Archive for 2月, 2011

4月1日、金のいらない日開催します

土曜日, 2月 26th, 2011

 チャイルドマインダーの人がうちのミキシーのフリマ笹塚のマイミクになってくれた。そのときのメールがとても印象深かった。

「年に1度バザーをやりますが、ほとんど投げ売り状態…
ちっとも収入になりません。売り上げを施設退所の子ども達の為にと知恵を絞り、フリマにたどり着きました」

 フリマーケットにたどりついたとはどういう経緯なんだろうか? こちらはやもをえずフリマ会場にしたのだが・・?

 年に一度くらい無料開放してもいいかな・・とは思っていたし、たまにゴリラの歌ライブをやったが、あまり反応がうすいのでやめてしまった。そして・・次の言葉・・「ほとんど投げ売り状態!」が気になった。・・・・そしてはっと気づいた!

 無料で店を解放するから、売るものもみな無料で売ったらどうだ!?

 ミキシーの「あげますコミュ」があり、1万人以上のメンバーがいて、毎日あげたいもののメールが届く。これを笹塚フリマでやったらどうだ!と思った。

 この参加資格が実にいい、特に、●ブツブツ交換はNG。あげるのみです。

 実は「昔のわらしべ長者」「アメリカのピン長者」が可能かどうかを実験しようとホームページで呼びかけていたが、一件もなくて、店から撤去した。

 物々交換からお金が生まれたが、無償の愛からはお金は生まれないはずだ。ボランティアは無償の方が面倒なことはない。ただ、無償の愛は継続ができないのでNPO法人にならざるをえない。金がなくて暮らせるのは毎日は無理だ。

 金のいらない国を、演劇で表現していて、とてもおもしろいが、それを実際にやってみようではないか。できる! 毎日は無理だが、たった1日だったらできるはずだ!

 モノをただにするだけでなく、実はもっと実現したいことがある。サービスをただにする日も実現したいのである。

 私は元便利屋なので、地域の便利屋を30数年やっていたが、それを地域通貨でできないかという取り組みをしたが、やはり、反応は一件もなかった。

 フリマ笹塚の店で、「1時間無料掃除券」や「5分かたたたき券」をちらしと一緒に配ったこともあるが、やってみると、1件はきたが、とても大変で、体がきつかったため、1日で降参したことがある。

 無料で非常によろこばれるサービスとして、手軽なのは買い物代行である。掃除や肩たたきはプロでないと、失敗がつきものなのでやめた方がいい。そのため、無料でモノを買ったら、無料でお届けもできたら、完璧に金のいらない日になるだろう。 特に、外で買い物ができない老人や病人にはもってこいだろう。

▼金のいらない日 開催

 開催日:2011年4月1日(金)・・よいカネの日

 開催時間: 10時~20時

 場所:フリマ笹塚 (渋谷区笹塚2-11-5)

 内容:自分があげたいモノを持ってきて、誰かにあげてください。

     また、自分が無料でしたいことを書いて、誰かにしてください。

     大きいモノやサービスは写真付きで書き示し、翌日以降あげてください。

参加費:もちろん無料

参加時間:10時から20時の間いつでも自由に参加できます

申込 フリマ笹塚 岡部 (締め切り 3月20日まで)

命と魂の違い

木曜日, 2月 24th, 2011

 最近、リビアの独裁者によるデモ隊の虐殺、ニュージーランドの地震による犠牲者のニュースが毎日されている。

 「たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う」を日本テレビを少しみた。そこで、ベーシックインカムで、月10万円国民にあげるという案に政治家全員が賛成した。これは見込みがある。

 たまに出てくる問題が、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という、トロッコ問題である。海猿のテーマでもあった「人を殺さねば生きられない時、人を殺してよいか?」という「カルネアデスの板」の問題 もある。

 トロッコ問題を出したサンデル教授が、「1人を犠牲にして、5人を救うか」という問題で、多くは5人を救うという功利主義を選び、「隣の1人を殺して、5人を救うか」という問題では、義務論(人格・個人自由の尊重)が多く、逆転して、何もしないという方を選んだ。

