投資は犯罪です

 今朝、温泉に入ったら、男女の境にある衝立に

「のぞきは犯罪です」

 と書かれてあった。何かどきっとする表現である。この文句が書かれてから、のぞきは無くなったようで効果的だったようだ。

お金の研究をすると、お金とは協力券、分配券のようなものだと思えてくる。

お金でお金を増やす行為そのものが、分配券を取り合ったり、協力をぜず、奪い合う喧嘩に見えてくる。

 アメリカ大陸で昔人間狩りという狩猟があった。イノシシやバッファローの狩猟のように、現地のインディアンを追いつめ殺すだけのゲームである。

 お金が無ければ暮らせない時代において、お金は命を支える食料と同じである。

この人の命を支えるお金を奪い合うことは、この人間狩りとして命を奪い合うことと同じではないだろうか?

例えば、

 ジャンケンをして勝った方が負けた方の命を奪うことができることと同じだと思えるのである。

 投資はギャンブルである。お金が命であるならば、お互いの命を賭けたゲームである。

 人の命を奪うことが犯罪であるならば、投資もまた犯罪である。

「投資は犯罪です」

 という意識が生まれたら、投資で金儲けしようとすることはなくなるかもしれない。

こうした感覚は直感的にギャンブルが不謹慎のようなものに感じるところにも見られる。

 パチンコのようなギャンブルをするとき、お金を遊技用の鉄の玉やコインを購入する。そのコインは100円玉にそっくりだから、実際のお金でできないことはないはずであるが、もし、それをしたら、不謹慎に感じたり、楽しく遊べないで、血眼になって真剣勝負になるだろう。

▼実質経済用貨幣と投資ギャンブル用貨幣の分離

 人の愛は分けたものを一つになることだが、人の知はごちゃごちゃになった1つのものを2つに分けることである。

 今の世界経済が商品の生産流通をする実質経済の何倍何十倍の投資ギャンブル経済が主流になっている。昨日、「教えてMrニュース池上彰のそうなんだニッポン」で、原油の値段が毎日変わる理由として投資ギャンブルのためにそうなることをうまく説明していたが、もし、需要と供給で成り立つ実質経済であれば、よほどの災害や戦争がないかぎり、そう変動はしないだろう。

 日本の電気やガスの料金のような数ヶ月や年の単位の変動になってくるだろうと思われる。しかし、現実はまさに原油の価格がラスベガスのカジノのルーレットのような掛け金とその倍率で毎日遊ぶゲームになっている。

 今の世界は原油がお金になっており、世界の経済を支える中心になっているからなおさらである。

 昨年からの世界恐慌は、世界が一家族だとすると、旦那さんがギャンブルに夢中になって、一銭も家庭にお金を入れない状態になり、生活が困難になっている状態である。

 健全な家庭ならば、ギャンブルを遊行費として認めるならば、月の収入費が30万円あったら、遊行費は最高でその10分の1の3万円までに制限して、けして、基本となる衣食住の生活費である10分の9の27万円は遊行費として使わないであろう。

 これは健全なお金のシステムにもいえるのであって、実質経済用のお金9に対して、投資ギャンブル用のお金1の割合で、お金が発行される必要がある。先日提案した円ベーシックを実質経済用のお金を9として、現在の投資用のお金を1の割合で発行すべきであるということだ。

 しかも、投資ギャンブル用の基本となる債券や株の売買は今の円でできるが、実質経済用の円ベーシックでは売買できなくすることも大事になる。

 次に必要なのは、投資ギャンブル熱をコントロールすることである。

▼投資用貨幣の制限

 人がパチンコをするときに、お金でパチンコ用コインを買う。そして、うまく儲かったパチンコ用コインを売って現金に換える。

 もし、パチンコの出球の確率が一定であれば、投資熱はこの売買交換率に依存する。

例えば、1000円でパチンコ玉が200個から400個買えるようになったら、ギャンブル率は下がり、遊行率が上がる。

 パチンコ玉400個1000円の交換から200個1000円に売れるようになったら、ギャンブル率は上がり遊行率は下がる。

このパチンコ用コインを投資用貨幣(円)とし、現金を実質経済用貨幣(円ベーシック)とするならば、

 両者の交換率をかえることによって、投資経済と実質経済のコントロールが可能になる。

 例えば、

投資用貨幣が1000円は実質経済貨幣500円ベーシックと交換できるようにすると、投資用経済熱は下がり、実質経済熱が上がる。

また、

 パチンコをすべてゲームセンターのようにしたら、ギャンブルはなくなり、すべて遊びになる。

 というのは、ゲーム用コインは買うことはできても、売ることはできないからである。それはスポーツのように、数字の高さを競うものだけになるからだ。

この例を投資用貨幣である円と実質経済貨幣である円ベーシックに適応させると、

 実質経済貨幣である円ベーシック500円ベーシックで投資用貨幣である1000円と交換できるが、どんな投資用貨幣である円であっても、実質経済貨幣である円ベーシックには交換できないことになり、命の一方通行のようなものになる。

 これは地域通貨を日銀券に替えることはできないが、日銀券で地域通貨は買えるということと同じである。

 この一方通行の交換においては、その交換率で、遊び経済と実質経済をコントロールすることができる。

 円ベーシックが高く円が低いならば、実質経済が盛んになり、

 円が高く円ベーシックが低くなれば、遊び経済が盛んになる。

「投資は犯罪です」

 とはいったが、それは極端な解釈ではあるが、人がギャンブルや命を賭けることを欲するのは、人は生死の境を生きるときにもっとも充実した喜びと悲しみをえるからであろう。

 そのため、投資ギャンブルを廃止することは不可能であろう。むしろ、生きる余裕や豊かさのための遊びとして成立できるような投資ギャンブルを可能とすることが大事になってくるだろう。そのためには、どうしても、実質経済と分けたお金にする必要がでてくるように思える。今のお金のシステムだと、味噌もくそもいっしょになっているからだ。きちんと味噌とくそを分別して、お互いの良さを出す経済効果をだすことが望まれる。

 

 

 

 

 

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