Archive for 11月, 2010

自由って何だ!?

火曜日, 11月 30th, 2010

最近のニュースは北朝鮮の一般人への砲撃で死亡者がでたことが大きな国際問題になっている。戦争状態でも、一般人への攻撃は国際法でもマナー違反になっていることからも大きな問題になっている。

それに対して、韓国が報復したが、それがどこに向かって報復したのかが、報道されていない。もし、韓国が北朝鮮のように、報復を軍人や軍事施設ではなく、民間人のすむ町や村を攻撃したならば、それは大きな問題であることは報道されていない。

戦争は問題解決を安易に「人殺し」によって行おうとするところにある。報復の問題解決もやはり「人殺し」である。

この人が人を殺すことで解決しようとすることは、死刑制度がそうである。死刑制度は戦争とは違って安易に殺人で問題解決しようとはしないで、じっくりと時間をかけて「人殺し」という「死刑」という判断をする。

しかし、アメリカの陪審員制度における死刑判決は3437件あり、そのうちの4%である138件が冤罪が死刑執行の前に確定され、自由の身になった。そして、死刑執行のあとに、冤罪の可能性のある人が1人現れた。それは自分の子供3人を父親が放火で殺したかどうかの判断が、放火のような焼け跡と、火事のあとに父親が子供を助けなかったという近所の目撃者があったことである。これは状況証拠だけで死刑にしてしまったことが問題で、放火のような焼け跡は放火でなくてもできること、火事がひどくて子供を助けられなかったことが遺族のうったえで解ってきたことだった。

アメリカの陪審員制度を真似た裁判員制度で、地方裁判で初の死刑判決がでたが、その裁判員も涙がかれるまで悩み抜いて決断したという。そうした陪審員や裁判員に心のケアが必要が叫ばれている。

これは、アメリカの退役軍人の心のケアと同じである。その心の健康を保持するためには、「そのときの判断は正当であった」ということを正当化するしかない。

人が人を「死」で裁くこと自体が、不自然な行為であることは明らかである。自然は人のどんな理由でも人を死で裁かないからである。自然は人の善悪で死の判決をしないからである。

 2年前だったが、ゲゼルの研究会の集まりで、ある青年が政治家になろうとしていたので、その理由を聞いて驚かされた。

「自殺する権利を主張するため!」

 そもそも自殺する権利なんかあるのか? 自殺は自分という人間を殺す犯罪ではないのか? と、その青年の将来を不安視したことがあったが、今再び考えてみると・・・

 自殺は究極的の自由であることの主張であるかもしれない。

 というのは、死刑執行された冤罪の可能性のある父親の遺言は「死後も冤罪であることを調べてほしい」ということだったのだ。彼は殺されずに生きて冤罪をはらそうとしていた! もっと生きたかったのだ。

 一方、裁判員制度で死刑の判決を受けた19歳の青年は即最高裁判に告訴しようとはしなかった。死刑を受け入れようとしているのは、このまま生きたくなかったような自殺を受け入れるものだった。

 今、私は畑仕事をしながら、自然と人間の関係を研究しているが、自由ということがいったいどういうことなのか? それがひょっとしたら、あの青年が主張するように、「自殺する権利」かもしれない。なぜなら、人が人間らしく生きるためには、自由であることが最低必要条件である。

 他人を殺すことは自由ではないのは明らかだ。他人の生きる欲求も生きている自然の姿を破壊するからだ。しかし、自分で自分を殺すことはまったく他人がその人に依存していない限りにおいて、小さな自由があるかもしれない。

 この小さな自由とは、死刑になった冤罪可能性のある父親が「生きる意志」があった場合は死刑は不当であり、もし、有罪であっても、「生きていれば謝罪、反省できる可能性がある」ということである。

 一方、死刑を受け入れるかもしれない19歳の青年は「自分で自分の死刑を決める意志がある」ということだ。それは自殺する権利・・・それが最後に残された自由であるといえるかもしれない。

 切腹という行為は、江戸時代における死刑制度における自分の命は自分で決めることが許された唯一の恩赦という考え方がある。その犯罪が凶悪の場合は自殺する切腹行為さえも許さない歴史がある。

