Archive for 2月, 2015

ドングリの 背比べ笑み こぼれたり

土曜日, 2月 28th, 2015

もし団栗が人間のように

裕福さ 善悪さ 天才さ などの背比べをしたら

きっと 小さな子供のかわいい姿を観るように ほのぼのとした笑みがこぼれるだろう

お天道様から見れば 人間だって団栗とそう変わりがなく 似たり寄ったりで区別がつかないだろう。

それは個々の生死だって さほど区別がつかないってことでもある。

命の世界から観れば 人類と他の生物も やはりどんぐりの背比べであろうし、

あえて その差を大事にするなら 個人 国 人種の差より 人類全体の存続であろう。

今絶滅種が増えてきているのは人類の仕業であるが、それは人類そのものが絶滅種にもなりえる兆候ともいえる

人類が多くの絶滅種を作るならば、それはいわば他の生物に対する殺戮犯罪でもあり、それは砂漠化と同じような人類が他の生物との共存ができなくする行為でもあるから、人類は共存を否定したために自滅せざるをえなくなるといえる。

人類が他を殺戮することで自滅していく姿はあちこちで観察できる

今の戦争の主流は自爆テロとの戦いである。自爆テロそのものも自滅行為であるが、

そうしたテロリストを殺戮する行為さえも 自滅行為であるともいえる。

それは自他との差はほとんどなく、人類全体として常に意識すれば 自他とは常に一体として把握すると、

どんな悪人であれど 他人を殺せば自分を殺すことにつながるし、逆も真なりで、自分を殺せば他人を殺すことにもなるので

どんな殺戮も自滅行為であると認識できるのである。

そうした命のやりとりだけでなく、経済格差が生まれるのは銭の奪い合いをするからで、自他一体ならば銭の奪い合う行為はしだいにエスカレートして内乱や戦争を引き起こして、人類の自滅行為へと繋がってくる。

世界が武力より銭が支配している社会において、銭の奪い合いにより自滅から、銭の分かち合いによる生存維持へと変革しなければならない時期にきている。

武力だって 自滅兵器として原水爆 生物兵器 毒ガスになってきているし、エネルギー確保にしても原発のように10万年以上の危険放射性廃棄物を出して それで自滅していく姿になってきている。

産業が二酸化炭素を大量に出すことで温暖化になることだって そうである。人類は他の生物環境を破壊して もっと裕福になろうとすること自体が自滅行為になってきているのが現状である。

最も死亡率が高くなっている癌もまた それは自分の細胞が変化したもので それはいわば自殺細胞でもある。

人類同士の共存だけでなく、他の生物との共存をもしていかないと 人類そのものが自滅してしまう危険な時代でもある。

金儲けのための魚の乱獲が魚の絶滅になり、それで人類の食べ物も無くなってしまう自滅行為を改め、

人類そのものがダイエットするように 生きるに必要な分だけ魚を捕ってともに生存していく時代に変革することが大事になってきている。

 

エネルギーも草木のように命循環する

木曜日, 2月 26th, 2015

ダイエットを始めてから 後1ヶ月で1年になる

2キロばかりリバウンドしたのを戻す作業が残っている

ダイエットをしてから大きく人生観も世界観も変わってきた

一日一日を最小限必要な飲食で健康を保つ習慣と環境づくりがダイエット生活の基本である

それに挑戦していると 飲食と銭が同じようなモノになってくる

それは仕事における収入にも影響してきて、今の仕事が本当に必要かどうか?

また銭においても必要以上稼ぐことはナンセンスに思えてきた

逆に余分な贅肉を落として健康生活に切り替えるために散歩や運動をするように

例え仕事が大幅な赤字で 貯金がどんどん減っていくとしても 社会に必要な仕事をボランティアとして続けることが大事に思えてきた

実際昨年から大幅な赤字で収入は半減している。収入だって娘の手取りの給料の額とそうかわりがなくなっている。

仕事もダイエット生活のような収支になってきたので 不思議なシンクロを感じる。

店が消費税アップでつぶれそうになっても ボランティアとして存続させる方針にかえ、

数ヶ月も滞納しているゴミ倉庫を 思い切って処分解約することで 捨てられない顧客の病気をストップさせる力になると決断実行した。

まだ処分が半分くらい残っているが ゴミ倉庫がきれいになり、次の顧客を待っている状態で収入がないが 捨てられないゴミ倉庫としての収入があるよりははるかに社会にとって良いことである。

ゴミ処理をしているとき、自分の畑でゴミを燃やし続けていたが その火力がもったいなかった。もしゴミ焼却炉と火力発電所が一緒になったら 輸入石油ガスを燃料とせずに電気を作れるのではないだろうか?

それは地元のゴミを焼却して 地元に必要な電気を作り出すことが可能になる自然循環型社会になるのではなかろうか?

植物が腐って肥料となり、また食料になるように、エネルギーもまた生活ゴミすべてがエネルギーに変換できるのではないだろうか?

