Archive for 6月, 2010

次の設計図が描けない

月曜日, 6月 28th, 2010

 とにかく、気が付くことをやっていたら、最終目標を忘れてしまった。

 そこで、一度今やっていることをストップして、これから先の設計をきちんとしておくことにした。

 振り返ってみれば、やってくる問題をただ次々こなしているだけで、早くやらねばならない問題をいつしか後回しにしている。

 引っ越しはすべて完了したわけでもなく、内装もかたづけも、それまでの目的をみな完了していたわけでもない。

 こうなると、自分がどれから手を付けていいのか、その先とのつながりはどうなるのか? これらがみな全体の設計図なしにはうまくこなせないことに気が付いた。

 先が見えなくなったとはまさにこういうことだろう。次の目的がはっきりしていないと、集中して仕事も生活もできなくなる。

「一体、自分は何をしているのだろう?」

 ただ生きているって感じに陥ってしまっている。どうしてそうなったかというと、ただ目の前にふりかかる問題をただ処理していただけである。また、興味をもったものについついのめりこんでしまって、そこに流されてしまって、ふと自分が一番にやるべきことが何かを見失ってしまった。

 みな中途半端で終わっており、次のことに手を出している。なんかちゃらんぽらんだ!

 私はこれぞと思ったら、まっしぐらに突き進むタイプだから、進むべき道を見失った感じで、まわりをみてきょろきょろしており、どっちに向かっていいのか、まるで新入社員のようにおどおどしている。

 たぶん、今までの大方の目標であった引っ越しが一段落したためかもしれない。

 さて、次の目標が見えないといっても、生きられないというわけではない。生きるとはそれ自体が目標であり、また出発点でもあるからだ。もし、生きる目標が何かといえばそれは自己の死である。生きる出発点が何かといえばそれは自己の生である。でも、生きる目標を失うと死にたくなり、生きる目標ができると生きたくなる。実に現実と心は矛盾する。

 体と心は相反することが多いのだ。心とは何かというと、その正体は見えないが単純にいえば「欲望」である。体からやってくる欲望である。また、この欲望は体に向かっており、その対象は体でもある。

 つまり、心という欲望は「体と体」の間にあるエネルギーということになる。人のことを人間というが、人間というのは人と人の間という意味だから、「人の心」「人の欲望」ということになる。

 人間らしさといのは、人の心のあり方をさす。人と他の生物との間をさすのではなく、人と人の在り方をいう。そのため、人間らしさとは人間社会における孤独がもっとも人間らしからぬ状態といえる。

 また、孤独と同じ状況がエゴな人間である。自分のことだけが主体になり、他人のことは無視した状態である。

 人と人の間が快適に流れる時間が存在することを「人間らしさ」というのであろう。

 そこで、生きる目的と原点にもどって考えると、自己中心な生き方の場合にはその目標は死であり、原点は生であるが、人間らしさの生き方の場合には、生と死の交流が快適に流れることになり、生きる目標は生にも死にもなり、その原点もまた生にも死にもなる。生きる自体は人と人の命のバトンだともいえるかもしれない。

 そう考えていたら、次の設計図の目標が見えてきた。命のバトンの設計である。その命のバトンを受け、この命のバトンを与える流れの設計図ということになるだろう。

奇跡のりんごは土から生まれる

日曜日, 6月 27th, 2010

 どう野菜を育てるか?

 そんなことをいろいろ考えていた。一番気になっていたのが「奇跡のりんご」だ。

 無肥料、無農薬でりんごを作り上げた木村秋則さんの話だ。

 もちろん、わら一本の革命の福岡正信さんの自然農法もあるが、いろいろな人が同じように挑戦しても、同じ結果を得ることは難しいようだ。そのため、奇跡のりんごを作った木村さんもそうだが、自分で独自に挑戦して見いだす必要があるみたいである。

