Archive for 2月, 2010

投資は犯罪です

土曜日, 2月 27th, 2010

 今朝、温泉に入ったら、男女の境にある衝立に

「のぞきは犯罪です」

 と書かれてあった。何かどきっとする表現である。この文句が書かれてから、のぞきは無くなったようで効果的だったようだ。

お金の研究をすると、お金とは協力券、分配券のようなものだと思えてくる。

お金でお金を増やす行為そのものが、分配券を取り合ったり、協力をぜず、奪い合う喧嘩に見えてくる。

 アメリカ大陸で昔人間狩りという狩猟があった。イノシシやバッファローの狩猟のように、現地のインディアンを追いつめ殺すだけのゲームである。

 お金が無ければ暮らせない時代において、お金は命を支える食料と同じである。

この人の命を支えるお金を奪い合うことは、この人間狩りとして命を奪い合うことと同じではないだろうか?

例えば、

 ジャンケンをして勝った方が負けた方の命を奪うことができることと同じだと思えるのである。

 投資はギャンブルである。お金が命であるならば、お互いの命を賭けたゲームである。

 人の命を奪うことが犯罪であるならば、投資もまた犯罪である。

「投資は犯罪です」

 という意識が生まれたら、投資で金儲けしようとすることはなくなるかもしれない。

こうした感覚は直感的にギャンブルが不謹慎のようなものに感じるところにも見られる。

 パチンコのようなギャンブルをするとき、お金を遊技用の鉄の玉やコインを購入する。そのコインは100円玉にそっくりだから、実際のお金でできないことはないはずであるが、もし、それをしたら、不謹慎に感じたり、楽しく遊べないで、血眼になって真剣勝負になるだろう。

▼実質経済用貨幣と投資ギャンブル用貨幣の分離

 人の愛は分けたものを一つになることだが、人の知はごちゃごちゃになった1つのものを2つに分けることである。

 今の世界経済が商品の生産流通をする実質経済の何倍何十倍の投資ギャンブル経済が主流になっている。昨日、「教えてMrニュース池上彰のそうなんだニッポン」で、原油の値段が毎日変わる理由として投資ギャンブルのためにそうなることをうまく説明していたが、もし、需要と供給で成り立つ実質経済であれば、よほどの災害や戦争がないかぎり、そう変動はしないだろう。

 日本の電気やガスの料金のような数ヶ月や年の単位の変動になってくるだろうと思われる。しかし、現実はまさに原油の価格がラスベガスのカジノのルーレットのような掛け金とその倍率で毎日遊ぶゲームになっている。

 今の世界は原油がお金になっており、世界の経済を支える中心になっているからなおさらである。

 昨年からの世界恐慌は、世界が一家族だとすると、旦那さんがギャンブルに夢中になって、一銭も家庭にお金を入れない状態になり、生活が困難になっている状態である。

 健全な家庭ならば、ギャンブルを遊行費として認めるならば、月の収入費が30万円あったら、遊行費は最高でその10分の1の3万円までに制限して、けして、基本となる衣食住の生活費である10分の9の27万円は遊行費として使わないであろう。

 これは健全なお金のシステムにもいえるのであって、実質経済用のお金9に対して、投資ギャンブル用のお金1の割合で、お金が発行される必要がある。先日提案した円ベーシックを実質経済用のお金を9として、現在の投資用のお金を1の割合で発行すべきであるということだ。

