国の防衛で基本的なのが正当防衛だ。
それは「もし相手が自分を殺そうとしたら、自分は相手を殺していい」
それが正当防衛だ。この考え方に疑問の余地ははさめないのだろうか?
江戸時代において、仇討ちが正当なものとして認められていたが、最後は仇討ち禁止をせざるをえなくなる。
戦争が復讐合戦になって、どんどん殺し合いが激しくなって、地獄の姿を見せてくる。
正当防衛に疑問を持ったのが、キリストの愛だ。
マタイによる福音書 / 5章 38~48節
あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。
あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
古代のハムラビ法典である正当防衛の法を禁止をしたのがキリスト教だ。
しかし、歴史を顧みると、キリスト教国に限らず、正当防衛と復讐の正当化をして戦争を誘導拡大化させている。
この正当防衛をさらに上にいったのが、先制攻撃である。アメリカがイラクを攻め落としたのがそれである。先制攻撃とは、「殺される前に殺してしまえ」ということである。その結果、終わることのない戦争激化をさせてしまっている。
自分の命を守る道具には正当防衛として、みな殺人兵器を基本としている。防衛費はいわば殺人兵器の購入代金のようなものだ。核爆弾の廃止することをオバマ米大統領は提案したが、これは大量殺人兵器の禁止をする一歩だが、それが実現するのはかなり時間がかかるだろう。
世界を変える最初にあるのは人の意識の変革だろう。大量殺人兵器だけでなく、すべての殺人兵器を廃棄することで、本当の防衛を実現させる方向が必要であろう。
ごんテレビで、「死刑容認が85.6%」の日本人の意識を問題にしたが、この死刑容認も人の命の問題を考えると、「正当防衛の容認が85.6%」だということでもある。
しかし、悪人を死刑にしたところで、悪人が減るのだろうか? しかも、悪人を死刑にして、その被害者の家族の気持ちが晴れることはあるのだろうか? 被害者の家族にとって、一番の願いは「命が帰ってくる」ことなしに、それはいえることはないはずだ。
もっとも願うのは悪人が反省をするかどうかである。反省をしない、反省の見込みがないから死刑はやむなしになってしまう。しかし、その命を奪ってしまったら、反省する一滴のチャンスまでも奪ってしまうのではないだろうか?
将棋のおもしろさは、敵の駒をとったら、その駒jは見方の駒になるということである。そして、目的は相手の王様だけをとればいい。ピンチはチャンスになりえるように、人の悪は善にもなりえるかもしれないのだ。
例えば、死刑囚の肉体で臓器移植をしたら、悪が善になるではないか。
お金の研究をしていると、いかにお金を自然の摂理に近づけるかというのがポイントになる。
これは、人間の法律が自然の法律に近くなるのがキーポイントだということである。
「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
聖書でもいうように、天の父とは自然の姿のことである。自然に善悪は関係がない、人間の法律に善悪がある。人は最終的に自然に帰っていくように、善悪も、貸し借りも、水に流していくことがもっとも平和な心と生活を実現する基本になるのではないだろうか!
正当防衛にけして殺人兵器が使われるのではなく、正当防衛には相手の行為だけを殺す麻酔銃が使われることが大事ではないだろうか。その人をうらむな、その行為をうらめ! というのが、社会を正常化させる意識力になるのではないだろうか。