 さっそく奇跡のりんごの紹介記事を探したら、

「弘前の夜景を眺めていると本当にきれいだと思いしばらく佇んでいると足元の草木等がりんごの木に見え出す、しゃがんで土をすくってみると、畑の匂いとぜんぜん違う、何にもしていないのに根っこが張リ抜けなかった。畑の草はすっと抜けってしまう、それがヒントになりこの粘り(根張り)が重要だと気ずき、今まで土の上のことしか見ていなかったが大事なのは土の中だと気ずかれた。大豆の根粒菌の作用による土作りの知識があったので6年目に大豆をばら撒いた。その年は落葉が少なく三分の一残り翌年は半分残る。8年目で一本の木にだけ7個の花が咲いた、そして2個だけピンポン玉と小指の先ぐらいのりんごが出来た。」

 この記事を読んでうちの畑の現状を理解できた。

 実は、前の住人が残した畑のブロコリーは害虫で全滅し、何も植えていない畑は雑草で覆われていたが、その雑草が病気で枯れてしまっていた。また、他の畑は雑草も生えないでいた。

 何かがおかしい。 雑草も生えない、雑草も病気になる原因がある。回りでは毎日のようにももやぶどうの木に農薬をまいている。その農薬でビニールハウスのビニールもとけて、穴があくほど強い毒性をもっている。

 その答えが土にあったとは!

 農薬と肥料で、野菜も雑草もひ弱に育っていたというわけだ。

 まずは土作りから研究する必要がありそうだ。

頭脳畑

土曜日, 6月 26th, 2010

 今の環境に代えて、どうやって畑を作ったらいいのか? 

 但し、畑の知識はまったくない、また先人と同じやり方はけしてしたくない!

 こうした心で、いろいろと考えている。

 すると、

 考えている頭脳が畑としてリンクしてくるのだ。

 頭脳から生まれ出る想念が畑から出てきた芽である。

 種というのは、「こうしたいという」欲求である。

 畑をそのまま放置しておくと、いろいろな雑草が生えてくる。それとリンクするのが、頭脳をそのまま放置しておくと、いろいろなことをしたくなったり、妄想がたくさん生まれたりする。

 頭脳と畑は実に似ている。

 頭脳が「わかった」と喜ぶときは、畑に花が咲いたときと同じである。

 我々が思い通りに成し遂げるときは、頭脳t畑が同じ姿をしたときの状態である。

 この頭脳は人間社会であり、この畑は地球環境である。

  私はお金の新しい流れをこの畑で試したいと思っている。お金の社会は人間の頭脳であり、畑は地球環境である。そう想うと、実験可能だと思えるのだが、かなり抽象的で現実的に不相応であろう。

 でも、抽象から一つ一つ具現化していけば、いつか到達可能であると信じられるのである。

 ともあれ、

 今の私の頭脳は真っ白なキャンパスになっており、そこに、「こうしたい」という欲求種があるだけである。そして、まだその種をどう植えたらいいのか、その設計図ができていない状態である。

 そこで、この頭脳畑にいろいろな種を蒔いてはそれがどう成長するのか展開させて、その設計図を創り出している。頭脳の展開と実際の畑の成長と同じになると、「やったあ!」と感激するが、違うと「だめか!」となる、その繰り返しである。

 人は想像だけでは空回りして本当の喜びが生まれない。実際に試してその結果が生まれて始めて喜怒哀楽ができる。そんな感じがまさに生きる姿にリンクしてくるのである。

 それにしても、頭脳と畑が同じ土俵だとは・・・雑草は雑念と同じ姿なんだ! もし人は何もしなければ(何も考えなければ)、他の生物と同じ環境になる。

 もし人は何かをしようとしたら、多の生物と違った人間社会が築かれる。人間らしさは何かをしよう、考えるところから生まれてくるのだろう。その答えは常に地球環境が与えてくれている。

雑草を育てる

金曜日, 6月 18th, 2010

畑を耕す前に畑に行く道がせまく、ちょっと雨が降るとぬかるんですべってしまう。そこで、畑路を造ることにして、しかも車まで高い奥の畑まで行けるようにしようとした。

1ヶ月かかって、まだ、車は半分までにしか上れないが、80%できあがった。

 セメントで作れば簡単なのだが、どうにも環境破壊に思えてならないので、必要なところだけ敷石にすることにした。

 敷石以外は土と石なので、そこに食べられる雑草を育てようと考えた。畑というと、石ころなんか一つもないが、雑草は砂利道でも、コンクリートのすきまでも、強くどこでも育っている。人に踏まれても踏まれても、育っている。