 もし、自由主義の国が国民の基本的人権としての命の保証するならば、「自分の命は自分で決められる」ということこそ、もっとも必要な条件かもしれない。

 そうなると、死刑制度も死刑廃止制度でもなく、「自分の命の最終決定権の保証制度」が自由社会の根幹になるかもしれない。

 もし、これが認められたならば、安易に人殺しのような戦争や報復戦争をしなくなるだろし、退役軍人や裁判員のケアも楽になるかもしれない。

 自然においては、人は寿命や災害や病気で死ぬことがあっても、人の善悪で人を殺したり、人に殺される社会はありえないからである。

驚いた!自家採種しないで、毎年買っているとは!

日曜日, 11月 28th, 2010

 種を蒔く時期を工夫していると、種の保存方法が難しいと思えてきた。そして、ほとんどの農家が毎年種を買っているということがわかった。種は高価であるので、どうしてそんな無駄をするのか不思議だった。

 しかも、ほとんど買える種が、同一品種で大手企業が作ったもので、現代農法に合わせた種だということを知ってびっくりした。あの宮崎の口蹄疫のニュースで種牛の話でびっくりさせられたのは、たった一頭の優秀な種牛からできていた牛がほとんど飼育されているということだった。

 それと同じ事が穀物や野菜にもいえることで、まるで、独裁政治のような農業だということだ。それぞれの農家がその土地やその農法に合った種を採種させないおそるべき金権農業があることを知らされた。

 民主主義の政府のように、それぞれの農家が自家採種することで、その土地と人にあった個性的な品種ができることで、より強い野菜や穀物ができるはずだ。

 お金のシステムも金持ちと投資家に牛耳られるように、穀物も野菜も1遺伝子と1農法で牛耳られている。これでは投資家の意向で右往左往させられる農業しかできなくなる。

 生ゴミを堆肥にする自然循環を目指していたが、もっと大事な種そのものの自然循環がされない農業の現実がどんどん疲弊していくのはあたりまえのように思える。

 今のお金は循環しないで、みな金持ちのところに、今の穀物も野菜も循環しないで、みな金持ちのところにいく。みな根本的に欲望につながっており、自然にはつながっていない。

 これはお天道様から見れば、私たちはほとんど差がないが、人の欲望から見れば、私達は天と地の差があるようなものである。

 自家採種の研究をしてみよう。種の自然循環をどのようにするか、それが編み出せれば自ずとお金の自然システムもできるだろう。

収穫してそのまま植える「種の自然循環」

金曜日, 11月 26th, 2010

生ゴミから育って、収穫したメロンとカボチャの種を再び蒔いたら、季節はずれで、すぐ発芽してしまい、そして成長は止まり、枯れてしまった。

メロンもカボチャも春に種を蒔かないと実らないようである。

 麦畑に越冬させる稲の種を土団子にしてまいた。それがもし成功するならば、どんな春に蒔く種も越冬させることが可能である。

 自然の植物の循環は、春の植物はみな越冬するはずである。人が野菜を収穫せずに、実がなったままに放置すれば、その実は、腐らず、季節を待って発芽するはすである。

 生ゴミの種だけを冷蔵庫に入れたり、乾燥させたりしているが、それを保存するのが大変で、腐敗してしまうことが多く、かなりの技術が必要である。

 そこで、自然が行う種の保存方法を真似てみようと思った。

 すならち、実は食べずにそのまま土に埋め込んでしまう。カボチャもメロンも、実のままで土の中に入れてしまえば、実は徐々に枯れたり、腐ったりして、種だけが生き残り、ちょうどいい季節に発芽するのではないだろうか?

 買ってきたリンゴやキュウイも、トマトもそのまま土に埋め込んでしまうと、時期がきたら発芽するのではないだろうか。

 もし、収穫した野菜や穀物をその時期のその種を蒔けば、種や苗を毎年わざわざ買うこともなくなる。穀物だって、保存したりして、カビがはえたり、虫にやられたりはしなくなる。

 土は保存というよりも、種の発芽を待つ世界という意識が必要ではないだろうか?

