次の設計図が描けない

 とにかく、気が付くことをやっていたら、最終目標を忘れてしまった。

 そこで、一度今やっていることをストップして、これから先の設計をきちんとしておくことにした。

 振り返ってみれば、やってくる問題をただ次々こなしているだけで、早くやらねばならない問題をいつしか後回しにしている。

 引っ越しはすべて完了したわけでもなく、内装もかたづけも、それまでの目的をみな完了していたわけでもない。

 こうなると、自分がどれから手を付けていいのか、その先とのつながりはどうなるのか? これらがみな全体の設計図なしにはうまくこなせないことに気が付いた。

 先が見えなくなったとはまさにこういうことだろう。次の目的がはっきりしていないと、集中して仕事も生活もできなくなる。

「一体、自分は何をしているのだろう?」

 ただ生きているって感じに陥ってしまっている。どうしてそうなったかというと、ただ目の前にふりかかる問題をただ処理していただけである。また、興味をもったものについついのめりこんでしまって、そこに流されてしまって、ふと自分が一番にやるべきことが何かを見失ってしまった。

 みな中途半端で終わっており、次のことに手を出している。なんかちゃらんぽらんだ!

 私はこれぞと思ったら、まっしぐらに突き進むタイプだから、進むべき道を見失った感じで、まわりをみてきょろきょろしており、どっちに向かっていいのか、まるで新入社員のようにおどおどしている。

 たぶん、今までの大方の目標であった引っ越しが一段落したためかもしれない。

 さて、次の目標が見えないといっても、生きられないというわけではない。生きるとはそれ自体が目標であり、また出発点でもあるからだ。もし、生きる目標が何かといえばそれは自己の死である。生きる出発点が何かといえばそれは自己の生である。でも、生きる目標を失うと死にたくなり、生きる目標ができると生きたくなる。実に現実と心は矛盾する。

 体と心は相反することが多いのだ。心とは何かというと、その正体は見えないが単純にいえば「欲望」である。体からやってくる欲望である。また、この欲望は体に向かっており、その対象は体でもある。

 つまり、心という欲望は「体と体」の間にあるエネルギーということになる。人のことを人間というが、人間というのは人と人の間という意味だから、「人の心」「人の欲望」ということになる。

 人間らしさといのは、人の心のあり方をさす。人と他の生物との間をさすのではなく、人と人の在り方をいう。そのため、人間らしさとは人間社会における孤独がもっとも人間らしからぬ状態といえる。

 また、孤独と同じ状況がエゴな人間である。自分のことだけが主体になり、他人のことは無視した状態である。

 人と人の間が快適に流れる時間が存在することを「人間らしさ」というのであろう。

 そこで、生きる目的と原点にもどって考えると、自己中心な生き方の場合にはその目標は死であり、原点は生であるが、人間らしさの生き方の場合には、生と死の交流が快適に流れることになり、生きる目標は生にも死にもなり、その原点もまた生にも死にもなる。生きる自体は人と人の命のバトンだともいえるかもしれない。

 そう考えていたら、次の設計図の目標が見えてきた。命のバトンの設計である。その命のバトンを受け、この命のバトンを与える流れの設計図ということになるだろう。

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