 歩く道で困るのは背の高い雑草だ。背の低い雑草ならば歩きやすいではないかと思えた。

 どんな雑草がいいのか、調べていたら、雨がふって一日でたくさんの雑草の芽が育っていた。

 ネットでハート型の葉の雑草で、いろいろと調べてみると、どうも「ドクダミ」らしい。ドクダミは十薬ともいわれ、薬草としても重宝されている。天ぷらにしても食べられるようだ。

 十薬は娘が便秘で悩んでいたので、センナンと十薬とを混ぜ煎じて飲ませていた。葉を乾燥させてお茶にすることもできそうである。でも、味はいまいちなので、人気がないようだ。

 それはきっと、道路をならす土の中にドクダミの種がたくさん入っていたのだろう。もし、人手で種を植え付けるとしたら、畑を耕し、堆肥をほどこし、種を1つ1つ植えつけ、毎日水をあげるようにし、苗を作り上げ、さらに、その苗を大きな畑へ移植することになる。

 その際、他の雑草がはえないように、黒いビニールシートを畝にかぶせ、苗木用の穴をあけて、そこに植える。その姿をみると、コンクリートのひび割れたところから力強く成長している雑草と同じにみえてくる。

 生ゴミから種をとりだすことを試みると、例えば1つのピーマンから数十の種を取り出せる。生ゴミと種を分離する方法は乾燥させた方がうまくいくように思える。それにしても大量の種がとりだせるので、その1つ1つの種を大事に育てるような手間がばからしく思えてくる。

 人が生まれるときに、精子を種とすれば、何億分の1の確率で受精することになる。種は生まれながらにして競争社会である。魚の卵だって、それが成長できる確率はやはり何万分の1の確率である。生き抜くためには多産にし、そこから1人でも運が良くかつ強い子どもを育つようにする必要がある。

 雑草が野菜よりも強く生きられるのはその種の多さで勝負しているのではなかろうか。野菜はその数というより、いかに人に多く食べられ、好かれるかで生き抜く道を選んでいるかのように思える。

  人は雑草と野菜を分離することにえらい労働をしているように思える。そこで、考えたのだが、雑草がたくさんはえる原理をもっと応用すればもっとつよい野菜が作れるように思える。

 つまり、大量の野菜の種を、雑草の種よりも多く、土にまぜて、それを畑や道路に蒔けばいいのではないだろうか?

 野菜の種はけっこう高いので、まずは大量の種を作ることから始めることから始めたらどうだろか?

 ダイコンやニンジンのきれはしを畑にさしておき、それを成長させて、花を咲かせ、その種をたくさんとったらどうだろうか?

  私は農業の知識がほとんどない。それが弱みであるが、逆に新しい農業を始めるにはそれが強みになることができる。学校にいって、たくさんの知識をつめこんでしまうと、そこに先入観が埋め込まれてしまう。何も知らないところから、一つ一つ観察しながら、ゆっくりと農業を始めてもいいのではなかろうか。

 私の目的は農業ではない、自然循環をいかに有効に働かすかということである。お金のシステム研究の一つでもあるからだ。

  さてさて、どんなふうになるやら・・まったく明日は未知だ。

すべての利息を税金にすれば

日曜日, 6月 13th, 2010

 国が投資家に借金して、政治を行うこと自体、天と地をひっくり返した法制ではないだろうか!

 国が法律を制定するように、お金も製造する必要がある。ところが過去いくらでも国がお金を作ってしまい、経済が破綻してしまった反省から民営化した。

 でも、それは政治家がお金の製造額の管理と、税収を確保する責任を放棄したものだ。

 そこで、法律のおかしさは新しい法律で正せばいいのだから、こんな法律を作ったらどうだろうか?