 人は死ぬとあの世にいき、再びこの世に生まれる時期を待つという神道思想は、植物でいえば、土中があの世にあたり、土の外がこの世にあたる。

 そこで、春に蒔きたかったくず大豆を土団子にしてあちらこちら蒔くことにした。私がかったくず大豆は消費期限がきれる直前のもので、カビがはえている部分もあった。ネットで調べると、くず大豆とは規格外の大きさが小さいもので売れない大豆のことだが、こうした賞味期限がわずかなものも入るようだ。

 (執筆後昨日作った大豆の土団子は乾燥させると、大豆が土の水分をすってしまい、土が乾燥して団子がわれてしまい、土団子は無理であることがわかった。そのため、黒土と大豆を水なしで混ぜて、春の雑草をおさえるようにして、雑草が枯れたところすべてに、大豆を蒔いた。冬の寒さと、ちょうどいい湿度で腐ったり、虫や鳥に食べられたりしないで、越冬してくれるかどうか実験した)

 マメ科の植物は肥料がいらないで育つようで、空気中の窒素を肥料にするような感じがする。そのため、どんなところでも育ちやすく、しかも他の野菜や穀物の緑肥になるようだ。単に緑肥だとクローバーのようだが、大豆のように他の緑肥にも食べることもできると一石二鳥の働きがあると思える。

 これもネットの情報だが、大豆の種は消毒しないと、病虫害になりやすいため、売っている種は消毒薬の色がついたものが覆いようだ。でも、自然農を目指すならば、消毒しないで大豆を育てられるか挑戦したくなった。

 庭の小さなスペースに、家にあった、ジャガイモやさつまいも、地中にいくつか植えた。リンゴとキューイを食べずにそのまま土に植えたら、自分の行為があまりにもおかしく映ったので、1人笑いしてしまった。

 「収穫して、そのまま植える」

 という種の自然循環がどういう結果になるか、春が楽しみである。

主体は収穫ではなく種なんだ

月曜日, 11月 22nd, 2010

ビニールハウスの1/4くらい野菜の種を蒔いたら、ぐんぐん成長した。昨晩と今朝のおかずに、サラダ菜をおいしそうな葉をつみとって食した。

これは直播きだが、実は野菜造りは何も知識がなかったので、最初の春は種から苗を作ってから、それを移植して、野菜畑を作ろうとした。肥料も入れず、ただそこにある土だけで一粒か二粒の種を一つ一つずつ苗用の小さなビニール鉢に入れて、毎日のように水をあげて育てた。

 でも、ほとんど育たなかった。育ったとしても、移植したら、枯れてしまって、つるなしエンドウ豆以外全滅した。その原因は肥料とアルカリ度が主であり、同じ種でもビニール苗鉢だといくらか育っても、直播きだとまったく芽も出さなかった。その原因は水分の保湿が保たれているかどうかだとわかった。

 秋になって、麦とクローバーをブルーシートで保湿し、かつ肥料は土にまず鶏糞をばらまき、そして、種を市販の培養土と混ぜてばらまいたら、芽をすぐに出した。この方法で、秋野菜の種をホームセンターで全種試してみた。ほうれん草と長ネギ以外はうまく成長した。この2種類はたぶん土がアルカリ性を強くしないと育たないように思える。

 ブルーシートは芽が出れば覆いをはずした。雑草対策には麦と同じでクローバーを蒔いたのでそれを緑肥にした。種まきとしっても、苗を育てる感じで、5粒くらいをまとめて点蒔きした。というのは、種は100%発芽するとは限らないからだ。しかも、種は人と同じように家族のように寄り添って成長するように思えたからである。発芽が5粒のうちの1粒でも成長すれば良しとした。

 種をまいたら、土を盛るとかいうのはまったくしない。みな培養土と一緒に点蒔きしたものだ。この方法は実に簡単なもので、前回の失敗は嘘のようだった。

 葉は虫にわずかばかり食べられるが、病気はしない。人間の方が虫よりも大量に食べる。私がサラダ菜をつまんだようにだ。味は苦みがわずかにあったが、ドレッシングをかければ気にならない。

