講演者の柳生流心眼流の伝承者島津氏が「痛い!と脳を刺激するのが良い」という言葉が印象的だが、どうして良いのか? そのメカニズムを調べてみた。

気血免疫療法

福田稔先生と新潟大学大学院の安保徹教授との共同研究によって、自律神経と免疫の関係を明らかにした「福田ー安保理論」に基づき、「人間の治癒力は気と血液に集約されている」原理から、福田稔医師が自律神経と血流のバランスを整え免疫を高める治療法として確立したのが『気血免疫療法』だ。

 

痛いというストレスを起こし、その反動を利用する

交感神経と副交感神経のバランスが良くなると

血流が良くなり、体温が上がり、免疫力UPし、病気などの症状改善する

副交感神経は手足指の爪の生えきわ2mmにあり、薬指だけは交換神経が通っている。

爪もみ効能

つむじ押し

大半の人が、頭部がうっ血しているのに対して、下半身には十分な血が通っていない。昔から「頭寒足熱」と言われるのは、まさに正鵠を射た表現で、頭部に滞留した血液と気を下に流してやることが、全身の血流を改善し、自律神経のバランスを整える最善の方法。

自分の指で頭のてっぺんから前後左右を探る。直径1センチほどのくぼみがあれば、そこがつむじ台風。
2つ以上のくぼみがある人もいるが、最も大きくて、押すと痛みを強く感じる場所を刺激する。
1.人差し指と中指(磁気針)をつむじ台風に当てて、心地よく感じるくらいの強さで、20回ほどリズミカルに押す。
2.図に示したように、つむじ台風を中心に広がる6本の線に沿って、指(磁気針)で刺激する。
つむじ台風から下バッド(下向き矢印)に向かって、少しずつずらしながら、刺激をしていく。
A1とA2、B1とB2、C1とC2というふうに、セットで行う。
途中で痛みを感じる場所があれば、そこは5回くらい、集中的に刺激するといい。

 

柔道の押さば引け

子供のころ、空手を習う兄の暴力に対してどう立ち向かうか?と問い続け、高校に入って柔道にその道を見出した。「柔よく剛を制す」として、相手の力を利用して投げる技の基本が「押さば引け、引かば押せ」である。三船十段がさらに発展させ、「押さば引き回せ、引かば押し回せ」として空気投げを見出した。

この指の圧迫による痛さ(交換神経)の反動・リバウンド(副交感神経)を利用して、副交感神経を優位をするのは、柔道の「押さば引け」によって痛みを転がせてしまう技のようだ。

ボクシングでも、軽いジョブを相手に打ち込んで刺激し怒らせ、相手が怒って、打ち込んでくるのを引き出し、待ってましたとばかりに、軽くかわしながら、クロスカウンターを打ち込むと、相手が殴る力とこちらが殴る力が合わさって、倍の威力で相手を打ち負かすことができる。

中国が尖閣諸島に軽いジョブを打って、日本が怒りだして、戦争を仕掛けてくるのを待ってましたというばかりに、一気に、尖閣諸島に乗り込み、奪い取ってしまう戦略でもある。

「痛み」を感じたところに手や指をあてると、

脳から、「痛み解消ホルモン」と「ハッピィホルモン」が出てきて、その部位に送られるので、その両ホルモンは緊張を解く副交感神経を活発にさせるともいえるだろう。

この副交感神経を活性化させる指刺激は強く過ぎも、弱すぎも効き目がなく、数秒間はちょっと痛いが、その後が気持ちいいくらいの痛みを与えるのが一番効き目がいい。

これは、小さな努力と軽い運動がストレス解消には最も効果があるようなものでもある。

 

愛と感謝って柔らかいボールに譬えられる

木曜日, 3月 16th, 2017

ボールの弾み方

硬さが違う三種のボールを硬いコンクリートと少し柔らかい土の地面に落とした時、

予想は地面が柔らくなれば、三種のボールはみな弾みが弱くなり、その弾み方はボールの硬さに正比例する。

だが、この予想はまったく外れ、正比例はしないし、反比例でもない。

唯一言えることは柔らかいボールほどよく弾むことだけである。地面の柔らかさに対してはボールは不可思議な弾み方をするので、捉えがたい。

 