財政法

 1,日本で発行されるお金はすべて国のものである。

   お金が貸し借りからくる利息はすべて税金として徴収される。

 つまり、お金を国有財産として、国民に国が経済生活のために貸し与えたものであるとして、その貸料(利息)をすべて国が受け取る権利を持つということである。

 2,お金の貸借は民間が国を代行し、その又貸しによって生ずる利息をとってはならない。(但し、利息とは関係なしに手数料をとることは許される)

3,国が際限なくお金を発行することがないように、その発行額を管理する機関を日本銀行と定める。(日本銀行はお金を発行する独占権はなく、その管理権だけである)

 そうすれば、国は利息だけの税金で国のすべての政策を行うことが可能になる。国が借金で財政破綻することはありえなくなり、お金を貸すだけの不労所得だけでゆったりと国民のため政治ができるようになるだろう。

景気対策には消費税より財産税の導入と増税

土曜日, 6月 12th, 2010

 お金が体内の血液のように各細胞にくまなくゆきわたるようにする必要がある。現在のような借金から作られるシステムを変えることができない場合、お金の循環にとってもっとも大切になるのが税制である。

 今、財源を借金に頼らず、消費税増税で社会保障をしようとしている。この場合一般消費を減らすことにつながり、一般景気が悪くなるが、社会保障関連に増税分が投入されるので、その分景気がよくなる。不景気はいわばお金の流れが滞ったために起こるものであるが、こうした対策は一方景気よくさせ、一方景気を悪くさせるだけの、一時しのぎにしかならず、全体的な抜本的解決策にはならない。

 そのため、借金経済にあった税制改革をする必要がある。借金経済とは金持ちが金を貸して不労所得を得、貧乏人が金を借りて働く労働所得を得ることである。金持ちはさらに金持ちになって働かず、貧乏人はさらに貧乏になり、「働けど働けどなお楽にならざり」になる。

 こうした借金経済に対する最も効果的な税制改革はいわば「金や財産をたくさん持っているだけでどんどん損をするので、金を使い、財産を売り払う」ように持っていくことである。

 例えば、荒れ地になっている土地にかかる固定資産税を増税すると、持ち主は土地をもっているだけで高い税金を払うだけなので損をするため、すぐに安く売り払うか、公共団体に寄付をするだろう。そして、その荒れ地を生かせる人がその土地を買うか借りることができるようになる。

 また、銀行に1000万円以上のお金を貯蓄しておくと、その利息よりも財産税(流動資産税・金持ち税)の方が大きくなると、損をするので、1000万以上のお金を持たないで、消費をしようとするので、景気がよくなる。

 国公債が1000兆円あったとしたら、その利息で儲けることができるのは、財産が1000万円以下の国民だけで、1000万以上の財産がある国民は財産税で損をすることになるので、その国公債を支える国民は中産階級の国民だけになる。

 いわば、貧乏人の不労所得を増やし、金持ちの労働所得を増やす政策が財産税の増税である。こうすることで、健康をとりもどす運動をして血液循環と体力を全体的によくすることができる。

 お金はあればあるほどいいのではなく、自分にとって必要な分だけのお金と財産があることが最もいいという意識が消費税増税ではなく財産税の導入と増税である。

 

 

 

 

景気率はお金の循環率、お金の循環率はリサイクル率

木曜日, 6月 10th, 2010

 最近毎日、家の道路を造っているが、前の住人のゴミを掻き出して土と石にもどしている。

どうして、自分の畑にゴミをそのまま埋めてしまったのだろうか? そのゴミのほとんどはビニールシートとそれをおさえるアンテナコードである。これは数十年たっても、分解しないでいる。

 そこで、どうして借金が膨れて払いきれなかったかが、直感的に理解できたように思える。

 お金の流れはリサイクルの流れと対応する。

 そう思ったのである。

 先日、特ダネでスウエーデンと日本のリサイクル率の差を教えてもらってびっくりした。

  スウエーデン 日本
川の汚染度 首都中心を流れる川で泳げる 東京の中心の川はない
水の使用料 210リットル/1人/1日 320リットル/1人/1日
グリーン電力 48% 約9%
家庭コミのリサイクル率 96% 約20%
有機農業率 約20% 1%以下
CO2 9%減 約8%増

