Archive for 3月, 2018

時空を超えて今僕はここに居る・その5

土曜日, 3月 31st, 2018

二人のヤングフレンド

奇跡のヤングフレンド

初めて恋をしたときから

今の67歳になるまで ず~と解らなかったことがあった。

モンゴルの旅で奇跡的に出会った二人のヤングフレンドにそれを教えてもらった。

もちろん、

19歳のヤングフレンドたちは 自分たちが一体何を67歳の老人に教えたのか ?????であろう。

それは恋愛・結婚・子育ての長い経験がないと まったく????で、

たとえ、言葉による理解でも 一向に??????であろう。

また、死ぬほどの恋に苦しんだことがないと やはり?????であろう。

 

釈迦が断食と瞑想の長年の荒修行の末、息絶え絶えに山から下りてきて、

やせ細り、今にも死にそうな釈迦の姿をみて、若き娘子が

一杯のミルク粥を差し出し、それをいただき 忽然と悟るようなものである。

 

ヤングフレンドは ただ正直に本音で語り、答えてくれただけである。

だが、67年間の片思いの修行者に その本音が ミルク粥をなにげなく与えるように、

奇跡の悟りを忽然ともたらせてくれたのだ。

 

片思いは本質的にエゴである。

無償の愛は理論的には可能であるが、実際的には不可能であり、

どんなに努力修行しても、幾分有償の愛が混じってしまう。

100%の無償の愛は いわば 仏陀の悟りであるが・・

不悟の悟、不知の知 無知の知 を知って、

そうした絶対的境地や仏陀の悟りのようなものは単なる幻想や

終わりのない目標地点としてとらえた方がより自然的またより人間的な自遊な生き方ができる。

 

恋愛は感謝とのバランスで成り立つ。

そのバランスは五分五分で、

自分のことを考えるのを 5 対して 他人のことを考えるのを 5

この半々のバランスが一番人間関係でも、社会の健康度にも、恋愛と感謝でも 丁度いい。

 

相愛はたぶん、恋愛と感謝のバランスが うまくとれた時の状態であり、

そのバランスが欠けると 別れがやってくるが、バランスが満ちると また出逢いがやってくる。

それは 生と死が 波間のように 打ち寄せては、去っていくようなものであろう。

 

 

時空を超えて今僕はここに居る・その4

金曜日, 3月 30th, 2018

今僕は50年前の自分と50年後の自分とそして今の自分の三者が一同に会して話し合っている。

そんな不思議な世界にはまり込んだのは・・

今回のモンゴルの旅における出逢い、そして50年前のオランダにの国際ワーキンぐキャンプ、

今生で、最高の面白さがあり、友情も、恋愛も、理解も、 大きな喜怒哀楽を通じて、これほどの幸せを感じることがあるのか!

そして、50年後の再生しても、やはり同じ体験があるだろうことを十分信じられる出来事であった。

モンゴルの旅では、老若男女、国人種宗教を超えて 理解と友愛が実現できたことで、

天国のような空想と幻想のような世界より、はるかに この現実がキラキラの輝き、最高の幸せを感じられる世界をあることを 実際に嫌と思わせるくらいの充実感、幸福感、感動を与えてくれている。一か月半も続き、今もなお持続している。このまま50年間、そんな幸せ感が続くのではないかというぐらいの 桜咲く春のようなポカポカ気分なのである。

どうして、こんな奇跡的な出来事が次々連続して起こり、そして、幸せ感が持続できるのか、分析してみたくなった。

その原点は 約50年前の オランダの国際ワーキングキャンプの二週間にある。

みんなでヒッチハイクしてアムステルダムで合流した瞬間

国際ワーキング・キャンプは

CCIVS (Coordnating Committee for International Voluntary Service)

起源
国際ボランティアサービス(IVS)運動は1920年に生まれました。
最初のプロジェクトはフランスのヴェルダン近くで開催され、ヨーロッパのボランティアのグループが荒廃した村の再建を手伝っていました。

 

第二次世界大戦後、戦後復興とボランティア組織の増加に直面して、ボランティア活動の調整と奨励方法についてユネスコで議論が行われました。

1948年4月、国際ワークキャンプ組織会議が開催され、パリのユネスコ本部に設置され、国際キャンプのための調整委員会が設立されました。

1950年代から、ボランティア組織の数は、軍縮から健康と人権に至るまで、脱植民地主義から平和へと異なるテーマに触れ、世界中で増加しました。

1960年代初頭、CCIVSは当時の東欧の社会主義諸国の若者団体との接触を開始し、1970年代と1980年代には東西のボランティア青年交流を組織化する重要な中立基盤となった。1971年、CCIVSは国連ボランティアの創設にも関連していました。

