植え込みした

昨年の

11月終わりに、種のまきどきが可能な種をホームセンターから買ってきて、家のベランダで成長させ苗にしてみた。

買ったのは、

1,葵エンドウ(あずみ野30日絹さやPMR)

2,レタス(キングクラウン)

3,コマツナ(小松菜)

4,キャベツ(四季まきキャベツ)

5,ニンジン(時なし5寸)

6.ダイコン(雪美人)

 一番うまく成長したのはエンドウだった。他はうまく成長しなかったが、苗床を替えて、残った種を適当に蒔いたら、発芽していた。でも、それらは小さくて、うまく植え付けができなかったが、とにかく、適当に植え付けした。

 そんなとき、

 まわりの畑をしているおばさんたちが、何を植え付けしたのか興味津々できいてきた。

 自分では、エンドウしか発芽していないので、そう答えたら、それは2種類あって、棒をたてる必要があるのと、ないのとがあることを教えてくれた。

 さっそく、種の袋を調べたら、支えの棒が必要のようだ。

それにしても、何で? 人間の手を借りなければ成長できないのだろう? 支えの棒が必要だというのは、たぶん、近くに木々があるところしか、生きられないのかもしれない。

 家にあってもう芽がでていたジャガイモも、植えたが、それではダメだと教えてもらった。

 種イモと普通のジャガイモとは違うのだろうか?????

 「芽をとらないとダメだよ」

 この理由がさっぱりわからない。ホームセンターでは今たくさんの種類の種ジャガイモが売られているが、それもけっこう芽が出ていたのもあったが、どうなのだろう??

 一番心配なのは、水あげである。ベランダの苗づくりでは毎日水をあげていた。3日あげないと、しおれてしまったものもあったが、意外と強く、水をあげたら、息を吹き返してきた。

 家では水あげが簡単だが、畑では、川までいって、バケツの水くみも大変だし、それに、毎日畑に行くというのも面倒だ。

 大体、畑の野菜が勝手に育てば楽ちんなのだが、どうして、こうも人間の手が必要なのだろう。植えて思ったのだが、小さな苗であるほど、小さな赤ちゃんのような感じで取り扱うようになってきた。

 種はほんの一握りもないくらいなのに、

「そんなに植えて食べきれないよ」

という隣のおばはんが言ってくれても、「本当に収穫できるのか?」という方が心配であった。

生き物は手がかかる。

子どもが犬を飼いたがっていたが、頑として私は反対した。その世話が尋常ではないからだ。私の親がとても苦労していたのを知っているからだ。犬でも飼おうものなら、旅行までも行きにくいので、えらい自由が奪われる。

 ほ乳類は人間に近いので、愛情が深くなり、その死や苦しみが感じられるので、それを飼うのは相当の覚悟が必要だ。人間の方が小さいときは手間が大変だが、大きくなれば、自分で何とか生きていけるが、ペットなどはそうはいかないから、死ぬまで面倒をみる必要があるので、かわいいだけではその責任はとれないだろう。

 私はそうした愛情と責任はほ乳類だけかと思っていたが、愛情はほ乳類ほど強くはないが、野菜のような植物も同じように手間がかかるし、その一生に責任をもつ必要があることを感じてきた。

 水をあげられなくて、枯れたときの自分をせめたことを覚えている。また、育てればいいや!というものではない、それまで育った、育てた日々が大切だったことが思い起こされた。

 でも、育てば人間に食べられてしまうのだから、それは殺すってことだ。枯れるのと食べるとどう違うというのだろうか?

 私の家族は魚よりも肉が好きだが、その肉だって、育てた牛や豚を殺さないと食べられないが、食べるのはうれしいが、殺すのは悲しいに決まっている。何か矛盾する。

 唯一、食べられてうれしいと感じられるのは種を残すような果物だろう。りんごやみかんなど、まるで人間に食べてくださいといっているようだが、栗は違う、種は食べないでくれと人間をイガが威嚇している。

 そう考えると、死が喜ばれるのは種を残せるかどうかにかかわってくるのだろう。それはほ乳類でも種の保存ができるかどうかがキーポントになるということではないだろうか!

 つまり、

死は悲しい

再生は嬉しい

ってことだ。

 どんな死も再生になれるようにもっていくのが、生きて死ぬ醍醐味なのだろう。

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