ゴミの半分はプラステックであり、それらはもと石油である。そのまま石油を燃やして電力を作るより、石油から作られた製品が使われ消費されてゴミとなったものを燃やして電力を作った方が効率がいいように思える。

私が畑で燃やしたのは汚れた漫画や雑誌の紙類はもともと木であるから、それを燃やしてCO2を出しても木はCO2を吸収して成長したので 地球温暖ガスとしてカウントされない。農家ではせん定した枝や雑草をよく燃やしているが それもゴミ火力発電にすればば残った灰は肥料になるので一石二鳥になると思えるのだ。

それに水道に水力発電モーターを付けたならば使うごとに小さな電気も作れることになることも考えれば、生活して使ったエネルギーはゴミや工夫で元のエネルギーに変換できる循環型エネルギー生活ができるようになると、それは草木のように毎年新たな実を結び枯れてはまた実を結ぶ命の循環と同じ仕組みになるのではなかろうか?

人間の便だって メタンガスを発生させて燃やすことも可能であり、それはまた肥料して食べ物に再生することだってできる。

地消地産は自給自足であり、自立経済であり、自然循環する姿ではないだろうか。そうした自立経済家族社会が平等のつきあいで生まれたのが平和世界であり、他国依存症による戦争や隷属格差社会にはならない世界であろう。

 

やりたいことに才能があるか

水曜日, 2月 18th, 2015

若い娘達のことを自分が同年齢の頃と照らし合わせてみると・・

「自分がやりたいこと」と「そこに才能があること」とは矛盾して悩む姿が共通している。

歳を取ってから振り返ってみると・・・

「若いときにやりたいこと」は「無いものねだり」だった気がする。

「無いもの」というのは「才能が無いもの」で、「そこに才能がないものを望んでいる」姿が「自分がやりたい事」であったと思えるのだ。

「ないものねだり」というのは他人がもっていて自分がもっていないものを欲しがる・・いわば見栄みたいなものである。

考えてみれば 「欲求そのものが不足しているから生まれる感情」であるから、「すでに才能として持っているなら 充足していてその欲求は生まれない感情」である。

才能とは自分の顔のように生まれながらにして持っている姿である。障害者として生まれたとしても その障害は他の人が持っていないその人だけの才能であるともいえる。

社会にとって必要な人材は その人が持っている才能を活かせる人である。才能と努力が共に備わった人が求められている。

ただその人の才能が本人だけでなく社会も解るかどうかは疑問だ。明日はどうなるか解らないように その人の才能が何かなんかとても解らないことがほとんどであろう。

「自分がやりたいことが無いものねだり」であったとしても、自分がやりたいことを何度でも挑戦努力していると まるで努力そのものが才能であったりすることがあり、「自分がやりたいものが才能に突然変異してしまうこと」だってありえるのが この世の不可思議でさえある。

そこで、最も大事なことは「自分の才能探しの旅」であろう。その気づきには

一つは「自分が望む望まないに限らず 自然とそうなってしまう結果」に才能が隠されている

もう一つは「何度くじけても挑戦し努力すること」にも才能が隠されているということだろう。

つまり

「自分がやりたいこと」が一度二度の結果として実ったら才能があり、実らなかったら才能がない。しかし、「自分のやりたいことを何度でも挑戦努力することができるなら才能がある」ということである。

歳を取って 自分の才能が何だったのかは今も解らないのが実情だ。でも 自分が望む望まないこととは別にして、「自分がしてきたことの結果」は観察でき、その中で何が自分の才能であったかは「自分しかできなかったこと」ではなかろうかと思う。

そこで

「自分がやりたいこと」よりも、「自分しかできないもの」を優先してやっている。

「自分しかできないこと」とはオンリーワンであり、他人と比較してのナンバーワンではない。

つまり こうはっきりと宣言してもいいのではないだろうか?!

「ナンバーワンに才能なんてない。オンリーワンに才能があるんだよ!」

と。

 

 

誕生日を祝うゴリラ便

月曜日, 2月 16th, 2015

解散して もうすっかり忘れてしまったゴリラ便だが・・・

当時はサンタクロースに負けないゴリラ便を創るのが夢だった

一番人気はゴリラサンタだったが 年に一度しかない日しか仕事が来ないので事業継続は難しかった

昨夜の夢で 誕生日を祝うゴリラ便の復活する姿が出てきた

宗教が悪さする昨今だが 宗教に勝つのが命の尊さであるから、命の尊さを表現するには誕生日を祝うイベントが一番だろう。

 

そこで誕生日を祝うためだけのゴリラ便の登場だ

クリスマスはキリストの誕生日で世界的行事になったが、命日を復活日として祝う慣習はないし、仏陀の命日は庶民的な行事にはならないが、法事として先祖の命日だけは集まる慣習はたぶん日本的な行事なのだろう。

もしキリストのような神人の誕生を祝う行事ではなく、もっと一個人の誕生を祝う民主的なイベントが毎日あってもいいではないか!?