出展:スウェーデン環境庁、日本環境省、JA、日本省エネルギーセンター(2003年~2008年)

 なんと、家庭ゴミのリサイクル率が96%と20%の差が大きく開いている。

ゴミゼロを目指している地方が多いはずなのに、何かがおかしい。

経済発展と環境維持とは矛盾しないのではないだろうか。長い歳月からみれば、景気と環境維持は正比例すると思えるのである。

リサイクルされたゴミ処理はその値段から国内ではリサイクルされずにほとんど中国が買い取っている。日本が中国に経済発展率を抜かれるのはそういうところからも感じることができる。

食料の自給率にしても、それは国内のリサイクル率と正比例するように思える。お金もものの循環と一緒について回るので、リサイクル率をあげることが景気も、環境もよくすることにつながる。

こういう意識と政策が求められているように思える。

日本がこれから学ぶべきなのはスウエーデンのような北欧社会の政策であるように思える。

生死は紙一重

月曜日, 6月 7th, 2010

 生まれるということが奇跡なら、生きているということもまた奇跡である。

 まったく予想もつかないで死が突然やってくることがあるのは、まさに天国と地獄は紙一重でつながっているようなものだ。

 人の体も、捨て去る糞尿の出口と命が生まれる出口とは隣り合わせである。

  どうやったら、食べ物を循環させるかを考えていた。

 生ゴミの中にはたくさんの種が混じっている。種と生ゴミを分けるべきである。死の堆肥と、生の種とをはっきりと区別して扱うことが、食べ物を循環させるためには重要なことになる。

 どうして、いままでリサイクルをしながら、肝心の生ゴミそのものを堆肥と種と分けて扱わなかったのだろう? それは「味噌糞一緒」にすることほど馬鹿げたことなのだ。

 善人も悪人も一緒の扱いをすることをそもそも自然だと勘違いしているが、そうではない、善人も悪人も一緒にしないで紙一重で区別しているのも自然であるからだ。自然は矛盾することを明確に行っているのである。

 そもそも知識とか知恵というものは、物事に名前を付けて、それを分別することから生まれる。それに対して、愛や欲望は物事を一緒にする心から生まれる。

 いわば、生死を一緒にするのは愛だが、生死を分別するのが知である。愛と知によって、人は常に学習して人類の種を永続させているのである。

 いわば、生ゴミの種とその他を分別して、種と堆肥にするのは知である。種もその他も腐敗させて堆肥にするのは愛である。

最近、キッチン畑がはやりだした。水と光と養分だけで野菜をつくって、それをそのまま食べるというものだ。

そういうレストランも増えてきた。

 この流れは、まさに種を苗木まで育てるキッチンの役割があるかのように思えるのである。そうなれば、家に中で苗木を育て、外で堆肥を作る知恵が求められてきたのではないだろうか。

幸せには失敗という文字がない

日曜日, 6月 6th, 2010

 最近、幸運が続いている。

 というのは、やっと新車が来たのだが、業者の方から納車が遅れたので、7万も高い車のランクにあげてもらい、さらに、遅れたので、マットやipotの接続コードの両方で35000円も無料で付けてくれた。

 納車は2ヶ月くらい遅れたが、その間代車が提供されていたのだが、その代車を娘が運転中、ぶつけられて車がへこんでしまった。もし、それが新車だったら、かなりがっくりしたことは確かだ。古い販売店の代車であったため、販売店の方に迷惑をかけないですんだ。

 こうした幸運はよい業者に巡り会ったためだ。バイクを買うときもそうだが、最初は変な業者で高くて質も悪い車をかうはずだったのに、何かのハプニングで、その業者をやめ、今のよい業者に巡り会った。

 よい業者はそのときは儲からないけれど、「損して得をとれ」というような性格が自然ににじみ出ている。というのは、なにがあっても、今後その業者で車を買い、修理したくなるからだ。一生の関係になるので、長い年月からいえば、その時損をしても、あとで大きな得がまいこんでくるはずである。

 自分が家の購入や店の経営で大きな失敗を何度もしてきたが、その失敗なくして、今の幸運な家と店にはならなかっただろう。そう思うと、失敗は失敗ではなく、あとになって成功への道筋をつけてくれたものだということがよくわかる。