 しかも、投資ギャンブル用の基本となる債券や株の売買は今の円でできるが、実質経済用の円ベーシックでは売買できなくすることも大事になる。

 次に必要なのは、投資ギャンブル熱をコントロールすることである。

▼投資用貨幣の制限

 人がパチンコをするときに、お金でパチンコ用コインを買う。そして、うまく儲かったパチンコ用コインを売って現金に換える。

 もし、パチンコの出球の確率が一定であれば、投資熱はこの売買交換率に依存する。

例えば、1000円でパチンコ玉が200個から400個買えるようになったら、ギャンブル率は下がり、遊行率が上がる。

 パチンコ玉400個1000円の交換から200個1000円に売れるようになったら、ギャンブル率は上がり遊行率は下がる。

このパチンコ用コインを投資用貨幣(円)とし、現金を実質経済用貨幣(円ベーシック)とするならば、

 両者の交換率をかえることによって、投資経済と実質経済のコントロールが可能になる。

 例えば、

投資用貨幣が1000円は実質経済貨幣500円ベーシックと交換できるようにすると、投資用経済熱は下がり、実質経済熱が上がる。

また、

 パチンコをすべてゲームセンターのようにしたら、ギャンブルはなくなり、すべて遊びになる。

 というのは、ゲーム用コインは買うことはできても、売ることはできないからである。それはスポーツのように、数字の高さを競うものだけになるからだ。

この例を投資用貨幣である円と実質経済貨幣である円ベーシックに適応させると、

 実質経済貨幣である円ベーシック500円ベーシックで投資用貨幣である1000円と交換できるが、どんな投資用貨幣である円であっても、実質経済貨幣である円ベーシックには交換できないことになり、命の一方通行のようなものになる。

 これは地域通貨を日銀券に替えることはできないが、日銀券で地域通貨は買えるということと同じである。

 この一方通行の交換においては、その交換率で、遊び経済と実質経済をコントロールすることができる。

 円ベーシックが高く円が低いならば、実質経済が盛んになり、

 円が高く円ベーシックが低くなれば、遊び経済が盛んになる。

「投資は犯罪です」

 とはいったが、それは極端な解釈ではあるが、人がギャンブルや命を賭けることを欲するのは、人は生死の境を生きるときにもっとも充実した喜びと悲しみをえるからであろう。

 そのため、投資ギャンブルを廃止することは不可能であろう。むしろ、生きる余裕や豊かさのための遊びとして成立できるような投資ギャンブルを可能とすることが大事になってくるだろう。そのためには、どうしても、実質経済と分けたお金にする必要がでてくるように思える。今のお金のシステムだと、味噌もくそもいっしょになっているからだ。きちんと味噌とくそを分別して、お互いの良さを出す経済効果をだすことが望まれる。

 

 

 

 

 

正当防衛に疑問の余地あり

金曜日, 2月 26th, 2010

 国の防衛で基本的なのが正当防衛だ。

 それは「もし相手が自分を殺そうとしたら、自分は相手を殺していい」

 それが正当防衛だ。この考え方に疑問の余地ははさめないのだろうか?

 江戸時代において、仇討ちが正当なものとして認められていたが、最後は仇討ち禁止をせざるをえなくなる。

 戦争が復讐合戦になって、どんどん殺し合いが激しくなって、地獄の姿を見せてくる。

 正当防衛に疑問を持ったのが、キリストの愛だ。

 マタイによる福音書 / 5章 38~48節

 あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 
 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 

 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 
 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。

 あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 
 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 
 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 

 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 
 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 
 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
 

古代のハムラビ法典である正当防衛の法を禁止をしたのがキリスト教だ。

しかし、歴史を顧みると、キリスト教国に限らず、正当防衛と復讐の正当化をして戦争を誘導拡大化させている。

この正当防衛をさらに上にいったのが、先制攻撃である。アメリカがイラクを攻め落としたのがそれである。先制攻撃とは、「殺される前に殺してしまえ」ということである。その結果、終わることのない戦争激化をさせてしまっている。

 自分の命を守る道具には正当防衛として、みな殺人兵器を基本としている。防衛費はいわば殺人兵器の購入代金のようなものだ。核爆弾の廃止することをオバマ米大統領は提案したが、これは大量殺人兵器の禁止をする一歩だが、それが実現するのはかなり時間がかかるだろう。

 世界を変える最初にあるのは人の意識の変革だろう。大量殺人兵器だけでなく、すべての殺人兵器を廃棄することで、本当の防衛を実現させる方向が必要であろう。

 ごんテレビで、「死刑容認が85.6%」の日本人の意識を問題にしたが、この死刑容認も人の命の問題を考えると、「正当防衛の容認が85.6%」だということでもある。

 しかし、悪人を死刑にしたところで、悪人が減るのだろうか? しかも、悪人を死刑にして、その被害者の家族の気持ちが晴れることはあるのだろうか? 被害者の家族にとって、一番の願いは「命が帰ってくる」ことなしに、それはいえることはないはずだ。

 もっとも願うのは悪人が反省をするかどうかである。反省をしない、反省の見込みがないから死刑はやむなしになってしまう。しかし、その命を奪ってしまったら、反省する一滴のチャンスまでも奪ってしまうのではないだろうか?