 そこで、ふと思ったのだが、野菜は人に食べられるために生まれてきたのではない。野菜はその種を残すために生まれてきた。主体は人間ではなく、野菜自身なのだ。

 人は野菜の中でもっとも大きな病虫害にあたる。なぜなら、種を残す前に、その種さえも全部食べ尽くしてしまうからである。種は海外の業者から大量に買っている。国産の種はわずかである。

 人が野菜と共存するならば、野菜の種をまず作ることから始めるべきであると思える。野菜も魚と同じように、全部とりつくしてはならない、野菜が自然に毎年育つようにして、人がその一部を食べられるようにすることが大事であると思えたのである。

 お金もそうだが、野菜の自然循環は野菜の命の循環を主にし、人はその補助をするような農業が大切に思えてきた。

 野菜に農薬をまく理由がよくわからない。それはたぶん収穫した際、腐りにくくしたり、害虫に合わないためのもののように思える。野菜には関係のない人のための処置であろう。

自然に死はない

土曜日, 11月 20th, 2010

早速枯れ葉を軽トラ2台分畑に敷き詰めた。

麦畑に枯れ葉を

この枯れ葉の上に籾種の泥団子をばらまく。

水田を作るのに手間取ったために、やっとクローバーと麦を蒔いた。その芽を出させるために、ブルーシートをかけていたが、クローバーが地中と勘違いして、もやしのように背丈が高くなってしまった。さらにのびてしまい、ブルーシートをとると、クローバーは死んでしまう。そのため、ブルーシートをやめて、枯れ葉で保湿して、麦の芽を出させようとした。

麦畑の一角につるなしのインゲン豆を植えていたが、急に葉が枯れかかっているのを発見してあわててしまった。病気かと思って、よく見ると、たくさんの実がなっていた。

実ができると枯れるのはカボチャやメロンと同じであった。

リンゴの自然農で有名な木村秋則さんが、自然農で育ったリンゴは腐らない!枯れる!のだという言葉は印象的であった。

腐るか枯れるのかは、昨年生ゴミを堆肥にする経験から、実験済みである。生ゴミは土と混ぜると、春夏は腐敗してすぐに堆肥になるが、秋冬の場合は、腐敗しないで枯れて(水分がなくなって)、土と混ざるのである。

腐敗菌は水分と温度が必要なようで、水分がないと腐敗しないし、温度が低いと腐敗しない。果物でも野菜でも乾燥させたりすると保存できる。果物や野菜のジュースを凍らすとずっと腐らない。

稲種が越冬するためには乾燥させることと、温度を低くすることが必要だというのがよくわかる。

草の種類によって、季節の温度で芽を出し育つようだ。麦は秋、稲は春ということだ。交互に一年中育つようだ。

麦や稲の一生をながめていると、人が死としている姿は自然死ではない、病気や災害で死ぬことであり、寿命をまっとうすることではない。草でいえば、病害虫で実がならないで腐敗してしまうことであろう。自然の死は実を残して、枯れることであり、その実がまた生長することである。

 つまり、枯れて越冬して春に芽を出す時期が自然死の姿であるということだ。すべて無くなることが死であるならば、どんなものも、なにかしらの思い出や生きた痕跡を残しているのが真実の姿である。物質にエネルギーの保存の法則があるように、人は死んでも自己保存の法則があるということである。もちろん、その自己は肉体の姿ではない、人と人の絆の姿である。

 端的にいえば、自然の死とは枯れて実を守ることであり、人の死というのは腐敗することであり、実を残さず消え失せることである。

落ち葉を集めてきた

月曜日, 11月 15th, 2010

麦から稲の籾種を粘土団子にしてばらまくのは11月中旬以降である。そのさい、稲わらを長いまま麦のところに敷き詰めるわけだが、この稲わらはホームセンターで売っていたが、12リットルで399円もするので、とても高くて手が出ない。それに稲わらは大量に必要なので、売っている量では足りない。