 一番ユニークだったのはタケシである。5人か1人かではなく、どっちが年寄りだ。教授はびっくりして、「では何歳で分けるのですか?」と聴くと、タケシは「60歳かな。年寄りは後はないから、若い者優先した方がいい」、教授「・・・・・・・」だった。

 また、教授はどちらを選んでも、両方正しいと答えたことも印象深い。答えのない正解というのもあることは忘れてはならないだろう。でも、もっと深く考察してみたくなった。

 命の問題で欠かせないのは「肉体は滅びても、魂は不滅かどうか」である。

 先日、大坂の友人から、数年ぶりに電話がかかってきた。このブログを読んでいてくれたらしい。そこで長話をした。彼とはサイババ批判で共通する者だ。

 そこで、魂と肉体について、私が

「魂は肉体と同じ数あるのではない。魂というのは形がない、肉体は形がある。だから、魂は肉体と同じ数だけあるのでなく、たくさんの肉体を持っている」

 と発言したら、じ~と、聴いていてくれた。

 トロッコ問題もカルネアデスの板も、その個人の命と個人の魂に関係してくるのである。

▼青年時代、魂の問題でえらい悩んだことがある

 「もしも、人の数だけ不滅の魂があるとしたら、現在生きている人間65億人だけでなく、過去数万年にわたって生きて死んでいった人の数もあわせると、地球は人の魂で埋められてしまうではないか」

 そこで、過去生きて死んだ人の数を計算した。私を生んでくれた親は二人、そのまた親も二人、そのまたまた親も二人・・・・現在の65億人の二乗し、平均の兄弟数で割ったら、どうなるか? まさにねずみ算である。

 今度は人類の祖先をアダムとイブ、またはイザナミの尊とイザナミの尊の男女の二人が、子供も二人産み、その子はまた二人産み、またまた二人産み・・・したら、やはりねずみ算になり・・・地球人類の65億人はみな男女の神様の共通の先祖になってしまう。

 また、生まれ変わりの思想が真実であるとして、計算してみると、65億人の人間がみな生まれ変わって生まれたとしたろすると、すぐに生まれ変わらないで、タイムラグがあったとしたら、数万年前も65億人以上の人間がいたことになる。

 こうした悩み計算した結果、命の数と魂の数は同じではないという結論に達したのである。

▼ では魂とは何か?

 人に出会ったときに、自分と同じような生き方の人や、まったく別な生き方だと感じることがある。その中でも魂の触れ合いのような人物に出会うこともある。まったく他人なのに、なぜか相手が自分の化身のような感じの人もいる。

 突然、愛する人が亡くなっても、ずっと自分の心にその人が住んでいて、けして亡くなったとは思えない人もいる。

 魂とは肉体ではなく、心の一体感から出来ていると思えるである。考えかたは違っても、同じ方向を見ている人たちとの一体感がある。その同じ方向を見ている人は同じ魂の中に生きていると思えるのである。

 つまり、魂とははっきりとした形はないが、ぼんやりした生きる方向の先にある姿である。そして、その魂にはたくさんの肉体の命を持っている。魂は血縁とは違い、民族を超えて、繋がったモノである。

 また、生き方も考え方も違うが、同じ方向性を見ているのが魂の絆で、宗教も超えているのである。

 そのため、人類の数よりはるかに少ない魂の数があるように思えるのである。しかし、不滅ではない。もし、魂が不滅だとしたら、人類にはたった一つの魂しかなくなってしまうし、人類そのものだって不滅であるとは言い切れないからでもある。

 魂は命よりもはるかに寿命が長く、過去現在未来に渡って、数百年、数千年も生きているモノだってある。

 つまり、こう言えるのではないだろうか。

 魂とはたくさんの肉体を持ち、過去現在未来に渡って、受け継がれる心である。

▼魂でトロッコ問題をみる

 もし、5人が悪人で、1人が善人だったら・・・たぶん、功利主義にはならないだろう。

▼魂で、カルネアデスの板をみる

 もし、殺さざるをえない相手が、自分の愛する伴侶や子供だったら・・・たぶん、別な答えをするだろう。

▼魂で原発問題をみる

 今生きる人の電気需要をとるか、10万年先までの未来の子供達の命をとるか、・・・そこで判断できるだろう。

▼魂が観るもの

 今の多くの人類の欲望ではなく、過去現在未来に渡って引き継がれる命のリレーである。

 