「ボールの柔らかさ」は人の心の「愛の大きさ」に、弾んで返ってくるボールは「感謝の大きさ」に譬えることもできそうだ。

「愛を小さく」していくと、硬いボールは固い石になり、それは「憎しみや怒り」になる。石を地面に落とすと、ほとんど弾まず、割れたりする。地面も石も傷ついてしまう。憎しみや怒りから帰ってくるものは互いの痛みと傷である。

また、落とすボールまた投げるボールの相手が地面であれ、人間であれ、それを受け止める硬さはいろいろであるが、柔らかい愛のボールを投げるのであれば、どんな硬さの相手であっても、感謝がかえってくる。

硬い憎しみや怒りを投げつければ、相手が堅物であれば、互いに傷つき、相手が柔らかい愛情深ければ深いほど、憎しみや怒りが自分の方に何倍にも帰ってくる。

どのくらい返ってくるかは、お互いの愛情の大きさ加減で、不可思議な現象が起きるといえよう。

 

Ninja Kenbiki Night

火曜日, 3月 14th, 2017

明日、外国人記者クラブで開かれる”Ninja Kenbiki Night”に行く。

健康と自然の会の講師二人が講演するからだ。

映画の影響か、外国人には多彩な技を使う武士をみな忍者に見えるようだ。

柳生心眼流に伝わる人を殺す殺法と、人を活かす活法があり、

その活法の中に「腱引き」という痛みを解消する技がある。

痛みを感じる筋肉の腱を太い弦を鳴らすように指で引くと、収縮して凝り固まった筋肉が弛緩して、痛みがとれるというものだ。

外国人にとって、西洋医学にも東洋医学にもない、武士道の中から日本独自に発展した痛みを取る医療技は実に不思議な忍術のように見えるのかもしれない。

外国人記者クラブの場所が有楽町、地図でみると、桜田門の近くにあり、ここ157年間の歴史が垣間見えた感じがした。

殺された大老井伊直弼の彦根藩邸はなんと国会議事堂の前庭にあった

桜田門外の変は、米英仏から開国を迫られ、幕府の開国派の井伊直弼と、尊王攘夷派の徳川斉昭との争いから生まれた。その1860年3月3日を機に、大きく時代は幕末から明治大正昭和平成へと変ってきた。

この桜田門の中心にして、皇居、警視庁、国会議事堂、外国人記者クラブまでの数百メートル圏内で、現在までの157年間の歴史を振り返ることができる

外国人記者クラブは差し詰め黒船ペリー来航にあたるだろう。

井伊直弼はペリーが幕府に献上したピストルを複製した水戸藩製のピストルの銃弾一発で殺された。

武道には西洋のピストルの殺法はない。ピストル殺法に対する活法も人体から玉を抜き出す手術に発展し、剣の活法は刀傷や当身にたいする手当から発展した骨接ぎや腱引きであったとも言えそうである。

原爆という殺法に対する活法はなんであろう? その核ゴミの放射能半減期は10万年の被害を治療する活法は「原爆・原発」製造を止めさせる平和法しかないだろう。

 

依存症からの脱却9/目的と手段をはき違える社会病

火曜日, 3月 14th, 2017

煙草やパチンコ、食べ過ぎ依存症の原因である「目的と手段のはき違え」は

社会の事業や政治にも応用できる

事業目的とその手段としての金儲けをはき違え、

政治目的とその手段としての権力をはき違え、

それらは金儲け依存症。権力依存症として、本来の事業目的・政治目的から退化していく社会病である。

大企業が本来の事業目的を放棄し、金儲けに依存し、お金の実体である「借金」に隷属して、他企業に事業の目的である魂も体も売り渡してしまう昨今も、

政府が本来の国民の命を守る目的を放棄し、財界権力に隷従して、経済目的を最優先する旗をあげて突き進んでいる現在の状況も、

政治も事業も その本来の目的は国民の命を守ることであるが、その手段である権力、その権力の手段である金儲けを、目的化させ、「国民の命」を手段化させた、権力と金儲け依存症による社会病である。