稲わらは近所の水田では、稲わらをこまかくして、すぐに土と混ぜ込んで堆肥にしてしまっていたので、もらえなかった。そこで、刈った雑草を使おうとしたが、それはほとんど堆肥にしてしまったから、とても足りない。そこで、近くの山である昇仙峡が紅葉の季節で落ち葉がたくさんあったのでひろいにいった。

昇仙峡は甲府の近くである。

軽トラックに10数袋落ち葉を集めた。

モミジの葉もけっこう集めたのできれいである。これが堆肥となって、米ができたら、さぞかしうまいかもしれない。

稲を越冬させて、ちょうど春に芽を出させることは本当にできるのか疑心暗鬼である。雑草の種はみな越冬するので、不可能であるはずがないと思える。種は水につかると腐敗するか、芽を出すかである。越冬させるためには、乾燥させて、なるべく土にじかに触れさせないために、稲わらを敷いて、その上に乾燥させた粘土団子で包んだ種をまくのだろう。その原理であるなら、枯れ葉の上に粘土団子の種でも同じである。

また、市販の粘土をわざわざ買って、包むよりも、土団子でもいいように思える。それに栄養のある黒土団子で種籾を包んでまくようにするつもりだ。

春になって、芽が出なかったら、麦と同じように、培養土と一緒にもう一度種籾をばらまき、それでもだめだったら、稲の苗でも作って植え込みするしかないだろう。

でも、どうして種をわざわざ越冬させる必要があるのだろうか? 秋にまく麦種と同じように春に稲種をまけばいいように思うのだが、どうなんだろう。麦の緑肥として白クローバーを使ったならば、稲の緑肥として、豆科のレンゲ草か、くず大豆を一緒に種をまいたらどうなんだろうか。でも、それが生える空間はないので無理かもしれない。

お金だけで決定すべきでない

木曜日, 11月 11th, 2010

最近のTPPは判断が先送りされたが、これを関税ゼロをあせって決めようとしたのは、どうやら韓国がEUとのFTAで、米以外の関税を撤廃したためのようだ韓国がTPPにまだ参加をしていないので、韓国に負けまいとして菅直人があせったという記述が朝日新聞に書かれたようである。

韓国がEUとの関税を米以外ゼロにするにあたって、農家の反対を押さえられたのは、農家の所得保障をしたためである。

世界全体が国も経済格差をなくし、貿易を盛んにするには、関税を撤廃した方がいいに決まっているが、これは世界の経済だけを見ただけのもので、世界の国民の生活全体を見ていない。

 世界の人々の生活は経済だけで幸せを築かれるものではない。金がありあまるほどあっても、病気にも、災害にもあい、生活が安全とはいえないのである。

 そもそもお金そのものが何なのかをはっきりさせておかないと、生活とお金の主従が逆転してしまう。その最も良い例が「お金のために働く」のは目的と手段を逆転させてしまったものだ。本来は「働くためにお金が必要」だからだ。働くのが目的でお金は手段である。

 これは、働く(生産する)ためのお金(発行額)が必要であるというのが、健全な国民生活を実現する基本である。そのため、お金の発行額は国民総生産額であり、債券などの金融商品の発行額は未来の国民総生産額にする必要がある。

 それが合わないとインフレかデフレになる。お金目的に生産すると、目的と手段が逆転してしまい、お金の奪い合いという競争が激化する。その勝者と敗者の差はまさに生死の差くらいに激しくなる。これは戦争と同じ結果になる。

 お金は本来、100人の村があったら、そこで生産された食べ物を100人で平等に分配する手段であり、そうして、100人の村人全員がどんな災害や病気になっても、一緒に生きられる力になるためのものである。

 世界共通のお金はまだない、それぞれの国の通貨がある。それはその国で生産されたものを平等に分配するためのものであり、他国で生産されたものを奪う手段ではない。貿易は他国と協力しあってともに生きるためであり、国の損得が優先されるものではない。

 今回のTPP問題を解決するには、農林漁業牧畜などの国内の食料生産者の所得保障がポイントであろう。しかし、所得保障の基本は国民すべてに必要である。それがベーシックインカムの主旨である。それは最低限の所得保障なのであるが、それもお金だけで判断することは危険である。

