Archive for 9月, 2012

なぜ金が神になったのか

火曜日, 9月 25th, 2012

 神様というと、どんな望みも叶えてくれる存在だと定義してもよさそうである。昔は絶対の権力者である王様などが神様と同じように扱われた。現在、権力の維持が武力から金力に代わり、どんな望みもかなえてくれる存在は金力になり、その金が神になった現代といえるだろう。

 アラジンのランプという物語があるが、その中で、神様のようなアラジンが、ランプを持つ「あなたのどんな望みも3つかなえられる」というのがある。

 その3つの叶えられる望みが何かがその物語のおもしろさであるが、3つだけでなく、無限に自分の望みを叶えられる1つの望みがある。

 「どんな望みも叶えられる神様になりたい」

 と願えばいいだけである。

 この望みの一元化は、病気でいろいろな症状を治すためには、その病気の原因を取り除いてしまえば、あらゆる苦痛からの解放されるということにも通じる。

 現代社会がお金から生じる格差問題、借金問題、不景気問題などたくさんの問題が生じているが、それらを一つ一つ解決していこうとしても、あっちをたてればこちらがたたぬというように、全部の問題を一気に解決する方法は見つからない・

 ところが、お金から生じるあらゆる問題をすべて解決する方法が一つある。それは病気と同じで、あらゆる問題の原因をとりのぞけば解決できることである。

 つまり、今のお金そのものを変えてしまえばいいのである。

 例えば、税と社会保障の一体改革をする場合、消費税を増税して、その税収のすべてを社会保障に使うという法律を制定したが、それは不景気さらに悪化させ、1000兆円もの借金を返済ができなくなるという矛盾がおきて、無理な法律であり、こちらを立てればあちらがたたぬ一例である。

 そこで、お金そのものを次のように変えれば、消費税増税、不景気、借金問題などを一気に解決することができる。

 社会保障に必要な電子マネーを発行し配布して、その電子マネーに貯蓄税を数パーセントつけて、銀行から自動徴集させればいいだけである。その税徴集は銀行預金には通常つくプラスの利息をマイナスの利息にし、しかもマイナスの金利を日割りにし、その電子マネーは現金紙幣には両替できないようにすれば、税金逃れをしないですむ。また、税金を計算し、自己申告しなくれもすむので、合理的である。

 この毎日入るマイナスの利息税(貯蓄税)を社会保障の財源にまわせばいいわけである。つまり、将来の預金のマイナス利息税(貯蓄税)が今必要な社会保障費の財源になり、国債を発行することも、日本銀行で紙幣を発行することも必要のないことなのだ。

 銀行の利息が単に数字を付けるだけですむように、社会保障費の配布も、また貯蓄税の徴集も、みな銀行の預金通帳で記帳させるだけで、自動的に計算され、税と社会保障費のバランスシートが調整されるだけですむことになる。

 金が支配する世の中なら、金そのものを変えれば世界は変わるのだ。

 

どうして二種の貨幣が必要なのか

水曜日, 9月 19th, 2012

 人類がアダムとイブの男女二人で生まれたように、社会の構造を二人の間で協力しあう姿に縮小できる。

 お金のシステムも二人の間で協力しあう約束事に集約できる。両者の持っている才能、労働力、持ち物をスムーズに交換しあえるようにしたのがお金である。

 

 しかし、命や愛はお金で買えないように、お金で交換できるものは命以外のモノである。命を維持するためには、生活する上で最低限必要な衣食住はお金で買えないようにすることが、お金が正常に使える条件になる。

 そして、お金で買えるモノは最低生活に必要な衣食住を除いた衣食住や文化の商品やサービスや能力である。

 これは自給自足できれば、お金は必要ないが、自給自足できないときに、お金が必要になるということでもある。

 しかしながら、現在の貨幣は貨幣で最低生活もできないように、その命を奪うことができる貨幣になっているので、協力の道具ではなく、相手を殺す武器のような道具にもなれる。

 また、こうした命を奪うような貨幣をもたらしたのは、お金でお金が買えることである。お金は本来モノやサービスを交換するための道具であり、価値を表すものであった。しかし、お金の貸借が認められ、その利息をとることさえも認められたため、金で金を生み出すことが経済の主流になってしまった。