それは「国民の命を守る」目的から、どんどん退化して、「国民の命を破壊する」方向へと進んでいく。危険な原発ゴミを生産し続け、他国の戦争に加担する戦争と武器輸出を合法化し、「国民の命を守る」目的の憲法そのものを権力で改正して、「国民全体の命を守るために、一部の国民の命の犠牲もあり」という矛盾、「平和のための戦争あり」という矛盾は、「平和のための戦争は手段にはなり得ない」ことを「あり得る」という錯覚である

こういう錯覚は「多数意見は正しく、少数意見は間違い」というものである。それは「全国民の命は少数国民の命の犠牲で成り立っている」というのも同じ錯覚である。

生きるのに必要のない依存症に部類にそれらの社会病・錯覚が入る平和のための戦争は必要ないし、全国民の命を守るために少数の命を犠牲にする必要もない。多数意見を正しくするために少数意見を間違いとする必要もない。

生きるに必要のないものを目的化した依存症は麻薬中毒のように、そこからの脱却には大きな勇気と努力が必要になる。大きな勇気も大きな努力も、一人一人の小さな勇気と努力を合わせて、同じ目的の方向に力を合わせれば、できるものである。

政治本来の「国民の命を守る目的」を

金儲けとその手段の「景気回復」に目的化させてしまった

社会病・経済依存症の泥滑にはまり込んだ安倍自民党であ

依存症から脱却8/少しの努力

月曜日, 3月 13th, 2017

禁煙や禁パチンコが成功できた私だから、ダイエットも同じような努力をすればすぐ実現できると挑戦して、もう4年目だが、未だに成功するどころか、リバウンドでして退化しだしている。

それは食欲依存症は他の依存症とは根本的に違うから、同じ方法が通用しないどころか、同じ方法を試してしまうと、逆効果でリバウンドばかりではなく、より肥ってしまうのである。

食欲依存症と他の依存症の根本的違いは

煙草もギャンブルも、生きるのに必要のないものだが、食欲は生きるのに必要あるものである

煙草もギャンブルも、一本も吸わず、一度もしないという努力で、その依存症から脱出できるが、

肥満は一度も食べないでいれば、飢えて死んでしまう。断食を3日ばかりすればすぐ痩せるが、その努力の反動でより食べ過ぎてしまうため、逆により太ってしまうのである。ストレスはバネのようなもので、強いバネを圧するとより大きな反発力が生まれるからである。

肥満は食欲依存症というより、食べ過ぎ依存症と言い換えた方がより真実であろう。

食べ過ぎ依存症は相対的なバランスの問題であって、他の煙草やギャンブルは五次元の必要あるか、必要ないか、であり、それは0か1 であり、そして、1=All である。そのため、1本=数億本も同じであるから、それを認識してその依存症から脱出できる。

食べ過ぎ依存症は相反する力のバランスを 1 : 1にするのである。

食べたい欲求1:食べたくない欲求1 のバランスを調整する。いわば、筋肉の収縮1:弛緩1

自律神経の 交感神経1:副交感神経1 のバランスである。

これらの力のバランスは車のアクセルとブレーキに例えられる。

食べたい欲求はアクセル

食べたくない欲求はブレーキ

である。この両者の調整が食べ過ぎ依存症からの脱却である

 

今日も山登りをしてきた。

下山が苦手で、滑らないようにゆっくり下山するのだが、ブレーキをかけすぎて、軽快に降りられなく、また、急斜面は大きなブレーキをかけるので、足先と靴がぶつかりこすれて、指にすぐ靴擦れを起して痛くなり、その痛みを抑えるとさらにブレーキをかけるので、より苦痛が多くなる。

今日は靴擦れを起さないように地下足袋をし、下山をするときはなぜか軽快だった。いつもはブレーキを大きくかけて、できるだけゆっくり降りるのだが、今日は飛ぶように降りていくのはまるで鹿と同じような動きだった。

いつもと違うのは、重力だけに軽いブレーキをかけていたことだ。車でいえばエンジンブレーキであり、いつもはフットブレーキばかり使って下山していたことに気が付いた。

雪道でも、強いフットブレーキはよけい滑るので、エンジンブレーキの方が滑らない、また滑った場合、滑った方向にハンドルを向けるとブレーキがかかる。

これは下山する足のブレーキと同じで、エンジンブレーキのように、重力に対しての反発するだけの軽いブレーキ(体を支えるだけ)をかけ、しかも、足の回転を止めないで、滑りそうな方向にもう片方を足を運ばせてしまうと、もし、すべった場合、尻もちつかずに、前に進んだ足の方向に体重はいく、それも滑るとしても、もう片方の足は先に進んでいる。