亡くなった人の命日より 誕生日を祝って その人が生きていた時の活躍に思いをはせた方が元気がでるのではないだろうか?!

誕生日を祝うことは自分で自分を祝って元気づけることだってできるし、むしろ その方が一般的にすれば孤独にはならないし、本質的で民主的な行事ではなかろうか。

友人や家族からの祝いがなくとも、ゴリラは必ず誰でも祝ってくれるという象徴的なゴリラ便を創ってみたらどうだろうか?!

また、亡くなった人の命日を悲しむのではなく、亡くなった人の誕生を喜ぶ日にゴリラ便が来てくれるようにすれば あの世とこの世の会話が楽しくできるように思える。それだと あたかも生まれ変わったというよりも 今も一緒に生きている感じになって楽しくまた元気をもらえるだろう。

誕生日は自分から自分へのプレゼントをする日にすれば もっと自分を知り 自分を元気づけることができるだろう。命は個人にあって 集団にはない。命の尊さは個人にあって 集団にはないともいえる。

店は空きが多く赤字になっているが 自分で自分の誕生日を祝うゴリラ便グッズを売る店を創ったら なんとか赤字が解消できるかもしれないな?

 

 

 

銭は分かち合うために在る

金曜日, 2月 13th, 2015

店も アパートも 倉庫付き駐車場も みな赤字続きになった

収入も半分になったが 自分が生きていけるだけの収入はある

下の娘の大学費は貯金でまかなえている。

 

ダイエット生活をしていると 毎日必要なだけの基礎栄養素だけを摂取することが健康につながることが肌で感じる

毎日入る銭だって同じで 自分が生きていけるだけの必要な銭を確保できることが一番の安心生活になると思えるので

赤字になっても気にならなくなるだけでなく、銭というものが金儲けのためにあるのではなく、みなで分かち合うために在ると実感できるようになり

むしろ本当の仕事が何かを教えてもらった気がして 幸福感さえ生まれてくる。

 

一日一食ダイエットは順調で 今は一日一夕食になっている

夕方が一番お腹が空くので夜食まで我慢できないからだ

健康体重になると 保水量で一日1キロの増減があるが 安定した体重になってきた

しかも 飲食費が半分で充分になるので 経済的にも余裕が生まれてきて

収入が半減しても 余裕な食生活ができている。

 

今までずいぶんと無駄な飲食費や時間を浪費してきたんだなと反省さえもできるようになってきた。

 

 

一日一夜食ダイエット

火曜日, 2月 3rd, 2015

昨年4月からダイエットを始めて 8月までは順調に痩せていったが

9月秋になり 寒い冬も今年2月を迎えても 体重が上がり下がりして

苦労多くして 効果なしである。

暮れから正月にかけての1か月で4キロもリバウンドしたが

ダイエットの挑戦を止めたわけでもなく、挑戦すればするほど負け続け 激しいリバウンドしたのだ。

当初三食をダイエット食で腹八分目にして ひと月6キロは痩せらえたが

20.5キロ減量目標を一日だけ達成してからは その苦労ができなくなってしまい

もがけばもがくほどリバウンドして肥っていった。体重計に乗るのが怖いくらいだった。

現在日本の生活は夜型で テレビや録画を長時間見てしまい

その時どうしてもお腹が空いて美味しいものを食べてしまう

その誘惑にはなかなか勝てないものだ。

4キロリバウンドした1月下旬に 常識破りのダイエットを決行した

どうしても夜食が我慢できなければ その夜食目一杯食べてすぐ寝ればいい

そして朝昼夕食の三食をぬけばいい

10日断食の経験から 腹八分目で我慢するより 一日断食の方が楽であると知っていたからだ

それを実行すること1週間で見事4キロ減量して 目標体重を達成した。

だが、続けて一日一夜食をしているつもりが 一日一夕夜食になり 1週間で3キロリバウンドしてしまった

これは8時間ダイエットのマウス実験の記事を読んで 夕夜食8時間でも痩せると思い込んでしまったようだ。

一日一夜食の初心に戻り カレーと干し柿のメニューで再挑戦したら 同じように痩せていった。

今後それがどうなるかは予測できない

ダイエットは実に奥深く その技術はこれっていう完璧な答えは出ない

それは学問や芸術と同じで 最終目標がなく 常に挑戦し追及しなければならない宿命みたいなものである

それにダイエット方は個人差が大きく 人の数ほどダイエット方の数があるようなものだ。

常識や新技術が誰でも通用するというものではなく、どうやらみな自分なりの努力をしていかないとリバウンドしてしまう。

6トンゴミを毎日少しずつ処理しているが それが自分の脂肪処理に感じてくるから笑える。

きっとダイエットは自分自身の一生のライフスタイルの形成なのだろう。

自分らしい生き方があるように 自分らしいダイエット習慣があるのだろう。