 これは本来の協力をする貨幣ではなく、お金の貸し借りで相手の命を支配する権力の道具になってしまい、武力で支配するように、金で人を支配できるようになったのである。

 こうした貨幣による支配社会から脱却するには、最低生活を国が保証するような新しい貨幣を発行することが必要である。

 最低生活費を保証する貨幣システムをベーシックインカムというが、これを実現するためには、金の貸し借りや利息が付くような貨幣では不可能である。 命の貸し借りができないように、人の命を保証する生活費を貸し借りすることはできなくする必要がある。

 そして、ベーシックインカムで使う新貨幣は最低生活に必要な衣食住の商品だけであるようにすることも必要であろう。

 それは消費税を付ける場合、生活必需品には消費税をかけないで、それ以外に消費税をかけることで、生活弱者を守るようにすることと同じである。

 この生活必需品を交換できる最低生活保障する新貨幣は国民全体に常に行き渡るようにするためには、新貨幣は価値が変わらない紙幣やコインではなく、自動的に減価する電子マネーでなくてはならない。

 新電子マナーは、現貨幣のように、国民が1000兆円もの借金とその利息を払うための消費税を増税して払う必要はなく、お金が自動的に減価して、その減価した分が税収となり、それを最低生活費として国民に配布できる。

 この最低生活を保障する新電子マネーは、オリンピックでいえば、参加賞のようなもので、だれでもが参加できて、はじめて、公正な競争ができ、楽しめることができる。

 どんなスポーツでも、殺し合いはない。公正な市場競争をして、経済と分化を活性化させるには、新電子マネーの発行によるベーシックインカムが欠かせない。

 

法治国家はより多くの理解から

月曜日, 9月 17th, 2012

 お金のシステムを変革しようとすると、どうしても政治を変革しないと実現できない。それはお金が法定通貨であるということである。地域通貨はお金であっても、法定通貨ではないため、強制力がなく、国全体に通用力がないので、単に賛同する会員だけで通用するしか道がない。

 政治を変革するには法律を変えることが必要である。それは逆にいえば、法律を変えるのが政治の仕事であるともいえるだろう。

 その法律を変えることができるのは国民であるが、民主国家の場合は、一個人の国民ではなく、過半数の国民である。独裁国家は一個人であり、国連は戦勝国や大国の政治的意志が決める。

 また、国際間の領土問題などの解決には、国際法が欠かせないが、その国際法に強制力がない限り、無効である。

 法の強制力というのは、多くの人間がその法を受け入れることができるかということであり、その法の理解力が一番重要になる。多くの悲惨な喧嘩が誤解や暴力から生まれることからも、いかにその法を理解するかどうかが平和的解決につながるといえよう。

 それはお金のシステムの変革においては、誰でもがすぐに理解できる内容でないと実現はできないということだ。また、無法地帯であっても、相手の誤解を指摘し、お互いに理解しあえるような行動が最も効果的であるということである。

  売られた喧嘩を買うのが喧嘩を大きくすることだが、理解とは、売られた喧嘩をよく吟味して、買うかどうかを決めるようなものである。売られた喧嘩をよく理解すると、以前よりも仲良くするチャンスにもつながってくるということでもある。

 ピンチはチャンスというのは理解を深めることから生まれる。

 金融危機というピンチが、新しいお金のシステム(法)にするチャンスであるといえるのも、「お金とは何か?!」を多くの人が理解することから始まるといえよう。

 

天上天下唯我独尊

月曜日, 9月 10th, 2012

「天上天下唯我独尊」とは、釈迦が生まれてすぐ七歩歩いて、右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言ったという伝説からである。

 どうして七歩歩いた後の宣言だったかというと、釈迦が生まれる以前に仏陀になった六人の仏陀(悟った人)(1,毘婆尸仏びばしぶつ 2.尸棄仏しきぶつ 3、毘舎浮仏びしゃふぶつ4,倶留孫仏くるそんぶつ   5.倶那含牟尼仏なごんむにぶつ 6.迦葉仏かしょうぶつ)が過去にいて、釈迦は七番目の仏陀として、悟りを宣言したということであろう。