 そこで、国内の食料の自給率を100%にし、その食料を国民すべての平等に分配されることが、本当のともに生きていくための基本にすべきである。

 そのためには、国内の食料生産の自給率が100%になった分の通貨を発行させることである。そして、その通貨は食料にあわせた腐敗率を1年にして、1年の期限通貨を発行することで、それが貯蓄したり、奪いあうこと、また税の徴収も必要なくなる。

 こうすることで、国民のすべては自分に必要な食料は実質的に無料でもらえることになる。他国から安い農産物が入ってきても、それらと競争することはなくなる。

 この国内食料通貨は最終的にその生産者に集まる。その通貨を日銀券に一定率で交換すれば、それが農家の所得保障よりも大きい、文化と技術保証になってくるだろう。

つるはしが折れた

金曜日, 11月 5th, 2010

裏の雑草地を水田と畑に代えようとした。

山を削って水平な水田を作るため、山を削るのだが、それがまさに堅く砂岩のような土である。そのため、つるはしで、その土を砕いていくと、そのつるはしが折れてしまった。

両手は親指と人差し指にたこができた。そうして、やっと、

ここまで水平にしたが、ここで終わりではなく、雨水をためる堤と砂岩のような土を水田の堤にし、そのとりのぞいたところに栄養豊かな土を入れ込まないとならない。

ここは、30坪くらいであろう。ここに麦と米を植えるつもりである。

最近、TPPに日本が参加するかもしれないと論議が盛んである。TPPが環太平洋の国々で、シンガポール、チリ、ニュージーランド、ブルネイの4か国が2006年に発行した経済連携協定であり、2015年までの原則100%関税撤廃を目指し、アメリカ・オーストラリア・ベトナム・ペルー・マレーシアが参加を表明している。そして、11月9日のAPEC首脳会議で、日本・中国・フィリピン・カナダが参加するかが問われている。

 もし、関税を100%撤廃したら、どうなるか、アメリカとの米の輸入価格と車の輸出価格で比較してみると、米の日本の関税は778%で、車のアメリカの関税は2.5%である。100万円の車を輸出する場合は102万5000円で販売されたのが、100万円で輸出できることになる。一方、100万円の米を輸入するときには、878万円だったものが、約8割安の100万円で買えることになる。米と自動車の輸出入が100万円の同額だとしたら、差し引き 878万円ー2.5万円=875.5万円の輸入が増えることになる。今の輸出国より、大幅な輸入大国になると思われる。

 私は小麦を今作っているが、小麦の自給率は14%である。小麦の関税は252%であるので、さらに、その自給率は減ることになる。関税率が高くても、日本で小麦を作る農家はほとんどいなくなった。昔は米と麦を二毛作していたのに麦は儲からないのでやめたためと思われる。

 日本の1農家の平均作付け面積は1ヘクタール(3024坪)であるが、EUは9ヘクタール、アメリカは99ヘクタール、オーストラリアは1902ヘクタールである。日本は1ヘクタールといっても、あちらこちらに分散しているのが実情である。

 これは機械と手作業との競争であり、その価格を競争することもできない状態である。私の隣のぶどうと桃の果樹園はあちらこちらにまとめて5反(1500坪)あるが、それだけの収入では生活ができないという。

 国は自給率をあげる目標が景気対策で逆になっていく。これは環境よりも経済を優先するからだ。自給率というのは、安心して生活できる最低の環境のことである。経済に左右されないで安心して暮らせる環境のことである。

 ベーシックインカムが検討されているが、それを経済のお金だけで、生活保障をしようとすれば本来の生活環境を失うことになるだろう。戦争や災害にあったときには、お金が重要ではなく、生活物資である。そのため、米や麦や野菜は配給制になるだろう。

 人がみな安心できる環境とは経済環境ではなく、生活に必要な食べ物の自給率が100%になり、その食べ物が国民すべてに毎日配給されることである。

 それができてからの経済の損得が考えられるべきではないだろうか。

人はお金を食べて生きていない、米と野菜を食べて生きているのだ。お金は道具であり、常に二次的な考案事項にすぎないのである。