 将棋のおもしろさは、敵の駒をとったら、その駒jは見方の駒になるということである。そして、目的は相手の王様だけをとればいい。ピンチはチャンスになりえるように、人の悪は善にもなりえるかもしれないのだ。

 例えば、死刑囚の肉体で臓器移植をしたら、悪が善になるではないか。

 お金の研究をしていると、いかにお金を自然の摂理に近づけるかというのがポイントになる。

これは、人間の法律が自然の法律に近くなるのがキーポイントだということである。

 「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」 

 聖書でもいうように、天の父とは自然の姿のことである。自然に善悪は関係がない、人間の法律に善悪がある。人は最終的に自然に帰っていくように、善悪も、貸し借りも、水に流していくことがもっとも平和な心と生活を実現する基本になるのではないだろうか!

 正当防衛にけして殺人兵器が使われるのではなく、正当防衛には相手の行為だけを殺す麻酔銃が使われることが大事ではないだろうか。その人をうらむな、その行為をうらめ! というのが、社会を正常化させる意識力になるのではないだろうか。

植え込みした

水曜日, 2月 24th, 2010

昨年の

11月終わりに、種のまきどきが可能な種をホームセンターから買ってきて、家のベランダで成長させ苗にしてみた。

買ったのは、

1,葵エンドウ(あずみ野30日絹さやPMR)

2,レタス(キングクラウン)

3,コマツナ(小松菜)

4,キャベツ(四季まきキャベツ)

5,ニンジン(時なし5寸)

6.ダイコン(雪美人)

 一番うまく成長したのはエンドウだった。他はうまく成長しなかったが、苗床を替えて、残った種を適当に蒔いたら、発芽していた。でも、それらは小さくて、うまく植え付けができなかったが、とにかく、適当に植え付けした。

 そんなとき、

 まわりの畑をしているおばさんたちが、何を植え付けしたのか興味津々できいてきた。

 自分では、エンドウしか発芽していないので、そう答えたら、それは2種類あって、棒をたてる必要があるのと、ないのとがあることを教えてくれた。

 さっそく、種の袋を調べたら、支えの棒が必要のようだ。

それにしても、何で? 人間の手を借りなければ成長できないのだろう? 支えの棒が必要だというのは、たぶん、近くに木々があるところしか、生きられないのかもしれない。

 家にあってもう芽がでていたジャガイモも、植えたが、それではダメだと教えてもらった。

 種イモと普通のジャガイモとは違うのだろうか?????

 「芽をとらないとダメだよ」

 この理由がさっぱりわからない。ホームセンターでは今たくさんの種類の種ジャガイモが売られているが、それもけっこう芽が出ていたのもあったが、どうなのだろう??

 一番心配なのは、水あげである。ベランダの苗づくりでは毎日水をあげていた。3日あげないと、しおれてしまったものもあったが、意外と強く、水をあげたら、息を吹き返してきた。

 家では水あげが簡単だが、畑では、川までいって、バケツの水くみも大変だし、それに、毎日畑に行くというのも面倒だ。

 大体、畑の野菜が勝手に育てば楽ちんなのだが、どうして、こうも人間の手が必要なのだろう。植えて思ったのだが、小さな苗であるほど、小さな赤ちゃんのような感じで取り扱うようになってきた。

 種はほんの一握りもないくらいなのに、

「そんなに植えて食べきれないよ」

という隣のおばはんが言ってくれても、「本当に収穫できるのか?」という方が心配であった。

生き物は手がかかる。

子どもが犬を飼いたがっていたが、頑として私は反対した。その世話が尋常ではないからだ。私の親がとても苦労していたのを知っているからだ。犬でも飼おうものなら、旅行までも行きにくいので、えらい自由が奪われる。

 ほ乳類は人間に近いので、愛情が深くなり、その死や苦しみが感じられるので、それを飼うのは相当の覚悟が必要だ。人間の方が小さいときは手間が大変だが、大きくなれば、自分で何とか生きていけるが、ペットなどはそうはいかないから、死ぬまで面倒をみる必要があるので、かわいいだけではその責任はとれないだろう。