1980年代、「鉄のカーテン」を横切る東西プロジェクトの数が増加した。

1987年、CCIVSはペレス・デ・クエラーの国連事務総長より「平和のメッセンジャー」という称号を授与されました。

1990年代初めには、南北関係とアジア・ヨーロッパ関係がますます重要になった。

それ以来、CCIVSは、国際的なボランタリーサービスの動きの発展に関する議論や交流のための品質基準の改善の場として知られていました。

CCIVSメンバーは、国際ボランタリー・サービスに関連するインパクト、認知、政策に関する動きを反映して、異文化間対話、持続可能な発展、世界遺産、健康と紛争の5つの主要トピックについて今日働いています。」

最近は

World Heritage Volunteers Initiative 世界遺産ボランティア活動に力を入れている。

日本のNGO団体のNICEが CCIVSと

NVDA(アジア・ボランティア発展ネットワーク)と

ALLIANCE(欧州ボランティア活動団体同盟)とも合わせて活動している。

私が24歳のとき、オランダの田舎の一軒家(知足庵のような)に 24人、13か国が集まり、日本人は私一人で、とくに、この時期、ベルリンの壁があったため、東欧に若者が半数近くいて、英語が話せない人も多く、まだドイツ人によるユダヤ人虐殺の痛手があった時代である。

そして、常時近くの茂みに隠れ、オランダ警察パトカーがきて、時々パスポートを東欧の者だけチェックしていた。

 

トレーラに全員のり、オランダのサイクリングロードを作っていく土方の仕事である。オランダでは車道自転車道歩道が緑でしっかりと分けられ、それを作ったのは 国際ボランティア集団も一躍担っているのである。

お世話役はオランダ人の若者がやり、食事を作るのは各国持ち回りである。

私はカレーライスを作ったが、英語がよくわからなかったため、ベジタリアンが3名いたので、えらく「岡部は友達じゃあない」とえらく恨まれた。肉をとっただけではだめなので、やむなくサラダだけ三人に与えた。

寝床は床に 男女の差をつけることなく、入り混じって寝ていた。大体男女隣りあわせになることが多い。

さりとて、なんの問題もおきなく、また、アムステルダムのゲストハウスも同じような感じで、いわば日本の山小屋風というようなものである。そのゲストハウスの寝床手続きは簡単で、腕にインクでスタンプをつけるだけだった。私は牛の焼き印を思い出し、逃げようとしたら、マリリーンが腹を抱えて笑ったのをよく覚えている。

ボランティアよりも、一緒に遊ぶことを重視していて、ボール遊び、離島の旅、ヒッチハイクの旅、ダンスなど、それぞれが今日は何をして遊ぶか アイデアをだし、翌日には実行される。

そして 別れがやってくると みな燃焼しつくして感動した。

 

 

 

 

 

私は最後に、パリで買った38cc原付自転車で 去った。

夢のような青春の思い出として その後50年たっても、彼らに会いたいと思うくらい燃え尽きた日々であった。

 

いかに、国際間の友愛が感動と幸せを与えるか、それを知った50年前である、

それがまたモンゴルの旅で、それは国際間だけの友愛だけでなく、老若男女を超えた友愛もまた大きな感動と幸せをうむかも味わわせていただいた。

遠く、離れて、理解が難しい同士が、互いに向き合い、そして、理解 友愛する それはどれほど、世界の理解と平和がこの世で なによりもの宝物であるかを教えてもらう。

戦争の悲惨さ、残酷さの 逆だと想像すれば、平和と理解がいかに大切なものであるか、この体験でしっかりと心身に刻むことができたと思える。

 

 

 

時空を超えて今僕はここに居る・その3

木曜日, 3月 29th, 2018

モンゴルの大学で、ズーム(スカイプのようなテレビ会議ソフト)による

日本とモンゴルを中継をするのに、私の友人である源吾郎さんを大橋教授に紹介した。

モンゴルに公演12階、ごみ拾い6回の大道芸人である。

30歳ころ、私と源吾郎さんとで、日本大道芸協会みたいのを作ろうと、原宿の歩行者天国で集まるギリヤーク尼崎さんを交えて、ワイワイ マルセ太郎の女弟子コンビ エンジェルも参加して やっていた。

私は芸人でなく、ただのゴリラメッセンジャーのプレゼント配達人であるためか、どうにもそこでやっていく自信がなく、また、便利屋やゴリラ便の方が忙しく、協会は彼一人で続ける格好になった。

テレビで活躍できる芸人はほんのわずかであって、万が一の割合で 出てこられるが、それも長く出られるのも万が一の割合であり、非常に笑いの世界は競争率が激しく、ほんの些細な才能と運の差で、天国と地獄の差が生まれる。それは有名無名だけでなく、経済的格差も万が一の差ができる。