まさに、雪道のエンジンブレーキと滑ったときのハンドル裁きと同じ下山方法なのである。

食べ過ぎにブレーキをかけるのも同じで、少しの努力(ストレス)のブレーキをかけて、けして大きな努力ストレスのブレーキをかけないことである。そして、食べる先の内容の方向に意識を飛ばしてしまい、目の前の食べ過ぎ内容にこだわらないことである。

 

エンジンブレーキに相対するのが、ゆっくり加速するアクセルである。急発進急ブレーキは事故の元といわれるように、ゆっくり加速すると、エンストのように失速しない。また、アクセルを踏まなくても、慣性また惰性で、動き続ける力に任せると、余分な筋力や心力を使わなくてすむ。

この動き続ける慣性力を使うのがエンジンブレーキの相対する。それを引き起こすのが少しの加速力(努力・ストレス)である。

慣性と惰性は物体の動き続ける、止まり続ける、同じ状態を保ちつづける力であるが、ほとんど差がないので、私は今後ややこしいので、次のように使うことにする。

慣性は動き続ける力

惰性は止まり続ける力

慣惰性は同じ状態を保ち続ける力

の三つの使用法とする。

エンジンブレーキは惰性力、エンジンアクセル(回転力)は慣性力となり、

自然力は慣惰性力と表現できる。

 

食べ過ぎ依存症からの脱出法

 

これは食べる時は少量をゆっくりと食べるのがエンジンアクセル

ダイエットは毎日少量だけ、長い日数をかけて減らすのがエンジンブレーキ

そのエンジンブレーキに切り替える少しの努力(ストレス)と

エンジンアクセルに切り替える少しの努力(健康意識力)で

食べ過ぎないように方向調整(ハンドル)していく。

これを少しの努力ダイエット法とでも名付けてみよう。

この「少しの努力法」は病気回復や予防法、体力作りにも応用できそうである。

肥満は病気の一種であるように、病気も必要以上また必要以下になってしまった慣惰性で凝り固まった血行不良の状態ともいえるので、その状態に少しの努力(ストレス)を繰り返すことで、血行回復、血行良好維持ができる。

もし、大きな努力したり、全く努力しない時は、その慣惰性で、凝り固まった状態を保とうとする力で依存症(わかっちゃいるけどやめられない/やればできると思うけどやらないでできない)となり、病気のまま脱却できなくなる。

少しの努力は少しの勇気を奮い起こして目覚める。

必要性のある依存症は少しの勇気と努力を

必要性のない依存症は大きな勇気と努力をすることで脱却できる。

 

依存症からの脱却7/勝っても負けても

月曜日, 3月 13th, 2017

パチンコの泥沼に入り込んだ時の心境は

勝てば嬉しくて またやり、負ければ悔しいので、またやる。

結局、パチンコ屋に儲けさせるだけで、その分損するのは

「わかっちゃいるけど、やめられない」

勝てばもっと儲けられると、負ければその分取り戻さねば気が済まないので

またやる。欲望は得られればもっと欲しくなり、得られなければまた挑戦しようとする

足るを知って、そんな欲望を捨ててしまえば楽になるのは

「わかちゃいるけど、捨てられぬ」

延々と続く、終わることのない欲望の連鎖は「終わる」ことを赦さない。

ヘビースモーカーになった時もそうだ

始めて煙草を吸った時は、その苦さと不味さで、吐き出した。

でも、周りでは美味しそうに吸っているのをみると、

本当に美味しいのか? 試したくなる。

二度目もマズイと思ったが、最初ほどの苦みは感じない。頭がくらくらするが、

なぜか、また吸って試したくなる。その繰り返しをすると、いつのまにか、

吸えば心地よく、吸わないといらいらする。だが、吸い過ぎると胃がムカムカし、気分がおかしくなる。でも、吸わないとイライラする。イライラを止めようとして吸い、吸っているときだけ安心して気持ちよくなる。