 私はそうした愛情と責任はほ乳類だけかと思っていたが、愛情はほ乳類ほど強くはないが、野菜のような植物も同じように手間がかかるし、その一生に責任をもつ必要があることを感じてきた。

 水をあげられなくて、枯れたときの自分をせめたことを覚えている。また、育てればいいや!というものではない、それまで育った、育てた日々が大切だったことが思い起こされた。

 でも、育てば人間に食べられてしまうのだから、それは殺すってことだ。枯れるのと食べるとどう違うというのだろうか?

 私の家族は魚よりも肉が好きだが、その肉だって、育てた牛や豚を殺さないと食べられないが、食べるのはうれしいが、殺すのは悲しいに決まっている。何か矛盾する。

 唯一、食べられてうれしいと感じられるのは種を残すような果物だろう。りんごやみかんなど、まるで人間に食べてくださいといっているようだが、栗は違う、種は食べないでくれと人間をイガが威嚇している。

 そう考えると、死が喜ばれるのは種を残せるかどうかにかかわってくるのだろう。それはほ乳類でも種の保存ができるかどうかがキーポントになるということではないだろうか!

 つまり、

死は悲しい

再生は嬉しい

ってことだ。

 どんな死も再生になれるようにもっていくのが、生きて死ぬ醍醐味なのだろう。

借金の逆襲

日曜日, 2月 21st, 2010

 国も自治体も企業も借金で二進も三進も行かない状態だ。
どんな窮地も・・「ピンチはチャンス!」という道があるものだ。

 この道こそ、
減価するベーシック電子マネー」である。

 たった一つの法律を作ればよい。

どんな借金も国や各自治体が発行する減価する電子マネーで返済できる

 というものだ

例えば国の借金が日銀券1000兆円あったとする。
すると、この法律を適応して、国は新たに減価するベーシック電子マネーである
1000兆円0,1b(読み方・・・円0,1ベーシック)を発行し債権者全員に全額返済することができる。

 これは年減価率10%する貨幣である円bである。電子マネーにしたのは紙幣ではなく、VISAのようにカードで、その残高が自動計算しやすくするためである。

 そして、その円bは円と同じく使用することができる新円のような機能をもっている。発行当初は、日銀券よりも価値が下がるので、使用を嫌がる店があろうが、法律で日銀券と同じように使用できることを明記しておけばいいだろう。

 しかも、

この円ベーシックは大人毎月8万円子ども4万円国から支給されて、ベーシック・インカム銀行に振り込まれる。
 
 そのため、日銀券よりも多く流通する可能性がでてくる。

この毎年の財源は1億人の国民に年約100万円bとして、100兆円0.1b必要なので、その発行額は
 当初は円b発行額を1000兆円として、その10%の100兆円bを支給し、次年度からの発行額は減価する分の100兆円発行して全額配布すればいいことになる。

 そのため、
 新円である円ベーシック電子マネーの総発行総額は常に定額の1100兆円だけとなり、インフレやデフレのように物価が左右しない安定した経済社会が実現することになる。

 こう計算するといみじくも、国と地方自治体の借金合計総額1000兆円と国民の基本生存保証総額100兆円bと一致するのだ。

 そのことは、日銀による金持ち優先資本主義社会から命の保証システム社会へと変貌する時代がいよいよやってきたと思える。

 この変革に必要な円ベーシックは借金返済分の1000兆円bとその電子マネーがより流通するためのベーシック・インカム100兆円bの合計1100兆円bだけである。

 それで、国の借金を10年間で全額返済し、毎年100兆円のベーシック・インカム財源を確実に確保することができる。

 それを実現するには次の1条の法律だけである。

1,国は、日銀券の借金返済と国民の生存補償するための貨幣として、新円である減価する電子マネーである円ベーシック(円b)を発行することができ、その使用は日銀券と同じように使用することができる。

 そして、

造幣局で紙幣を印刷しなくてもいい。VISAのような会社を国や自治体が設立して、ネットベーシック銀行と、それに必要なカードとそれを読みとる機械を配布するだけでいい。

