若い娘達のことを自分が同年齢の頃と照らし合わせてみると・・
「自分がやりたいこと」と「そこに才能があること」とは矛盾して悩む姿が共通している。
歳を取ってから振り返ってみると・・・
「若いときにやりたいこと」は「無いものねだり」だった気がする。
「無いもの」というのは「才能が無いもの」で、「そこに才能がないものを望んでいる」姿が「自分がやりたい事」であったと思えるのだ。
「ないものねだり」というのは他人がもっていて自分がもっていないものを欲しがる・・いわば見栄みたいなものである。
考えてみれば 「欲求そのものが不足しているから生まれる感情」であるから、「すでに才能として持っているなら 充足していてその欲求は生まれない感情」である。
才能とは自分の顔のように生まれながらにして持っている姿である。障害者として生まれたとしても その障害は他の人が持っていないその人だけの才能であるともいえる。
社会にとって必要な人材は その人が持っている才能を活かせる人である。才能と努力が共に備わった人が求められている。
ただその人の才能が本人だけでなく社会も解るかどうかは疑問だ。明日はどうなるか解らないように その人の才能が何かなんかとても解らないことがほとんどであろう。
「自分がやりたいことが無いものねだり」であったとしても、自分がやりたいことを何度でも挑戦努力していると まるで努力そのものが才能であったりすることがあり、「自分がやりたいものが才能に突然変異してしまうこと」だってありえるのが この世の不可思議でさえある。
そこで、最も大事なことは「自分の才能探しの旅」であろう。その気づきには
一つは「自分が望む望まないに限らず 自然とそうなってしまう結果」に才能が隠されている
もう一つは「何度くじけても挑戦し努力すること」にも才能が隠されているということだろう。
つまり
「自分がやりたいこと」が一度二度の結果として実ったら才能があり、実らなかったら才能がない。しかし、「自分のやりたいことを何度でも挑戦努力することができるなら才能がある」ということである。
歳を取って 自分の才能が何だったのかは今も解らないのが実情だ。でも 自分が望む望まないこととは別にして、「自分がしてきたことの結果」は観察でき、その中で何が自分の才能であったかは「自分しかできなかったこと」ではなかろうかと思う。
そこで
「自分がやりたいこと」よりも、「自分しかできないもの」を優先してやっている。
「自分しかできないこと」とはオンリーワンであり、他人と比較してのナンバーワンではない。
つまり こうはっきりと宣言してもいいのではないだろうか?!
「ナンバーワンに才能なんてない。オンリーワンに才能があるんだよ!」
と。