バランス通貨の提案

月曜日, 2月 21st, 2011

 最近、日本のGDP(国内総生産)が中国に抜かれて第3位になった。しかし、「幸せの経済学」では、GNP(国民総生産)より、GNH(国民総幸福 H=Happiness)の指標が大事だどして、ブータン国王は1972年から、「経済的豊かさだけでなく、心の豊かさも入れた指標」を提唱している。

 世界的指標に世界の幸福度の指標(GDPよりGDH「国内総幸福度」)もそうであろう。

 幸福とは何か? 

 個々人の幸福はみな違うため、その1つをとってそれを幸福とはいえるものではないが、地域や国の幸福ということは共通項の部分の中で選べば言えそうである。

 one for all, all for one(1人はみんなのために、みんなは1人のために)

 という言葉が戦うラクビーチームから生まれた。これが、チームの一体感を産みだし、幸せの幸福度(生きる充実度)を表す指標になれるように思える。

 そうした方向性をもった通貨を基盤にした社会が幸福度をあげるように思える。前回の国際通貨カードの発想もそうである。

 「自分が使った各国通貨の1%がすべて新国際通貨に両替され、1年間プールされる。そして、総村人数で、それが自動的に均等に分配される」

 この元になった地域通貨村カードをもっと発展させ、他の通貨に代わって主流になれる通貨を提案したい。それをバランス通貨と名付けたい。

 貨幣の流れは金→兌換貨幣→不換貨幣→債券 へと変わってきている。この流れの次に来る貨幣が何かである。それがバランス債券だと思うのである。

 国も、中央銀行も、貨幣を発行してもうまく機能しない。国民1人1人が貨幣を発行できることが、民主主義社会には必要なことではなかろうか。

 銀行の信用創造は「借金」から作られる。それはまさしく国民の借金が貨幣を造り出し、中央銀行券を凌駕しているといえるのではないだろうか。それは国債を最後に中央銀行が支えざるをえなくなるという現実がそれを証明している。

 なぜ、国民はまず借金をするのだろうか? お金が中央銀行から発行貸出されても、借りる国民がいなければ流通も意味もない。国民の需要がお金の生産供給をさせるのである。

 国民の需要とは生きようとする意志である。お金がなくて餓死するのは本末転倒している。餓死する人こそ、お金を作り出す源泉なのである。お金で殺し合う戦争をするのは馬鹿げた幻想である。戦争で殺される人こそお金を作り出すことができるからである。

 先日、農家のAさんと漁師のBさんが物々交換を貨幣を使ってやる際、銀行家のCさんは必要ない。お互いに同額の借金証書と貸金証書を発行すればいいだけである。

 それは買い物をした際、売り主からレシート(領収書)をもらうような関係になる。

 お金はすべて貸金証明書(金額の前に+プラスが書かれる)であり、レシートは借金証明書(金額の前にーマイナスが書かれる)である。

 例えば、AさんはBさんのアジ魚を買った場合・・・Aさんはアジとレシート(借金ー100円)を受け取り、BさんはAさんからお金(貸金+100円)を受け取る。

 今度は逆にBさんがAさんのリンゴを買った場合・・・Bさんはリンゴとレシート(借金ー100円)を受け取り、AさんはBさんからお金(貸金+100円)を受け取る。

 すると、Aさんが手にしたのは・・●アジ魚 ●レシート(借金ー100円)●お金(貸金+100円)

      Bさんが手にしたのは・・●リンゴ ●お金(貸金+100円)●レシート(借金ー100円)

 そして、手持ちの貸金と借金の合計が0になったら、物々交換は完了する。つまり、誰でも債券を自分で発行して商品を売買することができ、さしずめ、現金商売ではなく、信用あるお得意さんに対する掛け売り商売である。