ゲゼルの時代ではいちいち紙幣に切手やスタンプをしければならなかったが、電子マネーであれば、その減価する分も自動計算することができる今はとても便利なネット社会である。

また、日銀券と併用できるので、このベーシックカードが使えないところは日銀券やコインを使えばいいし、貯蓄をして将来に備えたい人は今までの日銀券と債券を使えばいいだけである。

地域通貨で自治体が逆転ホームラン

日曜日, 2月 21st, 2010

 お金の研究をしていくと、減価する貨幣のような理想的なシステムを実現したくなる。

そして、過去数十年、各地で地域通貨が生まれたが、それが現実的に私の通貨として使えたことがない。

それに比べて、クレジット会社が発行するVISAのようなカードは現金よりも多く使えている。このVISAは世界通貨としての認識さえも生まれてきている。

クレジットとうのは借金という意味だ。今の世界がいかに借金システム(債券)が本流になっているということである。

しかし、世の中を動かし運営する能力があるのが国や自治体ではなく、民間企業だという証明でもある。国が発行すべきお金も、その運営管理がずさんになるために、民間の銀行にすべておまかせする方法しかとれない情けない状況だ。

 ではなぜお金の管理は、国ができなくて、民間ができるのだろうか?

 それはひとえに貸したお金を回収する能力が国にはなく、民間にあるということである。国はボランティアが基本であるが、民間は金儲けが基本だからである。これを推進する力は人力の法の強制力だけである。

 宗教から科学に代わるルネッサンス時代から飛躍的に生産が増えたが、お金のシステムだけは自然の力に頼ることなく、原始的人力による法強制力だけで動かしている。しかも、それを支えるのは貸借を現金化する信用創造(信用貨幣)であり、精神的な信用・信仰であり、実に非科学的宗教道義である。

 同情するなら金をくれ!

 という言葉が実に似合っている社会である。

 この人力法的強制力から、自然の水や生命の力に代えていけば、お金のシステムは減価する貨幣となり、実に科学的に、お金はお金自身の力で、人の命を守るように働くことができる。

 そのため、減価する自然貨幣システムを民間委託しなくても、水力発電機械のように自動運転することが可能になり、国や自治体で発行運営が可能になる。

 地域通貨を自治体が民間委託しなくても、充分発行運営が可能なのである。それは貨幣発行運営機械を自治体が導入するだけでいいからだ。強制的にその財源として国の補助や住民税に頼る必要はまったくないからである。

 しかも、自治体が減価する貨幣システムによる地域通貨を発行すると、夢のような財政再建ができてしまう。あの夕張市はあっというまに世界一の裕福な市に変貌して、そこに住みたいという人がどんどん集まってくるだろう。

 その原理はこうだ。市を一家族として考えてみると、

1,市の借金が1000万円あって、それを返済できるあてもなくなった。

2,破産宣告をする

 ここまでは同じである。ここからが違う、借金をチャラにするのが、今のシステムだが、地域通貨システムでは違う。

3.1000万円の地域通貨(年減価率10%)を市は発行して、債権者にその地域通貨を1000万円分買ってもらう。

 その地域通貨は協力する人であれば、だれでもが使えるようにする。もし、協力者がいなければ、市の産業のものであれば、必ず購入できるようにする。

4.翌年、地域通貨1000万円の減価率10%の100万円を新発行(減価率10%)することができるので、それを市民10人いたら、年10万円のベーシック・インカムとして贈与することができる。

          発行額       ベーシック・インカム額

初年度    1000万円        0円

2年度     100万円        10万円

3年度     100万円        11万円

4年度     100万円        12万円

10年度   100万円      18万円

11年度   0円          1万円

12年度   0円          2万円

20年度  0円          10万円

21年度   0円          0円

 もし、1000万円の借金を元にした地域通貨だったら、20年後は0の価値になる。

しかし、

 市民10人のベーシック・インカム 年10万円を確実に支給するための地域通貨だったら、毎年100万円の減価率10%の地域通貨を発行すればよいことになる。その財源は毎年100万円の日銀券にすれば、地域通貨は常にそのときの一定相場で、日銀券と交換できるようになる。

 そして、さらに、

5.他の自治体の借金をその自治体の地域通貨としてその債権者に買ってもらえるように運動し、かつ、積極的に日銀券で買ってもらえる運動をすると、いつのまにか、日銀券よりも、各地の地域通貨の方が協力できる貨幣として流通が多くなるのではないだろうか。

 

政治って何だ?

