「天上天下唯我独尊」とは、釈迦が生まれてすぐ七歩歩いて、右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言ったという伝説からである。
どうして七歩歩いた後の宣言だったかというと、釈迦が生まれる以前に仏陀になった六人の仏陀(悟った人)(1,毘婆尸仏びばしぶつ 2.尸棄仏しきぶつ 3、毘舎浮仏びしゃふぶつ4,倶留孫仏くるそんぶつ 5.倶那含牟尼仏なごんむにぶつ 6.迦葉仏かしょうぶつ)が過去にいて、釈迦は七番目の仏陀として、悟りを宣言したということであろう。
仏教の元になったヒンズー教の経典ヴェータの最高の教えは「梵我一如ぼんがいちにょ」であり、梵である宇宙の支配する原理であるブラフマンと、我である個人を支配する原理アートマンが同一であること、また、同一であると悟ることで、永遠の至福(ニルバーナ涅槃)、解脱を得ることである。
通常、「天上天下唯我独尊」を直訳すると、「全世界で私が一番尊い」ということだが、この私は仏陀である釈迦が言ったため、「悟った私=仏陀」のことであり、「梵我一如」の心境を表現したものであろう。
最近、トルストイの「戦争と平和」の映画をBSで観た。四部のピエールがナポレオンの仏軍の捕虜となって雪原を歩くとき、フラフラの歩いていたら、仏軍の兵から「行く手を止められた」。ピエールは突然大笑いし、「俺を止めたって、この俺を止めたっていうのか、ウッハハハハ、ウッハハハハ、・・・・」というシーンがあった。ピエールは突如「天上天下唯我独尊」の悟りをえて、大笑い(涅槃)に達したのである。
私の友人で悟ったという人がいる。その時の状態はまさにこのピエールの心境と同じだったようだ。
友人は瞑想していて、突如、この世界すべてが自分であることを知ったのである。もし自分がいなければこの世界は存在しない、この世界は自分の鏡同様であると悟ったというのである。
梵我一如の悟りは世界と自分が同一であるという心境である。行く手を止められるピエールの我と、行く手を止める仏軍の兵士の我とは同一、つまり、自他一体であるから、どうしてピエールの我だけを止めることができるというのか?!、ウッハハハ」というわけである。こうした我が衝突する矛盾の可笑しさをピエールは満喫したのであろう。
こうした映画や宗教の解釈は難しく感じるが、「梵我一如」という心境は梵とは自然のことであるから、その意味は「自然との一体観」であり、「自然に帰ってゆったりとする」ことである。森林浴とか、温泉につかって気分がいい状態のことであり、誰しもが体験したことがあることである。
戦争とは我と我がぶつかりあって、殺し合うことであり、平和とは我と我が仲良くし、共に生きることである。
自然という漢字は「自らのままに」と書き、我がそれぞれ自由に生きるが、けしてぶつからない平和の状態をいうのである。どうして我と我がぶつからないかというと、我と我は元々大きな自然の一部であり、それぞれが共存して、助け合っているのが真実の姿であるからだ。
弱肉強食が生物界の自然の原理であるが、弱肉である生物の存在する数と、強食である生物の存在する数は、両者が共存できるように調和が保てるように働いているともいえる。
それは小さな眼では弱肉強食のような戦争であっても、大きな眼でみれば共存共栄の平和の一工程にすぎないといえるのである。
梵我一如の梵は大我の意味であり、大きな視野で世界を観ることであり、梵我一如の我は小我の意味で、小さな視野で世界をとらえることである。
国と国の戦争は、小我である愛国心が争う殺し合いであるが、地球という大我には国境もなく、国や民族や宗教の違いもなく、たった一つの地球とたった一つの人類だけが存在するだけである。国境や民族宗教の争いなどはみな幻にすぎなく、真実とは無縁のものである。
「天上天下唯我独尊」とは、釈迦のみならず、どんな人間でも断言できることであり、人間のみならず、生きとし生けるものすべてが宣言できることである。宇宙を眺め、世界を知ろうとする意識、人を愛する意志はすべて、我の視点からであり、世界や他を受け入れる入り口でもある。
戦争と平和のもう一人の主役であるアンドレは名誉ある死を望んだ。この名誉とは我の尊厳である。生死を支えるのは「唯我独尊」であり、我の尊厳である。人類の歴史において、もっとも価値があるのが自由であることである。この自由もまた、自己の尊厳を別な言い回しであるともいえるのである。
トルストイはしばしば「真理とは、えてして単純なことである」言う。もし、難しく、複雑なことがあなたの周りで起きたとしたら、それはえてして真実ではなく、幻想であるとみなすべきである。
それは、争いごとがあったら、それはまことに「どうでもいいことである」ということだ。そして、あなたは大きな視野で平和的に決断し、行動すればいいだけである。
天上天下唯我独尊、人はみな自由にして、平和と協力を好み、笑い合って生きる存在である。