 この場合、国はAさんとBさんの二人が作ったようなもので、お互いの合意した内容(法律)を自動的に管理するコンピュータであり、いわば、銀行ATMである。

 ABさんは自分の持っている命と資産に合わせて、その年に借金ができる最高金額が合意で決められる。例えば年100万円だったら、それ以上借金ができないが、貸金をすべて入金すればまた100万円借りることができる。いわば、預金通帳の残高はー100万円までということになる。

 この最高借り入れ金額は毎年税金申告のように、自分のおかれた生活状況によって、借り入れができる。常に借金と貸金は同額なので、例えば、個人最高の貸金(金持ち)の金額は1億円と決められ、個人最高の借金(貧乏)の金額はー1億円というように決められる。

 例えば、二人社会のAさんの手持ち最高限度+1億円以上の1億2千万円になった場合は必ず、Bさんは手持ち借金ー1億2千万円になるから、one for all, all for one のように、超過分2千万円は全体(二人)で均等に振り分けられ、差し引き0になり、Aさんの貸金は+1億円になり、Bさんの借金はー1億円になる。

 つまり、命の代金1億円だとすると、それ以上の貸し借りは殺し合いになってしまい、経済社会は崩壊してしまうからである。

 もし、100人国家だったら、Aさんの超過分+2000万円は、借金の持ち主が10人いたら、借金の大きさの割合に合わせて、均等に配当され、合計借金2000万円分少なくなる。その逆にBさんの借金総額が2000万円超過したら、貸金の大きい分に合わせた比率で合計貸金2000万円分少なくなる。

 債券は常に国を介したやりとりでないと、有効にはならない。債券を売り買いするようなことはできなく、また、利子はつかないので、金で金を稼ぐ方法は不可能になる。格差は最高と最低が決められるので、それ以上に大きくなることはなくなる、

 また、相続の場合は今の法律と同じで、借金も貸金も相続する意志で決められる。基本的に命の代償としてお金が貸出されるので、亡くなれば、先の超過分と同じように、均等に配分される。そして、相続できる貸し借り金は最高1億円までとなる。

 このバランス通貨は貸金を日銀券で、借金を領収書にすれば、ほとんど今まで通りの経済が可能である。唯一違うとすれば、日本銀行が商業銀行に貸し出すのではなく、国民1人1人にその命の代償として、一生分の最高1億円を利子抜きで、分割で貸し出すことから始めることで可能になる。

地域通貨村を造っちゃったら

月曜日, 2月 21st, 2011

 国際教育村を造ろうとする庄司 日出夫さんという人がいる。彼は20代に10年間アジアを中心に旅した結果、世界に通用する日本人を造りたいと思った。

 帰国して、英語塾を開いたが、ほとんど英語を話せない生徒ばかりだった。そこで、幼児のころからの英語教育が必要と思い、すべて英語で話す幼稚園を造った。しかし、親も保護者も、周りもみな英語で話すようにならなければならないと、英語の村を造ることにした。

 文部省に話しをしても手続きが大変なので、自分で土地2000坪を買って、村を造ろうとして、周りの土地所有者に話しをしたら、OKとなり、さらに、いろいろな援助者が韓国、フィンランドからも来た。

 そして、国際教育村の建設が始まっている。

 お金は約束や信用から造られるように、その元は言葉のコミュニケーションである。英語が世界のコミュニケーションの道具の一つであるように、お金もまたこれからの世界の人たちとのコミュニケーションをモノやサービスで行う道具の一つである。

 各地で地域通貨が造られても、それはほとんど会員だけの間で、それが生活すべてに使われるものではない。それは英語を教えても、英語が話せないのと同じである。生活すべてが英語で行われることが必要なように、地域通貨すべてで、生活できるようにすることが、世界に広がる地域通貨になれる。

 使うのは地域通貨であるが、いずれ、それが世界の新国際通貨になれるような広がりをもったものであることが必要だ。

 国際教育村を造るのに、国や自治体に働きかけても、面倒な手続きが多くて、実現が難しいので、自分で土地を購入して造ることで実現を早めたように、地域通貨村を10000坪の中に建設して、そこですべての生活が地域通貨で可能になるようにしたらどうだろうか?

 地域通貨村に必要なものは、生活に最低限必要なもので、スーパーマーケット、ホームセンター、病院、役所、そして、電気ガス水道、学校 をコンパクトにした、大型のショッピングセンターそのものを建設したら、可能になるのではないだろうか?