土曜日, 2月 20th, 2010

 今度の引っ越し先のまわりの道を調査した。

 なんと、山上の家から下の方に降りる道があったが、その途中が誰かの土地のブドウ畑の中を通ることになり、しかも、道の上はブドウのつるをはるはりがねが網の目になっており、2m以内の高さでないと、車は通れない。明らかにそこは私道だった。

 そして、隣の家には数百メートルもあると思っていたら、山裾から国道に出るまでに10数件の家があることを知った。

そこで、不動産の案内に隣家が200mと書いてあった意味がやっとわかった。そして、どの集落の人たちとの交流があるのかもわかった。

 この集落の中心に山梨県の文化的史跡「なんとかの滝」があったが、それを探したら、標識と石碑が畑の陰にぽつんとあった。驚いたことに、そこが滝であるとはとても思えない、下水管から水がちょっと流れているようなものだった。

 この集落を歩くとやたらに数匹の犬がほえてきて、威嚇される。前の住人がこの集落はまとまりがなく、数十年前に東京からやってきたもの達がけっこういると教えてもらっていたが、なるほどと思われた。

 地域としてまとまりもなく、それぞれの家が自分の土地の中だけの楽しさを満喫しているかんじである。

 この集落の周辺は公園と文化的施設のオンパレードだというのに、この集落だけがとりのこされているって感じである。

 もし、このなんとかの滝の史跡を中心にした文化的公園のような集落にしたら、とても過ごしやすい集落になるだろうと思えたが、それができるのは、そこの住民の意識の盛り上がりがどうしても必要だろう。

 そこで、ふと思った。

「政治って、こういうことなんだ!」

その地域の烏合の衆がどう地域を過ごしやすくするかすることなんだ。

自由と協力がはげしくスパークするようなものなのだろう。

お金の問題は政治の問題である。

政治の問題は「自由と協力のスパーク」の問題ということなんだ!

この集落をもっと過ごしやすくするには、政治力が必要になる。

まず、

1,ビジョンが必要

  この地域を一緒にどう変えたいのか、はっきりとした具体案を出すこと。

2,住民が集まったときに、その具体案の討議と最終決定

 いわば、国会のようなものだ。

3.その実行を推進するリーダーの選出

 いわば、総理大臣を決定する。その投票権はそこの住民であるかどうかだけである。

4,プロジェクトのチーム編成

5.具体的実行計画の提出と承認

6.実行とその結果の反省

7.解散

  そこで、リーダーも、チームも、その討議会も解散する。

 つまり、

 最初にリーダーやチームがあるのではなく、最初にビジョンがあるかどうかである。

ビジョンがつぶれたら、政治は必要ないということである。

それは

政治というのはプロジェクトチームであることが必要だということでもある。 

第4回放送「自由とお金」

火曜日, 2月 16th, 2010

 最近、引っ越し作業に忙しく、テレビ放送をすることができなかった。

周りではどんどんベーシック・インカムを実現しようとする運動が盛んになっていたが、そこに参加することも難しかった。

でも、自分なりのことをして、陰ながら参加しようと思い、5ヶ月ぶりにテレビ放送してみた。

 特に、ベーシック・インカムの必要性を私なりのアピールをしてみたつもりだ。

いかに死ぬべきか

月曜日, 2月 15th, 2010

 鬱病と誤解されやすいタイトルだが、他にうまい表現ができない。

 昔、10代の高校生だった頃から、ずっと問い続けてきたテーマが

「いかに生きるべきか?」

 だった。その問いが娘たちにとってかわり、親の私は

その問いが

「いかに死ぬべきか?」

に変わっていることにはたと気が付いた!