モンゴルでは市会議員でかつ電子技術者のセンザイさんは67歳、クリ医師も67歳、源吾郎さんも私と同じ67歳である。

昨年2017年の2月の毎日新聞に

 紙芝居
デビュー45年・源吾朗さん、「和の心」込め 2度のがん乗り越え、台東であす公演 /東京

電話ではただ病気していて昨年はモンゴルに行けなかったといっていたが、今初めてネットで調べて解った。

ズームによるモンゴル公演が実現しなかったのは

源吾朗さんが、パソコン音痴で、すべて奥さんが手伝ってもらわないと難しく、パソコン類はスマホしかもっていない。また、モンゴルでは日本語で、日本語を学んでいる小中高生相手に自作の紙芝居 スーホーの白い馬を演じていた。

大学では英語もほとんど通じない、まして日本語も通じないので無理だろうと思えたのである。

また、大病を患っている、源吾朗さんはボランティアする余裕がなく、ギャラなしでは「飯も食わせず仕事させ」状態になるのは会話中にヒシヒシを感じられた。

それで、私は大橋教授に無理だと報告して、ブーム実験は中止になったのである。

源吾郎さんの活動を調べてみた

源吾郎ブログ(更新されていない)

東京演芸協会

体験ジャパン

 

35年前当時から、必死で大物大道芸人になろうという悲壮感が漂っていた。

その頑張りまた病気との闘いも合わせての笑いには余裕がなく、その内情を知っている私には涙さえ出てきてしまう。

 

そういう悲壮感ただよう笑いを続けるのは 何も源吾朗さんだけでない、この同じ67歳の私も また同じ67歳の友人の多くが、そんな頑張りと余裕のない悲壮感を漂わせながら なんとか笑い 生きているという現実と心通うところがある。

才能と運 その剃刀の刃ほどの差で、見かけ上は天と地の差があるが、

意外と、その実は 無名であることの自由さの 幸せを感じているのである。

ただ悲壮感は経済的や病気などがあった場合はつい表に出てしまうが、そうでないと、本当に天真爛漫な67歳なのである。

携帯電話で話しているとき、

どうもギャラガ出て、モンゴルに招待してくれると勘違いしているらしく、

「源吾朗さん、ボランティアですよ!」

「そうなの。。ちょっと期待しちゃってさあ・・・アハハハハ」

 

芸で売れない=劣等感に苛む=貧乏忍耐=笑って自分をごまかし

それは芸だけでなく、それぞれの専門の道でも、そうだろう。

ただ、売れる売れないはほんの些細な着眼点とタイミングのズレがあるだけの気がする。

恋で アバタもエクボ

人気や慣れで、下手な芸も上手い芸に見え

 

時空を超えて今僕はここに居る・その2

木曜日, 3月 29th, 2018

フランス人のジュリアンが 43年前パリで 10日も居候させてもらった友人を探してくれた。

当時のメモには

PLOUQIN  GERARD

JUST 2463

11,PLACE D’ITTALIE PARIS 13, FRANCE

であるが、フェイスブックなどの検索では出てこない。フランス人の感覚で、名前はどうやら

G’erard Poussin

Facebookではただ一つ似ている人物の写真があったが、それだけで、基本情報は何一つない。連絡をとっても返事など期待できないだろう。

 

ジュリアンに最初に提示された印象が深く、ジェラだと思ったが、何か目のニヒルな症状が違っている。

若い時のジェラの家族は

ジェラは

次にジュリアンが提示したG’erard Poussinは

 

ここのリンクにログインして、連絡はとれそうである。

現在71歳の写真は

彼の若い時のアルバムを探してみると、

なんともなく似ているが・・??

どうも、後者の方がより近い感じで、その経歴が・・

現在:Pierre Mendes-Franceグルノーブル大学臨床心理学教授

出逢った時は私が24歳であったが、彼は私の世話は妹にまかせっぱなしで、いつもどこかに出かけていた。

何をやっているのか?と 慣れない英語で聞いたのだが・・当時 どうにも英語が話せなく、言われてもよく解らない。フランスでは英語はほとんど通じないこともあり、ジェラとの会話はほとんど ボディランゲージだった気がする。

ただ唯一、彼が日本の漫画に興味を持っていたことは記憶しており、それが当時1974年の彼の経歴と重なってくる、

「彼は(最初のアニメーション映画で頭角を穴の注意 – 1970年  大佐Zabu 1970  ワンダーランドでAlphonを 1972 –  ヒックスの夜、1977 –  テオベラ交換の世界を、1979年。彼の映画の二人は、彼が多くの新聞のために働いパリ(原-キリ、亜鉛、チャーリー毎月、エコーサバンナに移行することでカンヌ短編映画祭1971)で、漫画にありました、Le Nouvel Observateur、解放)」

また、彼と知り合ったのはフランスの西海岸のユースホステルである。当時の有名人がユースホステルに泊まり、私を自宅に招待するだろうか?