24時間吸っていないと、イライラは止まらなくなる。寝ていても、煙草を吸いたくなるので、吸っては眠り、起きてはまた吸う。

禁煙すればまた喫煙前の元の状態に戻れることは

「わかっちゃいるけど、やめられない」

どうしたら禁煙できるのか考えようとして

一服してから考えようとする。イライラしていたら、考えもまとめられないからだ。

何か物事に集中しようとすると、吸っていない状態のイライラは雑念である。吸うとイライラは消えるのでまた吸って考える。

イライラは吸えば吸うほど、吸わない時のイライラが強くなることは

解っちゃいるけど、吸わずにイライラは抑えられない。

3日禁煙したが失敗、1か月禁煙したが失敗、1年禁煙したがまたまた失敗

禁煙に挑戦し、失敗を重ねるほど、いつのまにか、一日3箱60本のヘビースモーカーの泥沼にはまり込んでしまう。

パチンコも喫煙も、そうして20年泥沼にはまり込んでいった。

 

そこから抜け出ることができた魔法の呪文は

「一本でも吸ってしまえば、一生涯吸わなければならなくなる」

「一度でもパチンコすれば、一生涯パチンコせざるをえなくなる」

たった一本、たった一度だけ のココロの緩みは一生涯の苦しみを選択することである。

一日一生だけでなく

煙草は 一本一生の苦しみ

ギャンブルは 一度一生の苦しみ

喫煙もギャンブルも、その泥沼に入りこみやすい性格と、入り込みにくい性格があり、

その個人差が相当大きい。私の性格はなんでもハマり込みやすい性格であり、特に煙草やパチンコは父親の影響があったと思うが、健康的な少々の煙草も、少々の遊び的なパチンコもできないタイプで、やるかやらないかの二者択一でしか、選べない性格である。

酒は両親とも飲めなかった影響もあり、酒はどんなに飲んでも美味しいとは感じないし、ハマり込めない種類である。

依存症になりやすいものの、その個人差は大きく、特に、生まれた時の家族環境も大きく影響しているように思える。

10数年前、子供が韓国ドラマ 「宮廷女官チャングムの誓い」を観ていたので、つい私も観てしまったら、その面白さにはまり込んでしまった。次の展開が気になってしようがないので、毎週それを観ないと気が済まなくなってしまった。

チャングムは終わりまでが長く、その鑑賞時間に自分の生活の多くが奪われてしまった。

それから韓国ドラマにはまり込んでしまったが、そのしつっこさ、日本の昔のメロドラマを思い起こすような、これでもか、これでもかと執拗に主人公を苛め抜き、そのイジメにまけずに立ち上がるというストリーが多いことに気が付いた。観終わった時は何かスッキリしない、重々しさが残る。

日本のドラマ1時間のストリーが、韓国では100時間のストリーになるようなものである。

韓国ドラマは中毒性が強く、時間も長く奪われてしまうので、もし第一回を観てしまったら、最後まで観なければ気が済まなくなり、多くの時間がそれに奪われてしまう覚悟をしなければならないとして、注意して、とにかく観ないようにしていた。

ところが、テレビで、韓国ドラマが多く放送されているので、つい第一回のドラマ ホジュン 伝説の心医をBSで観てしまったら、月から金まで毎朝1時間やっており、それを観なくては気が済まなくなった。42回になり、いったい終わるまで何日何時間捕らわれてしまうのだろうか、心配になってきた。しかも、このホジュンを観る1時間が生活の中心になってきて、まさに、韓国ドラマ依存症生活になるという警告が自分の経験から発せられた。

やはり、中毒も、依存症も

一回一生 のハマり込み生活である

早く自分に韓国ドラマを禁止しないと、自分の生活もココロも奪われてしまう。

ネットで、このホジュンのドラマの最終回まで一気に観られるか探してみたら、あった。

なんと、最終回は1話30分135話であり、BSでは1時間1話で、役者が違うだけの違いだった。

一気に、43回以降のストリーを観たら、なんと三日徹夜(仮寝数時間)してしまった。それ以外の予定はみなキャンセルしたのだった。

最終回はやはりなんかスッキリしなかった。いわば鍼灸と漢方で治す医療の英雄を描いた人生であるが、今の時代には自己犠牲する英雄は望まれていないし、現代の多くの問題解決への道も、そこにはなく、医療もゴッドハンドを期待する技重視では解けない問題も多い。