この変化はなんてことはない。

人生を山登りに譬えてみれば、頂上と50歳とすれば、上り坂と下り坂だというだけのことである。

これを私はUターン説として発表したことがある。

だが、今回は意識そのものが、生から死へとハッキリ逆転していることに気が付いて自分ながらびっくりしているのだ。

私が高校生の頃、「生きるのは何か、勉強って何だ、働くって事はどういうことだ?」と真剣に悩んで、その答えが見つからずノイローゼになり、学校も中断、しまいには1年近く病院に入院せざるをえなくなったことがある。

その心の病には幻聴幻覚妄想がついてきたので、まさに地獄からの生還のように10年以上かけてゆっくりと這い上がってくるしかなかった。ただ、今の多くの鬱病のような症状とはかなり違っているように思える。私は生そのものを否定しなかった、否定できなかったからだ。

これは、自分がどんな疑問を持つかどうかで、その答えが決まってくることと見抜いた結果だった。

問い

 なぜ生きるのか?

答え

 なぜとは原因のことである。そのため、生きることを否定するための疑問がなぜ生きるのか?になる。

 よって、この答えは自殺を誘因するものになる。これがたぶん鬱病の疑問形態である。

ノイローゼ青年だった私はこの問いをこう代えた。

問い、

いかに生きるべきか?

答え、

いかにとは、How である。生を肯定して始めて生まれる疑問符である。よって、自殺思考はなくなり、生きることに前向きになる。WHYは否定疑問符だから、その使用には注意が必要である。

この答えには2つ導き出した。

1,断定する答え・・・・例、生きるとは愛すること、生きるとは創造すること・etc

2,疑問をかっこに閉じて答えを探し続ける・・・

 これは数学におけるXを代入する方程式と同じ方法である。不明な数字は( )に閉じそこにXを代入して、計算を進めるようなものである。今はどう生きていいのかわからないけれど、いつかきっとその答えがわかる日がやってくるだろうから、とにかく生きてみよう。

1と2を合わせると、その答えが、断定的なものが毎年変わってきたように思える。そして、その答えはいまもなお探し続ける旅人のようなものになっている。そして、今、問いそのものが、年齢とともに、

いかに生きるべきか→→いかに死ぬべきか

 に変わって問い続けている。但し、この死ぬというのは天地から与えられた寿命のことであり、天地に逆らった自殺のことではない。

 簡単にいえば、いかに残された人生を有意義に過ごすか?という老境に入っただけのことである。

 それにしても、

還暦の60歳には赤いちゃんちゃんこを着せるのだろうか?

まるで赤ちゃんになったことを祝うようなものだろう。

でも、考えようによってはこれは実に似合っている!

人生の上り坂を「この世」

人生の下り坂を「あの世」

とすれば、60歳にして、「あの世」に生まれ出た赤ちゃんになった。

 この「あの世の赤ちゃん」を祝うのは朝焼けの赤と対照的な大きくて真っ赤な夕陽をイメージしているのではないだろうか?

朝焼けが愛ならば、夕焼けは感謝になるだろう・

♪♪♪♪♪♪

朝焼けは愛

夕焼けは感謝

燃え尽きて消え去る桜花かな

♪♪♪♪♪♪

求め合う者は奇跡的に出会う

土曜日, 2月 13th, 2010

 娘とその友人が東京の原宿に行きたいというので、山梨から車で連れて行った。こういうことがないと、めったに東京には行かない。山梨にはうちが一番使っている三菱東京UFJ銀行はないので、わざわざ東京までいって、数ヶ月に1度記帳しなくてはならない。

 娘はこの三菱東京UFJ銀行の新規に口座を開きにいくのがもっともメインのことだった。というのは、親から娘への送金する際、同じ三菱東京UFJ銀行だと、送金料が無料にできるからだ。それに、三菱東京UFJ銀行はセブンイレブンで平日は無料で出し入れできるのでとても便利なものだからである。

 娘たちを原宿におくり、友人とドトールコーヒーを飲んでいたら、倉庫付駐車場が昨日急に解約したいという電話があった。

そのため、解約を1ヶ月後にしたのだが、なかなか新規にこの倉庫付駐車場のお客を捜すのは大変である。
 昔は2年がかりで、宣伝して、やっと契約にいたった経緯がある。
 というのは、不動産屋さんだけの情報では駐車場2台の募集になってしまい、それだとお客が集まらない。そのため、フリマ笹塚の店舗に大きくポスターをつくり、そこで、やっと3年がかりで、いっぱいにしたからだ。
 そんな苦労をまたしなくてはならないのか・・と重い気持ちになって、とにかく、すぐに契約しているトマト館に足を運んだ。