 しかし、こうした地域通貨村を実際に造るのではなく、バーチャル内で地域通貨村を造る方がより簡単であり、普及しやすい

 バーチャル銀行のように、新貨幣クレジットカードを発行する地域通貨村を造るのである。世界中でその新貨幣に賛同したものだけがすぐ村人になれ、しかも、世界中のどこへ行っても、その貨幣は普通に使えることになれればいい。

 新貨幣クレジットカードの中の新貨幣を自動的に、計算して、日銀円でもドルでも、他のどこの国にいっても使えるようにすればいいのである。

 新貨幣システムを造ったら、VIZAカード会社みたいなところと、提携すれば意外と簡単にできるかもしれない。

 それは汚い水をフィルターを通してきれいな水にして、飲むようなものである。社会を健全化するようなフィルターのような装置の新貨幣をつくることが、バーチャル地域通貨村建設になってくる。

 例えば、この地域通貨村カードを新国際通貨カードにしたとする。

 自分が使った各国通貨の1%がすべて新国際通貨に両替され、1年間プールされる。そして、総村人数で、それが均等に分配される。それは自動的に計算徴集配当されるだけである。

 これが、消費税を社会福祉ベーシックインカムに自動的変換ができるシステムである。よけいな法律を作ったりする必要もなく、経費も人件費もほとんどかからないだろう。

 

金は金でしか得られない

日曜日, 2月 20th, 2011

 銀行家Cにまんまとダマされ破産した農家のAさんと漁師のCさんは今後のことを話し合った。

 どんなに働いても、未来永劫にわたって、みな銀行家のCさんにすべて持って行かれることは確実に予想できた。

 そこで、働くことを一切やめ、借金を元手にして、金を稼ぐ方法を編み出した。

 Cさんから、10%の利息で金を100万円借りる。この債券で他の人と賭け事をすれば、それが簡単に何倍にもなる。

 そこで、ABさんはDさんと賭け事をする。それは単純な賭け事である。コインを投げて表か裏かの50%の確率の勝つか負けるかの賭け事である。そのとき、ABは談合して二人は必ず別なものに賭けるとした。

 まず1万円ずつABDは賭ける。その倍率は2倍にして、Dさんは勝っては喜び、負けては悲しむ。しかし、ABさんはけして勝つことも負けることもないが、Dさんが負けた分を二人で山分けできることは確実であった。

 Dさんが破産すると、ABはすかさず、Dさんを仲間に引き入れ、Eさんをだます方法を考えた。

 Dさんは、博打をとりもち、掛け金の10%を所場代としていただくことをEさんと約束した。

 ABはDの負け分で儲け、Dは勝っても負けてもその所場代で確実に金が入った。その金はすべてEの金からでてきたものである。

 こうして、銀行家CにABもDも、他人の多くをだまして金をえ、Cに全額返済し、自分たちがCと同じ銀行家になっていくのである。

 お金を印刷発行できるCは何も利息をとらなくても、いくらでも自由に金を印刷できるので、ほとんど貸した金を返却させる必要もないので、そんな努力はいっこうにしない。

 しかし、ABDはすっかり博打のおもしろさにはまってしまい、しかも、全世界の金を手に入れ、世界中のものを自分のものにすることができるので有頂天になった。

 こうした博打は株式であり、外国為替である。

 私の30数年の便利屋を真面目にやったが、けして金はたまらなかった。小さな経営者だと、働けば働くほど借金が増えるだけで、けして豊かにならないことを実感するだろう。

 でも、それが維持できるのは仕事とは別に金で金を稼ぐ方法で、その穴埋めをしていたにすぎない。国自身だって、投資ギャンブルして、国を維持発展させている。

 しかし、博打から生まれるものは、だましだけであり、だまされるのは真面目に農業や漁師などをして働いている人たちである。

 金はただ人をだまして相手を支配するためだけのモノである。それを人々が協力して物々交換したり、助け合う手段にするかは、新しいお金のシステムを造るしか道はない。

 その方法は借り貸しも、利息も、賭け事もできないお金を造り出すだけで可能である。