 失敗は成功の元

 とは確かなことだ。でも、これは逆も真なりで、

 成功は失敗の元

 にもなる。ナウル国が国民1人当たりの生産高が世界一になったが、それが数十年後の今では糖尿と貧困の国になってしまった。

 成功と失敗は常にあとで判断されるもので、それをそのとき成功か失敗かを決めつけることはできないということだろう。

 しかし、より正しく失敗か成功かを判断するには数十年先の出来事を予測したり、数十年前の出来事を反省してみるから可能であろう。

 物事の判断は時間的にも空間的にも広い視野に立ったものがより正当であるということは確かである。判断する内容によって、それをどのくらいの期間とどこまでの地域において、失敗から成功かを決めることが可能になる。

 そのため、狭い視野のとのときの失敗か成功かはわからないことになる。

 それにしても、今幸せだと、過去の失敗はみな幸運な出来事に思えてくる。

 幸せには失敗という文字はないのかもしれない!

種の永存欲求の方が自己の生存欲求よりも強い事実

土曜日, 6月 5th, 2010

 一体、植物は人間に食べられたいと望んでいるだろうか?

 どんな生物も生きたいと望むはずである。食べられたい、殺されたいとは生物である限りありえないことであろう。

 生存の欲求が一番強いのが生物の基本だからだ。

  しかし、エデンの園のりんごの木のように、人は食べたくなるように、おいしそうにリンゴの実が実るのはどういうわけだろうか?

 それは自分の実(身)を食べて欲しいと望んでいるかのようにさえ見える。

 これは学校の授業で習ったように、人がりんごの実を食べると、その種を他の遠くに運んでくれ、新しくその種からりんごの木が生まれるという、「種の保存」というより「種の継続」のためだと思える。

 つまり、人が永遠の命を願ったり、生まれ変わりを信じたり、また愛する人のために命を捧げようとすることと同じ命の永続の願いではないだろうか?

 どんな生物も自己の命よりも、もっと大きな種の命を望んでいる。人でいえば、自分の命よりも人類という種の命の継続を望んでいるといえる。

 昔、海でクラゲがたくさん浮いていたので、それをとって海辺に捨てていたら、一匹のクラゲが怒って私に向かって襲ってきた。どうみても勝ち目がないのに、そのクラゲは自分の身を捨てても、クラゲの種の命を守りたかったのだと思い知らされた。

 「一寸の虫にも五分の魂」とは、まさに「種の永存」の力であろう。

この種の永存欲求は自己の生存欲求よりも強いというのが自然の摂理である。そのため、世界各国がどんなにもめようと、最後にまとめる力は人類という種を守ろうとする環境問題であることがわかる。

 もし、宇宙戦争が起きたら、地球人類は一致結束して人類という種が永続するよう戦うだろう。人類同士が今までどんな敵同士であっても、そうなるはずだ。

 畑をどのように作るか、まだ考え中だが、今、「種の保存・永続」という視点で、循環させてみたくなった。

 つまり、今まで生ゴミから堆肥をつくって野菜を育てようと思ったが、それだけではまだ循環できない。野菜を育てるには種がいる。苗木もいる。

 そこで、野菜や果物の種から育て、実がなったら、次の野菜果物の種と、食べて生ゴミにする堆肥とに分けて循環生育させていくシステムをつくりたくなった。

 こうした小さな自給自足の食べ物の永続的な循環がうまくできるか試したくなったのである。

 そこで、野菜や果物を買ったら、そこから種や一部から、新しい野菜や果物を作り出すようにしたくなった。

 つまり、全部食べないで一部を再生し元の野菜や果物に再生するマナーを育てたいのである。

 アイヌ民族が狩猟するさいに、必要な食べ物だけ食べて、それ以上はけして狩猟しないで、その食べ物環境を守るという伝統とおきてと同じである。

 種の永続をどんな生き物も、自己の生存欲求よりも望んでいるという事実から、それは自然のおきてであり、自然の心理学という科学でもあるだろう。