さりとて、PLOUQIN  GERARD = G’erard Poussin であると、ジュリアンの感性が合っているかもどうかも分からない。

ともあれ、

私は今43年前のフランスで、お世話になった人を探している。

それはカミユとジュリアンが帰国後、すぐに結婚式をあげる。

そこに私は招待されたのだが、今年のボルネオ学会に集中していることで、他に手が付かないし、

フランスを再度訪問するには、まず PLOUQIN  GERARD = G’erard Poussin 氏を訪ねてでないと どこにもいけないほど、その恩義を感じているからだ。

それを知ってか、ジュリアンは必死に彼の行方を捜してくれた。

それは私がこう言ったからだろう。

「カミユとジュリアンをお世話したのはたった三日だよ。僕はフランスで二週間も三食付き、部屋付き、自然動物園などの観光も、またパリ国際空港までの送りもそうだし、後、数年たって、会社の知人を彼に紹介し、お世話にもなった。

日本人の私の心より、フランス人の彼の心の方がもっともっと大きいよ」

ともあれ、

確認したくても・・それだけでも、かなりの勇気がいて ドキドキもんである。

それをするにも 数日 数週間の 心の準備がいるのである。

 

 

 

時空を超えて今僕はここに居る・その1

木曜日, 3月 29th, 2018

50年の時を経て

 

ここ一年半の奇跡のような毎日は

新宿高校時代の親友に50年ぶりに出逢ったことから始まった。

ひ弱なクリが柔道部に入ってきて、隣にちょこんと正座し、たった一言僕にこう問いかけた時からだ。

「何のために生きるのかなあ?」

共に65歳になったとき 残りの人生の目標を

現役便利や引退の僕は 「健康であることが最後の仕事」

現役続行の医師・病院経営者のクリは 「健康と自然」目的に活動するための徳島の古民家を買った。

その古民家の名を「知足庵」とし、

徳島大総合科学部 大橋教授が徳島大学生・留学生・地元社会人を中心に、毎月のイベントを企画リードしてる。

大橋教授は来年2019年3月で65歳の定年退職するので、知足庵の活動はあと一年で終わる。

大橋教授の目的は「海外のコミュニケーション・健康・自然」である。

大学退職後の活動のために 滋賀に知足庵の二倍も大きい古民家を買った。

僕もクリも、大橋教授の目的に引き釣られて、残りの人生目的が三つに広がっていった。

「海外交流・健康・自然」である。

そのため、一人暮らしの我が家も畑付き中古民家なので、

同じ目的のために提供すると大橋教授はえらく喜んでくれた。どうやら、そうした畑付き古民家を海外にも作りたく、そのネットワークを模索しているらしい。

大学退職後なので、それはNGO団体として 活動するのがもっともスムーズにいくと思える。

大橋大学引退最後のイベントが今年9月のボルネオにおける

持続可能な農業」をテーマとしたマレーシア(徳島大とのコラボになりそうな)学会である。

 

出逢い

 

だが、

大橋教授の目指すNGO「海外交流・健康・自然」団体には大きな問題点がある。

知足庵を買ったクリは自分が考案した「足の骨間筋療法」そして、クリ医師を助けるMさんも「笑い文字」の普及目的が中心であり、

モンゴルの旅においても、その大橋教授がめざす国際交流目的をほとんど理解できず、自分の目的遂行に忙しく、全体の調和や進行を妨げていた事実も把握できていない。

私はただ親友のクリ医師が開催する「健康と自然の会」の一人の参加者にすぎないし、そのスタッフでもない。

大橋・クリ・Mの三人で始めた知足庵の「健康と自然の会」の成立メンバー(知足庵を旅館にする人もいたが旅館業が無理と解りほとんど顔を出さない)の目的がバラバラで、自然分解寸前である。

私自身の目的はこの一年半で大きく変わり、大橋教授が目指すNGO「海外交流・健康・自然」団体設立と活動になってきているが、残念だが 足の骨間筋療法にも、笑顔文字にも ほとんど興味がわかない。

もし、その狭い目的に、大きな目的を無理やり組み込もうとすれば 狭い穴に、大きなボルトをねじ込めようとするもので、無駄な徒労で疲れ果ててしまうだろう。

それは今後私が、大橋教授が企画運営する知足庵や海外交流イベントに参加して助けることができても、

親友のクリ医師やそのスタッフM女子の活動を助けることができないばかりか、

どんな些細な手助けも二人にとっては邪魔なお節介になってしまうだろう。

どんなイベントもその参加者も、その大きな目的を共有しないと うまく進まないし、成功も、そこからの幸せも生まれない。

 

そして・・・・