「死ねば皆仏」という言葉の由来は仏教の
「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」・・・大般涅槃経 獅子吼菩薩品
から来ているようだ。
現代語訳にすると、「一切衆生にはことごとく仏性があり、それは常住し、変わることは無い」という意味になる。
一切衆生というのは「生きとし生けるもの」の意で、人間のみならず、動物植物も範疇に入るが、インドではより人間に近い有情動物(牛や猿や象など)のことをさしているようだ。
この仏教が中国そして日本に伝わってくると、無情である草木の植物も仏性があると考えられ、さらに、生物ではない土石の鉱物にも仏性があると考えるようになった。
そのため、中国では
「草木土石は悉く良知をもつ、禽獣草木山川土石は人ともともと一体でしかない」
・・ 王陽明 『伝習録』
日本では
「山川草木悉有成仏」・・・日本 天台宗 安然の『斟成草木成仏私記』
になり、「山川草木悉有仏性」ではなく、「山川草木悉有成仏」という言葉になり、日本の自然信仰や神道との習合がみられる。
諺に「落つれば同じ谷川の水」(人間死んでしまえばみなおなじの意)があるように、人は死ねば同じ土や塵になるという現象をそのまま、「一切衆生、悉有仏性」に当てはめれば「人は死ねば皆同じ仏性をもつ塵になる」と言えるだろう。
数年前、「千の風になって」という歌がはやった。
「人は死ぬと千の風になり大空に吹き渡り、また光となって畑にふりそそぎ、冬にはダイヤのようなきらめく雪になる。朝には鳥になり、あなたを目覚めさせ、夜には星になり、あなたを見守る」という歌詞だ。
つまり、人は死ぬとみな自然に帰り、仏様、神様になるというのが、日本人だけでなく世界中で受け入れられる思想になれる。
というのは、千の風になっての原典はDo not stand at my grave and weep で、1932年アメリカの主婦メアリー・フライが作詞したからだ。
自然・神・仏 の三者は同義語であると断言すると、難しい議論も簡単に解決することができる。
死ねばみな仏様、
死ねばみんな神様、
死ねばみな自然に帰る
自然に善悪はない、どんな悪人でも、どんな善人でも、みな死んでしまえば善悪のない千の風になって、やさしく肌をなでる。
そうした事実をそのまま信じれば、幽霊を怖がることも、死んだ人をうらむこともないし、また死む悲しみも時とともに癒える。
それは逆に生きている限り、しっかりと病や悪と闘い、不公平さを解消していくことが、人の生き甲斐といえるだろう。