そして、やっと韓国ドラマ中毒から解放されて、もう二度と韓国の連続ドラマは観ないことを決意し、もし、どうしても見たくなったら、ネットで最終回まで一気に観られるものだけに絞ることにした。思うに、ドラマも映画のように、2時間で一完結するのが、丁度いいと思える。

 

前回に、「迷ったら初心に戻れ」というように、

依存症や中毒になったら、

初心にもどって、

一本一生、一度一生、一回一生 

油断一秒、怪我一生

という、現実を十分に把握することである。

それを前向きな生き方にするなら

今日一日の充実、一生涯の幸福

もまた、依存症から脱却できた時のご褒美であろう。

依存症からの脱却6/科学って

金曜日, 3月 10th, 2017

ダイエットに関する科学的見解は実にころころ変わる

最近は、ロカボ糖質制限によるダイエットが主流で、過去のカロリーダイエットは一掃された感じさえする。

科学的と言われただけで、何かそれが真実であるかのような空気感が漂う。

だが、科学的と言われた結果の歴史をみると、まったく見解が逆になったことがけっこうある。それに科学者によっても、一人一人違い、その多数決のようなものが、その時の科学的見地の主流になってくる。

科学というのは真実を探るための一つの方法・手段であり、その手段が真実ではない。真実に至る道は科学的手段だけでなく、他の手段でもたくさんある。

これは目的と手段の図からいくと、

依存症は目的と手段が取り違えなので退化

真実を探る目的は変わらないが、科学的手段を変えないと、人類は絶滅するということでもある。科学の前は宗教であった。真実に至る道を宗教的手段を変えて、科学的手段にした。だが、その科学的手段も変えていかないと、真実への道は遠のいてしまう。より真実を探る手段を発見すれば宗教的世界から科学的世界に変ったような大変革が起き、絶滅から救われ、進化へと方向転換できるように思える。

TDKのCMのジャズピアニスト上原ひとみスベシャルインタヴュー(動画6分から)

未来とは

未来とは・・今現在何をしているかによって変わるもの。何年後どうなっているかは誰にもわからないと思うのですけれど、私の場合、ピアノを弾いていたいという気持ちが強くあるので、できれば今よりももっといろいろなものを表現したいし、もっといろいろなものを弾けるようになりたいし、自分の未来に対していつも期待していたい。そのためには やっぱり今何をすべきかってことを常に考えてコツコツ頑張る

 

GENERATION

これをしたら絶対うまくいくって道はないです。なんか、それがあったら逆に知りたいというか、ただ探し当てたいという気持ち、自分がドキドキしていたい。何度も何度も同じ実験を繰り返して ちょっとずつ分量を変えたりして、なんかずっと作りたかったものが何かの偶然の一致でできたとか、ゴールを決めたいといった気持ちがあって、それでも外してしまうときも何度もあって。でもタイミングでバーと入ったとかそういうのと同じで、探し当てたいという気持ちはずーとあって、それがかなう瞬間がご褒美。自分が今やっていることはすべて自分にかえってくるということ。毎日の積み重ねが自分の財産になるし、それは毎日の小さな努力だったり、いろいろな経験だったり、そういった一つ一つが自分の血となり肉となって、自分を作っていくので。毎日出会う物事や人やそういったものすべてが、この先の自分に返ってくると思います。

努力コツコツとやること、ジャンプ台みたいなものっていうのは存在しなくて、本当に一段一段こつこつと地道に上っていくと、ときどきなんかご褒美みたいもみえるものが、目の前に広がっていて、それでまたコツコツと上るっていう。

自分がこれがやりたいっていうものが、見つけられたということっていうのは、本当にそれだけですごくラッキーなことで、やっぱそのラッキーにちゃんと感謝することというのは、その幸運を無駄遣いにしないように、ちゃんといま自分がやりたいって出会えたものに対して、ちゃんと真摯な気持ちで向き合っていくこと。そうしたら絶対10年後はもっと楽しいです。

科学も音楽も同じで、「これをしたら絶対うまくいく道はない」。

その目的に対して、その絶対的な一つの道というのはなく、たくさん道がある。

もし、手段を絶対的な一つとしてしまうと、その手段が目的にかわり、本当の目的と手段が入れ替わり、依存症に落ち込むことになる。