 仏教の元になったヒンズー教の経典ヴェータの最高の教えは「梵我一如ぼんがいちにょ」であり、梵である宇宙の支配する原理であるブラフマンと、我である個人を支配する原理アートマンが同一であること、また、同一であると悟ることで、永遠の至福(ニルバーナ涅槃)、解脱を得ることである。

 通常、「天上天下唯我独尊」を直訳すると、「全世界で私が一番尊い」ということだが、この私は仏陀である釈迦が言ったため、「悟った私=仏陀」のことであり、「梵我一如」の心境を表現したものであろう。

 最近、トルストイの「戦争と平和」の映画をBSで観た。四部のピエールがナポレオンの仏軍の捕虜となって雪原を歩くとき、フラフラの歩いていたら、仏軍の兵から「行く手を止められた」。ピエールは突然大笑いし、「俺を止めたって、この俺を止めたっていうのか、ウッハハハハ、ウッハハハハ、・・・・」というシーンがあった。ピエールは突如「天上天下唯我独尊」の悟りをえて、大笑い(涅槃)に達したのである。

 私の友人で悟ったという人がいる。その時の状態はまさにこのピエールの心境と同じだったようだ。

 友人は瞑想していて、突如、この世界すべてが自分であることを知ったのである。もし自分がいなければこの世界は存在しない、この世界は自分の鏡同様であると悟ったというのである。

 梵我一如の悟りは世界と自分が同一であるという心境である。行く手を止められるピエールの我と、行く手を止める仏軍の兵士の我とは同一、つまり、自他一体であるから、どうしてピエールの我だけを止めることができるというのか?!、ウッハハハ」というわけである。こうした我が衝突する矛盾の可笑しさをピエールは満喫したのであろう。

 こうした映画や宗教の解釈は難しく感じるが、「梵我一如」という心境は梵とは自然のことであるから、その意味は「自然との一体観」であり、「自然に帰ってゆったりとする」ことである。森林浴とか、温泉につかって気分がいい状態のことであり、誰しもが体験したことがあることである。

 戦争とは我と我がぶつかりあって、殺し合うことであり、平和とは我と我が仲良くし、共に生きることである。

 自然という漢字は「自らのままに」と書き、我がそれぞれ自由に生きるが、けしてぶつからない平和の状態をいうのである。どうして我と我がぶつからないかというと、我と我は元々大きな自然の一部であり、それぞれが共存して、助け合っているのが真実の姿であるからだ。

 弱肉強食が生物界の自然の原理であるが、弱肉である生物の存在する数と、強食である生物の存在する数は、両者が共存できるように調和が保てるように働いているともいえる。

 それは小さな眼では弱肉強食のような戦争であっても、大きな眼でみれば共存共栄の平和の一工程にすぎないといえるのである。

 梵我一如の梵は大我の意味であり、大きな視野で世界を観ることであり、梵我一如の我は小我の意味で、小さな視野で世界をとらえることである。

 国と国の戦争は、小我である愛国心が争う殺し合いであるが、地球という大我には国境もなく、国や民族や宗教の違いもなく、たった一つの地球とたった一つの人類だけが存在するだけである。国境や民族宗教の争いなどはみな幻にすぎなく、真実とは無縁のものである。

 「天上天下唯我独尊」とは、釈迦のみならず、どんな人間でも断言できることであり、人間のみならず、生きとし生けるものすべてが宣言できることである。宇宙を眺め、世界を知ろうとする意識、人を愛する意志はすべて、我の視点からであり、世界や他を受け入れる入り口でもある。

 戦争と平和のもう一人の主役であるアンドレは名誉ある死を望んだ。この名誉とは我の尊厳である。生死を支えるのは「唯我独尊」であり、我の尊厳である。人類の歴史において、もっとも価値があるのが自由であることである。この自由もまた、自己の尊厳を別な言い回しであるともいえるのである。

 トルストイはしばしば「真理とは、えてして単純なことである」言う。もし、難しく、複雑なことがあなたの周りで起きたとしたら、それはえてして真実ではなく、幻想であるとみなすべきである。

 それは、争いごとがあったら、それはまことに「どうでもいいことである」ということだ。そして、あなたは大きな視野で平和的に決断し、行動すればいいだけである。

 天上天下唯我独尊、人はみな自由にして、平和と協力を好み、笑い合って生きる存在である。

 