 「元ゴリラ便の倉庫付駐車場の6番」が空いたのでよろしくお願いします!」
 と言ったときに、その隣の席にいたトマト館のお客がいままさに別な駐車場の契約をしようとしていた。
 そして、何かとても興味がありそうな感じだったのを感じた。
 そして、私はさっそく空く駐車場の草刈りと清掃をしにいき、自分の車で休んでいた。
 すると、
 そこにあの隣のトマト館にいた人がやってきて、
「6番はどこでしょうか?」

「あ! さきほどあったトマト館で会った人ではありませんか?」
 そして、特別この倉庫付駐車場がきにいったようだ。すぐに、その社員の人が3人車でやってきて、
「ここはいい、広いし、、コンテナも付いている」
 どうやら、
こういう物件を探していたが都内のどこにも見つからなかったらしい。

 こんなに喜んでもらえたことで、自分が創った事業がやっと報われた醍醐味をそこで感じた。

 私はそこの管理をしてもらってくれるスタッフにさっそく電話して大いに喜んだ。

 私は大きな事業をしているわけではないので、この契約で、私の家族の生活費が5万円減るかどうかの深刻な問題だったからだ。

 この契約ができる確率は、めったに東京にはいかないことと、解約した時間と新規に契約が決まる時間の差が数時間だということを考慮すると、1億分の1以上の奇跡的なものだろう。

 そこで、ふとこう思った。

求め合う者は奇跡的に出会う

公とは私が無いということだけである

木曜日, 2月 11th, 2010

 昨年公私理論として、瓦理論をここに書いたことがある。

それは、公私を5:5にするのが、丁度いいコミュニケーションだというものである。

 しかし、これは公というものを存在すると仮定したものである。公とは私の集合体であり、常に同じ集合体ではないので、固定的に存在するのではなく、時代の流れとともに変化しつづける集合体である。

 さて、宇宙のはてはどうなっているのだろうか?

 時は無限に進んでいるのだろうか?

 無限の宇宙の存在と時間をどうとらえたらいいのだろうか?

 数学の図にしてみると、実存と心の姿と合わせて公私を表現することができる。

公私の公は無限(∞)の空間と時間の変化し続ける姿であり、私は世界を観る基点(0)として表せることができる。

 実際に存在するものは、第4元の時間と空間の中にしから存在しないので、緑の部分であり、それ以外は実存はしていないが、存在しているかのようにみえる心が黄色の部分であり、それが実存の世界では記録として残された言葉や写真の電子の組み合わせのような信号として記憶される。

 神仏とは公の無限の存在のようなものであり、それを支えているのは私(自己の存在)の意識(0の基点)だけである。そのため、あえて、公というものは存在として言い表すと、私が無くなっていく流動体のようなものに表現できる。

お金のしくみからいうと、

 減価する貨幣は、私という所有権が時間とともに消えていく貨幣であり、その消えていく価値の数字が公の価値になる。

 例えば、1万円の年10%の減価貨幣を造幣して、Aさんに譲渡したとする。Aさんはもしおの減価貨幣の減価率10%の1万円を使わないで貯蓄すれば、その10%の減価率1000円を毎年税金として国に徴収され、10年後には合計で1万円徴収されることになり、Aさんが貯蓄した減価率10%の1万円はそのお金を製造した国に没収されるということである。

 しかし、Aさんがこの減価する1万円を使用すれば、10年間はそのお金が消費税年1000円支払いながら、流通するということになる。

 税金を公のお金とすれば、減価する貨幣においては、私の所有権を捨てた(減価率)お金のことになる。

私が少なくなると、公が増える。私を捨てると公が豊かになっていく。

 そのため、税金を払ったり、ボランティアしたり、公務をすることは大変だが、減価する貨幣社会においては、公に働くことは私的なものを捨てていくだけの楽な作業になる。但し、その私の捨て方は生ゴミを単に捨てるのではなく、堆肥になるように捨てることで、公として、生まれ変わる私の存在になる。