死ねば皆仏様

火曜日, 9月 4th, 2012

 「死ねば皆仏」という言葉の由来は仏教の
 「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」・・・大般涅槃経 獅子吼菩薩品
 から来ているようだ。
 現代語訳にすると、「一切衆生にはことごとく仏性があり、それは常住し、変わることは無い」という意味になる。

 一切衆生というのは「生きとし生けるもの」の意で、人間のみならず、動物植物も範疇に入るが、インドではより人間に近い有情動物(牛や猿や象など)のことをさしているようだ。

 この仏教が中国そして日本に伝わってくると、無情である草木の植物も仏性があると考えられ、さらに、生物ではない土石の鉱物にも仏性があると考えるようになった。

 そのため、中国では
「草木土石は悉く良知をもつ、禽獣草木山川土石は人ともともと一体でしかない」
    ・・ 王陽明 『伝習録』
 日本では
「山川草木悉有成仏」・・・日本 天台宗 安然の『斟成草木成仏私記』
  になり、「山川草木悉有仏性」ではなく、「山川草木悉有成仏」という言葉になり、日本の自然信仰や神道との習合がみられる。

 諺に「落つれば同じ谷川の水」(人間死んでしまえばみなおなじの意)があるように、人は死ねば同じ土や塵になるという現象をそのまま、「一切衆生、悉有仏性」に当てはめれば「人は死ねば皆同じ仏性をもつ塵になる」と言えるだろう。

 数年前、「千の風になって」という歌がはやった。

「人は死ぬと千の風になり大空に吹き渡り、また光となって畑にふりそそぎ、冬にはダイヤのようなきらめく雪になる。朝には鳥になり、あなたを目覚めさせ、夜には星になり、あなたを見守る」という歌詞だ。

 つまり、人は死ぬとみな自然に帰り、仏様、神様になるというのが、日本人だけでなく世界中で受け入れられる思想になれる。
 
 というのは、千の風になっての原典はDo not stand at my grave and weep で、1932年アメリカの主婦メアリー・フライが作詞したからだ。

 自然・神・仏 の三者は同義語であると断言すると、難しい議論も簡単に解決することができる。

 死ねばみな仏様、
 死ねばみんな神様、
 死ねばみな自然に帰る

 自然に善悪はない、どんな悪人でも、どんな善人でも、みな死んでしまえば善悪のない千の風になって、やさしく肌をなでる。

 そうした事実をそのまま信じれば、幽霊を怖がることも、死んだ人をうらむこともないし、また死む悲しみも時とともに癒える。

 それは逆に生きている限り、しっかりと病や悪と闘い、不公平さを解消していくことが、人の生き甲斐といえるだろう。

今原発停止すれば1億倍の安全が確保できる

月曜日, 9月 3rd, 2012

 核ゴミの最終処分場の研究施設がすでに建設されていた。現在は東海村に集められているが、事故が多く、受け入れの一杯である。すぐにでも受け入れることができるところは、地下300mまで掘られている、北海道の幌延深地層研究所と、岐阜の瑞浪超深層研究所である。

  ただ、問題は地下水が浸みだしているので、放射性廃棄物が地下水に入り込む危険がある。それに日本のどこでも火山国だから、地震は常にある。

 そのため、島国日本のどこにも安全な核ゴミの最終処分場は建設できない。そして、日本では原発建設は無理であるということだ。

 では海外に最終処分場があるかというと、日本の核ゴミを受け入れるところはない。

 そのため、今原発を稼働することは、核ゴミを増やすことになり、日本の将来は今の福島のように住めない島国になり、自国を捨てて、原発のない海外へ移民せざるをえなくなるだろう。

 今数年先までの核燃料が輸入されているが、その放射能値は使用後は使用前に比べて、1億倍とも言われている。

 つまり、今すぐに原発の稼働をやめれば、1億倍の安全が確保できるということだ。
 
 今日本がすぐにやるべきことは、まず原発は再起動しないこと、そして、輸入した核燃料と核廃棄物の受け入れ先を交渉することである。
 原発を再生可能なエネルギーの発電所に変更することであろう。